お久しぶりです。
ごぶさたしてる間に、ホリエモンは逮捕され、トリノオリンピックは開幕し、
他にもいろんなことがあったんでしょうが、新居において新聞もとっていない、
ネットもつないでいない、テレビもない私にはなんのこっちゃらさっぱり
わかりません。
情報から隔絶されてると、人間がものすごく落ち着くよ、どうでもいいけど。
情報が一切入ってこない中、静かに新旧聖書を読んで考えるでもなく、
考えないでもなく時を過ごしておりますと、1こ分かったことがあって、
それがタイトルに書いたことです。
因果とは元々仏教用語で、因果論は、潜在的に仏教徒な日本人に馴染み深い。
だから、この世のことは全て因果関係によって成り立ってる、
と日本人は自然に思ってる。
結果には原因があって、いいことが起こるのは、その人がいいことをしたから、
悪いことが起こるのは、その人が悪いことをしたから、と。
だから、自分に思いもよらぬ不幸が襲った時、人は思う。
「なぜ私に?」と。
「私は何も悪いことしてないのに」と。
不幸な目にあった因果関係を知りたがるし、因果関係が見当たらない場合は、
「神も仏もない」と嘆いたり、不当だと思ったりする。
悪いことにおいては特にそうなんだけど、因果関係がないと人はなかなかそれを
受け入れたがらない。
「運が悪い」と言って諦める方法もあるけど、なかなかそれでは割り切れない。
謙虚な人だったら「私の不徳の致す所」と言って受け入れる。
なんにせよ、人はそれほど因果関係の中にあって、それを当然だと思ってる。
この「因果関係」とは「ギブ&テイクの関係」「人間関係の役割分担」と
言い換えてもいいと思う。
「あの人は優しいから好き」とか
「人から認められたいから~~をしよう」とか
「あの人がもうちょっと~~してくれたら私は~~できたのに」とか
もう、考え始めればイヤになるほど、私たちの思考は原因(動機)と
結果(行動)が結びついてて、結局のとこ因果関係にすっぽり収まってしまってる。
だから、この世において、人は人を責める。
なぜか?
不当さを見出すからです。
不当さとは何か?
因果関係がつりあっていないことです。
「私は~~したのに、あなたが~~しないのはずるい」
「あなたは~~してもらってるんだから、~~しないといけない」などと。
人はみな、因果関係に支配され、またそれによって人を支配してる。
しかし、愛とは、そのような因果関係を超越しているのです。
「無償の愛」「愛は見返りを求めないもの」とよく言われますが、
どうして愛がそのようなものであるかといえば、愛は因果関係の内になく、
つまり原因なくあるから、結果もまた必要としないのです。
もちょっと説明すると、
「憎しみに憎しみをもって対してはいけない。許しなさい」
なんてことが言われたり言われなかったりします。
なぜか?
憎しみに憎しみをもって対すれば、また憎しみが生まれ、憎しみの因果が
尽きないからです。
でも、憎しみを断ち切ることは難しくって、それを可能にするのが愛だと
言われたり言われなかったりするわけですが、どうして愛にそれが可能かと
言えば、愛は因果関係を超越してるからです。
それまので成り行き(原因)を一切問わないからです。
逆に言えば、因果関係を問わない、それまでの成り行き(原因)を一切問わないで
ただ受け入れることが愛なのです。
話を進めると、キリスト教が言うところの「神の御国」「永遠のいのち」と
仏教言うところの「彼岸」「ニルヴァーナ」って、結局のとこ同じことを
さしてると思うんです。
「過ぎ去るものは虚妄である」「全てのものは過ぎ去るのみ」とは
仏陀の言葉で(だからこそ仏陀はニルヴァーナ=揺らぐことない安らぎの境地、
を目指し、そこへと至る)、これと同じような台詞が新約聖書にもでてくる。
パウロが「この世のものはただ過ぎ去る」と手紙に書いてる。
そして、キリストも含めて「神を愛せよ」「あなたの隣人を愛せよ」と
愛を説くのは、愛が過ぎ去らないものだからです。
その論拠として、新約聖書では「神は愛である」と端的に書いてあるし、
旧約聖書において
「主は言われる。私はあなたから離れないし、また、あなたを捨てない。」
とある。
この愛によって達せられるものが神の御国であり、永遠のいのちであって、
これはつまりニルヴァーナだろう、と思うのです。
ちなみに、「私はあなたから離れないし、また、あなたを捨てない」
という言葉、私はとても好きだ。まさしく、愛のことばだと思う。
さて、
すべてが過ぎ去るこの世において、過ぎ去らないものは愛(=ニルヴァーナ)
だけである、と(私は解する)。
どうしてこの世の全てもののが過ぎ去ってしまうのかと言えば、この世の全ては
因果関係に支配されて流転してるからです。
因果関係を超越したもの、つまり愛(=ニルヴァーナ)だけが、過ぎ去らない。
何度も書くけど、愛は「あなたから離れないし、また、あなたを捨てない」のです。
人を愛するのに理由なんて要らない、と言われるけど、まさにその通りだと思う。
今の世の中では、愛はスーパーインフレで、うさんくささすらありますが、
でも、聖書で説かれた愛は、確かにあって、信じるに値するものだと思う。
てか、「信じる」ということは愛の基本であって、信じてもいないものを
愛するなんてできないぞ、と。
聖書を読んでて思うのは、「結局のとこ、仏教と言ってることが同じだ」と。
よく似てると思うんだけど、明らかに違うのは、今回説明した因果論です。
仏教では因果論を展開して、「これから逃れよ」とくるんだけど、
聖書は、はなっから、神は因果を超えたところにいるのが、なんとも面白い。
(仏陀もあらゆる因果から解き放たれてるわけですが、それは因果を超越した
というより、すべての原因を消滅した存在であって、聖書の神とは違う)
ごぶさたしてる間に、ホリエモンは逮捕され、トリノオリンピックは開幕し、
他にもいろんなことがあったんでしょうが、新居において新聞もとっていない、
ネットもつないでいない、テレビもない私にはなんのこっちゃらさっぱり
わかりません。
情報から隔絶されてると、人間がものすごく落ち着くよ、どうでもいいけど。
情報が一切入ってこない中、静かに新旧聖書を読んで考えるでもなく、
考えないでもなく時を過ごしておりますと、1こ分かったことがあって、
それがタイトルに書いたことです。
因果とは元々仏教用語で、因果論は、潜在的に仏教徒な日本人に馴染み深い。
だから、この世のことは全て因果関係によって成り立ってる、
と日本人は自然に思ってる。
結果には原因があって、いいことが起こるのは、その人がいいことをしたから、
悪いことが起こるのは、その人が悪いことをしたから、と。
だから、自分に思いもよらぬ不幸が襲った時、人は思う。
「なぜ私に?」と。
「私は何も悪いことしてないのに」と。
不幸な目にあった因果関係を知りたがるし、因果関係が見当たらない場合は、
「神も仏もない」と嘆いたり、不当だと思ったりする。
悪いことにおいては特にそうなんだけど、因果関係がないと人はなかなかそれを
受け入れたがらない。
「運が悪い」と言って諦める方法もあるけど、なかなかそれでは割り切れない。
謙虚な人だったら「私の不徳の致す所」と言って受け入れる。
なんにせよ、人はそれほど因果関係の中にあって、それを当然だと思ってる。
この「因果関係」とは「ギブ&テイクの関係」「人間関係の役割分担」と
言い換えてもいいと思う。
「あの人は優しいから好き」とか
「人から認められたいから~~をしよう」とか
「あの人がもうちょっと~~してくれたら私は~~できたのに」とか
もう、考え始めればイヤになるほど、私たちの思考は原因(動機)と
結果(行動)が結びついてて、結局のとこ因果関係にすっぽり収まってしまってる。
だから、この世において、人は人を責める。
なぜか?
不当さを見出すからです。
不当さとは何か?
因果関係がつりあっていないことです。
「私は~~したのに、あなたが~~しないのはずるい」
「あなたは~~してもらってるんだから、~~しないといけない」などと。
人はみな、因果関係に支配され、またそれによって人を支配してる。
しかし、愛とは、そのような因果関係を超越しているのです。
「無償の愛」「愛は見返りを求めないもの」とよく言われますが、
どうして愛がそのようなものであるかといえば、愛は因果関係の内になく、
つまり原因なくあるから、結果もまた必要としないのです。
もちょっと説明すると、
「憎しみに憎しみをもって対してはいけない。許しなさい」
なんてことが言われたり言われなかったりします。
なぜか?
憎しみに憎しみをもって対すれば、また憎しみが生まれ、憎しみの因果が
尽きないからです。
でも、憎しみを断ち切ることは難しくって、それを可能にするのが愛だと
言われたり言われなかったりするわけですが、どうして愛にそれが可能かと
言えば、愛は因果関係を超越してるからです。
それまので成り行き(原因)を一切問わないからです。
逆に言えば、因果関係を問わない、それまでの成り行き(原因)を一切問わないで
ただ受け入れることが愛なのです。
話を進めると、キリスト教が言うところの「神の御国」「永遠のいのち」と
仏教言うところの「彼岸」「ニルヴァーナ」って、結局のとこ同じことを
さしてると思うんです。
「過ぎ去るものは虚妄である」「全てのものは過ぎ去るのみ」とは
仏陀の言葉で(だからこそ仏陀はニルヴァーナ=揺らぐことない安らぎの境地、
を目指し、そこへと至る)、これと同じような台詞が新約聖書にもでてくる。
パウロが「この世のものはただ過ぎ去る」と手紙に書いてる。
そして、キリストも含めて「神を愛せよ」「あなたの隣人を愛せよ」と
愛を説くのは、愛が過ぎ去らないものだからです。
その論拠として、新約聖書では「神は愛である」と端的に書いてあるし、
旧約聖書において
「主は言われる。私はあなたから離れないし、また、あなたを捨てない。」
とある。
この愛によって達せられるものが神の御国であり、永遠のいのちであって、
これはつまりニルヴァーナだろう、と思うのです。
ちなみに、「私はあなたから離れないし、また、あなたを捨てない」
という言葉、私はとても好きだ。まさしく、愛のことばだと思う。
さて、
すべてが過ぎ去るこの世において、過ぎ去らないものは愛(=ニルヴァーナ)
だけである、と(私は解する)。
どうしてこの世の全てもののが過ぎ去ってしまうのかと言えば、この世の全ては
因果関係に支配されて流転してるからです。
因果関係を超越したもの、つまり愛(=ニルヴァーナ)だけが、過ぎ去らない。
何度も書くけど、愛は「あなたから離れないし、また、あなたを捨てない」のです。
人を愛するのに理由なんて要らない、と言われるけど、まさにその通りだと思う。
今の世の中では、愛はスーパーインフレで、うさんくささすらありますが、
でも、聖書で説かれた愛は、確かにあって、信じるに値するものだと思う。
てか、「信じる」ということは愛の基本であって、信じてもいないものを
愛するなんてできないぞ、と。
聖書を読んでて思うのは、「結局のとこ、仏教と言ってることが同じだ」と。
よく似てると思うんだけど、明らかに違うのは、今回説明した因果論です。
仏教では因果論を展開して、「これから逃れよ」とくるんだけど、
聖書は、はなっから、神は因果を超えたところにいるのが、なんとも面白い。
(仏陀もあらゆる因果から解き放たれてるわけですが、それは因果を超越した
というより、すべての原因を消滅した存在であって、聖書の神とは違う)