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なんとなく、ふわっと・・

写真と画像処理関係とひとりごとをなんとなく書き溜めていきたい

日本歴史写真帖 157

2025-04-09 22:16:12 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


愛国婦人会の創立者奥村五百子女史の徒歩服装


奥村 五百子(おくむら いおこ、弘化2年5月3日(1845年6月7日)‐ 明治40年(1907年)2月7日)は、
幕末・明治期の社会運動家。愛国婦人会の創設者。

肥前国唐津出身。父は真宗大谷派釜山海高徳寺の住職・奥村了寛(二条寛斎の妾腹の子)で、
父の影響を受けて尊王攘夷運動に参加、文久2年(1862年)には男装の姿で長州藩への密使を
務めたこともあった。同じ宗派の福成寺の住職・大友法忍に嫁ぐが死別、続いて水戸藩出身の
志士の鯉淵彦五郎と再婚するが離婚する(征韓論を巡る意見対立が理由とされる)。

離婚後、唐津開港に奔走する傍ら朝鮮半島に渡って明治29年(1896年)、光州にて実業学校を創設、
半島への浄土真宗布教のために渡った兄・奥村円心を助けた。北清事変後の現地視察をきっかけに
女性による兵士慰問と救護や、遺族支援が必要と考え、1901年に近衛篤麿・小笠原長生や華族
婦人らの支援を受けて愛国婦人会を創設する。以後、会のために日本全国で講演活動を行い、日露
戦争時には病身を押して献金運動への女性の参加を呼びかけ、戦地慰問に努めた。

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日本歴史写真帖 156

2025-04-03 22:03:46 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


日露戦役旅順口紀念表忠塔と望遠臺


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日本歴史写真帖 155

2025-03-28 22:20:45 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


旅順攻囲中敵将ステッセルの仮住居


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日本歴史写真帖 154

2025-03-22 21:07:56 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション

日露戦役旅順開城当時の乃木大将及びステッセルと其随員


アナトーリイ・ミハーイロヴィチ・ステッセリ(ロシア語: Анатолий Михайлович Стессель, ラテン文字転写:
Anatolii Mikhailovich Stoessel; 1848年7月10日 - 1915年1月18日)は、ロシア帝国の軍人。最終階級は陸軍中将。
1904年からの日露戦争においては旅順要塞司令官、ロシア関東軍司令官。旅順攻囲戦で日本陸軍の乃木希典
率いる第3軍と戦った。姓はステッセルの表記も見られる。

日露戦争開戦により、日本軍第3軍により旅順要塞攻撃が開始されると籠城戦を展開、要塞築城・戦術の専門家で
あった部下の(正確にはスミルノフ中将の部下)ロマン・コンドラチェンコ少将を支持すると共に防衛計画を
ほぼ一任し、日本軍に甚大な損害を与える(旅順攻囲戦)。12月に203高地を奪われ、東鶏冠山・二龍山・松樹山の
正面防御堡塁が次々陥落、さらに頼りにしていたコンドラチェンコ少将が一連の戦闘で戦死し、守備兵力も大きく
消耗したことから、1万余名の残存兵力を残して降伏開城する。

日露戦争終了後に旅順要塞早期開城の責任を問われ、1908年2月に軍法会議で死刑宣告を受けるが、1909年4月には
特赦により禁錮10年に減刑される。この減刑に関しては乃木希典による助命運動が最大の理由とされている。釈放後は
軍を追放され、モスクワで茶商人などとして静かな余生を送った。

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日本歴史写真帖 151

2025-03-16 20:58:53 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


黒溝台附近蘇麻堡に於ける敵の遺棄死体

黒溝台会戦(こっこうだいかいせん)とは、日露戦争中の1905年1月25日 - 1月29日にロシア満洲軍の大攻勢により
起きた日本陸軍とロシア陸軍の戦闘。ロシア側の奇襲により始まり、兵力で劣勢だった日本軍は緒戦こそ苦戦した
ものの、結果的には日本の辛勝に終わった。欧米陸軍では、ロシア陸軍の作戦目標が沈旦堡であったことから沈旦堡
付近の戦闘とも言う。

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日本歴史写真帖 150

2025-03-11 22:20:34 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


旅順攻囲軍の攻城砲

旅順攻囲戦(りょじゅんこういせん、リュイシュンこういせん、英語: siege of Port Arthur,
ロシア語: оборона Порт-Артура, 1904年(明治37年)8月19日 - 1905年(明治38年)1月1日)とは、
日露戦争において、ロシア帝国の旅順要塞を、日本軍が攻略し陥落させた戦いである。

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日本歴史写真帖 149

2025-03-05 22:41:17 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


樺太ポロアントマリ労働者の一家族

大泊町(おおどまりちょう/おおとまりちょう)は、日本の領有下において樺太に存在した町。

江戸時代から明治初頭にかけては久春古丹(クシュンコタン)と呼ばれており、中心地は後の
楠渓町一帯であった。日本領有期の当初においては樺太庁が置かれ、樺太の大都市であった。

もとはアイヌ語でポロアントマリ(Poroantomari、「大きな港」の意味)と呼ばれたが、日本の
統治下に入ってから、1908年の内務省告示第29号により、オホトマリ(大泊)と改名された。

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日本歴史写真帖 148

2025-02-27 22:11:02 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


樺太ウラジミロフカに於ける投降義勇兵の一団
明治三十八年七月十一日の状況


ウラジミロフカ
樺太(サハリン)南部のススヤ川流域の平野部に位置する都市。日本統治時代は豊原ないしは
豊榮と呼ばれた。現在の呼称はユジノ・サハリンスク。

from アジア歴史資料センター


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日本歴史写真帖 145

2025-02-21 23:34:49 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


樺太避難民の状態


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日本歴史写真帖 143

2025-02-15 21:46:42 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


歩兵第五聯隊の一部樺太メレヤ附近に於ける上陸
明治三十八年七月七日午後一時二分の状況

2個旅団編成の樺太遠征軍は、日本海海戦後新編制された連合艦隊の第3・第4艦隊からなる
北遣艦隊に護送され、7月7日、樺太南部の亜庭湾岸に侵攻(後の大泊郡深海村女麗-メレイに
上陸)した。当時、南樺太のロシア軍の兵員は、1,200名程度と少なかったため、遊撃戦への
転換を図り、5つのパルチザン部隊が編成された。日本軍は優勢な戦力を背景に、8日には
コルサコフ(日本名:大泊)を占領、10日にはウラジミロフカ(日本名:豊原市-北豊原駅
付近・現在のロシア名:ユジノサハリンスク)を占領した。12日には、ウラジミロフカ西方の
ダリネエ村(日本名:豊原市西久保)付近の林で、日本軍はロシア軍主力を撃破し、捕虜200人を
得た。日本軍は19人が戦死し、58人が負傷した。16日にはコルサコフ方面司令官
アルチシェフスキー大佐も降伏した。しかし、ロシア人パルチザン部隊はその後も1ヶ月以上に
わたって抵抗を続けた。

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日本歴史写真帖 142

2025-02-09 22:02:41 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


樺太島我陸戦隊上陸援護お砲艦
明治二十八年七月七日午後零時十五分の状況


樺太作戦(からふとさくせん)は、日露戦争最後の戦い。アメリカ合衆国大統領の講和勧告後、日本は
講和談判を有利に進めるためにロシア領の樺太に侵攻し占領した。

樺太占領は、参謀次長長岡外史の次長就任以前からの持論だった。しかし、1904年(明治37年)9月8日には、
長岡が立案した樺太攻略案は不裁可となった。1905年(明治38年)3月22日に大本営で樺太遠征準備の会議が
開かれたときも、海軍などの反対で実現には至らなかった。

日本の首脳部では樺太占領は消極的だったため、長岡外史参謀次長は満洲軍総参謀長の児玉源太郎陸軍
大将に協力を依頼、1905年6月14日、児玉より、講和談判を有利に進めるために、樺太占領を勧めるとの内容の
電報があった。6月15日に至って、樺太作戦の件が政府・統帥部の協議で決定し、6月17日に明治天皇の裁可が
下り、新設の独立第13師団に出動命令が下された。

樺太占領後の8月10日から開始された日露講和会議(ポーツマス条約)の結果、樺太を東西に横切る北緯50度線
以北はロシアに返還されたが、以南は正式に割譲させ日本領となった。

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日本歴史写真帖 141

2025-02-03 22:29:53 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション

病める日本捕虜
敵国に捕虜となり病を得たる同胞が露国百九十九聯隊の病院に収容されたる光景なり


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日本歴史写真帖 140

2025-01-28 23:37:42 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション

日本衛生隊に露国負傷捕虜収容


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日本歴史写真帖 139

2025-01-22 22:25:31 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


奉天の満州軍総司令部
是れ山縣元帥密かに戦地に赴き満州軍欧司令部を奉天に訪はれたる当時の撮影


二元帥と六大将 
奉天に視察に訪れた山県有朋を囲んで 左から4人目が大山巌 (左から黒木為楨第1軍司令官、野津道貫第4軍司令官、
山県有朋参謀総長、大山巌、奥保鞏第2軍司令官、乃木希典第3軍司令官 児玉源太郎満洲軍総参謀長、川村景明
鴨緑江軍司令官) 明治38年7月26日 「大山巌関係文書」62-18


from 史料にみる日本の近代 国立国会図書館


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日本歴史写真帖 138

2025-01-16 23:13:29 | 日本歴史写真帖



秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913)
国立国会図書館デジタルコレクション


二〇三高地


203高地

203高地(にひゃくさんこうち、にいまるさんこうち、ロシア語: Высо?кая Гора?、ヴィソーカヤ・ガラー)は、
中国東北部の遼東半島南端に位置する旅順(現在の大連市旅順口区)にある丘陵。日露戦争の旅順攻囲戦では
最大の激戦地となった。

地名はこの地の標高に由来する。

日露戦争の激戦地であり、1985年に市級文化財、1988年に省級文化財に昇格した。ただ、旅順は中華人民共和国
成立後も1954年まではソ連軍が使用しており、その後は人民解放軍の北海艦隊基地となり外国人の立ち入りを禁じた
「未開放区」となっていた。1996年7月に水師営や203高地などを含む一部地域が開放された。

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