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日本歴史写真帖 154

2025-03-22 21:07:56 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション

日露戦役旅順開城当時の乃木大将及びステッセルと其随員


アナトーリイ・ミハーイロヴィチ・ステッセリ(ロシア語: Анатолий Михайлович Стессель, ラテン文字転写:
Anatolii Mikhailovich Stoessel; 1848年7月10日 - 1915年1月18日)は、ロシア帝国の軍人。最終階級は陸軍中将。
1904年からの日露戦争においては旅順要塞司令官、ロシア関東軍司令官。旅順攻囲戦で日本陸軍の乃木希典
率いる第3軍と戦った。姓はステッセルの表記も見られる。

日露戦争開戦により、日本軍第3軍により旅順要塞攻撃が開始されると籠城戦を展開、要塞築城・戦術の専門家で
あった部下の(正確にはスミルノフ中将の部下)ロマン・コンドラチェンコ少将を支持すると共に防衛計画を
ほぼ一任し、日本軍に甚大な損害を与える(旅順攻囲戦)。12月に203高地を奪われ、東鶏冠山・二龍山・松樹山の
正面防御堡塁が次々陥落、さらに頼りにしていたコンドラチェンコ少将が一連の戦闘で戦死し、守備兵力も大きく
消耗したことから、1万余名の残存兵力を残して降伏開城する。

日露戦争終了後に旅順要塞早期開城の責任を問われ、1908年2月に軍法会議で死刑宣告を受けるが、1909年4月には
特赦により禁錮10年に減刑される。この減刑に関しては乃木希典による助命運動が最大の理由とされている。釈放後は
軍を追放され、モスクワで茶商人などとして静かな余生を送った。

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