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日本歴史写真帖 103

2024-08-25 23:35:43 | 日本歴史写真帖

 


秋好善太郎 編『日本歴史写真帖』, 東光園, 大正2 (1913) 
国立国会図書館デジタルコレクション


同妃殿下の御青年時代  故北白川宮殿下の御平服


北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさしんのう、1847年4月1日〈弘化4年2月16日〉 - 1895年〈明治28年〉
10月28日)は、日本の皇族。北白川宮第2代当主。陸軍軍人。幼名は満宮(みつのみや)。最後の輪王寺宮(りんのうじ
のみや)として知られる。

伏見宮邦家親王の第9王男子。生母は堀内信子。幕末に活躍した山階宮晃親王と久邇宮朝彦親王の弟で、仁孝天皇の
猶子にもなっているため、孝明天皇の義弟、明治天皇の義理の叔父に当たる。また、弟で義父に当たる北白川宮智成
親王が孝明天皇の猶子に当たるため、明治天皇の義理の甥でもある。

明治26年(1893年)11月10日に第4師団長となる。明治28年(1895年)、日清戦争によって日本に割譲された台湾征討
近衛師団長として出征。ところが現地でマラリアに罹り、10月28日、台湾全土平定直前に台南にて薨去。遺体は安平
から西京丸で本土に運ばれた。この際、表向きには「(能久親王は)御病気ニテ御帰京遊バサル」ということになって
いた。日本到着後、陸軍大将に昇進が発表された後に、薨去が告示された。国葬に付され、豊島岡墓地に葬られた。

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能久親王妃富子(よしひさしんのうひ とみこ、文久2年閏8月8日(1862年10月1日) - 1936年(昭和11年)3月20日)は、
日本の皇族。北白川宮能久親王妃。

宇和島藩最後の藩主だった伊達宗徳(のちに侯爵)の次女。後に旧薩摩藩国父の島津久光(のちに公爵)の養女となる。

1886年(明治19年)7月10日に北白川宮能久親王と結婚。能久親王の信頼も厚く、日清戦争が始まった1894年(明治27年)
には明治天皇のご機嫌伺いに広島の大本営へ遣わされた。 翌1895年(明治28年)10月28日、台湾に出征(乙未戦争)した
能久親王が台南で病没、富子妃は満33歳で未亡人となる。

1901年(明治34年)10月20日、宮地厳夫掌典が奉持する御霊代とともに、装甲巡洋艦浅間に乗艦し渡台し、24日午前
10時に基隆港に到着した。盛大な奉迎の中台北入りして台湾総督官邸に滞在し、10月27日の台湾神社鎮座式に参列。
翌10月28日(能久親王の命日)の例大祭で玉串を捧げて拝礼した。

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