カブトビール屋

明治時代に半田赤レンガ建物で作っていた『カブトビール』の販売情報をお届けします

カブトビールの歴史の話 その五

2020年06月30日 | グルメ

 明治39年(1906年)『カブトビール』の製造会社である丸三麦酒株式会社が甲州財閥の根津嘉一郎に渡り、日本第一麦酒株式会社になる。明治41年(1908年)日本第一麦酒株式会社より加富登麦酒株式会社に社名変更する。

その後、大正11年(1922年)大日本帝国鉱泉株式会社と日本製壜株式会社を合併し、日本麦酒鉱泉株式会社と改称し新たに『ユニオンビール』を発売した。 

昭和8年(1933年)当時全国の80%近いビールのシェアを占めていた大日本麦酒株式会社と合併する。
昭和18年(1943年)企業整備令の適用により半田赤レンガ建物(旧カブトビール工場)は閉鎖され、『カブトビール』の歴史に幕を下ろすこととなった。 


カブトビールの歴史の話 その四

2020年06月29日 | グルメ

明治31年(1898年)ドイツから機械技師A.F.フォーゲルと醸造技師ジョセフ・ボンゴルを招聘し、半田町榎下に新ビール工場となる半田赤レンガ建物が竣工した。同年から本格的ドイツビールの醸造に着手し銘も「加武登麦酒」と改めた。その2年後の明治33年(1900年)パリ万国博覧会で金牌を受賞し、全国で飛ぶように売れ始めるのである。


カブトビールの歴史の話 その参

2020年06月28日 | グルメ

 5番目の弱小ビールとして出発した『カブトビール』をメジャーにおしあげるきっかけとなった出来事があった。明治28年(1895年)京都で開かれた第4回勧業博覧会にアサヒビールと対抗してビアホールを出し十数人の芸者に赤襷(あかたすき)赤前掛(あかまえかけ)で宣伝させたところ、その宣伝ぶりを新聞が書きたてて評判になり醸造能力の3~4倍の注文が殺到する盛況となった。


カブトビールの歴史の話 その弐

2020年06月24日 | グルメ

 明治22年(1889年)5月 中埜酢店4代目・中埜又左衛門と敷島製パン(現パスコ)創業者・盛田善平らにより、「丸三ビール」と名づけられた瓶詰めビールが3,000本余り半田から初出荷された。 これが後に『カブトビール』となって暴れまわることとなるビールである。その後、昭和18年まで製造が続くこととなる。


カブトビールの歴史の話 その壱

2020年06月23日 | グルメ

 明治時代に、大都市をひかえた既存4大ビール(大阪のアサヒビール・横浜のキリンビール・東京のエビスビール・札幌のサッポロビール)に挑戦した一地方都市のビールがありました。そのビールが半田のカブトビール。今となっては幻のビールとなってしまいましたが、その工場は、半田赤レンガ建物として現存しており、半田の先人たちが、大ビールメーカーに立ち向かった心意気と、豊富な財力と技術力を有していたことを雄弁に物語っています。 


ふるさと納税でカブトビールを!

2020年06月22日 | グルメ

 復刻カブトビールは、一人でも多くの方に「半田赤レンガ建物」を訪れていただければとの想いで赤煉瓦倶楽部半田が企画した商品です。その甲斐もあり「半田赤レンガ建物」は、リニューアルオープンを果たすことができました。
今日まで沢山の県外の方から、カブトビールが買いたいとのご要望をいただいてきましたが、「半田赤レンガ建物」に来てご購入下さいとお願いしてきました。
しかし、半田市外の方に朗報です。半田市のふるさと納税のお礼品に復刻カブトビールが採用されました。
 http://www.furusato-tax.jp/japan/prefecture/23205
是非、寄付目的は「半田赤レンガ建物に関する事業」でお願いいたします。