『街道を行く』 『歴史をたずねる旅』

『学び』『楽しみ』『社会へ参加』健康な日々

 第137回 「歴史を訪ねる旅ー稲城」のお知らせ

2019-02-12 13:22:20 | 日記

 三沢川
都心から最も近い多摩丘陵の東端で、東西、南北各5kmの処で、130mの高低差があり、緑に恵まれ起伏の多い景観が楽しめます。江戸時代から続く梨の産地でもあり、春先には桜と梨の花が同時に見られます。また稲城の地名の謂われとなった、3つの城跡や平安時代から続く神社や江戸時代に開削された大丸用水などの探索も楽しめます。

【開催日】  2019年3月30日(土)
【集合場所】 午前10時00分 
【集合時間】 京王相模原線 「京王よみうりランド駅」 改札口  
  ※. 小田急線「読売ランド前駅」とは違いますのでご注意下さい
【解散場所】 3時半頃  南武線 稲城長沼駅
【参加費】  正・家族会員 2,500円 
       準会員・一般  3,000円
     (参加費には昼食代、ガイド代、資料代を含みます)
【コース】  京王よみうりランド駅 → 穴澤天神社  → 小沢城址 → 妙覚寺→ 三沢川  → 昼食(「COCO’S (ココス)稲城店」)→妙見寺 →常楽寺 → 青渭神社 → 大丸用水 → 南武線稲城長沼駅解散(15:30頃)

【昼 食】 「COCO’S (ココス)稲城店」 を予約しました。
            TEL. 050-3333-4882
      

      メニュー 1.ハンバーグ
            2.ビーフカレー
            3.スパゲッティ 
    ※.ご希望のメニューをご記入下さい。

【ガイド】 稲城観光案内人の皆様
【募集人員】 30人

  お申し込みの方
 1.「新現役ネット」の正会員は会員番号をお知らせ下さい。
  (ご連絡の無い方の参加費は準会員/一般価格になります)
 2.緊急連絡用に携帯番号をお知らせ下さい。
 3.ご希望のメニューをお知らせ下さい。

  
「歴史を訪ねる旅」ブログをご覧下さい 
     http://blog.goo.ne.jp/kaidoujapan

  皆様のお申込みをお待ちしています。

【訪問先メモ】

【穴沢天神社】

孝安天皇四年(紀元前423年)の創建にして、主祭神は少彦名命を御祀りした社で、この命は人民に医療法や造酒の術を授けられ、特に薬の神から健康増進の神として、又、国土経営に偉功を遺された著名な御方であります。
天正十八年(1590)に社殿を再建し元禄七年(1694)社殿の造営が行われ、その時菅原道真公を合祀された。
大正七年(1918)国安神社・大己貴命(大国主命)を合祀、縁結、開運の神として以後崇敬されており、境内下三澤川右岸沿いに、横穴巌窟がありましたが、昔の巌窟は崩れ、現在の洞穴は二度目ですがこれがすなわち穴澤の起源であります延喜式内神明帳所載(延喜五年、905年撰上)に記されている古社で多摩八社の内一社であり、明治六年郷社に列せられました。

【小澤城跡】

小沢城は平安時代末期、稲毛三郎重成(または重成の子、小沢小太郎)によって築かれた城で、鎌倉道・矢野口(多摩川)の渡しを抑える交通の要衝でした。北条氏康が初陣を飾った「小沢原の戦い」では、氏康はこの城から出陣して上杉朝興を撃退しています。その後、戦国時代以降は廃城になったと考えられています。現在、城址は緑地公園として保存されており、その中には空堀や物見櫓、土塁などと思われる遺構が残っています

【妙覚寺】

開山は室町時代の終わりで、足利義晴候の開山である。鎌倉の臨済宗大本山建長寺の末寺として建立されたが、寛政元年に焼失し、現在の建物は寛政8年(1796)に再建したものである。
観音堂石段の脇にある市指定文化財の筆塚は、学業指導の功績と徳を称えて、筆子代表49名によって、嘉永7年(1845)に建立されたものである。
鐘楼の横には、市内最大(高さ112㎝)で市指定文化財の板碑がある。この板碑は、室町時代の中頃、享徳3年(1454)秋の彼岸の中日に、道秀という人が逆修供養のために建てたもので、阿弥陀三尊の種子、円光、蓮台、銘文、紀年銘など、すべてがそろっている保存状態の良好な板碑である。

【三沢川の花見】
三沢川沿い(両脇)に桜並木が900メートル続き、京王線の電車からは桜のピンク色の帯を観ることができます。
桜は「ヤマザクラ」「ソメイヨシノ」「オオシマザクラ」の3種あり、開花時期が異なりますので、長く桜を楽しむことができるスポット(コース)です。

【常楽寺】

天台宗寺院の常楽寺は、樹光山浄土院と号します。常楽寺の創建年代は不詳ですが、行基菩薩の創建とも慈覚大師の創建と伝えられます。僧良順が永禄元年(1558)に中興、寺領7石5斗の御朱印を拝領したといいます。多摩川三十三観音霊場16番です。
その本尊阿弥陀如来は、坐像で桧の寄木造です。作製年代は、平安時代後半とされ、漆箔がほどこされています。像高80.6㎝と記録され。両脇侍の観音菩薩は94㎝、勢至菩薩は92㎝の立像寄木造りで、処々に金箔をとどめています。二躯共に平安時代末期の作とされるが、作者に関する寺伝はなく不詳です。

【妙見寺】

神王山・北辰妙見尊は、四十七代・淳仁天皇の天平宝字四年(760)に伏敵祈願の為、道忠禅師が勅命を奉じて尊星王の秘法(今の星供)を七日七夜修したところ、妙見菩薩が青竜に乗って現れ国難が消滅した。天皇は叡感せられ国主に命じて一宮(妙見宮)を建立したのが当山の開基で、後の七十四代・鳥羽院の天永三年(1112)に領主は妙見寺を以て別当と定めたのが当寺の開祖です。
 山上の奥の院は妙見宮と称し、本尊は北辰妙見尊。寺の本尊は阿弥陀如来です。
妙見様は国土擁護・豊作・酒造・運勢・富貴・寿命・開運・厄除・身代わり等の守り本尊として、また商売繁盛・縁結び・子育て・学問の神様として広く信仰されています。
昔から「武州・百村の北辰妙見様」と親しまれ、今では全国でも数少ない神仏混淆のお寺であります。

【青渭神社】

ご祭神は、青渭神(あおいしん)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、天鈿女命(あめのうずめのみこと)の三柱です。
青渭神は水神と考えられています。猿田彦命は日本神話の神様で、道開きの神様です。天鈿女命も日本神話の神様で、芸能の神様です。
創建の正確な年代は不明ですが、平安時代の初期に創建されたとの伝承があります。かつてこの近くには大きな青い沼があり、その神霊を祀ったのが起源だとされています。この辺りは多摩川の氾濫原であり、昔は沼地だったんですね。現在の「東長沼」と言う地名もそれに由来しているそうです。

青渭神社も、かつては「青沼大明神」や「大沼明神」と呼ばれていました。ご祭神に水の神様である青渭神を祀っているのも、沼地であったことに深く関係があると考えられています。
現在の社殿は昭和49年に造営されたものですが、本殿は、江戸時代に創建されたものがそのまま残っている形です。
この地が沼地であった古来より、人々に厚く信仰され、長い歴史を持つ神社です。

【大丸用水】
大丸用水おおまるようすいは、稲城市大丸の多摩川から取水して川崎市登戸まで流れる用水で、江戸時代以降、稲城市域の村々及び下流の村々を潤す大変重要な農業用水として維持・管理されてきました。用水の開削かいさつ時期については、明確な史料はあリませんが、江戸幕府の年貢ねんぐの増収を目的とした大規模な治水ちすい・利水りすい政策の一環として、17世紀頃につくられたと考えられます。周辺地域では、江戸時代初めに二ヶ領用水にかりょうようすいや府中用水などの開削工事が行われており、この時期に多摩川流域の各地で大規模な用水の開削が行われたことがわかリます。また延亨えんきょう3年(1746年)の古文書こもんじょ(川崎市・佐保田家文書)によると、元禄げんろく12年(1699年)以来大丸用水組合による修繕資材の負担が行われていたことが記されていますので、少なくともその成立が17世紀まで逆上さかのぼることは間違いありません。



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「歴史を訪ねる旅-座学と散策」のお知らせ

2019-01-14 21:15:56 | 日記
圓應寺 閻魔大王(重文)

「歴史を訪ねる旅」の通常散策は酷寒の2月は休会です。
今回、この時期を利用して、下記の歴史セミナー(座学)を企画しました。
又、講師のご好意でセミナーのフォローの為の散策(2・23)に実施します。
併せてご参加下さい。

       講演テーマ : 鎌倉の仏像彫刻について

今回は講師に「鎌倉ガイド協会」の河口 良文さんをお招きして、鎌倉仏像彫刻(石造を除く。40cm以上)についてお話して頂きます。

実施日時: 2月15日(金) 15:00~17:00
場   所: 「新現役ネット」事務局会議室
講   師: NPO法人 「鎌倉ガイド協会」 河口 良文さん
参 加 費: 正・家族会員  1,000円 
 準会員・一般  1,500円 

 ※.講演終了後、近くで講師を囲み懇親会(会費3,000円)を実施します。

尚、今回の講座を受けて、特徴的な仏像を拝観する散策を 2時間~2.5時間で実施致します。
併せてご参加下さい。。

  実施日 : 2月 23日(土)
  集 合 : 午前10時00分  JR鎌倉駅東口
  解 散 : 午後1時頃 鶴ケ岡八幡宮
  参加費 ; 正・家族会員  2,000円   
準会員・一般 2,500円
    ※.参加費にはガイド代、資料代及び3か所に拝観料を含みます。
  コース : 鶴岡八幡宮前~国宝館~来迎寺(西御門)~宝戒寺~鶴岡八幡宮(解散)
  拝観内容 :
   国宝館(高耐震建築物に鎌倉の各寺から貴重な仏像が展示されている)
   来迎寺(鎌倉でも有数の美仏・如意輪観音半跏像、端正な地蔵菩薩、数少ない跋陀婆羅尊者など)
   宝戒寺(鎌倉で希少な京仏師作の本尊・地蔵菩薩他
    
< お申し込みの方 >
1. 申し込み内容(座学・懇親会・散策)を明記下さい
1. 正会員は必ず会員番号をご記入ください。
   ( ご記入のない方は、準会員・一般価格となります。)
2. 緊急連絡先(携帯番号)を必ずご記入ください


皆様のお申込みをお待ちしています。

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第135回「歴史を訪ねる旅ー保土ヶ谷宿を歩く」のお知らせ

2018-11-30 16:00:23 | 日記


保土ヶ谷宿は、慶長6年(1601年)「東海道に宿駅の制度が定められた際に、幕府公認の宿場として誕生しました。江戸から約33kmで品川・川崎・神奈川に続く4番目の宿場です。スタートの天王町公園の帷子橋跡モニュメントは歌川広重の浮世絵を模して造られています。午前中は天王町から保土ヶ谷駅まで、午後は一部公共交通機関を使用して箱根駅伝で有名な権田坂上まで歩きます。
権田坂上近辺の「狩場の丘」で一旦は解散しますが、余力の有る方は東戸塚まで歩きましょう。この道は下り坂ですし、見所満載でお薦めです。


【開催日】  2019年1月26日(土)
【集合場所】 午前9時45分 
【集合時間】 相鉄線「天王町駅」改札口 (改札口は1つです。)
【解散場所】 3時半頃  権田坂上 「かりばのおか」
【参加費】  正・家族会員 1,500円 
       準会員・一般  2,000円
    (参加費にはガイド代、資料代を含みます)
  ※.一部区間バスを利用します。バス代は各自でお支払い下さい。
【コース】
午前 : 天王町駅~江戸方見~古町橋~YBP~神明社~香象院~見光寺~天徳院~大蓮寺~偏照寺~保土ヶ谷駅

午後 : 保土ヶ谷駅 ~ 助郷会所跡 ~ 問屋場跡 ~ 高札場跡 ~金沢横丁道標 本陣跡 ~ 脇本陣跡 ~ 大仙寺 ~上方見附・一里塚 ~ 外川神社 ~保土ヶ谷宿松並木 ~ 出羽三山供養塔 ~ 樹源寺 ~ 旧元町橋跡 ~帝釈天堂 ~ 元町の石仏・現元町橋 ~ 権田坂 ~ かりばのおか
    ※.一部区間バスを利用します。

希望者 : かりばのおか ~ 投げ込み塚の碑 ~ 境木立場跡 ~ 境木地蔵 ~ 萩原代官屋敷・道場跡 ~ 焼餅坂 ~ 瀕濃一里塚 ~ JR東戸塚駅 

【昼 食】 保土ヶ谷駅近辺で各自で取って頂きます。
 (駅ビル3階に多数店舗あります。)

【ガイド】 横浜シティガイド協会の皆様
【募集人員】 30人

  お申し込みの方
 1.「新現役ネット」の正会員は会員番号をお知らせ下さい。
  (ご連絡の無い方の参加費は準会員/一般価格になります)
 2.緊急連絡用に携帯番号をお知らせ下さい。


《訪問先メモ》

【天王町駅前公園】

天王町駅前公園は面積700平方メートル足らず、小さな街区公園だ。
そのような小公園だが、旧東海道に位置するという、特筆すべき性格を持っている。
しかも旧帷子橋跡である。現在の帷子川は相鉄線の東側を緩やかな曲線を描いて流れているが、1964年(昭和39年)に実施された河川改修工事によって帷子川の流路が大きく変わっており、それ以前の帷子川はここを流れていた。その帷子川に架けられ、旧東海道を通していたのが帷子橋だ。
園内は東海道五十三次の浮世絵を模して造られているそうだ。歌川広重が描いた「東海道五十三次」の「保土ヶ谷」には確かに橋が描かれているから、それをモチーフに公園の設計がなされたのだろう。

【江戸方見附跡】

 江戸方見附は、各宿場の江戸側の出入口に設置されているもので、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしています(この ため「土居」とも呼ばれています)。こうした構造から、見附は本来簡易な防御施設として設置されたことがうかがえ
ますが、同時に また宿場の範囲を視覚的に示す効果を合わせ持っていたと考えられます。

【橘樹神社】
文治二年(一一八六)九月、源頼朝天下平定を賀し、子孫繁栄を祈願して、京都祇園社の御分霊を勧請、祭祀の典を行ったのを当社の創祀とする。故に往古は祇園社と称した。永正七年の兵戦、文政八年の火災に旧記を焼失したが、近世に於いては牛頭天王社とも称していた。

【旧古町橋】
この場所には江戸時代初期の東海道が帷子川をわたる「古町橋」がありました。慶安年間の新道の開通にともなって架けられた旧帷子橋は、これに対応して、「新町橋」と呼ばれていました。また、かねてから暴れ川として氾濫を繰り返していた帷子川の
改修が昭和38年(1963)に決定され、 帷子川の流路は北側に変更されました。それにともない、現在の古町橋は昭和41年1966)に、ここから約120メートル北に架設されています。

【YBP】

横浜ビジネスパークは、神奈川県横浜市保土ケ谷区にある、野村不動産が所有するビジネスセンター

【神明社】

同神社は保土ヶ谷の地が榛谷(はんがや)と呼ばれていた平安時代の中頃、天禄元年(970年)当社の御祭神・伊勢の天照大御神が、武州御厨(みくりや)の庄の内、榛谷の峯に影向し、それから川井、二俣川、下保土ヶ谷の宮林へと遷座を繰り返し、嘉禄元年(1225年)に神託があり、神明の下宮を造り、当地を神戸(ごうど)と号し、神宮寺を満福寺と名付け、経蔵堂を神照寺と称したという。これにより榛谷御厨八郷の総鎮守として広大な社領を免ぜられ、宮司以下数10人の禰宜(ねぎ)・社人(しゃにん)・供僧(ぐそう)・巫女が仕え、年に75度の祭祀(さいし)を営み隆盛を極めたという。

【香象院】

横浜市保土ヶ谷区岩間町2にある香象院は高野山真言宗のお寺で普賢山香象院という。天正11年(1583年)に忠秀法印が開山となり創建したといわれている。東国八十八ヵ所霊場26番札所である。
江戸時代には、香象院には保土ヶ谷宿で最大の寺小屋があり、明治5年(1872年)に学制が公布され、明治6年(1873年)には保土ヶ谷小学校の分校となった。
地蔵堂には7体のお地蔵さまが安置されており、中央の一番大きな金銅のお地蔵さまが延命地蔵尊でこのお堂の中心地蔵である。看板には延命地蔵尊の左側に日限地蔵尊と栄地蔵尊、右側に子安地蔵尊とあるが、右側にも2体のお地蔵さまが並び、左右の新しいお地蔵さまが記載されていないのだろう。

【見光寺】

横浜市保土ヶ谷区岩間町2にある見光寺は浄土宗のお寺で大誉山珂山院見光寺と
いう。寛永6年(1629年)に大誉珂山が開山となり、保土ヶ谷宿の住人で熱心な浄土宗の信者である茂平夫妻が開基となって創建したといわれている。寺名は本尊の阿弥陀如来像が光り輝くのを見たので見光寺の名が付けられたともいわれている。
何といっても、境内の片隅に並べられた石仏や墓石の中にある左奥の大きな墓石に
はお地蔵さま(右側)と観音さま(左側)の2体が彫られており、お地蔵さまの双体では
ないが、お地蔵さまと観音さまの2体が彫られている墓石は珍しいだろう。

【天徳院】

天徳院は、小野筑後守(寶樹院覺應常林禪定門、慶長11年1606年没)が華林榮公和尚に帰依して、天正元年(1573)臨済宗寺院として創建、小机雲松院九世明山宗鑑和尚が中興し、曹洞宗寺院として開山したと言います。文久年間(1861-1864)に満願寺と後方山上にあつた藥師堂とを合寺しています。
本尊は運慶作といわれる地蔵菩薩坐像。土地の豪族、小野筑後守が帰依して建立した。

【大蓮寺】

日蓮宗寺院の大蓮寺は、妙栄山と号します。大蓮寺は、日蓮上人が泊まった家を改修した法華堂の地に、正住院日圓(正保2年1645年寂)が慶長13年(1608)に創建したといいます。
仁治三年、日蓮聖人二十一歳の際、鎌倉へ遊學の途次、保土ヶ谷宿にて淨土宗の一民家に宿泊したところ、家皃が釋迦尊像を玩弄
してゐるを見、其本末の誤れるを敎示したので、後年家主は改宗して、己が宅地を以て法華堂とした。家康の側室おまんの方お手植えのざくろの木がある。

【偏照寺】

開山の年代を傳へず、其後賢海といへる僧寛永十年再興せしにより此を中興開山とす、本尊は藥師なり、相傳ふ此本尊は弘法大師の作にしてもと郡中佛向村寶寺金堂の本尊なりしが、彼堂破却の後他へ傳りついに此寺の物となりて本尊とせしと云、長2尺8寸の坐像なり、客殿四間に四間半巽に向ふ、前に石階あり。

【助郷会所跡】

宿場で賄いきれない人馬を、指定された周辺の村々から動員する事を助郷、指定された村を助郷村といいます。助郷は東海道が整備されてから交通量が増加した17世紀半ば頃に次第に制度化されていきました。享保10年(1725年)にさだめられた保土ヶ谷の助郷村は大凡40か村、現在の保土ヶ谷区のみではなく旭、中、西、南、港南、磯子、戸塚等の各区域に及びました。
こうした助郷村は助郷動員の指示に対応するため、問屋場の近くに助郷会所という事務所を設けていました。

【問屋場跡】

幕府公用の書状等の通信(継飛脚)、大名行列の宿泊の手配などを担っていたの問屋場で、宿場の中で最も重要な施設のひとつです。宿場ではこの業務をつとめるのに十分な数の人足と馬を用意するように定められていました。問屋場には問屋を筆頭に、年寄、帳付、馬指などの宿役人が詰めていました。

【高札場跡】
高札場は、幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札=「高札」を掲示した施設です。通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んだ内部に高札が掲示され、屋根がかけられています。
宿場の高札場には人馬の駄賃や宿代などを記した高札が掲示されており、宿内の中心地に設置されました。

【金沢横丁道標】

金沢道や八王子道など脇街道の分岐点であった保土ケ谷宿。帷子町の金沢横丁には街道の分岐を示す4つの道標が残されています。江戸時代前期の天和2(1682)年銘の「かなさわ、かまくら道」道標から、江戸時代後期の弘化2(1845)年銘の「富岡山芋大明神社の道」道標までほぼ江戸時代を通じて整備されてきたことが分かります。

【本陣跡】【脇本陣跡】

保土ヶ谷宿には本陣一軒、脇本陣三軒、それに一軒の茶屋本陣があり、大名、旗本、幕府の役人等がこれらの宿泊施設を使用していました。脇本陣は本陣だけでは収容できない場合に使用されるものであったが、後には諸侯の内でも万石以下、旗本等は脇本陣を利用していたようです。一般の旅行者は旅籠屋を利用していました。
参勤交代の大名は箱根を越えて小田原、戸塚、江戸と10里/日の工程が常で、保土ヶ谷宿は通過の宿場でした。したがって本陣や脇本陣は休息所として使われることが多かったようです。さらに保土ヶ谷宿には休息専用の茶屋本陣があり、多くの大名は茶屋本陣を利用したと言われています。

【大仙寺】

創建は平安中(970年頃)とつたえられています。本陣を勤めた軽部家の菩提寺で、保土ヶ谷区内の最も古い寺の一つです。
東海道を行きかう旅人の信仰も厚く、道中安全の祈願で賑わったと言われています。
本堂裏手の墓地に米俵の形をした一風変わった墓石があります。
新玉屋という米屋の保土ヶ谷宿一番の力持ちで、働き者と評判の「お伝」と言う女中の墓です。米俵3俵(約180kg)を軽々と持ち上げ、大の男を驚かせたと伝えられています。

【上方見附】
保土ケ谷宿の京都(上方)側の出入口となる上方見附は、保土ケ谷区郷土史によれば、外川神社の前にあったとされています。 見附は、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしており、「土居」とも呼ばれています。この上方見附から江戸方
見附までは、 家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれています。

【一里塚】

保土ヶ谷宿の一里塚は日本橋から八番目に位置し、ここより300mほど江戸寄りの地点(現在の車道上)にありましたが、古く から南側の一気の存在しか伝わっていません。その一里塚も明治時代の始め、宿場制度の廃止に伴って姿を失いました。

【外川神社】

江戸時代から保土ヶ谷宿の内に出羽三山講がありました。幕末の頃、その講元で先達でもあった淸宮輿一が、湯殿・月山・羽黒の三山の霊場を参拝した際に、羽黒山麓の外川仙人大権現の分霊を勧請し、自分の屋敷内(現在の地)にまつりました。境内にある道祖神は虫封じ・航海安全にご利益があるとされてきました。

【保土ヶ谷宿松並木】

保土ヶ谷では「ヨコハマ市民まち普請事業」の一環として、国道一号保土ヶ谷町付近で「東海道保土ヶ谷宿松並木復元計画」が進められています。
区民と横浜市との協働により、松32本を植樹し、旧東海道を象徴する松並木がよみがえりました。松並木の中に一里塚も復元し、塚の上には昔のように榎を植え、松並木とともに再現されています。地域の皆さんによる美化活動が盛んです。

【出羽三山供養塔】

出羽3山とは、羽黒山、月山、湯殿山の総称で西の熊野と並び、古来より山岳信仰の霊山として信仰を集め、庶民は天下泰平、五穀豊穣、無病息災を祈願して参拝しました。この講中を三山講といい、江戸時代後期に盛んであったといわれています。
三山供養塔は講中の人たちに依って建てられたものです。保土ヶ谷は三山講が盛んで、区内には五基の供養塔があります。

【樹源寺】

鎌倉時代末期まで、東方山医王寺という真言宗の巨刹(おおでら)でしたが、兵火にかかり薬師如来を安置した薬師堂のみを残して一時期廃寺同然となっていました。
後、寛永年間( 1624-44 )になり、保土ヶ谷宿本陣刈部吉次の室(奥方)が日蓮聖人の御教に深く帰依され妙秀尼(みょうしゅうに)と号し、焼け残った薬師堂の大欅(おおけやき)の傍らに庵を結ばれ日蓮宗総本山身延山久遠寺の末寺として開山致しました。寺号の由来でもありました樹源寺の大欅は八百有余年の樹齢をほこり、当山の象徴として広く人々に親しまれていましたが、(残念なことにこの欅は排気ガス等による空気汚染のために枯れ、昭和四十五年に伐採されました。)

【帝釈天堂】

社の中を覗くと、掛け軸が掛けられ、横に2基の庚申塔と「南無妙法蓮華経」題目碑が並べられて安置されている。中央にある庚申塔の前の花立には榊が供えられている。看板には「帝釈天」とある。掛けられている掛け軸は地神講の祭事に使われたものだという。

【権田坂】

箱根駅伝の難所のひとつ権田坂。江戸時代の東海道でも難所に違いは無かった。その当時も、旧東海道の品濃い坂煮継ぐ難所で、往時は旅人が行き倒れることが多かったそうだ。松並木が続き景色が良かったので多くの浮世絵に描かれています。
箱根駅伝が走る国道1号線は新道で、旧東海道は東海道線の開通により交通量も減り、道幅も狭くなりました。

【環境活動支援センター 狩場の丘】

環境活動支援センターでは、みどり(樹林、公園、農)の分野での人材育成を中心に、市民の環境活動を支援する事業を進めています。平成26年(2014)4月、森の情報を発信し、森の魅力を伝える「交流スペース」を本館に併設しました。
 園内は、緑豊かな散歩コースとして親しまれており、ハーブガーデンや各種講座用ほ場などがあります。

<希望者のコース>

【投げ込み塚の碑】

権太坂は、約1.5kmも続き箱根に次ぐ難所とされ、行き倒れも多く、二番坂を上り切った横に死人を投げ込む井戸があったと伝えられていた。この井戸は、権太坂を上り切り、境木中学校に行き当たったT字路を左に曲がり、少し進んだ左側であったが、昭和36年(1961年)の開発で多数の人骨が発掘された。こうした旅人の霊を慰めようと「投込塚之跡」の碑が祀られ、発掘された人骨は、西区の東福寺に埋葬された。

【境木立場跡】

宿場と宿場の間に、馬子や人足の休息のためなどに設けられたのが立場です。中でもここ、境木の立場は権太坂、焼餅坂、品濃坂と難所が続くなか、見晴らしの良い高台で、西に富士、東に江戸湾を望む景観がすばらしく、旅人が必ず足をとめる名所でした。また、茶屋で出す「牡丹餅」は境木立場の名物として広く知られており、たいへん賑わったということです。

【境木地蔵】

東海道の難所として知られた、権太坂を上った所にある地蔵尊。ここはかつて武蔵と相模の国境の峠にあたり、当時、茶屋が並び名物の牡丹餅が売られていました。坂を上りきり、神奈川の海や富士山の遠景を望みながら旅人がひと息ついた場所でもあり、下るといまも往時の姿を留める品濃一里塚などが残されています。

【萩原代官屋敷・道場跡】

幕末の当主萩原太郎行篤は直心影流(じきしんかげりゅう)免許皆伝の剣術家として近郷に知られ、門人が二百数十名いたといわれています。諸国から剣術の教えを乞う剣術家も多く、安政5 年(1858)8 月には、のちに新撰組隊長となった若き日の近藤勇も訪れたという文書(もんじょ)が残っているそうです。

【焼餅坂】

焼餅坂は当時の品濃村と平戸村の境にあり、一町半(約160メートル)の坂道でした。坂の傍らの茶店で、焼餅を商っていたので、「焼餅坂と名づけられたといいます。別名牡丹餅坂(ぼたもちざか)とも呼ばれています。
 戸塚を描いた浮世絵には山坂や焼餅の絵がしばしば登場します。

【瀕濃一里塚】

・・・一里塚は、旅人にとって旅の進みぐあいがわかる目印であると同時に、塚の上に植えられた木は、夏には木陰をつくり、冬には寒風を防いでくれるため、旅人の格好の休憩所にもなりました。そのため、一里塚やその付近には茶店ができ、立場が設けられるようになりました。
 ここ品農の一里塚は、日本橋から九番目の一里塚で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間に位置しています。旧東海道をはさんでほぼ東西に二つの塚があり、地元では一里山と呼ばれていました。東の塚は平戸村内に、西の塚は品農村内に位置し、西の塚にはエノキが植えられていた ようです。
 このように、今でも道の両側の塚がともにほぼ当時の形で残っている所は、神奈川県内でもこの一里塚だけであり、昭和41年に県の史跡に指定されました。 



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第134回「歴史を訪ねる旅―昔旅・羽田」のお知らせ

2018-11-30 15:34:00 | 日記


平成最後の忘年散策は、古くからの漁師町羽田を散策します。今や空港のイメージしかない羽田ですが、大河多摩川を母に、海老取川沿いに四つの橋が架かる、昔の漁師町を感じさせる、面影が残っています。師走の午後、潮風を浴びながらのんびり散策しましょう。


【開催日】  平成30年12月8日(土)
【集合場所】 京浜急行空港線 大鳥居駅西口改札口 
【集合時間】 午後1時30分
【解散場所、時間】 京急空港線 穴守稲荷駅 午後4時ごろ
【忘年会】 隠れ中華 珍味楼 京急糀谷駅前
         TEL.  050-3466-4107
        開始午後5時~5時30分 終了午後7時30分~8時頃 
【参加費】散 策:正・家族会員 1,500円 
         準会員・一般  2,000円
     忘年会 : 4,000円 (飲み放題付) 
【コース】
      京急大鳥居~自性院~羽田神社~大谷政吉商店~大師橋~赤レンガの堤防
      ~羽田の渡し跡~羽田本通り~七曲がり~五十間鼻~弁天橋~天空橋~
      稲荷橋~穴守橋~穴守稲荷神社~京穴守稲荷駅
【ガイド】 大田・品川まちめぐりガイドの会
【募集人員】30人
【お土産】 佃煮(大谷政吉商店) 和菓子(磯崎屋) はねだプリン(羽田書房)      

  お申し込みの方
 1.「新現役ネット」の正会員は会員番号をお知らせ下さい。
  (ご連絡の無い方の参加費は準会員/一般価格になります)
 2.緊急連絡用に携帯番号をお知らせ下さい。

<訪問先メモ>

【自性院】

自性院は、慈性(平治元年1159年寂)が開基となり創建したと伝えられます。恵麻法師(永禄2年1559年寂)が中興、境内の牛頭天王社は江戸時代に羽田村・羽田猟師町の鎮守となっていました。牛頭天王社は、明治維新後八雲神社(のち羽田神社)として分離、現在境内に残されている牛頭天王堂は大森の弁天神社(三輪厳島神社)より昭和4年に移築したものだといいます。

【羽田神社】

羽田総鎮守・羽田神社は、羽田の「氏神様」として羽田全域から現羽田空港まで広く氏子を有します。殊に航空会社各社の崇敬の念も篤く、正月から年間を通じて運航安全・航空安全祈願の参詣があります。
その由来は、約800年前の鎌倉時代、羽田浦の水軍で領主だった行方与次郎(なめかたよじろう)が牛頭天王(ごずてんのう)を祀った事からとされます。
明治元年(1869年)、自性院境内に祀られていた牛頭天王社は八雲神社(やぐもじんじゃ)として独立、明治40年に羽田神社と改称、現在に至ります。

【大谷政吉商店】

東京都大田区本羽田 多摩川にかかる「大師橋」のすぐ傍の老舗佃煮屋です。
佃煮・煮豆を、食べきりサイズからお徳用サイズまで、各種取り揃えております。羽田土産に、日々の食卓の彩りに、ぜひ老舗佃煮屋 自慢の味をご賞味ください。

【大師橋】

昭和14年に竣工した下路ゲルパー式鋼トラス橋を主径間部に持つ大型橋梁で、京浜工業地帯を貫く産業道路が多摩川を渡る橋として架けられた。橋長554mで、その大橋梁としての偉容は、並列して架かる首都高速道路多摩川橋の上から見ることができる。ラス支点部から突き出た赤白に塗られた塔は、上流を横切る高圧線の高さを示すために運輸省航空局が設けたものであって、羽田空港に近接していることによるものだ。厄除けで有名な川崎大師は、この橋からそれほど遠くないところにある。

【赤レンガの堤防】

大正から昭和初期にかけて、治水対策としての多摩川改修工事で造られている。
続く」とはいっても今は新旧堤防の間に住宅が建っていて、途切れとぎれになっている。
旧河川の自然堤防上に造られていて道のカーブが自然、それが心地よい。

【羽田の渡し跡】

古くから、羽田漁師町(大田区)と上殿町(川崎市)を渡る「羽田の渡し」が存在していたこという(現在の大師橋下流、羽田三丁目で旧城南造船所東側あたり)この渡しは、小島六佐衛門組が営んでいたので「六佐衛門の渡し」とも呼ばれていた。
渡し場付近の川幅は約40間(約80m)ぐらいで、「オーイ」と呼ぶと対岸まで聞こえたという。物資の交流だけでなく、人々の生活、文化の交流など大きな貢献をしてきた羽田の渡しは時代の変化とともに多くの人々に利用されたが、昭和14年に大師橋が開通したことにより廃止された。

【七曲がり】
羽田を歩いた第一印象として、地元の人たちが「七曲がり」と呼ぶ道が漁師町を抜けるメインの道のように思えた。羽田道から本当に7回曲がり、羽田空港に抜ける弁天橋が架かる通りの前にでる。七曲がりだけが少し道幅が広く、一度も歩いたことのない人も迷うことがない。昭和30年代まで、この道沿いには商店が軒を並べ、多くの人が行き来していたと聞く。今は数軒の店が商いをしているだけで、店がなくなった通りからは賑わうイメージが浮かばない。

【五十間鼻】

水中に長さ50間(約90m)に渡り石を敷き詰め、洪水時の急流から岸辺を守るために作られました。水難事故者を供養する無縁仏堂が建てられています。多摩川の河口にあり、東京湾と羽田空港を一望できるスポットです。多くの釣り人も訪れ、お正月には初日の出を見る人々で賑わいます。

【弁天橋】
羽田というと、わたしより若い年代の人間にとっては、空港のある町というイメージでしかないと思う。だが、海に囲まれたこの土地は、かつて「羽田猟師町」(漁師町ではない)とも呼ばれ、伝統的な文化が残された漁業の盛んな町だったのだ。
 今でも、年配の漁師さんたちが細々と、あなごやあさりの漁を続けているとのことだが、私がはじめて足を運んだ1980年ころは、空港と町とをへだてる海老取川あたりに、まだまだ漁村の雰囲気が残っていたものだった。

【天空橋】

天空橋とは駅周辺を流れる海老取川に架かる橋の名前。橋自体は茶色の鉄橋で、およそ“天空橋”というカッコいい名称で呼ばれる雰囲気は感じられないが、橋の上からは離陸する飛行機を眺めることができ、飛行機好きにはたまらないロケーションだ。

【稲荷橋】
海老取川に架かる稲荷橋(いなりばし)。鮮やかな朱色で彩られた欄干と橋桁が印象的です。
しかし、現在は海老取川を東側に渡った先が羽田空港の敷地のため、橋の東側は行き止まりになっています。橋を渡ることができても、この先に向かうことができないというところに、哀愁さえ感じます。

【穴守稲荷神社】

羽田村の鈴木新田の潮除守護神として、江戸時代から祀られていた稲荷の小祠が、明治18年(1885)、公許を得て穴守稲荷と称し、商人や花柳界の信仰を集めた。35年(1902)には、京浜電車が参詣用の支線を敷設。赤鳥居や茶店が門前に並び、盛況をきわめた。連なる赤鳥居の絵あり。
羽田空港からわずか2キロ距離にある「穴守稲荷神社」。京都の伏見稲荷大社のような、幾重にも重なる赤い鳥居が特徴です。奥の宮にある御神砂を持ち帰って自宅に撒くと、さらなる幸運を得られるという言い伝えがあります。

<忘年会>

時 間 : 開始予定  5:00~5:30 
       終了予定  7;30~8:00
会 場 :  隠れ家中華個室 珍味楼 糀谷駅前店
            TEL.  050-3466-4107
         一番人気中華珍味コース
         飲み放題料理コースで
      
    
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第133回 「歴史を訪ねる旅」 ―鎌倉の奥座敷・二階堂で往く秋を愛でる」のお知らせ

2018-10-15 16:26:49 | 日記


源頼朝は鎌倉に3つの大きな寺院を建立した。一つ目は鶴岡八幡宮、二つ目は勝長寿院、三つ目は永福寺(ようふくじ)である。平泉中尊寺の二階大堂(大長寿院)のすばらしさに心をうたれ、それを模して建てた永福寺であった。二階の堂があった為「二階堂」と呼ばれ、付近一帯の地名に何かりました。今回は「鎌倉の奥座敷・二階堂で往く秋を愛でる。」をテーマに、晩秋の鎌倉を歩きませんか?
鶴ケ岡八幡宮への参道「段葛」も新しくなりました。

実施日: 11月24日(土)
集 合: JR鎌倉駅東口 9:30 開札口
       ※. 9:20 9:40の鎌倉宮行バスに乗ります。
解 散: JR鎌倉駅 午後3時半頃
ガイド: 鎌倉ガイド協会 平田さん、田嶋さん
コース: 鎌倉駅東口 ⇒ 鎌倉宮 ⇒ 永福寺 ⇒ 瑞泉寺 ⇒  理智光寺跡 ⇒昼食 「手打ちそば 宮前」 ⇒ 覚園寺  ⇒ 荏柄天神 ⇒ 法華堂(頼朝の墓)  ⇒ 段葛 ⇒ 鎌倉駅

参加費 :正・家族会員 4,000円   
     準会員・一般 4,500円
  ※.ガイド料、資料代、拝観料(鎌倉宮、瑞泉寺、覚園寺)
昼食代を含みます。
募集人数 : 30名

昼 食:  「手打ちそば 宮前」

      TEL. 0467-38-5588

  メニュ 
   1、鴨(かも)南そば  2、天ぷらそば 
 3.にしんそば   4.天丼
       ※.上記から選んで下さい。
       ※. うどんをご希望の方は連絡下さい。

お申し込みの方
 1.「新現役ネット」の正会員は会員番号をお知らせ下さい。
  (ご連絡の無い方の参加費は準会員/一般価格になります)
 2.緊急連絡用に携帯番号をお知らせ下さい。
 3.昼食の希望メニュー(上記を参照下さい)のご記入をお願い致します
  
「歴史を訪ねる旅」ブログをご覧下さい
        http://blog.goo.ne.jp/kaidoujapan

  皆様のお申込みをお待ちしています。

【訪問先メモ】

【鎌倉宮】


鎌倉宮は、後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王を祭神として、明治2年(1869年)に 建武の中興に尽くしたものの若くして命を奪われた護良親王の遺志を後世に伝えることを望まれた明治天皇が創建しました。また鎌倉宮は、別名大塔宮と呼ばれています。このあたりは、護良親王が、足利直義に幽閉された東光寺のあった所です。社殿の背後に親王が幽閉されたという土牢があります。
大塔宮・護良親王は後醍醐天皇の第三皇子です。元弘の変が起きると、後醍醐天皇を援けて吉野、熊野等で鎌倉幕府討幕運動の中心として、活躍しました。鎌倉では足利直義のもと、東光寺の土牢に幽閉された。建武二年(1335)に、北条高時の遺児・時行が鎌倉へ乱入する、中先代の乱で、足利直義が背走する時に、護良親王を殺害しました。その首は藪の中に捨てられ、その首を葬ったのが理智光寺の住職だった。
「鎌倉宮」の名前天皇が自らつけられた。


【永福寺 】

源頼朝は鎌倉に3つの大きな寺院を建立した。一つ目は鶴岡八幡宮、二つ目は勝長寿院、三つ目は永福寺である。現在、残っているのは鶴岡八幡宮だけで後の2つは焼失してしまった。この地は周辺約9万平方メートルは源頼朝が建立した永福寺の跡で、国指定史跡に指定されている。
この寺は、源義経や藤原泰衡を初め、奥州合戦の戦没者の慰霊の為に建てられた寺で、文治5年(1189)12月に工事を着手した。頼朝が奥州・藤原一族を征討した際、平泉中尊寺の二階大堂(大長寿院)のすばらしさに心をうたれ、それを模して建てた永福寺であった。二階の堂があった為「二階堂」と呼ばれ、付近一帯の地名にもなった。
堂は左右対称に配置され、二階堂を中心に北側に薬師堂、南側に阿弥陀堂が配され、東を正面にした全長が南北230mの大伽藍であった。また、前面には、南北200m以上の池が作られていた。応永12年(1405)に焼失してしまったが、二階堂という地名だけが残っている。

【瑞泉寺】
 
瑞泉寺は鎌倉公方(鎌倉府の長)の菩提寺(ぼだいじ)として、鎌倉五山に次ぐ関東十刹(かんとうじゅっさつ)に列せられた格式のある寺院です。山号の錦屏山(きんぺいざん)は、寺を囲む山々の紅葉が錦(にしき)の屏風のように美しいことから名付けられました。また境内は、四季を通して様々な花を楽しむことが出来ます。
夢窓国師(むそうこくし)は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)や足利尊氏(あしかがたかうじ)も深く帰依(きえ)し、鎌倉〜南北朝期に臨済宗(りんざいしゅう)で重きをなした僧です。作庭にも才を発揮し、昭和45年に発掘、復元された仏殿背後の庭園は、夢窓国師の作として、国の名勝に指定されています。

【理智光寺跡(護良親王の墓)】 

鎌倉幕府滅亡後、1335年(建武2年)に起こった中先代の乱の折、足利直義の命を受けた淵辺義博は、東光寺(現:鎌倉宮)に幽閉されていた護良親王を殺害した。
捨てられた護良親王の首を葬ったのが理智光寺の住僧だったという(参考:護良親王の墓)。
理智光寺の創建がいつかは不明だが、大山寺を再興した願行(京都泉涌寺第六世)が開いたと伝わる。
三代将軍源実朝の供養のために建てられた寺だともいわれるが定かではない
明治初期まで阿弥陀堂が残っていたらしいが廃寺となった。
本尊「木造阿弥陀如来坐像」(鞘阿弥陀:土紋装飾)は、覚園寺の薬師堂に安置されている。

【覚園寺】 

山号を鷲峰山(じゅぶせん)と称する。本尊は薬師三尊、開基は北条貞時、開山は智海心慧(ちかいしんえ)である。鎌倉幕府執権北条家歴代の尊崇を集めた寺院である。相模国と武蔵国を結ぶ金沢街道から北に入った谷戸の奥に位置し、境内および周辺は自然環境が良好に保全され、都市化が進む以前の鎌倉の面影を最もよく残す寺の1つといわれている。境内は国の史跡に指定されている。

【荏柄天神】 
  
古くは荏柄山天満宮とも称されました。荏柄の社号は、天平7年(735年)の『相模国封戸租交易帳』などに見える「荏草郷」の”えがや”が後に転じて”えがら”となり、「荏柄」と表記されたものと考えられています。
 治承4年(1180年)鎌倉大蔵の地に幕府を開いた源頼朝公は当社を鬼門の守護神と仰ぎ、更めて社殿を造立されました。
現在では学問の神、正直者、努力を重ねるものを助ける神として年間多くの方々が参拝され、社殿はいつも「祈願」「お礼」の絵馬で覆われています。

【法華堂(頼朝の墓) 】

大倉幕府跡の裏山にある源頼朝墓を中心とする史跡。
「法華堂」とは、1189年(文治5年)、源頼朝が聖観音像を本尊として建立した持仏堂のことで、1191年(建久2年)には、文覚に命じて京都で描かせた阿弥陀三尊像が掛けられた。
平治の乱で源頼朝が帯びていたという源氏重代の太刀「髭切」(ひげきり)も持仏堂に納められていたという(現在は京都の北野天満宮の所蔵(一条戻橋の伝説))。
 持仏堂は、頼朝の死後「法華堂」と呼ばれるようになり、現在、源頼朝墓が建てられている場所が法華堂の跡だといわれている。

【段葛】

神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮の参道、若宮大路のなかで、二の鳥居から鶴岡八幡宮までの車道より一段高い歩道をいう。終着点には三の鳥居があり、鶴岡八幡宮の境内へと到る。神奈川県指定史跡。なお、若宮大路は一部が国の史跡に指定されており、神奈川県道21号横浜鎌倉線の一部である。

【昼食 手打ちそば 宮前 】


蕎麦の実の味が感じられて美味しい、つゆもかつお出汁が絶妙の蕎麦屋さん

そばは3mm角くらいでやや太め。しっかりとしたコシがあって食べ応えがある。そばの実の味が感じられて大変美味しい。またつけツユは鰹だしが濃厚でこちらも美味しい


   



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