私は朝鮮という国がはるか昔から儒教の国であったように思っていたのだが、どうも違うらしい。1290年に元に赴いた安●(●:王に向、あんきょう、アンヒャン)により朝鮮に朱子学が伝えられるが日常生活の規範としての儒教が浸透するのは18~19世紀とある。また宗主国であるシナを尊拝する民族性から儒教が日常生活に浸透したのではなく在地両班の影響で(都合で)儒教が一般的になったとしている。この本は在地両班とは何か、どういう経緯でそれが生まれどうなっていくのかということをあらわすことで、李氏朝鮮が経済的に破綻して行き詰まっていく様子を書いている。
宮嶋博史 「両班」 中公新書
本の副題「朝鮮社会の特権階層」
1995年8月25日発行
本の元は1993年度 東京大経済学部授業ノート
1994年度 九州大学文学部集中講義ノート
両班(ヤンバン)―李朝社会の特権階層 (中公新書)宮嶋 博史中央公論社このアイテムの詳細を見る |
著者は1948年生まれ。
1972年京都大学文学部東洋史学科卒。
1977年京都大学院文学研究科博士単位取得退学。
東海大学文学部講師。
東京都立大学人文学部助教授。
東京大学東洋文化研究所教授。
朝鮮社会経済史専攻。
著者は日本の歴史教科書が韓国で問題になった時に、韓国からの強い反発に対し日本側がその慰撫として1年間教科用図書検定調査審議会の委員に加えた人物。その時、ネット上では下記のような意見がありチョット騒がせた。
http://www2.neweb.ne.jp/wd/sekisei/sub37.htm
文部科学省は昨年の教科書騒動がほぼおさまった十月十九日付で、朝鮮史が専門の宮嶋博史・東大東洋文化研究所教授を教科用図書検定調査審議会の委員に加えた。文科省の大槻達也教科書課長は「朝鮮史学者が入ったことで、きめ細かい検定ができた」と、委員人事が今回の検定に影響を与えたことを否定しない。宮嶋は大阪市出身、京大大学院博士課程修了。朝鮮社会経済史が専門で、在日韓国・朝鮮人についても発言している。「日韓の歴史学者が意見交換と交流を目指す」とする「日韓歴史家会議」の運営委員でもある。主著は「世界の歴史12 明清と李朝の時代」「両班(ヤンバン)-李朝社会の特権階層」で、なぜか、今回の検定で「李氏朝鮮」とともに削除された「李朝」が書名に入っている。複数の日本史学者は「宮嶋が所属する朝鮮史学会は歴史学会の中でも特異な存在。どうしても韓国や北朝鮮に甘くなりがちだ。なぜ教科書検定審に入れるのか」と首をかしげる。委員として扶桑社教科書の検定不合格工作を行った元インド大使、野田英二郎のように、特定の国の利益代表にならないか心配する声もある。扶桑社教科書の執筆者でもある高森明勅国学院大講師は「昨年まで検定を通ってきた『加羅を根拠地として』という記述が修正させられるなどの今回の検定は、韓国のナショナリズムに迎合したものではないか」と話している。 |
私は韓国への慰撫など全く必要はなかったと考えるが、著者個人に対する評価としてはこの本を読む限り「韓国のナショナリズムに迎合」するような人なのか?と思う。李氏朝鮮という時代を真っ当にとらえているんじゃなかろうか。俗に言う「サヨク学者」ではなくキッチリと事実を積み重ねているという印象をもった。著者は韓国と共同で歴史についての仕事もしたようなのだが、その時きっとあったであろう韓国側の御用学者との意見の食い違いの様子が知りたいものだ。
江戸時代の日本は士農工商の身分に分かれていて、士族の割合は全人口の10%未満であり非生産階層を成す。残りの90%が士族の生活を支えていたことになるが、支えて充分余りある生産活動が出来たことは明白だろう。また農工商は士族を目指そうなどとは考えなかったし、考える必要も無かった。だいたい江戸初期には武士であることを捨て農工商なったものも多いわけで、名だたる豪農や商工業を営む家は元は武家というのも多い。彼らは武士階級に支配はされていたが自由であったし、戦乱が収まった世の中で彼らが目指す道は限られてはいたが選択の余地は多かった。
これは江戸時代に日本を訪れた欧米人が残した記録でも明らかなのだ。日本を訪れる欧米人は、訪日前には日本は専制君主の国、身分制のある国と教えられる。しかし彼らが日本で見たのは搾取されることもなく虐げられることもない自由闊達な民の姿であり、一方支配はしているが不自由そうな武士の姿だったそうだ。日本には武士の世界とそれ以外の世界の二つの世界があった。
そんな日本も江戸時代末になると安泰ではいられなくなる。欧米からの門戸開放要求や圧倒的な力を蓄えてきた商工業階層が求める社会に士族は抗しきれなくなる。しかしここで革新的な動きをしたのはそれまで不自由そうな生活をしてきた、そして追い詰められた武士階層、それも下級武士や郷士たちだった。彼らは日本という社会を全く別物に変えてしまった。そしてそれを後押ししたのが力を蓄えてきていた豪農であり豪商だったのだ。
日本の江戸時代のこのような姿や明治期への革新に比べて李氏朝鮮の膠着した状態は何に起因するのか。私は長らくその何かをなんとなく「朱子学」に求めていて、それが浸透した社会であるからこそ李氏朝鮮社会は膠着し衰退していくしかなかったのだろうと思っていたのだが、この本を読んであたりまえかもしれないがそんなものじゃないなぁと思い始めた。
朱子学が朝鮮に伝えられたのが13世紀、儒教が全土に普及するのが18-19世紀であれば、社会に浸透するには充分の時間だろうし、日本では一部の偏狭な学問にしかなりえなかった朱子学がこうも身についてしまうということは、よほど朝鮮人の肌にあっていて朝鮮人は元来崇儒的な要素を持った人たちに違いないと思わせる。刷新・改革・打破・創造・・・とにかく時代を変えてやろう社会のあり方を変えてやろうというような姿とは程遠い李氏朝鮮の姿は、何事にも意固地で偏狭なイメージのある朱子学とピッタリだ。
しかしだ、李氏朝鮮は日本の江戸期以上の太平の世が続くのだ。朱子学ごときで何で国が衰退することがある。衰退の原因は経済政策の失敗と社会の行過ぎた固定化だろう。
本書の内容をかいつまんで書いてみると・・・。
李氏朝鮮は農本主義経済をとる。都の貴族としての地位を持つ在京両班とは別に、出身地や未開の地に農地を開発し地主として生計を立てながら科挙登用を目指す両班ができた。在地両班である。
当初は豊かであった李氏朝鮮だがその経済政策は行き詰まり、年を経るごとに国も民も衰えていく。両班身分の相続制度も男女均分相続、男子均分相続、長男優待相続へと変化し、資産の分散を避けるようになる。その相続される資産も当初は奴婢のみであったが時代が下るについれ土地を分財の対象としてくる。これは李氏朝鮮の当初は開発できる土地が余っていたことを示すものであり、開発できる土地そのものが不足すれば、農業技術の進歩や効率化がはかられない限り行き詰まるのは目に見えている。
しかし一切の労働から離れた身分である両班を人の頂点と考える李氏朝鮮社会の意識下では活発な技術革新や経済活動は望むべくもなく、根本的な社会構造を変える意思もない李氏朝鮮の社会は衰退を余儀なくされるのだ。結果、守りたい資産を持つものがその家だけでそれを維持できない場合には、身内で資産を守ろうと結束していく。その方便として用いられたのが同属の先祖崇拝を行う儒教であり、朝鮮全土に散らばる在地両班がそれを普及させることになった。家系の族譜にこだわり同族にこだわる朝鮮人社会の始まりである。
両班身分の母体であった地方の郷吏身分にも時代を経るごとに変化が出てくる。両班化である。本来、両班身分になるには法制的な手続きはない。それは社会慣習を通じて形成された階級、階層であったが、実際においては至極明確な基準があった。その基準とは何か。科挙試験は当初は誰でも受けることが出来たが、社会が固定化するに従いあるきまりごとができあがる。受験有資格は過去または現在、科挙登用者を家系から出したかどうかできまり、それはその家が科挙試験を受けることが出来る身分であることの証しになった。これが両班身分である。
地方の郷吏はこの資格を求めて運動を起こす。それは数世代にも及ぶ運動だった。両班でなければ人ではない、そんな思いしかなかったのか他に目指すものがない李氏朝鮮社会の悲しさである。運動の結果、18世紀初頭に郷吏身分は「幼学」の称号を得る。「幼学」とは科挙制度を目指して学問に専念する者に対して使う称号であり、これを得ることにより郷士身分は一切の労働(主に地方の行政官)から開放されるのだ。両班身分の拡大である。
しかし破綻した農本主義経済下の社会では、両班身分の拡大は不幸でしかない。全人口の1/3の非生産身分を残りの民が支えることになるのだが、その残りの民の大半は奴隷身分である奴婢なのだ。(16世紀には全人口の30%~50%が奴婢)当然これだけの人口構成比率を持つ身分層であるから、奴婢といえども頭角を現し、両班家を影で切り盛りする人物もいたのであろうが、所詮売り買いされる不自由な身分である。固定化され慣らされた社会体制もあり閉塞した状態を打破する勢力にはなりきれない人たちなのだ。サボタージュ、逃亡、窃盗。両班は常に奴婢の監視を余儀なくされるが、それはどちらも生産性を伸ばすとか活発な経済産業の発展とは無縁の停滞でしかない。
結果、ますます経済は疲弊し両班といえども全く資産を持たない、つまり奴婢も土地もない名だけの家も出てくる。それでも両班の家長たる主人は働こうとはしないのだ。働けば最後、両班身分ではいられなくなってしまうから。乞食両班である。
・・・こんなところか。
< 参考 >
鄭 大聲 「朝鮮の酒」 築地書館
http://blog.goo.ne.jp/k-74/e/ac2a05e3ee134b18b45d3ba14efabb7a
鄭 良漢 「李朝の白磁」 近藤出版社
http://blog.goo.ne.jp/k-74/e/1615150bd0917b98669582edc9d6bc5e
カーター・J・エッカート 「日本帝国の申し子」 草思社
http://blog.goo.ne.jp/k-74/e/e663be197b8c96cb54f2a02a5b80455f
中村 好文 「村の住みごこち 河回村(ハフェマウル)」 芸術新潮 2003年2月
http://blog.goo.ne.jp/k-74/e/0197fcbc42347ebca741cce38e1a7cb0
朝鮮白磁 - 朝鮮後期のソウル市場では競争原理が働いていなかった
http://blog.goo.ne.jp/k-74/e/c05ac2e548af87286d5d0f4ffd4d0060
韓国集娼村100年の記録…ホン・ソンチョル著「遊郭の歴史」
http://blog.goo.ne.jp/k-74/e/ab5912acaed23a34471cbff8f87d75be
石川 英輔 「江戸のまかない」 講談社
http://blog.goo.ne.jp/k-74/e/c8146affd16b83cf4ebc4cdbb03c47ed
17世紀の朝鮮の名家
http://blog.goo.ne.jp/k-74/e/77e87205c9e80fea98104c1342c77fab
柳 宗悦 「手仕事の日本」 岩波文庫 青169-2
http://blog.goo.ne.jp/k-74/e/0352151a8bb3b626c9b0ceecdbc0f7be
韓国が言うところの「内在的発展論」
http://blog.goo.ne.jp/k-74/e/50d23f24b15d1422a5a9940ec2036ab1
日本の韓国支配は不幸中の幸い
http://blog.goo.ne.jp/k-74/e/931ca5844e20400e140d6afcb0152557
以下メモより
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p7 北朝鮮
古代三国時代(百済、新羅、高句麗)の中では高句麗を、また歴代の統一王朝の中では
高麗(936-1392)の占める地位を大きく見る傾向があり、
李朝時代(1392-1910)は中国への従属が深まった自主性の弱い時代として
相対的に低く評価されがちである。
p9 北朝鮮
先祖の顕彰がさかん(金一族)。金日成一家が民族解放闘争の指導者として
血統をひくものであることが強調されるのであるが、その発想法は朝鮮に
おける有力な同属集団の祖先顕彰と同じものであり儒教的な祖先崇拝の観念が
認められる。
p10 958年 科挙制度
p12 1290年 元に赴いた安●(●:王に向、あんきょう、アンヒャン)に
より朱子学が伝えられる。
p14 日常生活の規範としての儒教が浸透するのは18-19世紀
p19 両班
法制的な手続きはない。社会慣習を通じて形成された階級、階層。
しかし実際においては至極明確な基準があった。
p21 在地両班、在京両班
在京両班:出自が明らか。
在地両班:基準設定が困難。
p27 形成過程について
安東権氏、酉谷権氏を例にとり15-17世紀の在地両班形成を説明
p53 分財記(財産相続を行う際の文章)
1)許与文記 父が生存中に、又は父の死亡後に母が子供に対して財産分与を決める際の文章。
2)和合文記 両親の死亡後に相続人が一堂に会して作成する文章。
3)別給文記 父又は母がその生存中に特定のものに(子や孫以外の場合もある)財産の一部を
特別に与える歳に作成する文章。
p60 相続財産
~15世紀:奴婢のみの分財対象が多い。
16世紀~:土地と奴婢が分財が主流となる。
p61 奴婢についての法
李朝前期には「従母法」「一賤則賤」が出来上がる。
従母法 :奴婢どおしかた生まれた子は母親を所有する者の奴婢となる。
一賤則賤:片親が奴婢身分であればその子は奴婢となる。
p65 16世紀 全人口の30~50%が奴婢身分。
日本の奈良正倉院には統一新羅の村落文章が保存されている。
(現在の忠清北道清州付近の四つの村に関するもの)
人口構成、面積等が記録されている。
奴婢の比率は一割にはるかに満たない。
p66 分財記 「逃亡奴某、年一百五十」
逃亡した奴が既に死亡しているにもかかわらず、分財の対象としている。
奴婢の急増の理由
北虜南倭 : 女真族と倭寇に理由をもとめることが多いが実はよくわかっていない
p67 両班
働いてはいけない
在地両班の形成と奴婢の急増とは関係がある
儒教的な生活 ・在地両班の影響
・経済力低下による同属意識の高まり
※中国を尊崇する民族性のなせるわざではない。
p116 経済
贈答経済の役割大
貨幣経済の比重小
貨幣の役割は米と綿布
壬申倭乱、明の兵士が持ち込んだ貨幣が流通する
p122 反同
ある商品を価格の安い地で購入し高い地で売り価格差益を得ること
p160 相続制度の変化
17世紀後半以降 経済力の低下
男女均分相続
↓
男子均分相続
↓
長男優待相続
奴婢の年齢構成までも各相続書に均等に配分される配慮も行われた
p162 結婚後の妻方居住
16世紀 女にも財産が相続されていたために妻方居住も可能だった
p169 相続制度の変化
朱子学の普及が相続制度を変えたのではなく経済力の低下が理由ではないか?
15、16世紀「李氏実録」に結婚後の妻方居住と男女均分相続は朱子学に
そぐわないから改めるべしという記述があるが、17世紀になってから
それが実現
200年もかかるのはおかしい!
p170 族譜の変化
族譜:一人の祖先の子孫を世代別に収録したもの
家乗:自己の父系直系を記録
内外譜:父系直系と各祖先の配偶者の父系直系とを記録
八高祖図:自己の父系の祖先を四世代前の八組の高祖父母までを記録
したもの。内外譜の一部分を表わしたものと同じ
十六高祖図:八高祖図に加えて母親の祖先も加えたもの
族譜は15世紀になってから作られる
15世紀以前には父系同族意識は強固ではなかった
p187 郷吏層の両班志向
17世紀以降、経済力の低下は既得権を守るための朱子学を前面に出した保守化に進む
郷吏は両班の母体、16世紀までは両者の区別は曖昧
17-19世紀 両班と同等の待遇を受けられるよう活動を繰り返す
1729年、安東の郷吏に「幼学」の称号を用いる令が下された
「幼学」は科挙制度を目指して学問に専念する者に対して使う称号
つまり郷吏本来の職である行政に従事する必要がなくなる
P192 郷吏 族譜への入録を目指す
17世紀までは族譜を持つことが地位の高さと両班の証し
1476年 安東権氏 成化譜
1957年 安東権氏 野翁派譜
1957年のものに入っている人名の方がはるかに多い
古い時代の人名が突然あらわれる
族譜は過去を語っているのではなく今の勢力を表わすものである
新たに追加される人たちこそ郷吏
p215 1910-1918 土地調査事業
近代的な土地所有権が確立された様に個人財産と宗中財産の区分がより明確化
されていった。門中財産を法的にもより明確にする努力がなされた
p216 族譜 韓国人全体でみると近代移行に初めて有する人が多い
在地両班
↓
土地開発をするため地方へ移住 儒教を広める
↓
経済力の低下 → 下人の経済力の上昇 → 下人の両班指向
↓
両班の同族どおしの結束、祖先崇拝の強化
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