『街道を行く』 『歴史をたずねる旅』

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第129回 「歴史を訪ねる旅―阿佐ヶ谷・荻窪」のお知らせ

2018-03-28 22:35:20 | 日記

 東京女子大

杉並区は都会とは思えぬほど緑に恵まれています。昭和初期から阿佐ヶ谷は、井伏鱒二、川端康成、太宰治など超がつくほどの有名な作家が住んでいたことから、阿佐ヶ谷文士村とも呼ばれていました。
杉並区に多くの文士が住み着いたのは、公園だけでなく、屋敷林が多いからです。
暗渠散歩や屋敷林散歩、国指定史跡の荻外荘、井草八幡宮、善福寺公園等阿佐ヶ谷・荻窪を中心とした杉並区内のまちの魅力を満喫しませんか?

実施日 : 5月12日(土)
集 合 : 午前10:00 JR阿佐ヶ谷駅北口
解 散 : 東京女子大 午後3:30頃
参加費 : 正・家族会員 1,500円 
準会員・一般 2,000円
    ※.参加費にはガイド代、 資料代が含まれます。
    ※.移動のバス代は各自でお支払い下さい。

コース :  阿佐ヶ谷駅北口 → 阿佐ヶ谷神明社 → 桃園川遊歩道 →民間信仰石塔 →天沼八幡神社 → 天沼弁天池公園 → 郷土博物館分館(トイレ休憩) → 荻窪白山神社 →長屋門 → 西郊ロッジング → 太田黒公園 → 荻外壮・近衛文麿邸 → 荻窪駅北口(昼食) → 荻窪駅北口(バス移動) → 井草八幡神社 → 善福寺公園 →  東京女子大
(解散 3:30頃)
昼 食 : 荻窪駅北口近辺で各自で取って頂きます。
募集人数 : 30名
ガイ ド : 東京シティーガイドクラブの皆さん

< お申し込みの方 >
1. 正会員は必ず会員番号をご記入ください。
   ( ご記入のない方は、準会員・一般価格となります。)
2. 緊急連絡先(携帯番号)を必ずご記入ください

では、皆様のお申込みをお待ちしています。

【訪問先メモ】

【阿佐ヶ谷神明社】

寛政12年(1800年)に著された『江戸名所図絵』によると、日本武尊が東征の帰途阿佐谷の地で休息し、後に尊の武功を慕った村人が旧社地(お伊勢の森と称される現在の阿佐谷北5丁目一帯)に一社を設けたのが当宮の始まりといわれております。 建久年間(1190~1198年)には土豪横井兵部(一説には横川兵部)が伊勢神宮に参拝したおり、神の霊示を受け、宮川の霊石を持ち帰り神明宮に安置したと伝えられ、この霊石は今も御神体として御本殿の奥深く鎮っております。 江戸時代から庶民の信仰が篤く、その一端を示す「内藤新宿仲下旅籠中仲下茶屋中」の文字が刻まれた文政十一年(1828年)の銅製の三本御幣が奉納されています。

【民間信仰石塔】

ここに建立されている石塔は、元禄10年(1697)銘の庚申塔及び宝永7年(1710)・享保7年(1722)銘の地蔵塔並びに、正徳5年(1715)銘の阿弥陀塔計四基があります。
庚申信仰は、「長生きするためには庚申の夜は身を慎しみ、諸善を行い、徹夜をすべきである」という中国の道教説から始まったようです。それが日本に伝わってからは、中世以降仏教や神道の信仰と習合して庶民の間にひろまりました。江戸時代には、本尊を青面金剛とし、不見、不聞、不言の三猿が彫られるようになり、ここに見られるような庚申塔の建立が盛んになりました。
地蔵菩薩の信仰は、仏教の民衆化とともに宗派を超えてひろまりました。地蔵菩薩は、冥界と現実界の境に立って人々を守護するということから、村や道の境や村の安全を守護する菩薩とされ、村の路傍又は辻に多くの建立されています。

【天沼八幡神社】

徳川家康が江戸に幕府を開く頃で、武勇の守護神としてこの天沼村に勧請されたとされます。時代の移り変わりと共に街の姿は変わりましたが、永きにわたり天沼の人々の心の拠り所として篤い信仰を集めてきました。
境内には杉並区の保護樹木(約30本)をはじめ、常緑樹や落葉樹約100本で「鎮守の森」を形成しており、都会のオアシスとしての役割も担っております。

【天沼弁天池公園】

この公園の南側広場あたりにはこんこんと水の湧き出る“天沼弁天池”と呼ばれる池がありました。池は、広さ約300坪(直径35メートル程度)の円形で、約5坪(直径4~5メートル)の中ノ島には弁天様が祀られていて、大正の半ば頃までは、日照りが続くと大勢の農民が集まって弁天様へ雨乞いの行事も行なわれていました。
この池は、桃園川の水源のひとつでもあり、天沼の地名の起こりになったともいわれています。
こうした由緒ある土地の由来を将来に伝承するために“天沼弁天池公園”と名づけました。

【郷土博物館分館】

天沼弁天池公園内に併設されている。

【荻窪白山神社】

当社の起源は、社伝によると文明年間(1469-1486)関東管領上杉顕定の家来中田加賀守が、屋敷内に五社権現を奉斎したのにはじまり、後に中田一族が栄え、ここに社殿を建てたといわれます。
 当社はかつて歯の神様として知られていました。伝えられるところによると中田加賀守の弟兵庫が、激しい歯痛に悩んでいたある夜、御神託により境内の萩を箸として食事をすると不思議に歯の痛みが止ったという。この事情を聞いた近隣の人々は、歯痛もなおる神様として信仰厚く参拝者も多くなったといわれます。

【長屋門】

長屋門は近世諸大名の城郭、陣屋、武家屋敷門として発生した形式で、江戸時代に多く建てられた。諸大名は、自分の屋敷の周囲に、家臣などのための長屋を建て住まわせていたが、その一部に門を開いて、一棟とした物が長屋門の始まりである。
その後、長屋門は上級武士の住宅の表門の形式として広く利用されるようになっていった。武家屋敷の長屋門では、門の両側部分に門番の部屋や仲間部屋が置かれ、家臣や使用人の居所に利用された。侍屋敷の長屋門は武家屋敷のものより小規模であるが、基本的な構成はほぼ同じである

【 西効ロッジング】

東京都杉並区荻窪にある歴史的建造物。1938年建築の洋風建築で、2001年の改修後は賃貸住宅となっている。 なお、西郊ロッヂングは当初は本館のみで後に新館が増築されたが、現在では新館のみが西郊ロッヂングと呼ばれ、本館は「西郊」という旅館として営業している

【太田黒公園】

この公園は、大田黒元雄氏の屋敷跡を杉並区が日本庭園として整備し、昭和56年10月1日に開園したものです。この公園の約30%に当たる2,679.63㎡は公園にしてほしいとの氏の遺志により、ご遺族から杉並区に寄付されたものです。
園内には樹齢100年を超えるイチョウ並木を始め、ケヤキ、アカマツ、シイノキなどの巨木がうっそうと茂っています。
また、数寄屋造りの茶室、民家の土間を思わせるような休憩室のほかに、氏の仕事部屋であったレンガ色の記念館が保存されています。
記念館は、昭和8年に建築されたもので当時としては珍しい西洋風の建築物です。室内には生前氏が愛用されていたスタインウェイ社製のピアノや蓄音機などが残されています。

【荻外荘・旧近衛文麿邸 】

荻窪の閑静な住宅街にある「荻外荘(てきがいそう)」は、内閣総理大臣を三度務めた政治家・近衞文麿(このえふみまろ)が、昭和12年の第一次内閣期から20年12月の自決に至る期間を過ごし、昭和前期の政治の転換点となる重要な会議を数多く行った場所です。 
 平成28年3月1日に、こうした歴史を持つ「荻外荘(近衞文麿旧宅)」が、日本政治史上、重要な場所として、国の史跡に指定されました。
荻外荘は歴史上に名を残す荻窪会談や荻外荘会談が行われた舞台であり、又戦後近衛公爵が戦犯指名を受けて拘置所に出頭する日の早朝、服毒自殺を遂げた現場でもあります。
 
【近衛文麿】

大正・昭和期の政治家です。藤原摂関家の嫡流で、皇室に継ぐ由緒を持つ近衞公爵家の長男として生まれます。昭和12年(1937年)6月に第一次近衞内閣を組織、その後も昭和15年~16年(1940年~1941年)に第二次・三次近衞内閣を率いました。
 
【井草八幡宮】

井草八幡宮は、南に善福寺川の清流を望み、今なお「武蔵野」の面影残る秀麗の地に鎮座し古地名を冠して遅野井八幡宮とも称せられました。 当宮は創建当時、春日社をお祀りしていましたが、源頼朝公が奥州藤原泰衡征伐の際に戦勝祈願をして立ち寄ったと伝わっており、それ以来八幡宮を奉斎するようになりました。

【善福寺公園】

善福寺池は、古来より武蔵野台地からの湧水池として知られていた。まだ農村だった江戸時代には、貴重な水源であった。また池は遅野井池とも呼ばれ付近一帯の上井草村は別名遅野井村とも言われた。善福寺の名の由来は、池のほとりにあった寺の名前に由来しているが、江戸時代に廃寺となっている。
湧水量も多く、近辺には武蔵野の雑木林を思わせる木々も多くあり、野鳥や草花も豊富で、都内でも数少ない自然豊かな公園である。

【東京女子大】 

1910年、スコットランドのエディンバラで開かれたキリスト教世界宣教大会における決議に基づいて、北米のプロテスタント諸教派による援助を受けて開設された。
新制東京女子大学発足は1948年。大学の略称は東女(とんじょ)
キャンパスは1920-30年代にかけてアントニン・レーモンド設計の建築群によって構成され、2003年にはDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に指定。正面の本館を含む計7棟の建造物は国の登録有形文化財に登録されている(現在も通常使用されている)



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