生まれてから死ぬまでの記録

人生とは、生まれてから死ぬまでの間のこと

愛とは因果関係を超越すること~新旧聖書を読んで

2006-02-14 00:16:05 | 読書の記録
お久しぶりです。
ごぶさたしてる間に、ホリエモンは逮捕され、トリノオリンピックは開幕し、
他にもいろんなことがあったんでしょうが、新居において新聞もとっていない、
ネットもつないでいない、テレビもない私にはなんのこっちゃらさっぱり
わかりません。
情報から隔絶されてると、人間がものすごく落ち着くよ、どうでもいいけど。

情報が一切入ってこない中、静かに新旧聖書を読んで考えるでもなく、
考えないでもなく時を過ごしておりますと、1こ分かったことがあって、
それがタイトルに書いたことです。

因果とは元々仏教用語で、因果論は、潜在的に仏教徒な日本人に馴染み深い。
だから、この世のことは全て因果関係によって成り立ってる、
と日本人は自然に思ってる。
結果には原因があって、いいことが起こるのは、その人がいいことをしたから、
悪いことが起こるのは、その人が悪いことをしたから、と。
だから、自分に思いもよらぬ不幸が襲った時、人は思う。
「なぜ私に?」と。
「私は何も悪いことしてないのに」と。
不幸な目にあった因果関係を知りたがるし、因果関係が見当たらない場合は、
「神も仏もない」と嘆いたり、不当だと思ったりする。
悪いことにおいては特にそうなんだけど、因果関係がないと人はなかなかそれを
受け入れたがらない。
「運が悪い」と言って諦める方法もあるけど、なかなかそれでは割り切れない。
謙虚な人だったら「私の不徳の致す所」と言って受け入れる。
なんにせよ、人はそれほど因果関係の中にあって、それを当然だと思ってる。
この「因果関係」とは「ギブ&テイクの関係」「人間関係の役割分担」と
言い換えてもいいと思う。
「あの人は優しいから好き」とか
「人から認められたいから~~をしよう」とか
「あの人がもうちょっと~~してくれたら私は~~できたのに」とか
もう、考え始めればイヤになるほど、私たちの思考は原因(動機)と
結果(行動)が結びついてて、結局のとこ因果関係にすっぽり収まってしまってる。

だから、この世において、人は人を責める。
なぜか?
不当さを見出すからです。
不当さとは何か? 
因果関係がつりあっていないことです。
「私は~~したのに、あなたが~~しないのはずるい」
「あなたは~~してもらってるんだから、~~しないといけない」などと。
人はみな、因果関係に支配され、またそれによって人を支配してる。
しかし、愛とは、そのような因果関係を超越しているのです。
「無償の愛」「愛は見返りを求めないもの」とよく言われますが、
どうして愛がそのようなものであるかといえば、愛は因果関係の内になく、
つまり原因なくあるから、結果もまた必要としないのです。

もちょっと説明すると、
「憎しみに憎しみをもって対してはいけない。許しなさい」
なんてことが言われたり言われなかったりします。
なぜか?
憎しみに憎しみをもって対すれば、また憎しみが生まれ、憎しみの因果が
尽きないからです。
でも、憎しみを断ち切ることは難しくって、それを可能にするのが愛だと
言われたり言われなかったりするわけですが、どうして愛にそれが可能かと
言えば、愛は因果関係を超越してるからです。
それまので成り行き(原因)を一切問わないからです。
逆に言えば、因果関係を問わない、それまでの成り行き(原因)を一切問わないで
ただ受け入れることが愛なのです。

話を進めると、キリスト教が言うところの「神の御国」「永遠のいのち」と
仏教言うところの「彼岸」「ニルヴァーナ」って、結局のとこ同じことを
さしてると思うんです。
「過ぎ去るものは虚妄である」「全てのものは過ぎ去るのみ」とは
仏陀の言葉で(だからこそ仏陀はニルヴァーナ=揺らぐことない安らぎの境地、
を目指し、そこへと至る)、これと同じような台詞が新約聖書にもでてくる。
パウロが「この世のものはただ過ぎ去る」と手紙に書いてる。
そして、キリストも含めて「神を愛せよ」「あなたの隣人を愛せよ」と
愛を説くのは、愛が過ぎ去らないものだからです。
その論拠として、新約聖書では「神は愛である」と端的に書いてあるし、
旧約聖書において
「主は言われる。私はあなたから離れないし、また、あなたを捨てない。」
とある。
この愛によって達せられるものが神の御国であり、永遠のいのちであって、
これはつまりニルヴァーナだろう、と思うのです。
ちなみに、「私はあなたから離れないし、また、あなたを捨てない」
という言葉、私はとても好きだ。まさしく、愛のことばだと思う。


さて、
すべてが過ぎ去るこの世において、過ぎ去らないものは愛(=ニルヴァーナ)
だけである、と(私は解する)。
どうしてこの世の全てもののが過ぎ去ってしまうのかと言えば、この世の全ては
因果関係に支配されて流転してるからです。
因果関係を超越したもの、つまり愛(=ニルヴァーナ)だけが、過ぎ去らない。
何度も書くけど、愛は「あなたから離れないし、また、あなたを捨てない」のです。

人を愛するのに理由なんて要らない、と言われるけど、まさにその通りだと思う。
今の世の中では、愛はスーパーインフレで、うさんくささすらありますが、
でも、聖書で説かれた愛は、確かにあって、信じるに値するものだと思う。
てか、「信じる」ということは愛の基本であって、信じてもいないものを
愛するなんてできないぞ、と。

聖書を読んでて思うのは、「結局のとこ、仏教と言ってることが同じだ」と。
よく似てると思うんだけど、明らかに違うのは、今回説明した因果論です。
仏教では因果論を展開して、「これから逃れよ」とくるんだけど、
聖書は、はなっから、神は因果を超えたところにいるのが、なんとも面白い。
(仏陀もあらゆる因果から解き放たれてるわけですが、それは因果を超越した
というより、すべての原因を消滅した存在であって、聖書の神とは違う)