投錨備忘録 - 暇つぶしに借りた本のメモを残すブログ

袴〈はかま)について ただのメモ

日本の神話時代を描いた絵画には袴をはいた人物が出てくる。

例えば大国主命。
https://izumooyashiro.or.jp/about/ookami

神話に出てくる人物だから、その着衣をどうこう言うのも野暮なのだが、袴はもっと時代が下ってからだろうと思う。

この袴というのは大陸でも乗馬のためというのが定説。だから日本で定着したのも乗馬が定着した時代からだと思うのだ。チャリオット(Chariot)というのがある。古代の戦争に用いられた戦闘用馬車。古代の中国では春秋時代まではこのチャリオットが主流だったが、その際の戦闘員は袴を履いていなくて現代日本人の着物と同じような服を着て馬車に立っている。騎兵が主流になるのは趙の武霊王の時代。紀元前307年に胡服騎射を取り入れてから。この胡服というのが袴を履いた姿なのだと思う。

日本に騎馬が定着するのは4世紀~5世紀。朝鮮半島からだろう。4世紀末、倭は高句麗と戦う。好太王碑文にそう書いてある。その際に馬に触れ必要性を感じたのではないかと岡山県古代吉備文化センター尾上元規氏が述べていた。

倭の五王の時代の遺跡になるが大阪府四条畷市の奈良井遺跡からは馬7頭の骨が出土し、近傍の中野遺跡も合わせて製塩土器、陶質土器、韓式土器の出土が目立つ。蔀屋北遺跡からは馬の全身骨格が入った穴、大量の製塩土器、木製の鐙(あぶみ)、鞍が出土した。塩は家畜に付き物。大阪湾を見下ろす丘陵地には牧場が開設され、そこでは朝鮮半島から馬と一緒に渡ってきた馬飼いが生活していたのだろう。

日本書紀巻10応神天皇15年条、百済王から馬2頭が献上される。継体6年条、欽明7年条にはそれぞれ40頭と70頭の馬を百済に送ったと書かれている。

4世紀は高句麗が朝鮮半島を南下した時代。朝鮮半島南部に利権を持つ倭にとって武力拡充は急務だった。
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