『街道を行く』 『歴史をたずねる旅』

『学び』『楽しみ』『社会へ参加』健康な日々

第153回 座学-国際都市横浜の発展ー古地図と古写真に見る明治の横浜-のお知らせ

2020-12-30 09:15:37 | 日記

横浜正金銀行(現 県立歴史博物館)

横浜は明治時代に入ると「近代化の実験場」としての役割を果たすようになりました。すなわち横浜で実用化された西洋の文物は横浜から全国に広がり、日本は近代化を成し遂げていきました。講演では、残された古地図や古写真などを活用して、横浜で実用化された西洋の文物を紹介して頂きます。あわせて明治時代の古地図や古写真を見ながら当時の横浜の姿を再現していきます。

◆実施日:2021年2月3日(水)
◆会 場:「新現役ネット」事務局会議室
◆時 間:14:00~16:00 (講演 約90分、 休憩10分、質疑応答 約20分)
◆演 題:国際都市横浜の発展ー古地図と古写真に見る明治の横浜
◆講 師:横浜開港資料館館長 西川 武臣氏
◆定員:会場16名、オンライン20名



講師 西川武臣氏
1955年愛知県名古屋市生まれ。明治大学大学院文学研究科史学専攻博士前期課程終了。博士(史学)。現在、横浜開港資料館館長。主な著書に『横浜開港と交通の近代化』(日本経済評論社)、『浦賀奉行所』(有隣新書)、『開国日本と横浜中華街』(大修館書店)、『ペリー来航』(中公新書)。

第149回 歴史を訪ねる旅―高田馬場・中井」のお知らせ ―目白崖線沿いの文化村を歩くー

2020-03-15 15:56:02 | 日記
 林 芙美子記念館

崖線というのは、河川が台地を削ってできる急斜面の連続のことで、妙正寺川、神田川の合流地点前後の左岸(北側)にも、この崖線が形成されており、通常は「目白崖線」といわれています。 この地域には大正モダンの洋風建築が残る目白文化村、明治の終わりから昭和の初めにかけて、多くの芸術家や文化人が移り住んできた落合文士村など自然・歴史・文化が織りなす魅力あふれるまちで織りなす魅力あふれる街です。 4月の「歴史を訪ねる旅」は「目白崖線」沿いの文化村を散策します。
午後からは「哲学堂公園」と「新井薬師」に行きます。

実施日 : 2020年4月25日(土)
集 合 : 午前10時 JR 高田馬場駅 ○○改札口
解 散 : 午後3時半頃 西武新宿線 新井薬師駅
参加費 : 正・家族会員 ○○円 
 準会員・一般  ○○円 
昼 食 : 西武新宿線「中井駅」付近で各自で取って頂きます。
ガイド : 東京シティーガイドクラブの皆様


コース: 高田馬場駅~おとめ山公園~薬王院~佐伯祐三旧宅~延寿東流庭園~自性院~目白学園資料館~中井御霊神社~(昼食)林芙美子記念館~哲学堂公園 ~ 新井薬師 ~ 新井薬師駅

お申し込みの方
 1.「新現役ネット」の正会員は会員番号をお知らせ下さい。
  (ご連絡の無い方の参加費は準会員/一般価格になります)
 2.緊急連絡用に携帯番号をお知らせ下さい。

【訪問先メモ】

【おとめ山公園】


 落合崖線に残された斜面緑地です。
 江戸時代、おとめ山公園の敷地周辺は、将軍家の鷹狩や猪狩などの狩猟場でした。一帯を立ち入り禁止として「おとめ山(御留山、御禁止山)」と呼ばれ、現在の公園の名称の由来となっています。
 大正期に入り、相馬家が広大な庭園をもつ屋敷を造成しました。のちに売却され、森林の喪失を憂えた地元の人たちが「落合の秘境」を保存する運動を起こし、昭和44年(1969)にその一部が公園として開園しました。

【薬王院】


鎌倉時代に開山された、真言宗豊山派の寺院です。牡丹の名所として知られ別名は牡丹寺です。
総本山の奈良長谷寺から移植された100株が約40種・1,000株にまで増え、見頃を迎える4月中旬から下旬にかけては、都心とは思えない美しく雅やかな光景を見せてくれます。

【佐伯祐三旧宅】


佐伯祐三は、東京美術学校在学中の大正9年に、銀座の象牙美術商の娘、池田米子と結婚すると、翌大正10年には、
豊多摩郡落合村下落合661番地にアトリエ付き住宅を新築しました。
この地で佐伯が生活し、創作活動をしたのは、米子夫人と長女彌智子と共に、フランスに向かう大 正12年までと、再びフランスに渡る昭和2年までの合わせて4年余りにすぎません 。しかし、この地は、佐伯がアトリエを構え、創作活動拠点とした日本で唯一の場所であり、現在も 、当時のままの敷地に、大正期のアトリエ建築を今に伝える建物が残されている貴重な場所です

【延寿東流庭園】


区民の方から土地と整備費用のご寄附をいただいて、新宿区が整備を行った庭園です。 寄贈者の「目白文化村の面影を残した和風庭園としたい」との意向を受け、滝や流れのある庭園として整備しました。
 園内には、元からあった松や梅などを移植したほか、ツツジ類、モミジなど四季折々の風情を感じさせる植物を植えています。

【自性院】


『自性院』は西光山自性院無量寺といい、秘仏「猫地蔵」を安置し、寺伝によると弘法大師空海が日光山に参詣の途中で、観音を供養したのが『自性院』の草創と伝えられています。
江古田ヶ原の戦(1469~1486)で、太田道灌が一匹の黒猫に救われたことから、猫寺という愛称で親しまれ、門柱の上には猫地蔵がでんと置かれています。また、境内には猫地蔵講堂なる建物もあります。当初、彫刻家・河村目呂二が銅像の招き猫を献納しましたが、戦時中に供出。そのため、今の招き猫は石材の店主が奉納した石像のものだと言われています。2月には猫地蔵まつりが開催されます 。

【目白学園資料館】


「目白学園遺跡 出土品資料室」があり、縄文・弥生時代~奈良時代の複合集落遺跡である「落合遺跡(目白学園遺跡)」から発掘された貴重な出土品を展示している。同大では、資料室の無料開放や、地域住民などに毎年、参加体験型イベント「目白学園遺跡フェスタ」を開催し、大人や子どもが歴史に触れ合う機会を提供するとともに、その運営に学生が関わることで、アクティブ・ラーニングの場としても積極的に取り組んでいる。

【中井御霊神社】


往古より落合村小名中井の鎮守で、安産の神として崇敬厚く、『新編武蔵国風土記稿』に「五霊社ほおびしゃ祭を行う、六の日安産の祈祷をなす、神前の紅白の帛布を頒ち、紅布を得れば女子、白布を授かれば男児を挙ぐべしとの伝記があって遠近の賽者が絶えない」と載せられている。景行天皇の四十年、日本武尊諸族を討夷して皇威を皇国に伸展された時、神孫の一族この地に故郷大和国の氏神御霊社を鎮斎したのが創祀の起源とされている。

【林芙美子記念館】


 この建物は『放浪記』『浮雲』などの代表作で知られる作家・林芙美子が、昭和16年(1941)8月から昭和26年(1951)6月28日にその生涯を閉じるまで住んでいた家です。
大正11年(1922)に上京して以来、多くの苦労をしてきた芙美子は、昭和5年(1930)に落合の地に移り住み、昭和14年(1939)12月にはこの土地を購入し、新居を建設しはじめました。
新居建設当時、建坪の制限があったため、芙美子名義の生活棟と、画家であった夫・緑敏名義のアトリエ棟をそれぞれ建て、その後すぐにつなぎ合わせました。

【哲学堂公園】


哲学館の創設者である井上円了が、ソクラテス、カント、孔子、釈迦を祀った「四聖堂」を建設したのが、この公園のはじまりである。この四聖堂を当初哲学堂と称し、それがそのまま公園の名になった。
当初は当地に大学を造成する案もあったが、精神修養のための公園にすることになり、1909年-1912年の間に哲理門、六賢台、三学亭などの建築物が逐次整備された。
内部には、哲学者の像が祀られている。この他にも園内には到る所に哲学に由来するユニークな名前の坂や橋などが点在し、井上円了の思想と世界観を垣間見ることができる。

【新井薬師(梅照院】


新井薬師梅照院は中野区唯一の参詣寺院で、宗派は真言宗豊山派です。
御本尊は、薬師如来と如意輪観音の二仏一体の黄金仏。鎌倉時代の代表的な武将・新田家代々の守護仏でした。鎌倉時代から南北朝にかけての戦乱の最中、御尊像は消えてしまいますが、天正14(1586)年に梅の木の穴から発見されました。それを安置するために新たに建立されたのが、この寺院だとされています。
境内にある新井薬師再建供養塔は、新井薬師の再建に尽くした住職・運樹の業績と信徒の信仰心に応えるため、安永8(1779)年に後継者の英俊が高野山延命院の引導地蔵尊を模して建立したものです。
また、梅照院は、徳川二代将軍秀忠の子・和子の方が失明した時、当薬師如来に祈願して治癒したことから、治眼薬師(ちがんやくし)と呼ばれています。


第146回 「歴史を訪ねる旅ー熱海歴史散策」

2020-02-17 14:28:45 | 日記
  【大湯間欠泉】

 温泉地熱海は昭和30年代~40年代は新婚旅行のメッカであったのが、その後の衰退は目を見張る様でした。近年大旅館はマンションに代わり保養地としての人気が高まり、今や海外からも含めて多くの観光客の集まる人気観光地となっています。古くからの熱海を見直そうと歴史旅では独自の視点で熱海の魅力を歴史という点から散策します

 【開催日】 令和2年3月31日(火)
 【集合場所】 JR熱海駅(東海道、新幹線)改札口 (在来線側)
 【集合時間】 午前10時
 【解散場所・時間】 起雲閣 午後4時頃 バスで熱海駅へ
 【参加資格】   新現役ネット会員及び関係者
 【参加費】 正・家族会員 2,000円 
      準会員・一般会員 2,500円 

   ※. バス代や伊東線の運賃は各自負担でお願致します。
   ※. 参加費には起雲閣入館料、ガイド代、資料代を含みます。 、      
 【コース】 午前 足湯~軽便鉄道~人車鉄道~野中の湯~湯前神社~大湯間欠泉~銀座通り~お宮の松~バスで熱海駅へ昼飯
       午後 伊東線で来宮駅へ~来宮神社~坪内逍遥旧宅(水口町)~ 海蔵寺~起雲閣~バスか徒歩で熱海駅
 【昼 食】 熱海駅付近で各自で取って頂きます。
 【ガイド】 熱海まち歩きガイドの会
 【募集人員】 30人

【訪問先メモ】
【人車鉄道】

かつて、人間が客車を押すという世界的にも珍しい鉄道が、小田原~熱海間を走っていました。明治28年7月に熱海~吉浜間で営業を開始し、翌29年3月に熱海~小田原間が開通しました。
当時、熱海は温泉宿約30軒ほどの保養地で、政財界の大物や文人が盛んに訪れていました。しかし、東京・横浜方面から熱海に至るには海沿いの険しい道(熱海街道)を歩くか、駕籠か人力車を利用していました。そこで、熱海の旅館業主を中心に地元有志や京浜の実業家等が小田原熱海間に鉄道計画を興し、経費も安価であったことから人車鉄道を建設しました。豆相人車鉄道と呼ばれ、小田原熱海間25.6km。駕籠で約6時間かかっていたところを約4時間で走りました。

【軽便鉄道】

豆相人車鉄道を設立して1895年から1900年にかけて漸次開通させた。
これは営業的には高運賃(全線の運賃は工夫の賃金1日分だったといわれる)を取ったこともあって成功したが、原始的であり押し手の賃金も高額となることから、社名を熱海鉄道と改めて1907年に蒸気機関車牽引の軽便鉄道へ切り替えた。

【野中の湯】

街を歩くと、坂道のところどころから湧き出す湯気が発見できます。「熱海七湯」といわれる源泉です。源泉を巡り、長い歴史と温泉情緒に触れるのもおすすめです。
熱海七湯の一つ、野中の湯。
野中山のふもとの、「野中」と呼ばれるこの辺り一帯は、泥の中に湯がブクブク噴いて、杖で突くと湧き出したといわれています。
またこのあたりの土は丹(赤色の土)のようで、壁を塗る材料に使われました。
江戸時代まではこの「野中の湯」は湧き出るところが浅かったため、湯をためる湯枡を設けなかったといわれています

【湯前神社】

湯前神社は、静岡県熱海市に鎮座する神社である。式内社の「久豆弥神社」の論社で、旧社格は村社。社前には江戸時代までの熱海温泉の中心的な源泉だった大湯間歇泉があり、この神社の名称・起源もそこに由来している。 現在は近隣の来宮神社の管理下にあり、御朱印も来宮神社で得ることができる。

【大湯間欠泉】

熱海七湯の一つ「大湯間歇泉」は、古くからの間歇泉で世界的にも有名な自噴泉でありました。
「大湯」の噴出は昼夜6回あり、湯と蒸気を交互に激しい勢いで吹き出し、地面が揺れるようであったといいます。
明治中頃から次第に減少し1923年(大正12年)に止まってしまいましたが(大地震の際に再び噴出したこともありました)、1962年(昭和37年)に、市の文化財として保存し、現在に至っています。
※2020年1/9現在:配管不具合のため休止しています。

【銀座通り】

かつて熱海の中心部として、たくさんの観光客でにぎわった熱海銀座の通り。商店街の入り口交差点角には、1975年まで銀行として営業していた建物を利用した熱海商工会議所があります。重厚でレトロな建物は当時の風情をそのまま残しています。
銀座商店街を歩くと、軒先に吊るされた干物や、昭和のままの姿で営業を続ける喫茶店など、昔と変わらない日本の風景に出会えます。最近では地元素材を使ったカフェや、地元の人と旅人のふれあいを提供するゲストハウスもオープンしリノベーションを感じられる通りになりました。

【お宮の松】

明治30年より6年間「読売新聞」「新小説」に断続的に掲載された 尾崎紅葉の小説「金色夜叉」(こんじきやしゃ)です。
この小説にちなむ「お宮の松」と、「熱海の海岸散歩する・・・」で始まる歌謡が一体となり、爆発的に流布し、主人公「貫一・お宮」はあたかも実在の人物のように 国民の心をとらえて離さない存在となりました。
「貫一・お宮の像」そして「お宮の松」は海岸の国道沿いにあり、観光写真スポットとして多くの人が訪れます。

【来宮神社】

平安初期の征夷大将軍坂上田村麻呂公は戦の勝利を神前で祈願し、各地に御分霊を祀ったとも伝えられ、現在では全国四十四社のキノミヤジンジャの総社として、信仰を集めております。
 御祭神五十猛命は熱海に鎮座される際、地元民と入来たる旅人を守護しようと神託をつげられたことから、伊豆に来る旅行者が多く参拝されます。 国指定天然記念物に選定されております来宮神社のご神木「大楠」は樹齢2千年を超え、平成4年度の環境省の調査で、全国2位の巨樹の認定を受けており、幹周り約24米の迫力に人々は畏怖し、自然と手を合わせます。

【坪内逍遥旧宅(水口町)】

シェイクスピアの翻訳家としても有名な明治の文豪「坪内逍遙」が、大正9年から昭和10年に亡くなるまでの15年間を過ごした住居です。庭にある2本の柿の古木から双柿舎の名がつけられました。門の扁額は会津八一の筆によるものです。

【海蔵寺】

晩年を熱海で過ごした小説家坪内逍遥の命日の2月28日に毎年「逍遥忌記念祭」開かれる。

【起雲閣】

1919(大正8)年に別荘として築かれ、非公開の岩崎別荘、今はなき住友別荘とならび、「熱海の三大別荘」と賞賛された名邸が基となる起雲閣。
1947(昭和22年)に旅館として生まれ変わり、熱海を代表する宿として数多く宿泊客を迎え、山本有三、志賀直哉、谷崎潤一郎、太宰治、舟橋聖一、武田泰淳など、
日本を代表する文豪たちにも愛されてきました。
市街地とは思えない緑豊かな庭園。日本家屋の美しさをとどめる本館(和館)と離れ日本、中国、欧州などの装飾や様式を融合させた独特の雰囲気を持つ洋館。
優美な気品を醸し出すこれらの施設は、歴史的・文化的遺産として未来に継承されます。
2000(平成12)年より、熱海市の所有となり、熱海市の文化と観光の拠点として多くのお客さまを迎えています

   

第145回 「座学ー鎌倉と漱石」-参禅百年記念碑をめぐる人々ー のお知らせ

2020-01-17 09:31:00 | 日記
「歴史を訪ねる旅」の散策は2月は寒さを避けて休会です。
今回、この時期を利用して、下記の歴史セミナー(座学)を企画しました。

講演テーマ:鎌倉と漱石 -参禅百年記念碑をめぐる人々ー

今回は講師に「鎌倉ガイド協会」の関谷哲雄さんをお招きして下記の概要でお話をして頂きます。

<講演概要>
夏目漱石は鎌倉についての小説を置く仕書いている。円覚寺帰源院に参禅し、当時の名僧・釈宗演に、手厳しく指導を受けた様などを記した「門」を始め「こころ」など多数に及ぶ。また生涯の親友という中村是公(鎌倉長谷に別荘を持つ)との出会いから、共に鎌倉での交遊、鎌倉での別荘くらしなどあまり知られていない漱石と鎌倉の関わり、それを取り巻く交友関係などを克明に解説致します。

 実施日 : 令和 2年 2月21日(金)
 時 間 : 午後3時~ 午後 5:00 
 会 場 : 「新現役ネット」事務局 A会議室
 講 師 : 関谷 哲雄 さん
 参加費 :正会員 1,000円 準会員・一般 1,500円
  

 ※.講演終了後、近くで講師を囲み懇親会(会費3,000円)を実施します。

関谷哲雄 略歴

学 歴 : 理学博士(東京工業大学)
職 歴 : 三菱系化学会社で医薬農薬の研究開発
    東京工業大学特任教授(産学連携推進本部)
    東洋大学非常勤講師(理工学部)
ガイド歴 : NPO法人鎌倉ガイド協会理事 企画委員長を経て 
     現在NPO法人鎌倉ガイド協会会員  
    
< お申し込みの方 >
1. 正会員は必ず会員番号をご記入ください。
   ( ご記入のない方は、準会員・一般価格となります。)
2. 緊急連絡先(携帯番号)を必ずご記入ください
3. 懇親会の参加・不参加をご記入下さい。



第148回 「歴史を訪ねる旅-もう1度の台湾歴史散策の旅」

2020-01-03 15:27:43 | 日記

龍虎塔
2003年の時は「台北」だけでしたが、台湾新幹線が出来て台北―台南・高雄間が便利になりましたので、今回は『千と千尋の神隠し』のモデルと言われている九份・十份や台南・高雄まで行きます。
「台南」には赤崁樓 ・ 孔子廟 ・ 延平郡王祠等、「高雄」には蓮池譚 ・ 龍虎塔 ・ 高尾英国領事館邸等歴史的に見所のある地域を散策します。
台湾名物の「小籠包」は「鼎泰豐」が勿論有名ですがインターネットの小籠包人気投票で1位になったこともある人気店「点水楼」にご案内します。

航空便は往路・復路共 「JAL」 で、ホテルは台北はニッコー4.5星、台中と高雄は4星クラスを用意しています。
今回のツアーは 添乗員付き です。

《ツアーの概略》

【旅行期間】2020年4月21日(火)~4月24日(金)
       3泊4日
【集合場所:時間】 羽田空港 (詳細は参加者に後日連絡致します。)
【募集人員】15名(最低催行10名) 
     準会員・一般の方も参加出来ます。
【参加費】お一人様 160,000円  (2人部屋使用)
(ホテルお一人部屋ご希望の方 追加料金 +33,000円 )
【旅行手配会社】 (株)ワールドプランニングオフィス
【主なスケジュール】
   4月21日(火) 羽田空港 ⇒ 台北 ⇒ 十份 ・九份 ⇒ 
          台北     台北泊
   4月22日(水) 故宮博物館 ⇒ 台南(台湾新幹線) ⇒
          台南観光  台南泊 
   4月23日(木) 台南観光 ⇒ 高雄観光    高雄泊
   4月24日(金) 高雄空港 ⇒ 成田空港

★オリジナルツアーですので、皆様の体調や天候に合わせてスケジュールはご希望に応じて自由に変更出来ます。
★出発は羽田空港、帰路は成田空港ですので、羽田までは公共交通機関でお越し下さい。

【お申込みの方】
  久保田 惣治 
  email: 久保田惣治 (s_kubota1211@etude.ocn.ne.jp)
  携 帯 : 080-2065-5348
  FAX : 045-902-7178

《キャンセル規定》
 確認後連絡します。

【訪問先メモ】 

【点水楼】

「鼎泰豐」は勿論有名ですが「點水樓」はインターネットの小籠包人気投票で1位になったこともある人気店。
店内は、オールド上海を思わせるいい雰囲気です。鼎泰豐のような長い行列はないので、静かに食事ができる大人向けのレストランと言えるでしょう。ネットの人気投票で第1位を獲得した小籠包は肉汁がたっぷり!熱々のうちにぜひ食べてみてください。
さらに!上海料理のお店なので、小籠包以外にもおすすめはいろいろあります。なかでも「薺菜鍋餅(ナズナをサンドした薄皮焼き)」「點水?方(黒豚の角煮)」は小籠包に負けず劣らず絶品です!

【台湾十份(シーフェン )】

十份はとてもノスタルジックで、それはどこか昭和の雰囲気を漂わせています。
平渓線沿線の中でも十分は規模が大きく活気がある街で、名物は何と言ってもランタン(天燈)飛ばし体験。
大きなランタンに、願いを書いて空に飛ばします。元は台湾の旧暦で言う『元宵節』を祝う為の行事、「平溪天燈節」が由来ですが、現在では平渓地域全体で、1年を通してランタン飛ばしを体験する事ができます。
また、十分はランタンの故郷と呼ばれ、元宵節のお祝いでランタンを飛ばし始めたのが十分の住人だったと言われています。

《九份(きゅうふん)》

世界的に有名なジブリ映画『千と千尋の神隠し』のモデルと言われていて、九份に居るとまるで映画の世界に迷い込んだかのよう。台湾北部に位置し、山あいの街であります。日本統治時代の面影が色濃く残り、当時の酒店(料理屋)や建物などが多数残されています。台湾旅行のガイドブックの多くに紹介されており、映画を見て訪れる方も多く、今や台湾を代表する観光名所の一つとなっています。
石畳のレトロな街並みに赤ちょうちんが至る所につるされており、夜には街全体が赤くライトアップされ、その景色はとても幻想的でノスタルジック!屋台や食事処もたくさんあるので街をぶらぶらしながら台湾レストランやグルメも楽しめちゃいます。

《台北観光》
【故宮博物院】

台北観光のメインスポットといえば、世界4大博物館のひとつに名を連ねる「故宮博物院」でしょう。故宮博物院は清朝最後の皇帝、溥儀が北京の紫禁城(故宮)から退去した後の1925年に、歴代皇帝が所有していた美術品を一般公開したのが始まりです。
その後、毛沢東率いる共産党と蒋介石率いる国民党の間で内戦が起こり、形勢が不利になった国民党は台湾移転を決定。同時に故宮から精選した第一級の文物も1948年から3回にわたって台北に運ばれました。
1965年、それらを収蔵する故宮博物院が台北近郊の外双渓に完成し、皇帝私有の宝は晴れて世界中が衆目する公の宝となりました。
中国歴代王朝の皇帝たちが収集したコレクションを基に、約69万点以上の至宝を収蔵する中国文化と芸術の殿堂で、常時約2万点が展示されています。
下記に代表的な5点を説明します。
又、中国庭園「至善園」を散歩するやレストラン、カフェで余韻に浸るのも楽しみの一つです。

 「翠玉白菜」

 清の第11代皇帝光緒帝の后、瑾妃の嫁入道具として紫禁城の永和宮に飾られていたもので、清廉潔白を意味する白菜の上に子孫繁栄と多産を意味するキリギリスとイナゴが配されています。色が分離したヒスイ輝石の形と天然の色合いを活かし、白い部分を茎、エメラルド色の部分を葉に見立て、みずみずしい質感までも見事に表現しています。

「肉形石」

清朝時代に作られたとされる長さ5.3センチメートル、幅6.6センチメートル、高さ5.7センチメートルの東坡肉を模したとされる彫刻である。

「象牙透彫雲龍文套球」

職人親子3代が100年にわたって彫り上げた多層球です。わずか直径12センチほどの球の表層には精巧な9匹の龍の彫刻が彫られ、その中には透かし彫りの幾何学文様が施された24層の球体があり、各層自由に回転させることができます。現在では制作不可能、もはや神業としかいえない超絶技巧の象牙細工です。

「雕橄欖核舟」

高さ1.6センチ、縦1.4センチ、横3.4センチ足らずの小さなオリーブの種を小舟に仕立て、中には表情や動きの異なる8人が乗船しており、扉が開閉する小舟の船底には300字もの文字が刻まれています。

「毛公鼎」

獣を模した3本足を持つ青銅の祭礼器具で、器の内側に500文字の銘文が刻まれています。政情不安な西周晩期、宣王が功労のあった叔父の毛公を称えた内容で、褒美として多くの品を下賜したことなどが綴られています。32行にも及ぶこの銘文は現存する青銅器に記されたものの中で最も長く、史実を伝える歴史的資料として高い価値を持っています。

【台湾新幹線(台湾高速鉄道)】
 
中華民国(台湾)の台北市と高雄市とを結ぶ高速鉄道。略称は台湾高鐵、高鐵(高鉄)。

《台南観光》
台湾の古都・台南は、歴史的建造物やノスタルジックな街並みが魅力の街です。街のシンボルである赤崁楼、レトロな建物が可愛い神農街、風光明媚な安平といった観光地があります。美食の街として知られる台南には、担仔麺をはじめとした本場の小吃グルメもいっぱいです。

【赤崁樓】

赤崁楼(せきかんろう)は別名を赤嵌楼、紅毛楼 とも称し、台湾台南市中西区に位置する、オランダ人によって築城された旧跡である。原名は「プロヴィンティア」(Provintia、普羅民遮城)と称し、1653年にオランダ人と漢人の衝突事件である郭懷一事件(1652年)の後に築城された。鄭成功が台湾を占拠すると、プロヴィンティアは東都承天府と改められ、台湾全島の最高行政機関となった。現在は文化部により国定古跡に指定されている。

【孔子廟】

中国、春秋時代の思想家、儒教の創始者である孔子を祀っている霊廟(霊を祀る建物)。鄭氏王朝の1665年に陳永華によって創建された孔子廟である。台湾で最も古い孔子廟で、「全臺首学」とも称される

【延平郡王祠】

台湾・台南市中西区開山路にある鄭成功を祀る祠である。開山王廟(かいざんおうびょう)ともいう。
台湾の開発において鄭成功の果たした役割には大きいものがあります。この祠は、台湾の民衆がこの民族の英雄を記念するために特に建てたものです。1662年に創建されたこの建物は、台湾でわずかに残る福州式の建築様式を今に伝えています。境内にある「台南民族文物館」には貴重な古代芸術品が収蔵されています

【神農老街】

台湾の京都とも例えられる「台南」と言えば、風情ある古い街並みを思い浮かべる方も多いはず…。数ある「老街(古い通り)」の中でも「神農街」は、古き良き台湾を体感できる神農街はむかし「北勢街」と呼ばれるにぎやかな街道でした。かつてこのあたり一帯は、5本の主要運河が流れる商業の盛んな場所で、神農街はその中心に位置する重要な場所だったそう。この通りには今でも、清朝、日本時代の面影を残す年季の入った古民家が残されています。ここに軒を連ねる建物は、間口が狭く奥に長い「町屋造り」のようになっているのが特徴です。当時の商売人たちは、通りに面する前方を商店にし、後方や2階を倉庫として使っていたことから、このような建物が多いそうです

【台南天壇】

俗に「天后廟」と呼ばれています。祭られているのは天国の統治者玉皇大帝です。中国人は信仰に厚く運不運というものを信じています。人生の途上で困難に打ちあたると人々は天壇に来て、神様に指示を求めたり、開運の祈願をするのです。最近は悪運がついているなあという人はここにお参りして新しい幸運をもらって帰宅するわけです。地元の人は旧暦の毎月一日と十五日にここにお参りし家内安全を祈願する習わしです。また、旧暦正月九日には玉皇大帝の誕生日を祝う祭りがあります。

《高雄観光》
台湾リピーターに人気急上昇の街です。龍虎塔や六合夜市などの定番観光地に加え、フェリーに乗って海沿いの旗津半島を楽しんだり、打狗英国領事館から海に沈む夕日を眺めたりと、港街ならではの魅力に溢れる街。

【蓮池譚】  

台湾高雄市左営区にある広さ約42haの池[1]。または、この池を中心とする蓮池潭風景区のことを表す。かつて蓮池潭は72haの広さがあったが、孔子廟や環潭道路の建設のために埋め立てられ、現在では42ha(南北約1.3km、東西約0.4km[2])まで狭くなっている。
清朝時代の1686年に孔子廟を建立する際、池を廟宇の泮水として蓮を植えたため、「蓮池潭」と呼ばれるようになった[1]とされる。また、満開の蓮の花が匂い香ることに因み「泮水荷香」と謳われ、清朝時代には鳳山八景の一つに数えられた。

【龍虎塔】

龍の口が入口、虎の口が出口になった龍虎塔は、1976年、春秋閣から約700 メートルのところに建てられた塔です。外観は生き生きと躍動感にあふれ、塔内には龍塔の方に中国人が親孝行の模範と認める「二十四孝子」や悪人が地獄で受ける「閻魔大王審罰刑図」などの絵が、虎塔の方に「十二賢士」や天国の世界を描いた「十殿玉皇大帝三十六宮将図」などの絵が飾られています。

【高雄英国領事館邸】

領事館の2つの建物は台湾で現存最古の西洋近代建築物であり、日本統治時代と戦後の国民政府時代に用途を変えながらも、1987年に中華民国内政部により二級古蹟(直轄市定古跡)に指定を経て(その後2019年に国定古蹟に昇格)、戦災や災害によって損壊した建物の修復が進められた。2013年より一帯を「打狗英国領事館文化園区」として開放、高雄市屈指の観光地となっている。

【六合夜一】

1950年代、現在の高雄市新興区大港埔近くの空き地に小吃の屋台が出店し始め、その数を徐々に増やしていったことから、大港埔夜市と呼ばれるようになった。その後、さらに出店数は増え続け、名前を現在の六合夜市と変え、現在では138の屋台が軒を連ねている[1]。1987年以降、夜市の一角は毎晩18時から翌日2時までの間歩行者天国となっている。