![]() | 神戸ものがたり (平凡社ライブラリー) |
陳舜臣 | |
平凡社 |
1998年1月15日 初版第1刷
陳舜臣的神戸物語。神戸という街の生い立ち。陳舜臣の子どもの頃の思い出。1995年1月17日のこと、それから。
神戸市は行政的には垂水区・須磨区・長田区・兵庫区・中央区・灘区・東灘区・北区・西区から構成される。西区が西の端、東灘区が東の端、北区が北の端。海に面するのは垂水区・須磨区・長田区・兵庫区・中央区・灘区・東灘区。面積でみると海に面していない西区と北区を合わせた方が他の区の総面積より広い。港町というイメージが強い神戸は実際は山林と耕地が大半を占めている。
六甲山を背景に海から坂が続く街並みは、海からいきなりそそり立つ六甲山のふもとを駆け登るように広がるが、さすがに宅地化の勢いも地形には勝てない。街は突然途切れ鬱蒼と木々が茂る山になる。山と街並みがとても近いのだ。だから三宮駅の掲示板には「イノシシに餌をやらないでください」という奇妙な紙が貼られていたりする。三宮あたりから宝塚にかけては野良イノシシが出歩く街なのだ。
先日会社の同僚と神戸の街の話をした。東京から転勤してきた者が1名。西宮市生まれで宝塚育ちが1名。そして岡山で生まれ育った私。神戸ってどこを神戸だと思う?との問いに三者三様の回答が出る。私の神戸の街並みのイメージは元町辺りを西の端として、それから東側、芦屋市辺りまでが頭にうかぶ。六甲山を背景に海から坂が続き街並みを作り、昼も夜も目に心地よい景色を作っているエリアだ。西宮市生まれで宝塚育ちの同僚は元町から三宮が神戸だそうだ。東京からの転勤者は神戸駅から三宮駅だそうだ。三人のイメージの重なっている部分は元町から三宮までの狭い範囲になる。JRの駅にして二駅。区でいうと中央区の一部だけになってしまう。
今はその中央区のJR三宮駅辺りが神戸の中心になっているが戦前はもっと西側の神戸駅界隈が中心地だった。湊川神社の西側が繁華な街だった。神戸駅の北側あたりになる。添付した写真の一枚目は湊川神社。
記憶のなかの神戸―私の育ったまちと戦争
神戸市営地下鉄に湊川公園という駅がある。湊川神社を西に1kmほど行ったところだ。同じ場所に神戸電鉄の駅もある。ここは元は六甲山麓から南へ流れる川筋があったところ。湊川という天井川だ。今でも天井川だった頃の地形をよくとどめている。その流れは今の川崎重工のある場所に流れ出ていた。福原京を造ろうとした平清盛の邸宅はこの川の上流部にあたる。
湊川はたびたび洪水をおこしていた。流路も何度か変わったことと思う。それでも人が住んでいなければたいして問題も無いのだが、明治の頃、海岸に外人居留地を設け港を整備し、そこで仕事につくことを目的に日本中から人が集まり街を形成し始めた。そして兵庫津に工廠を造ることになった時、流れを付け替えることになった。洪水対策という事もあった。会下山にトンネルを掘り流路を西へ切り替え、苅藻川につながれた。干上がった河川跡は整備され街になった。今の湊川公園辺りは神戸一の繁華街になった。新開地という名前が付けられ今でもその地名は残っている。

この辺りを歩くと下町然とした街並みが続くが今でも当時の繁華街の痕跡が色街として残っている。福原だ。添付した写真が福原の北の入り口。湊川公園の東側にある。
著者の陳舜臣の神戸物語はこの界隈が華やかりし時代からの話しになる。
長い日本の歴史と比べれば神戸という土地にはつい最近まで何もなかったようなものかもしれない。六甲山は有名だがこの山には神聖な場所が見当たらない。あれほど神社仏閣が好きで、霊験あらたかな場所をどこにでも見つけることが好きな日本人としては珍しく何もない。神戸んは遠い遠い昔から人は住んでいたようで、古墳や住居跡はちらほら出てくるし、神戸とは違うが明石原人の話しさへあるくらいだから、それなりに人はいたのだろうが明治になるまで本当に鄙びた土地柄だった。そういう街だから東京や大阪、京都どころか江戸時代の城下町を下地とする地方都市よりもエピソードに乏しい。
いきなり出来上がった街。近代にここに集まった人々はまるで外国にでも来たかのような解放感としがらみのなさで暮らしたようだ。
(2012年9月 西図書館)