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「自分が源泉」ファシリテーター、4nessコーピングインストラクターである弁護士徳岡宏一朗のブログです。

国際司法裁判所に核兵器の違法性について勧告的意見を求めた「世界法廷運動」についての個人的思い出

2015年05月26日 | 法律・事件・事故・裁判



国際司法裁判所(ICJ International Court of Justice)=世界法廷は、国際刑事裁判所ができる前だった当時は唯一の国連の裁判所でした。そして今でも世界で最も権威のある法的機関です。

世界法廷運動はこの国際司法裁判所に「核兵器による威嚇及び核兵器の使用は国際法違反である」という宣言を出してもらおうという1990年代の運動でした。

国際司法裁判所が出せる判断形式には判決と勧告的意見があります。判決は法的拘束力がありますが、当事者国が同意しないとそもそも手続が始まりません。勧告的意見には法的拘束力はありませんが、国連総会や国連機関が諮問すれば反対国があっても手続が始まり、国際司法裁判所は勧告的意見を出すことが出来ます。

当時は、毎年のように国連総会で核兵器廃絶決議が可決されながら、核保有国は一向に核軍縮交渉をしようとしない時期でした。

また、アメリカは日本の広島、長崎の原爆投下を太平洋戦争を終わらせるために必要な行為だったと正当化し、国際法違反であることをそのころも今も認めようとしていません。

私たち、核兵器廃絶を目指す世界のNGOは、世界で最も権威ある法的見解と言える国際司法裁判所の勧告的意見により、核兵器による威嚇と核兵器の使用は国際法違反であると宣言してもらい、核兵器を2度と使用できないようにし、なおかつ核による威嚇を内容とする核抑止理論も封じ込め、核兵器廃絶条約締結への第一歩としようとしたのです。



 (「世界法廷」=国際司法裁判所 オランダ・ハーグ)

 

 

1992年にジュネーブで正式に始まった世界法廷運動の最初の呼びかけ団体は、私も所属する「核兵器廃絶を目指す法律家協会」(=日本反核法律家協会。私はここの理事なんです、一応)が参加している国際反核法律家協会(IALANA)と、ノーベル平和賞受賞団体である国際平和ビューロー(IPB)、国際反核医師の会(IPPNW)の3団体でしたが、最後には世界で700団体、数千万人が参画する大運動になりました。

国際司法裁判所に勧告的意見を求めるためには国連総会や国連機関での諮問決議が可決される必要があるのですが、非同盟諸国がこの決議を上げようとするのに対して、核保有国、特にアメリカとフランスの妨害工作は凄まじいものでした。

たとえば、世界法廷運動のNGOと非同盟諸国は国連総会と世界保健機構(WHO)で決議を取ろうとしましたが、フランスは核兵器は国家の自衛のための選択権で国際司法裁判所では扱えないと強硬に主張しました。アメリカは援助を打ち切るぞなどと脅しを使って加盟国に圧力を加えました。現に賛成に回ったイエメンが援助を打ち切られるという制裁を受けたりもしました。

そのような国連を舞台にしたロビー活動と並行して、各国で国際司法裁判所での核兵器違法意見を求める署名活動が行われました。

1992年、東京で弁護士になってまだ2年目だった私は、夢中になってこの運動に取り組みました。全国で講演活動をしましたし、国際司法裁判所のあるオランダのハーグには、勧告的意見の言い渡しを含めて5回も渡航しました。

日本被団協など被爆者の方々も病気がちの身体にむち打って働かれました。

日本で最も力を発揮したのは日本生協連加盟の各生協の組合員の方々でした。東京在住だった私も北は北海道札幌や青森県弘前や五所川原、西はビキニデーに静岡県焼津の生協まで講演に行ったものです(ビキニデーに焼津で講演できるというのは凄いことなんです)。

世界中で集まった400万人の署名のうち、日本は生協や日本青年団などを中心に半年間で日本で360万人以上の署名が集めました。この署名は、後の勧告的意見でインドネシア出身のウィラマンドリー国際司法裁判所副所長が補足意見でわざわざ触れたほどでした。



(国際司法裁判所 大法廷)

 

 

日本人にとっては、アメリカが広島と長崎で行なった行為が国際法違反というより戦争犯罪でさえあり、今後の核兵器による威嚇と使用も許されないことは明らかだと思うのですが、日本政府はそうは考えていませんでした。

外交方針として、アメリカの核の傘の元で庇護を受ける以上、核兵器を国際法違反とは言えないと彼らは考えていました。

国際司法裁判所の審理では国連加盟国は意見を述べることができるのですが、1995年1月、毎日新聞が、日本の外務省が用意している意見書には

「核兵器の使用は国際人道法の精神には反するが、国際法違反とは言えない」

と書かれていることをスクープしました。

「唯一の被曝国」として、我が国が、世界で核兵器の廃絶を訴えていると信じていた日本国民は驚愕し、激怒しました。真実は、日本は核兵器の「究極的廃絶」=期限なしを求める決議案を毎年出して、核兵器を禁止する徹底した核廃絶の決議が賛成多数になるのを邪魔して、アメリカを助けていたのでした。

こんな事実が明らかになって署名運動はかえって俄然盛り上がりました。

核兵器裁判 (NHKスペシャル・セレクション)
NHK広島核平和プロジェクト (著)
日本放送出版協会

それはある主婦のキッチンから始まった(という話にこの本ではなってます。その方がドラマチックだからw)。市民の会合から国連総会の議決を経て、国際司法裁判所に持ち込まれるに至った史上初の「核兵器存在」の是非を問う司法判決の流れを克明に辿る。



 


1993年11月 世界保健機構(WHO)、1994年12月には国連総会決議がやっと可決され「核兵器による威嚇や使用の違法性」の判断を国際司法裁判所が裁くことになりました。

我々は、被爆者と日本の平岡敬広島市長と伊藤一長長崎市長に、国際司法裁判所で日本国証人として証言させるように外務省に何度も申し入れましたが、外務省はその必要はないと頑として受け付けませんでした。

そこで、世界法廷運動では一計を案じ、広島・長崎両市長をニュージーランドなどの証人として申請する運動を始めました。

日本の両市長をよその国の証人として申請されたら、日本国としては大恥です。外務省は慌てて両市長を証人申請しました。審理は1995年10月に始まり、お二人は11月に証言されることになりました。

ところが、外務省は両市長に「決して核兵器の使用が国際法違反とは言わないで欲しい」という圧力を加え始めました。そのことがわかった我々NGOは被爆者の方々を中心に何度となく両市長にお会いしましたが、日本にいる間ははっきりと国際法違反と言いますとはおっしゃってくださいませんでした。

「両市長をハーグでも応援しよう!(=取り囲もう!)」

私たちは外務省が両市長のためにハーグで取ったホテルを突き止めました。

「被爆者と市民の方々からお花をお渡しして励まそう(=最後の一押しをしよう)」と言うことになり、私はタクシーを飛ばして花束を二つ買いに行きました。

花束を受け取った伊藤長崎市長が「ちゃんと言いますから」とおっしゃったときに、私たちは胸をなで下ろしたのですが、そのあとまた外務省がディナーにお二人を奪い去ったのでした。我々は一抹の不安を胸に抱きながら、翌日の法廷を待つことになりました。

核抑止の理論: 国際法からの挑戦 (憲法学舎叢書4)  浦田賢治 (著, 編集)  日本評論社

内外の国際法研究者が核兵器の違法性について論究する最新刊。



 
 

1995年11月7日。

外務省の河村審議官は、日本国の意見として、核兵器による威嚇と使用は国際法の基盤にある国際人道法の精神に反する、としか言いませんでした。ただ、国際法に違反するとまでは言えないという部分は削除されていました。

そのあと、広島・長崎両市長を紹介するときに、河村氏は,法廷に対して,

「両市長の意見は必ずしも日本政府の見解を表すものではない

とわざわざ言いました。

自分で証人申請をしておいて本当に非礼な話です。

左から伊藤長崎市長、平岡広島市長、河村審議官。



 


しかし、逆にこの紹介で、両市長がはっきりと核兵器の国際法違反性を証言されることがわかりました。

自らも被曝者である平岡市長のみならず、自民党県議出身で被爆市長である本岡等市長を選挙で打ち破って当選したばかりの伊藤長崎市長も、歴史に残る名証言をされました。

裁判長は日本の3人の証言が終わった後、河村審議官には何も言わず、両市長に「感動的なご証言をありがとうございました」とねぎらったものです。

 

(国際司法裁判所で証言する平岡敬広島市長)

 
伊藤長崎市長
 

パネルを使って説明する伊藤長崎市長
(核兵器使用の違法性について、写真パネルも使って証言する伊藤長崎市長)

 

 

1996年7月8日。

人類の歴史上初めて、核兵器の国際法違反性が裁かれる日が来ました。

国際司法裁判所の評決はなんと8対6!(一人欠員)

「核兵器の威嚇や使用は,一般的に,国際法および人道法の原則に違反する」

しかし,同時 に,「国家の存続が危ぶまれるような極端な状況下での自衛のための核兵器使用については,合法とも違法とも結論は下せない」

というものでした。これならアメリカの広島・長崎への原爆投下は文句なしに国際法違反ということになります。裁判所が判断しない部分が残ったことで、当初、日本被団協や日本の反核NGOはがっかりしたものですが、今では価値ある判断だったとして定着しています。

このとき、反対に回った6人の判事のうち、5人は当然核保有国の裁判官でした。そして、最後の一人、しかも門前払いの却下判決を下すべきだとしたのが日本政府推薦の日本人裁判官だった小和田氏(雅子さんの父君)であったことも忘れられません。
 

核に立ち向かう国際法: 原点からの検証
藤田 久一 (著)
法律文化社

日本の国際法研究の第一人者による最新本。

約半世紀前、広島・長崎原爆投下に国際法的判断を下した世界で唯一の判決「下田判決」を起点に核問題をめぐる法と戦略とのせめぎ合いを歴史的に検証する。冷戦後もなお国家の自衛や核抑止の名の下に核兵器使用への規制が弱い現実を鋭く指摘し、国際司法裁判所の勧告的意見を詳細に分析する。さらに9・11テロ後のアメリカ新抑止戦略の下での日米安保条約の展開状況を跡づける。


 

 

この勧告的意見の中で、裁判官は全会一致で、「徹底的かつ効果的な国際管理のもと、全面的な核軍縮へと導く交渉を締結させることを誠実に追求する義務が存在する」ことには同意しました。

また、世界法廷運動は、核のない世界を達成するための新たな取り組みの火付け役となりました。

1998年には「中堅国家構想」という国際的市民団体のネットワークによるキャンペーンが始まり、世界法廷プロジェクトで重要な役割を果たし たニュージーランドなど7カ国と密接な連携を取りながら活動しています。

この「新アジェンダ連合」(NAC)と呼ばれるこの7カ国は、国連内で効果的に活動し、 2000年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議では、核保有国から核廃絶に向けての明確な約束をとりつけたのです。

その他の動きについてはこちら

 

2005年5月、ニューヨークの国連本部で原爆犠牲者の写真を掲げて演説する長崎市の伊藤一長市長




核拡散防止条約(NPT)再検討会議を前に、核兵器廃絶を求めてニューヨーク・マンハッタンをデモ行進する伊藤長崎市長(右は秋葉広島市長)2005.05.01

 


後に亡くなられた伊藤市長。本当に惜しい方をなくしました。

 

 

世界法廷運動の最初から勧告的意見までかかわった駆け出し弁護士の私の感想はさまざまあります。

後に原爆症訴訟で厚労省がいかに腐った官庁かは嫌と言うほど思い知らされましたが、世界法廷運動で味わった外務省の官僚達の煮ても焼いても食えぬ人の悪さ、冷たさ、嘘つきぶりには本当に頭に来たものです。

逆に、被爆者のじいさま、ばあさまがたのお人柄の素晴らしさ。生協など市民運動のおばさまがたの暖かさも忘れられない思い出です。

また、世界のNGOの闘い方のダイナミックさには恐れ入りました。世界保健機構の会議が始まり、中にいる非同盟諸国へメモを渡すために、ジンバブエの代表(でかいアフリカンの男性)の名札を拾って中に入ったヨーロッパ系女性の運動家の話など、痛快でした。

そして、平岡、伊藤両市長の証言を勝ち取る、それも「国際法違反」とはっきり言っていただくための政府との攻防では、市長も人間だから弱さもあるのだから人情も大事。我々市民が市長を人間として敬意を持ち尊重すること、大切にして誉めることが大事だと痛感しました。

本島等市長の核兵器廃絶運動を批判して自民党県議から長崎市長になられた伊藤市長にとっては、この証言体験が素晴らしい感動だったらしく、その後、目を見はるほどの変身・脱皮をされ、見事な被爆都市市長として大活躍をされたものです。
伊藤一長市長を「被爆都市の市長」に脱皮させた市民運動の教訓、それは「人は大事にされ、感動すると成長する」。

突き上げるばかりでなく、市民が首長や政治家を守り、育てていくのだというくらいの気持ちが必要だと思うのです。

日米〈核〉同盟――原爆、核の傘、フクシマ (岩波新書)
太田 昌克 (著)
岩波書店

広島、長崎、ビキニ、そして福島。四度の国民的被爆/被ばくを被りながら、なぜ日本は、アメリカの「核の傘」を絶対視して核廃絶に踏み出すことなく、また核燃サイクルをはじめとする原子力神話に固執し続けるのか―。日米の膨大な公文書と関係者への取材を駆使して、核の軛につながれた同盟の実態を描く、息詰まるノンフィクション。

 

 

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1 コメント

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指摘 (no name)
2015-12-09 01:38:45
>このとき、反対に回った6人の判事のうち、5人は当然核保有国の裁判官でした。そして、最後の一人、しかも門前払いの却下判決を下すべきだとしたのが日本政府推薦の日本人裁判官だった小和田氏(雅子さんの父君)であったことも忘れられません。

いくつか事実誤認があるようです。
主文E項に反対した判事は6人ではなく7人であり、さらに核保有国である中国・ロシア出身の判事2名はE項に賛成票を投じています。
また皇太子妃の父である小和田恒氏がICJ判事に就任したのは2003年であって、この勧告的意見が出された1996年当時の日本人判事は小田滋氏です。
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