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18世紀、サイのクララの物語

2022年06月23日 | 書籍
 18世紀のオランダ。
 サイのクララの物語。
 
 インドサイのクララは、生後数ヶ月のときインド北部アッサム州のどこかで母親を猟師に殺され、オランダ東インド会社の取締役シフテルマンの屋敷で育てられる。
 
 小さいうちはいいが、やがて厄介な存在になる、いまさら野生には戻れない、どうしたものか。
 ディナー客としてシフテルマンの屋敷を訪れたオランダ人船長のドゥーヴェムート・ヴァン・デル・メール(当時35歳頃)は、そんな話を聞き、決心する。
 
 「人間に慣れた子サイなどめったにいない。これは大きなビジネス・チャンスだ。」
 このサイをヨーロッパに連れて行って、見世物にしよう。
 
 カルカッタからアフリカ南端の喜望峰経由の約7ヶ月の航海を経て、約3歳のクララは、ヴァン・デル・メールとともに、1741年7月、オランダ・ロッテルダムに無事到着する。
 
 
 ローマ帝国時代以降、3〜16世紀、ヨーロッパにサイが連れてこられた記録はない。
 16〜18世紀には、8頭、クララの前に4頭、後に3頭の生きたままのサイ(すべてインドサイ)が連れてこられている。
 ただし、既に大人だったからか、その7頭は長くて数年しか生き延びることはできなかった。
 ところが、クララは、17年!生存し、ヨーロッパ中を旅することとなる。
 
 
 当時のヨーロッパにおけるサイは、旧約聖書(ユニコーンと混同)、および古代ローマの博物学者プリニウスの『博物誌』の記述に基づいた、獰猛、攻撃的、人間には制圧不能な力の象徴、のイメージ。
 ビジュアル的には、デューラーの木版画による誤った外観イメージ。
 
 デューラーはサイを見たことはない。
 3世紀以来初めてのヨーロッパへの上陸となった、1515年5月にポルトガル国王のもとに来て、その翌年1月教皇への贈り物としてローマに運ばれる途上、イタリア沖で船とともに沈んでしまったサイに関する資料を参照しつつ、デューラーが創作したものである。
デューラー
《サイ》1515年
 
 人に慣れたおとなしいクララは、旧約聖書、『博物誌』、デューラーの木版画のイメージをすっかり覆すこととなる。
 
 
 
 ロッテルダムに上陸後、地元ライデンに戻ったヴァン・デル・メール。
 1741〜46年の間、ライデンを出た記録はない。
 クララに要する尋常ならざる量の食物・魚油の費用を捻出するだけでも大変だったはずだが、何をしていたのだろう。
 ライデン内で見世物にしていたのか。
 今後の戦略をじっくり練っていたのか。
 いずれにせよ、どんどん巨大化するクララを乗せて未舗装の馬車道を行く運搬手段の確保は大きな課題であっただろう。
 
 この間、ライデン大学の解剖学者が刊行した『解剖図版集』のためにクララを描いた2点の版画が制作される。
 
 西洋絵画において初めてインドサイの解剖学的に正しい描画となるとともに、今後の見世物巡業に向けた宣伝効果の高い描画となる。
 
 
 
 1746年春、ヴァン・デル・メールとクララは、ライデンを出発し、巡業の旅に出る。
 最初の目的地は、ウィーン。
 
・ハノーファー
・ベルリン(4月)
 *プロイセンのフリードリヒ2世が見学。
・フランクフルト・アン・デア・オーダー(8月)
・ブレスナウ(9月)
 *大雨により長逗留する。
・ウィーン(10/30〜11/26)
 *マリア・テレジア、夫フランツ1世、その母オルレアン公エリザベート・シャルロッテが見学。
 
宣伝ポスター/チラシ
 *何故か弓矢を持ったアフリカ原住民が。
 
宣伝ポスター/チラシ
 *下部にヴァン・デル・メールの肖像と、ラテン語・フランス語・オランダ語・英語による説明文。
 
 
 
 ウィーンで大成功したあと、次にドレスデンを目指す。
 
・レーゲンスブルク(1747年3月初旬)
・フライブルク(4月頭)
・ドレスデン(4/5〜19)
 *ザクセン選帝侯でポーランド王アウグスト3世が見学。
 *マイセン磁器工房の主任造形士ケンドラーがスケッチ。磁器のサイの絵柄を一新する。
・ライプツィヒ(4/23〜5/上旬)
 *イースター祭にあわせる。
・カッセル(6月中旬〜7月中旬)
 *ヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ2世の宮殿の庭園で約1ヶ月の夏休暇を過ごす。
 
宣伝ポスター/チラシ
 *図柄は同じで、目的地にあわせ説明文や言語を追加・変更する。
 
宣伝ポスター/チラシ
 *上部が図柄で、下部が説明文。
 
 
 
 夏休暇の後、ドイツ南部・スイスを巡業する。
 
・マンハイム
 *プファルツ選帝侯カール・テオドール一家が見学。
・ストラスブール(12月)
 *初めての当地訪問記念メダルを制作。
・ベルン(1748年1月下旬)
・チューリヒ(3月)
・バーゼル
・シャフハウゼン(3月)
・シュトゥットガルト(5月)
・ウルム
・アウグスブルク(5月中旬〜6月中旬)
・ニュルンベルク(8月下旬)
・ヴュルツブルク(10月初旬)
・マンハイム
 
 
 
 1748年11月、3年近くの巡業からいったん地元ライデンに戻る。
 
 
 
 戻るや否や、次はフランスを目指す。
 
・ランス(12月)
・ヴェルサイユ(1749年1月)
 *ルイ15世が見学。
  ヴァン・デル・メールが売却を申し出るが、王はその金額から断る。
・パリ(2月〜6ヶ月)
 *ディドロとダランベールの『百科全書』のサイの項目のモデルとなる。
 
ジャン=バティスト・ウードリー
《サイ》
1749年、シュヴェリン国立美術館
*ルイ15世の宮廷画家で狩猟画・動物画で知られるウードリーが描いたクララは実物大。
 
 
 
 続いてイタリアを目指す。
 
・リヨン
・マルセイユ(11月)
・ナポリ(11月〜3ヶ月)
・ローマ(1750年3月〜6月)
 *6月、クララの角が抜け落ちる(抜けてもまた根元から生えてくる)。
・ボローニャ(8月半ば〜9月)
 *フィレンツェには寄らず。
・ヴェネツィア(1751年1月〜2月)
 *カーニバル期間にあわせる。
 
ピエトロ・ロンギ
《ヴェネツィアにおけるサイの見世物》
1751年、カ・レッツォーニコ(18世紀ヴェネツィア美術館)
*画面右端の紙片に状況説明書き。
 ローマで抜けた角は、興行主の助手らしき男が掲げている。
 
ピエトロ・ロンギ
《ヴェネツィアにおけるサイの見世物》
1751年頃、ロンドン・ナショナル・ギャラリー
*第2バージョン。
 サイよりも、仮面の人物たちの様子が気になる。
 
作者不詳(ピエトロ・ロンギ周辺)
《囲いのなかにいるサイ》
1751年頃、Banca Intesa Collection, Vicenza
*クララを運搬しただろう荷馬車も描かれる。
 
 
 
 イタリア巡業も大成功も収め、地元ライデンに戻る。
 
 
 クララは、寝ているか、食べているか、糞をするか、せいぜい動き歩くかで、何か芸をするわけでもない。
 
 ただ、人々にとっては、過去に誰も見たことがない、自分たちには一生に一度しかない、生きた巨大なサイの実物を見る機会、かつ、入場料は確かに高いが、胡散臭いもの見世物ではなく、国王も見た本物のサイということで、大人気となる。
 
 巡業における旅程や目的地での滞在日数は、主に見物客の見込みで決められるが、クララには、旅の疲れを取るための休養期間やホルモン周期にあわせた休業期間も必要であり、全体的にゆったりとしたスケジュールとなる。
 
 それでも、2段階設定の入場料、松竹梅を用意したクララ関連土産販売、学者・芸術家・工芸産業への肖像権・画像複製権の販売、王族からの贈り物などで、ヴァン・デル・メールは費用を大きく上回る収入を得たであろう。
 
 
 ヴァン・デル・メールは結婚し、12月には娘が生まれる。
 
 
 1752〜54年、巡業の記録なし。
 
 
 次の記録が残るが、実態は不明。
 1754年、ポーランド(ワルシャワ、クラコフ)
 1755年、デンマーク
 
 
 1758年、イギリスへ
 4月14日、クララが巡業先のロンドンで死去。享年約20歳。
 
 
 18世紀英国の作家ゴールドスミスは、次のような文章を残している。
 「男(ヴァン・デル・メール)は関係者が見守るなか、サイのベルベットのような舌で顔を舐められるがままになっていた。」
 完全に信頼し、信頼されている姿。
 
 ロンドンからライデンに戻った後のヴァン・デル・メールの人生は知られていない。
 
 
 
【参照】
グリニス・リドリー著、矢野真千子訳
『サイのクララの大旅行』
2009年2月、東洋書林刊
 
中野京子著
『フェルメールとオランダ黄金時代』
2022年5月、文藝春秋刊


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