カブトビール屋

明治時代に半田赤レンガ建物で作っていた『カブトビール』の販売情報をお届けします

カブトビール復刻秘話 その壱

2011年02月27日 | グルメ
 復刻『カブトビール』は、何のために復刻されたのか知っておいて下さい。半田赤レンガ建物の保存団体である「赤煉瓦倶楽部半田」が、建物保存の機運が高まるよう、一人でも多くのお客様に半田赤レンガ建物へ来場していただくために動機付けとなればと考え復刻されたのが『カブトビール』です。ですから『カブトビール』は、半田赤レンガ建物以外では滅多に販売しないのです。赤レンガに興味がなくても『カブトビール』が飲みたいから、半田赤レンガ建物まで来てくれたあなた、そういうあなたのためのビールこそが『カブトビール』なのです。

いよいよ明日明後日 カブトビール発売

2011年02月25日 | グルメ
 カブトビールが半田赤レンガ建物で2月26日(土)27日(日)の2日間限定発売されます。時間は、10時から16時まで。この時期、半田市内で開催される「蔵のまち 雛まつり」にあわせての建物公開日となりました。両日は、半田赤レンガ建物内にもステンドグラスのお雛様やガラスアートのお雛様などが展示される予定です。もちろんカブトビールやカブトビール前掛け(写真)その他関連グッズの販売も行います。半田赤レンガ建物へのご来場を心よりお待ちしております。この機会を逃すと次は5月の発売予定です。

復刻『カブトビール』 降臨

2011年02月24日 | グルメ
  昭和18年(1943年)にその歴史に幕を下ろした『カブトビール』は、平成17年(2005年)6月に復刻発売されることとなった。その製造工場であった半田赤レンガ建物(旧カブトビール工場)の保存活用のために活動する赤煉瓦倶楽部半田の手によって明治時代のビールの味が復刻されたのである。およそ半世紀ぶりの『カブトビール』の発売は、半田から「丸三ビール」が3000本初出荷されたことに習い、3000本の限定発売とした。あっという間に売り切れたことは言うまでもない。そのころから幻のビールと呼ぶ人も現れたそうな。

カブトビールの歴史の話 その五

2011年02月23日 | グルメ
 明治39年(1906年)『カブトビール』の製造会社である丸三麦酒株式会社が甲州財閥の根津嘉一郎に渡り、日本第一麦酒株式会社になる。
明治41年(1908年)日本第一麦酒株式会社より加富登麦酒株式会社に社名変更する。
その後、大正11年(1922年)大日本帝国鉱泉株式会社と日本製壜株式会社を合併し、日本麦酒鉱泉株式会社と改称し新たに『ユニオンビール』を発売した。
昭和8年(1933年)当時全国の80%近いビールのシェアを占めていた大日本麦酒株式会社と合併する。
昭和18年(1943年)企業整備令の適用により半田赤レンガ建物(旧カブトビール工場)は閉鎖され、『カブトビール』の歴史に幕を下ろすこととなった。

2月26・27日限定発売!!

2011年02月22日 | グルメ
カブトビールの半田赤レンガ建物での限定発売日が、2月26日(土)27日(日)の2日間となりました。時間は、10時から16時まで。この時期、半田市内で開催される「蔵のまち 雛まつり」にあわせての建物公開日となりました。両日は、半田赤レンガ建物内にもステンドグラスのお雛様やガラスアートのお雛様などが展示される予定です。もちろんカブトビールやカブトビール前掛けその他関連グッズの販売も行います。半田赤レンガ建物へのご来場を心よりお待ちしております。この機会を逃すと次は5月の発売予定です。

カブトビールの歴史の話 その四

2011年02月20日 | グルメ
 明治31年(1898年)ドイツから機械技師A.F.フォーゲルと醸造技師ジョセフ・ボンゴルを招聘し、半田町榎下に新ビール工場となる半田赤レンガ建物が竣工した。同年から本格的ドイツビールの醸造に着手し銘も「加武登麦酒」と改めた。その2年後の明治33年(1900年)パリ万国博覧会で金牌を受賞し、全国で飛ぶように売れ始めるのである。

カブトビール前掛け出来ました!!

2011年02月19日 | グルメ
 カブトビールのオリジナル前掛けを作りました。カブトビールの半田赤レンガ建物での限定発売日の2月26日(土)27日(日)の2日間200枚だけのこちらも限定販売となります。時間は、10時から16時まで。この前掛けでカブトビールをグビグビと飲み、明治時代にタイムスリップしてみてください。販売価格は、1800円です。もちろんカブトビールやその他にもカブトビール関連グッズの販売も行います。半田赤レンガ建物へのご来場を心よりお待ちしております。この機会を逃すと次は5月の発売予定です。

カブトビールの歴史の話 その参

2011年02月18日 | グルメ
  5番目の弱小ビールとして出発した『カブトビール』をメジャーにおしあげるきっかけとなった出来事があった。明治28年(1895年)京都で開かれた第4回勧業博覧会にアサヒビールと対抗してビアホールを出し十数人の芸者に赤前掛(あかまえかけ)・赤襷(あかたすき)で宣伝させたところ、その宣伝ぶりを新聞が書きたてて評判になり醸造能力の3~4倍の注文が殺到する盛況となった。

カブトビールの歴史の話 その弐

2011年02月16日 | グルメ
 明治22年(1889年)5月 中埜酢店4代目・中埜又左衛門と敷島製パン(現パスコ)創業者・盛田善平らにより、「丸三ビール」と名づけられた瓶詰めビールが3,000本余り半田から初出荷された。 これが後に『カブトビール』となって暴れまわることとなるビールである。その後、昭和18年まで製造が続くこととなる。

カブトビールの歴史の話 その壱

2011年02月15日 | グルメ
明治時代に、大都市をひかえた既存4大ビール(大阪のアサヒビール・横浜のキリンビール・東京のエビスビール・札幌のサッポロビール)に挑戦した一地方都市のビールがありました。そのビールが半田のカブトビール。今となっては幻のビールとなってしまいましたが、その工場は、半田赤レンガ建物として現存しており、半田の先人たちが、大ビールメーカーに立ち向かった心意気と、豊富な財力と技術力を有していたことを雄弁に物語っています。