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太田喜二郎と児島虎次郎のベルギー留学 - 【その2】 「ベルギーと日本 光をえがき、命をかたどる」(目黒区美術館)

2023年05月19日 | 展覧会(日本美術)
ベルギーと日本
光をえがき、命をかたどる
2023年4月29日〜6月18日
目黒区美術館
 
 
 地味な展覧会ではあるのだろうけれど、結構おもしろい。
 
 本展の見どころであろう、当時主流であったパリではなく、ベルギーに留学し、ベルギーの印象派に学んだ2人の若い画家、太田喜二郎と児島虎次郎の奮闘について、以下、会場内解説に基づきメモする。
 第1章の2および3となる。
 
 
【本展の構成】
第1章 光をえがく:ベルギーの印象派絵画と日本
1 白馬会とウィッツマン
2 太田喜二郎と児島虎次郎のベルギー留学
(1)ベルギーの画家たち
(2)太田喜二郎のベルギー留学
(3)児島虎次郎のベルギー留学
3 日本の印象派
(1)外光派と印象派
(2)帰国後の児島虎次郎
(3)帰国後の太田喜二郎
(4)斎藤豊作と吉田苞
第2章 命をかたどる:ベルギーの彫刻と日本
1 武石弘三郎のベルギー留学
2 コンスタンタン・ムーニエの衝撃
(1)コンスタンタン・ムーニエ
(2)ムーニエに影響を受けた日本の彫刻家
第3章 伝える・もたらす:ベルギー美術の紹介
1 児島虎次郎によるベルギー美術の紹介
2 ベルギーと日本の友情の証:戦災と震災のチャリティー展
(1)第一次世界大戦の戦禍のベルギーを救え「恤兵美術展覧会」
(2)第一次世界大戦の戦禍のベルギーを救え「欧州大家絵画展覧会」
(3)関東大震災とベルギー大使ド・バッソンピエール
3 フェリシアン・ロップス:官能と諧謔
4 瀧口修造とルネ・マグリット
 
 
第1章2「太田喜二郎と児島虎次郎のベルギー留学」
 
(1)ベルギーの画家たち
 
 太田と児島がベルギー留学時に教えを受け影響を受けた二人の画家が紹介される。
 
ジャン・デルヴァン(1853-1922)
 太田と児島が入学したゲント王立美術学校の校長。当時注目された画家で、元騎兵で馬を好み、動物画を頻繁に描く。熱心で的確な指導をする教育者として、多くの画学生に影響を与える。
 本展には、大原美術館所蔵の1点が展示される。
 
エミール・クラウス(1849-1924)
 ベルギーの印象派というべきルミニスム(光輝主義)の代表的画家。
 本展には、姫路市立美術館所蔵の2点および大原美術館所蔵の1点が展示される。
 
 
(2)太田喜二郎のベルギー留学
 
 太田は、1908(明治41)年に東京美術学校卒業後、ベルギーに留学。
 ベルギーを選んだ理由は、恩師・黒田清輝に、性格がおとなしいため、フランスよりベルギーに留学するほうが向いていると勧められたからと言われている。
 一足先にベルギー留学していた武石弘三郎の協力を得てクラウスに弟子入りするとともに、ゲント王立美術学校に入学する。
 クラウスは、太田が通い始めた頃には、絵が暗く「インクのようだ」などと手厳しい指導をする。太田は、外光派の黒田の薫育のもと、穏やかな光の表現を習得していたが、クラウスの光の表現は、よりまばゆく激しく、戸惑いながらも、2年後にはクラウスに認められるようになる。
 
 本章には、太田の留学時代の作品8点(うち2点が目黒区美術館所蔵)が展示される。
太田喜二郎《赤い日傘》1912年、新潟大学
 
 
(3)児島虎次郎のベルギー留学
 
 1907(明治40)年、東京勧業博覧会美術展に出品した2点の作品が、一等賞受賞と宮内省買い上げという栄誉を受ける。
 それを喜んだ支援者・大原孫三郎の勧めにより、1908年、児島は憧れのパリに留学する。
 師である黒田清輝の紹介で、はじめはラファエル・コランに絵の指導を求める。
 しかし、児島は、騒々しいパリも、コランにも馴染めず。
 パリ郊外のグレー村に1年程滞在した後、東京美術学校時代の友人であった太田を頼り、ベルギーのゲントに向かう。
 太田に紹介されたゲント王立美術学校に入学、さらに翌年、同じく太田の紹介でエミール・クラウスに師事する。 
 1911年にはフランスのサロン・ナショナルに初入選、1912年にはゲント王立美術学校を首席卒業という華々しい結果にまで至る。
 
 本章には、児島の留学時代の作品8点(うち6点が高梁市成羽美術館所蔵)が展示される。
児島虎次郎《和服を着たベルギーの少女》1910年、高梁市成羽美術館
 
 
第1章3「日本の印象派」
 
(1)外光派と印象派
 
 「黒田君の画に、印象派風にやったと言うものは、極めて少ない。日本に帰ってからも、点で描くやり方などをやったのは、寧ろ私の方がやった位のもので、これは決して正当なやり方として、やった訳ではない。全く珍しい方法として、日本に見本を描いて見せた位のものである」
(久米桂一郎「黒田清輝君の芸術」『国民美術』1巻9号、1924年9月)
 
 本章には、黒田清輝《昼寝》東博蔵と、久米桂一郎《夏の夕(鎌倉)》東京藝術大学蔵が展示される。
 
 
(2)帰国後の児島虎次郎
 
 1912(大正元)年11月、児島は留学を終え、故郷に帰省する。翌年には倉敷の大原家別邸に居を構え、制作する。その作品からは、ベルギーの地で習得したことを基盤に、日本でさらなる発展を遂げようとする姿勢がうかがえる。
 日本の画壇からは距離を置いていた児島は、倉敷からフランスのサロンに出品をつづけ、1920年、日本人初となるサロン・ド・ソシエテ・ナショナルの正会員となる。
 留学から帰国した多くの日本人画家が、学んだものを受け容れてもらえない日本の画壇との関係に悩む状況からすれば、児島はのびのびと自身の制作に没頭できたと言える。
 1924年、明治天皇の功をたたえた壁画制作に尽力し、過労のため47歳で没。
 
 本章には、児島の帰国後1913〜20年制作の6点(すべて高梁市成羽美術館所蔵)のほか、留学時の関連資料(写真など)が展示される。
 
 
(3)帰国後の太田喜二郎
 
 太田は、1913(大正2)年に留学から帰国する。日本の農村風景を、クラウス仕込みの徹底的な光の表現のもとに描くことを試み、文展や帝展に出品する。受賞も重ね、高く評価されたが、彼の点描表現には芳しくない批評も寄せられる。
 
・《赤い日傘》1912年
 「印象派の作にはこんなのもあるのかなあと珍しい」、「所詮標本」
・《麦秋》1914年
 「単なる技巧の修練を賞するに足るものとしても画品の挙がらぬ作」
 
 太田の作品は、ヨーロッパで流行する珍しい技法の見本、点を重ねて描く技巧的なものと見られていた節がある。
 1917年、京都市立美術工芸学校・絵画専門学校(現京都市立芸術大学)の講師を委嘱されるが、この頃より、ベルギーで学んだ点で光を描く技法を放棄するようになる。
 
 本章には、太田の帰国後1914〜15年制作の2点(すべて高梁市成羽美術館所蔵)が展示される。
 
 
(4)斎藤豊作と吉田苞 
 
 日本では、印象派的な点描技法は、一時的に試みている画家はいるものの、定着しなかった。
 比較的長く点描技法を用いて制作した数少ない画家として、斎藤豊作(1880-1951)と吉田苞(1883-1953)が紹介される。2人は児島と友人。斎藤は1920年以降フランスに定住。
 「この二人が比較的長く点描技法を用いて制作できたのは、日本の中央の画壇と距離を置いていたからではないだろうか。結局のところ日本において印象派は、受容されがたいものであったと言えよう。」と締められる。
 
 
 
 その他の章について。
 
 第2章の武石弘三郎とコンスタンタン・ムーニエの名前は初めて知る。
 展示点数は少ないが、第3章のフェリシアン・ロップスや、第4章の瀧口修造とルネ・マグリットが取り上げられ、戦前の日本におけるベルギー美術の受容が探られている。


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