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風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

四国三郎は大歩危・小歩危の父親 178号

2007年10月06日 10時33分46秒 | 紀行文
通常、山が有り、雨が降り、流れ下って、川となり、岩肌を削り、谷が出来るのが世間常識である。逆も真なりで、川があり、後から山が出来た結果、谷が出現することもある。

谷は成因により、河川や氷河の浸食によって形成する浸食谷と断層や褶曲によって出現する構造谷とに分けられる。また山脈に沿って流れる谷を縦谷(じゅうこく)、山脈を横切る谷を横谷(おうこく)という。横谷のうち川が流れていた平地の一部が隆起して川を横切るように山脈が形成されるときに、隆起の速度よりも、水が谷を形成する速度が優先する場合を先行谷(せんこうこく)という。吉野川が四国山地を横切る箇所にある大歩危・小歩危が、その代表的な景勝地である。隆起の速度の方が速いと分水嶺になる。

坂東太郎の利根川・筑紫次郎の筑後川と並び四国三郎と渾名される吉野川の名は「ヨシが河原に多く繁る川」から来た、日本三大暴れ川である。

先行谷である大歩危・小歩危は四国三郎・吉野川の息子なのである。遍路創始者は衛門三郎で、私は三男坊で四国では三が優先する吉数である。

大歩危・小歩危と四国三郎の親子関係は、遠い遠い昔々の人類誕生以前のの親子関係である。源平合戦屋島の戦いの頃にはすでに存在し、土佐方面の未開の地を目指し敗走する平家の落人の通路になったことが想像され、険しい地形は隠れ家として最適であるから、落人が集合した場所に落合集落が出来たのであろう。

中日落合監督は優勝できず敗北したが、逃げないで尾張の都市に留まり、日本一になることを希望する。叶わぬ時は、坊主頭なのだから、禅寺で修行して、次に勝てばよいのである。人生良い時も悪い時もある、喜怒哀楽の世界である。金銭闘争に敗れた中村紀洋三塁手が落ち延び大活躍したのが、落合ドラゴンズであった。
 
四国土佐の武将・長宗我部元親を四国征伐で下した豊臣秀吉は、武勲のあった蜂須賀小六を阿波国17万石の大名にし、徳川家康は息子達の大坂の陣の功績により淡路国も与え、阿淡25万石の太守とした。徳島城を本拠とした蜂須賀氏が、吉野川の治水・利水の河川開発を本格的に開始したのは江戸時代に入ってからのことである。

私が三河の地から、広い日本の中から四国を訪ねたのは、豊臣秀吉・蜂須賀小六・徳川家康のいずれかのDNAが私に組み込まれているのだろう。先祖をさかのぼれば、親戚かもしれない。もっともっとさかのぼれば弘法大師空海の親戚かもしれない。

小ボケを通り過ぎて本格的な大ボケな発言なので、私は大歩危・小歩危の親族かもしれない。やっと大自然と一体の境地になれたと自己満足している。一人旅の効能である。

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