投錨備忘録 - 暇つぶしに借りた本のメモを残すブログ

阪神大震災から10年

以前図書館で借りた本に第二次世界大戦でのアメリカ軍の日本本土に対する爆撃命令書を集めたものがあった。「これは無差別爆撃ではない」という文章で始まる爆撃命令書は一般民間人への無差別爆撃であることをアメリカが充分承知していたことを証明しているのだが、これについてはまたいずれ。

当時私の父は立川の飛行機工場にいたのだが昭和20年年初に始まった無差別爆撃のことをよく覚えていて、私が空襲の話をすると日付とだいたいの時間と爆撃機の機種、自分がその時何をしていたかまで明確に言ったのには驚いた。何が驚いたといって日時が爆撃命令に合っていた。母親は海軍にいた祖父とともに姫路にいて、姫路の空襲の時は頭から濡れ布団をかぶり田んぼの中を兄弟と一緒に避難したことを語ってくれた。父より幼かったぶんだけ記憶も無邪気で、空襲が「綺麗だった。あんな綺麗なものは初めて見た」と笑いながら言ったのには驚いたけど。記憶を消そうにも消せないあの日あの時というものがあることは知識としてはあったが、自分の父母にもそれがあったことを知らされた。

父母の経験に比べる事はできないのだが私も1995年1月17日を明確に覚えている。大きな衝撃で目が覚めた時、それは一瞬何か建物にぶつかったのかと思わせた。その後に続く揺れで地震だと分かったのだが、揺れがおさまってもなお続く周りの山や林がおこす音を不思議がったりしていた。その音にしても後で考えればそうだったと分かるわけで、その時は「この騒音は何? 電車か? 今まで聞こえたことはなかったが?」などと思っていたのだ。

記憶はその瞬間だけでなくその日だけでもなく、その前後の数日が嫌に明確に残っている。前日の夕飯のメニューも覚えているし会話の内容も記憶にある。土曜日は休みだったのだが出勤してどこに行き誰とどんな話をしたかも記憶にあるし、17日に何をしたかは今でも再現できる。いつ誰が訪ねてきてくれたか、通じるようになった電話で誰とどんな話をしたかも。いや1995年その年のことは他のどんな年より明確になってしまって、1995年に買った本やモノだけは今でも簡単に選別できるのだ。だからその時のことを語れといわれればスラスラと語れるし人にも話してきたのだが、それはほとんど心に傷が残るような被害を受けていない身であるからなのだろう。

今日ネットでニュースを読んでいると親兄弟を地震で失った現在21歳の青年が、結婚しこの春父親になることを報告しに墓前に参ることを決心したという話があった。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20050117ic01.htm

>中学生のころ、1度だけ足を運んで以来、「思い出したくない」と拒んできた場所

>結婚したのを機に、新しいスタートを切ろうと決意した。話したいことはたくさんあるけれど、まずはこう伝えたい。「春になったら、僕、お父さんになるよ」

人に積極的に語ることで決着をつけようとする人たちもいるが、何も語らず自身の中で決着をつけられないまま今に至る人は数え切れないほどいるのではないだろうか。

記憶は消せないだろうが一人でも多くの人の心の傷が早く癒えることを願う。
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