十三のカーネルおじさん

十三に巣くってウン十年。ひとつここらで十三から飛び立ってみよう。

結婚記念日

2013-09-29 06:35:03 | 散歩

毎年結婚記念日は仕事を休みにしている。今年はバスツアーを予定していたが、定員数に満たず催行中止になり、予定変更。石山寺までのドライブ。昼食は瀬田川沿いの川魚料理の『ちか定』。私は「松定食」、彼女は「ひつまぶし」。うなぎは勿論おいしかったのですが、生まれて初めて食した鯉の煮付けが抜群でした。『ちか定』はもう一度行ってみたい店になった。

 石山寺は高校の遠足で行ったが、半世紀以上前の遠い記憶。本堂の前で友人達と談笑しているシーンだけが残っている。瀬田川を横に見ながら石山寺に到着。参拝客は少なかったが、境内は広く、たっぷりと楽しんだ。拾翠園のなかの淳浄館での「54歩で読む『源氏物語』」のパネル展示。見事に咲いた藤袴、萩の花。紫式部展も充実。高校時代の記憶が一新した良い再訪でした。

 車窓からの瀬田川

 文字通り石の山の上に建てられた寺でした。

 

 


戦没学生の手記21戦争の話を聞こう

2013-09-26 15:47:36 | 世の中

篠塚龍則

 


 大正十二年一月二十七日生
 第一高校を經て昭和十八年十月文學部教育學科に入學
 昭和十八年十二月入營
 昭和二十年一月三十一日ルソン島イサベラ州サンチヤゴで戰病死


 僕の好きなものの一つに童謡がある。又民謡もすきだ。柳田國男さんの話に依ると民謡はその

土地の人々の生活苦から自然と生れたもので、苦しい生活を慰安するためその土地の人々の口か

ら生れた等しい感情をこめた歌であつて、代々に傅はつて古いものになると、奈良朝時代の面影

を止めてゐる民謡もあると云はれてゐる。だから民謡を研究する事に古代民族の國家生活も窺ひ

しり得るとも思はれる。だから日本人ならばやはり心情にぴつたりするものがあるのだらう。又

ぴつたりしないものは長い間にいつのまにか忘れ去られてしまつたのだらう。それから童謡、特

に子守唄だが、此の中に含まれてゐる言葉も、代々世を經るに従ひ變化する。其は印象を強く殘

してゐた文句を他の場合に應用して用ふるからである。

  ねんねん子守はどこへ行た


  山を越えて里へいた


  里の土産は何々か


  箪笥長持挟み箱


  それほどもたせてやるならば


  又から歸れと思はすな。



 雨が降つてゐたが今日も演習に出かけた。鐵砲持つて走つて行つて伏せたら汚れた草々の葉に

美しい露が置いてあつた。今迄戰闘を目的として駈けて来た自分とは全然別個の静かな世界があ

つた。「静寂」は偉大を生むと言はれてゐるが、確かにそこには、美しい小さな分野が隠れてゐた。

「小さなもの、それをじつとみつめてゐると、そこには一つの大きな世界がある」とはトルストイの言

であるが、本当にきれいな露の中には宇宙の一分子たる神秘が秘められてゐる。小さなものを『み

つめる』心、そんなものが今俺には必要なのではないかと思はれる。
  

秋の野に咲ける秋萩秋風になびける上に秋のつゆおけり

 

                                                     はるかなる山河に p112~p114







戦没学生の手記⑳戦争の話を聞こう

2013-09-25 16:04:41 | 世の中

山隅 觀
 大正十二年二月十二日生
 広島高校を經て昭和十七年十月文學部国文科に入學
 昭和十八年十二月入營
 昭和二十年八月十二日夕六時華北河南省密縣季堂村附近で戰死


     大山先生に


  一もとは紅一もとは白ざきの山茶花うゑぬ我がかたみにと


  不吉なる花にあらすやと人はいへ死せむいのちと山茶花うゑし


     木村敏介氏に

  富士の嶺は雪に埋れてをるらむと思ひすがしむこのごろの夜は

家に殘せし歌


  風鳴りて夜は更けにけり門出する明日を待ちつゝ墨すりにけり


     烏


  圍壁破れ土とくづれし廢屋に烏のあまたむれて飛び交ふ


  鳴き交し稜線上を飛びゆけるからす幾百羽子烏もゐて


     鶉


  小花咲くくさむらゆけば足許を羽音も高く飛び立てる鳥


     雁


  口々に雁ゆくといふに見上ぐればくもれる空を雁渡りゆく


  たそがれの近づく空はくもりとぢ雁流れゆく西の方へと


  滿洲の野は秋深く草枯れば雁は渡るか南の方

 (豫士校卒業當時父宛


 父上様

 幸便がありましたからお便りします。
 

支那に行くことになつて中隊長殿始め休暇の件につき上申して下さつたのですが却下されまし

た。一度大陸の部隊に來れば二ケ年は内地の土が踏めぬのが法規的に定められてゐる相です。

區隊長殿も陸士の豫科より結局中尉で戰地より歸るまで家には歸られなかつたとのことゝ非常に

同情を寄せて下さいました。併し軍隊ボケといふか卒業の日が樂みでなくなつた丈又朝がた目が

さめて一時間半もじつと床にゐるといふ事が起つた丈であります。父上母上の御落膽思へば今ま

での不孝が思ひ當ります。併し一面このこともあらんと必要の最少限の本を持つて來たことが何よ

りの強みです。寫眞をことづけます。アルバムに貼つたのを荷になるのではがしました。アルバム

自身は四平からでも送つて貰ひませう。番号順に貼つて下さい。この一週間は卒業の爲の準備で

大童、まだ日數があるのですが用件から書いて參るつもりであります。

 もし北京又は交通便な所にでもゐる様でしたら別ですが文庫本でも時々お送り下さい。例へば

『ウイルヘルムマイスター』とか『歌集』とか、どちらにしても讀み捨てゝ行かねばならぬのでどこまで

も持つべきものとさうでないものとあるわけですが。
 

軍隊に入つて、今までの環境、殊に友人達のよさがしみじみわかります。過去の友人の馬鹿ぞろ

ひがしみじみと有難い氣がします。勿論こゝでも心から話せる友がゐるのですが、大きな流れはそ

んなものとは異つてゐます。

 昨日は生徒隊長殿の訓話がありました。初めはしかつめらしい話も、酒に及んで忽ち漫談になつ

てしまひました。夜は區隊で會食しました。周圍の友人がよくて酒を呉れて三合ばかりは飲めまし

た。大した御馳走でした。卒業式には三長官主催の會食があります。
 

演習の思ひ出、滿人のこと、寒さ、新京のこと、學校のこと、色々語りたいことも多いのですがこれ

で止めます。

 父上も、五十の坂を相當進まれてしまつたと思ひます。こゝにゐると自分の年齢すら忘れて了つ

て父母の年も考へねば思ひ出せぬ親不孝さです。
 

戰局苛烈の極、戰場は既に内地に及ぶ。お大切に。

 (最後の便りより


 支那家屋に寝なれて久し夜毎見る夢ことごとく父母なれど

 夢に見る母涙ぐめ我母はうつゝは強し泣き給ふまじ
  

 

                                     はるかなる山河にp109~p112



戦没学生の手記⑲戦争の話を聞こう

2013-09-25 15:39:00 | 世の中

森本浩文
 大正十二年三月八日生
 第八高校を經て昭和十七年十月法學部に入學
 昭和十八年十二月十日入團
 昭和十九年十月十四日台湾方面で戰死


 (昭和十九年二月十一日 父へ)
 今日は紀元節であります。空はくつきり晴れ渡つてゐますが風が中々きつい。二三月頃に吹く

東京の空つ風と云つて有名なものです。森さんのところにゐた時なども空の快晴の日で、大學か

ら歸つて來てみると疊の上がザラザラしてゐました。特にここは埋立地で砂埃がものすごく先程

も勅語奉讀式にグランドへ出て歸つて来て見ると、立派な士官服が眞白でした。何するともなく

硝子越に外を眺めてゐます。海が光つてゐます。何だか物悲しい氣持です。この兵舎は南向きに

立つてゐますが、このずつと南の涯に兄貴がゐると思ふと雲か霞の水平線に心が吸ひとられて夢

見る気持です。學校にゐる時は、自分の我儘から一寸も兄貴に便りしてやりませんでしたが、自

分が軍隊生活を送つて見て初めてどれ程家が戀しいか家からの便りが懐しいかがはつきり分りま

した。私等はまだ軍隊生活と云つても内地而も帝都のド眞中にゐてすらこの様です。兄貴は遥か

異国の地にあつて頑張つてゐるのです。どれ程家の事を思つてゐるか。家からの便りを待つてゐ

るか。私ならもう當然氣でも狂ひさうな所です。どうか私には一回位便りが抜けても宜しいから

兄貴にかいてやつて下さい。お父さん、お母さん、姉さん、和男、八千代の夫々直筆が宜しい。

大切な兄貴を皆の眞心で護らなければいけない。どんな事があつても兄貴を死なせてはならな

い。春の暖い日を受けて座敷の口で兄貴と将棋をさした事を思ひ出します。早くもう一度あの様

な日の來る事を待つてゐます。和男は今の中にせいぜい家の氣楽さを味はつておけよ。かういつ

ても今のお前には家のよさが分るまいがなあ。

 (昭和十九年二月二十五日 父へ


 お母さんからのお便り昨夕受取りました。お父さんからのお便りをそれより以前十六日に入手

してをつたのですが、この二三日來の打續ける寒さの爲(一昨日は特に激しく昨日の朝は積雪三

寸にも及びました)一寸いぢけて了つてすまぬ事をしました。森さんから十三日頃便りを頂いたの

に家からはちよつとも來ないのでせいを落してゐましたが考へてみると前期の見習尉官(佐原な

どです)の所へ紛れて居つたらしく思はれます。昨日はお母さんを始め八千代、山下の叔母チヤ

ン、八高の競技部からとどつさり便りを頂いて今日は大いに愉快です。それに雪を落してしまつ

たせゐか一天快く晴れて大分暖かになりました。この調子にのつて春がきてくれたらいいと思ひ

ます。お母さんのお手紙涙がこぼれさうな思ひで讀みました。こんなに喜んで下さるかと思ふと

見習尉官になれた事が特別嬉しく思はれます。この上一層勉強して我が運命の女神と故郷(くに)

と銃後の皆々様の期待にそむかないやうに致します。氏神様、鹽尾寺様へお禮参りに行つて下さ

つたとの事有難く思ひます。お母さんの信心されてゐる神様は誠に靈験あらたかです。その證據に

は兄貴を見れば分ります。ガダルカナルの様な猛烈な處へ行つて生還し得たのは一つは兄貴の

体力の強靱さと精神力特に部下に對する人格力の偉大さと他の一つは氏神様や不動様を通じて

のお母さんの信心です。今度面會に東京へいらつしやつた時には是非成田の不動様へもお禮参り

に行かれる事ですね。私も時間が許せたら必ずお伴しますよ。それで思ひ出しましたが去年の四月

の末頃突然お母さんが下宿へ來られた事がありましたね。あの時は電報が遅れて本当に思ひがけ

ませんでした。大学から歸つて來てみると森さんが「お母さんが來られてゐますよ」と云ふんでせ

う。「え、本當ですか」と云つたきりやにはに階段を二つづつ上つて障子をガラツと開けて、スヤスヤ

と眠つてをられるお母さんの寢顔を見た時は、丁度あの頃は私の紳經衰弱的症状が一番ひどかつ

た時で上野の花を見ても美しいと思はず、萌え出づる銀杏の若葉を見てもその精氣に感ずる事なく

一番いけない事には何を見ても何を聞いても泣けなかつた事ですが、あの時お母さんの寢顔を見た

時許りは何かしら胸にこみあげてきて目頭がうるんだ事をおぼえてゐます。然しあの頃はいつもで

ありましたが、あの時もお母さんを素氣なくもてなしてすまぬ事をしました。心が衰弱してゐる者の

として自分の本心をすぐおしかくしてしまつて変な處に意地を張つてゐたのではないかと思はれ

ます。それに又成田山株式會社だなどと云つて特にお母さんの氣に障る事を申したりしました。然

しこれも眞面目に信心なさるお母さんを欺す成田の坊主共が憎かつたのだと思つて頂ければ幸福

です。實際幾分でもさういふ處があつた事は確かです。それにしても、もつと云ひ方があつた、又あ

の時あんな事を云ふべきでなかつたと今から悔まれます。實際八高の三年時分から大學一杯、ま

るで駄々つ子の様にむづかつてゐました。家へかへつて來ても、待ち焦れてをられるお父さんの心

に合ふやうな事はちよつとも云はなかつた爲に、お互に面前ではさして會ひ度いとは思つてゐない

といふやうな顔をして又上京してしまふ事が度々ありました。然し私はその後で非常な淋しさにお

そはれて(その様な時には屡々急にお父さんやお母さんがゐなくなられる事が想像されて仕方な

かつたものです)何故あんな云ひ方をしてしまつたのだらうと後悔しながら汽車に身をゆらせたもの

です。お父さん、お母さん、体に氣を付けて長生して下さい。

                        

                                 はるかなる山河二p105~p108




戦没学生の手記⑱戦争の話を聞こう

2013-09-19 16:42:57 | 世の中

山岸久雄


 大正二年十月二十九日生
 静岡高校を經て昭和十二年四月工學部建築學科に入學十五年三月卒業
 昭和十七年一月十日入營、滿洲、比島に轉戰
 昭和二十一年七月二十八日東京大蔵病院で戰病死


     北滿に於いて
  手折りたる土筆なつかし故郷の妹がつみしも同じこのころ

     白波(マニラに向ふ)
  家人は知るや知らずや南へ波路踏分けわが進むとは
  一筋の想亂るる時なれや便りなくして離れ行く身を
  赤き屋根汀に見えて恙なくマニラに著くと妻に知らせん

     セブ島
  パパイヤの甘きふくみに夜風吹く木葉隠れのセブの月影

     望郷
  笹川や緑の畑の美しきわがふる里の春を忘れじ

 

                           はるかなる山河に p103~p104


戦没学生の手記⑰戦争の話を聞こう

2013-09-18 20:48:59 | 世の中


山中忠信

 大正十一年三月五日生
 第三高校を経て昭和十七年四月文學部倫學理科に入學
 昭和十八年十二月入團
 昭和十九年八月十五日横浜海軍病院で戰病死


 昭和十八年十二月三十一日(大竹海兵團生活日記の一部)
 娑婆を離れた場所でも正月になれば正月らしき樂しさが來る。楽しさを近き明日に有つ者、何だか人間も可愛想になる。何と云つても正月は五十日の海兵團に於ける生活の眞中に位する息抜きの日なのだ。何はともあれ嬉しき事には變りはない。長い生涯であるかも知れない併し今は長い生涯を考へてはならない。
 此の一、二、三年を、これ迄の年月を自己の生命の一つの區切としなければならない。全てはこの想定の下に自己の若き生命に一つの完結を與へておかなければならない。全く虚の様だ。然し之は現實の事なのである。つく/と軍隊が嫌になる。然しこの様な事を考へてはならないのだ。歴史であらうか、何であらうか、兎に角譯の分らない得体の知れないものだ。
 之に人間が歴史の名前を與へた。起るもの、生起するもの・・・其の裏には不可解のものがある。何や彼や解らないものゝ中に個人々々は盲目同様亡びてゆく。 全く窮屈で可憐なものである。人間は全く憐む可き存在だ。それにしても此頃は涙もろくなつて仕方がない。家の生活をもつと良く落ちついてしんみりとして置けばよかつた等々──盛んにホームシツクになる。この様な生活も未だ二十日餘、全く嫌になる、一日も早く出度いものだ。軍隊は全く人間を○とする。動物を鍛へる所の様だ。


 昭和十九年三月十日(横須賀海兵團分団武山海兵團生活日記の一部)


 現在の生活に自己を順應せしめることだ。而して其所で諦念を以て生きる事だ。モガイテモ悲觀しても全く致し方のない事である。盲人になつて馬鹿になつて居ますか、否々、盲人にでも馬鹿にでもなるのではないのだ。一人の人間として此の中で生きられる所迄生きてゆくことである。環境、此条件への不滿、これに対しては唯爲される儘に盲目である可しだ。 Geistig に到底軍人と正對立である。無味乾燥な兵舎の窓から春の冷雨に煙る外をボンヤリと眺めて居る。人間も世間も此の様なものであらうか。
 生の徹底、これは一の Ideal である、 Beginnである。
 現實には唯この不徹底な煮え切らない憂欝か快活か解らぬ生活があるのみである。何をして生きてゐるのか何をして居るのか解らない自分の状態である。情けなくなつてくる。樂しみの外出、一体それが何であらうか。それを樂しみにして其の一週を送るといふ事が──。  存在するのは陰欝な生活なるのみ。然もその路は短かく、涯は死であるとは考へてもくだらない事だ、つまらない事だ。人間的な欲望の充足に精一杯で終るのみであらうか。

 昭和十九年六月二十二日
 此處を出てから約四ケ月の術科教程、任官、第一線、生と死、覺悟はある。然し『死』は考へたくない。來る可き時には唯來る可き時だ。運命のまにまに死地につくのみ。遺言とか、何とか彼とか、事々しい事はやりたくない。Tagebuch が唯一の遺産である。その時迄、許される時迄此の Tagebuch を後生大事に守り乍ら自己の生の充實を願ふのみである。眞劍なる生活の記録、之あれば充分ではないか。はやる要なし、泰然として時の至るを待つべし。孤獨的なる傾向が多い、個人的なる気持が多い時も時で Begriff der Angst を讀んでゐる。 Tagebuch に上下はない。優劣はない。唯其處には、全面的なる自己があるのみである。唯自分のみを其處に表はしてゆけば良いのである。

 昭和十九年八月一日(藤澤電測学校生活日記の一部)
 何か知ら考へる餘裕が出來て來た。その日の仕事を全く役所的に濟まして後は何か自己を眺めて居る此頃の自分である。全く自分の事より一歩も外に出ない。默々として自分を守つてゐる。 egoistisch かも知れないが斯くならざるを得ない。『デイーケ』といふことを實感する。 中村から借りた向陵時報、今時の時報としては氣持の良きものである。好感を以つて隅から隅迄繰返し讀む。ヴアレリー論、主体性の倫理論、若人の創作、全く懐かしき限りである。今時にても未だ此の様な活氣のある者を出し得る向陵の力を感ずる。果して何が斯くあらしめた者であらうか。星の世界から望遠鏡で見るならば、傑作な芝居が展開されて居るのだ。此の歴史を作る大芝居の1/1000の役割よりは大なる Rolle が此の俺にもあるのだ。
 傍觀の出來る人間ではない、其の中にある人間である。如何様になるものか。 運命の車輪は廻り始めて其の止まる所を知らない。今年中には山が見えると言ふ。どの様な山であらうか。兎に角鍛へられる。而も一の形式に沿ひて、その中に自己は益々没し去つて行く。
 何かしら情ないものを感ずる。大きな計り知れない歴史の動きの中に自分といふものが没し去られてゆく様に感ずる。



                                                     はるかなる山河に p99 ~p104


戦没学生の手記⑯戦争の話を聞こう

2013-09-09 15:59:14 | 世の中

小森寿一

 大正十一年十二月二十九日生
 第一高校を經て昭和十八年十月法學部に入學 昭和十八年十二月海軍に入隊
 昭和二十年一月二十二日比島で戰死


 昭和十九年七月五日
 或る友に
 何から語つていゝか、泌々と感じた事を書き陳ねて行くと云ふことが随分久しく無かつた爲か。昔味つた胸をときめかす様な思想の發展を樂しみながら綴つた装飾多き章句の連鎖も浮ばない。或ひは此の手記が君にとつて退屈なものであるかも知れない。退屈になつたら煙草をふかし雜談を交へながらでもよい。嘗つての友情に縋つて一讀して貰ひたいと思ふ。
 しかし一体何を書かうと云ふのか。思ふに濛々たる細雨の夕は人を追憶に引入れずには措かぬものらしい。何かしら無性に昔がなつかしくなる。眼を閉ぢると彼の俤、此の笑顔が浮ぶ。机の中には君達に貰つたあの寫真があつた。あの裏には君も知つてるだらうね。 Faust の巻頭の一句
  樂しかりし日のくさ/の象を汝達は齎せり
  さて許多のめでたき影ども浮び出づ
  半ば忘られぬる古き物語の如く
  初戀も始めての友情も諸共に立ち現る
を俺は書き入れたんだが、其の寫真を見てゐる中にそれこそ Faust では無いが
  我慄に襲はる。涙相踵いで落つ。
  嚴しき心和み軟げるを覺ゆ。
  今我が持ちたる物遠き處にあるかと見えて
  消え失せる物、我が爲には現前せる姿
となつた。
 今俺はさう云ふ氣持でこれを書いてゐる。云はゞ半年前の俺になつて半年間の海軍生活の印象を古い思出話として話すのだ。だからきつとぼんやりした摑みどころの無いものにならう。俺自身夢を見てゐる様な氣持なのだし、外には霖雨の中に月が暈をつけて煙つてゐると云ふ状態なのだから。
 海兵團時代──今から思へば多少懐しくなくもないが、其の當時は憂鬱そのものだつた時代、自由を謳歌し解放を思ふさま享樂した高等學校から冷い軍紀と嚴しい束縛とに凍てついた様な海兵團へ入つた時どんなに俺は愛情を欲したことか。奔騰する憂国の至情も逸脱を許さぬ躾に押へられて只管俺は愛情を、ニイチエの所謂『唾棄すべき同情心』を求めた。一日に葉書を十何通書いたのも此の熾烈な求愛に出たのかも知れない。あそこでは人は到底『愛を必要とせざる超人』たり得ず『愛を求めて得ざる奴隷』でしかあり得なかつた。
 俺の同班の者にKと云ふ男がゐた。か弱い肉体と繊細な感情の持主であつたKは同時に当に虐げられた感情を歌ふ詩人であつた。大晦日の夜俺と不寢番に立つたKは
  十二月三十一日の宵寒く我は抒情の歌なくて寢ん
と口ずさんでゐた。本當に寒い夜であつた。体力的に無理なKがカツターの橈を流して教班長に擲られてゐるのを如何ともし得ず見てゐたその夜のことだつたが、確かあの夜君にも便りしたと思ふ。その葉書に
  病む友に便りする夜を凍てわたる
と拙い句を記したと思ふが記憶の誤りであらうか。あの夜は戸外の黒い大地に劣らず俺の心もましてKの心も凍てわたつてゐたのである。そのKにも俺にも嬉しい退團の日が迫つて来た。東大法科の三年であつたKには主計見習尉官合格の自信があつたのであらう。彼の歌にも明るい希望の色が射し始めた。
  父母は起きてゐまさむふるさとの空に向へば心足らへり
 ある日彼は俺に一つの不安を打明けた。Kは高校時代思想問題で半年余も檢束されたが結局無罪不起訴となつたと云ふのだ。それは單にKが委員をしてゐた文藝雑誌に一先輩が左傾論文を寄稿したと云ふに止るらしい。又事實Kは詩人らしい輕やかな魂の持主で拮屈な辦證法的左翼思想とは全く縁遠い存在だつた。勿論俺は輕く其の不安を一蹴したが、そしてKはすつかり安心したらしかつたが、俺には一抹の不安があつた。
 發表の日以後のことはKの
  ちゝはゝを呼びつゝ我は冬雪の深みの下にせんすべもなし
と云ふ歌と、俺の
  白雪の深みの下に默(も)然(だ)居りて失意の友に云ふすべもなし
  失意の友を苛む如く思ひつつ雄心持てと我は語りぬ
と云ふ二首の歌から想像して貰へると思ふ。
 成程Kは過去に汚點を有し、又軍人として相應しい性格の持主ではなかつたかも知れぬ。しかし彼の魂は清純な殆んど天そのものと思へるまでに汚れなきものであつた。君には水兵の生活、殊にKのやうな男にとつてそれがどれ程苦しいものであるかわからぬだらう。しかし俺達が退團する前夜Kが自殺を圖り俺がそれを發見してそれを未遂に終らしめたことが果して彼にとつて幸であつたかどうか俺は長く苦しんだ、と云ふ事實がある。余りに長く俺はKのことを書いた様だ。しかし此の事實は人の世の嶮しさを沁々と俺に印象づけた。批判は君にまかせたいと思ふ。
 土浦──我が海鷲揺籃の地、朝日水清き霞ケ浦に映じ、夕陽筑波の連峯を朱に染むるところ、此處で俺は始めて死に直面した。君も知つてゐる通り入團前俺はキリスト教乃至佛教の教理に觸れることに依つて生死の問題を解決して置きたいと思つた。そして盤珪の所謂『不生』に依つて又大慧の『膿滴々地、日々是好日』なる禪語に依つて略々安心し得たと思つた。しかしそれは所詮生を基盤とし死を彼岸視した時の生命観に過ぎなかつた。云はば肉体から切離して死を抽象的に見、生死を同位に列せしめようとする様なものであつた。
 若い搭乗員等は戰地で出撃相次ぎ肉体的苦痛が最高度に達すると、死がたまらない魅力になり進んで死地に就きたがるさうだ。俺の所謂安心立命も多くの理論の粉飾を除けば實は此の程度の安易なものであつた。
 フアウストが呪に依つて地靈を呼び出しながら其の餘りに恐しく嚴しき姿に顔を掩ふあの場面を帝劇で見たのは昨年の春だつたかしら。
 ある日霞ケ浦航空隊の一機が土浦に不時着して火を發し、風房が開かず、俺達の見てゐる前で搭乗員は盡く慘死した。爲すべき術も無く手を束ねて見てゐる俺達にはのた打ち廻る搭乗員の姿があり/\と見えたし、其の叫び聲も耳を打つた様に思ふ。
 死の容貌は俺にとつてフアウストに於ける地靈の如きものであつた。此の一瞥以来俺は自己の生死觀の再検討を餘儀なくされた。
 正直に云つて先づ死は從来より遥に怖く厭ふべき存在となつた。祖國への奉仕はかくも呪ふべき死をも賭さねばならぬのであるか。問題は必然に個人と國家の相關存在状態の根本理念の考察に移つた。換言すれば死を多少ロマンチツクに見て『捨身の美しさ』などと云つてゐたのが嚴しき現實の死に直面して再反省を促されたのだ。其の頃の俺の日記はこれをむき出しに見せてゐる。
 しかし俺は元來君も知つてゐる通り樂天的で且つ大いに不精だ。未だに解決出来ぬまゝ俺は此の隊に来てゐる。
 そして戰局益々緊迫し敵サイパンに迫ると共に俺の心に解決と云へぬまでも或る──諦念と云ふべきかも知れぬ──達觀が生れた。實際現在では君なんかの方が俺より生命の危險に曝されてゐると云ふべきかも知れぬ。俺は今まで祖國への全力的な献身は必然的に死を齎らすと云ふ一つの──倫理学では何と云つたか──矛盾觀念を抱いてゐた様に思ふ。
 寮の屋上で數百光年の彼方の星團を仰ぎつゝ君とを語つたことを思ひ出す。『 銀河を包む透明なる意志』『的理性』何と云つてもよい。『絶對なるもの』は必ずしもさう固燥したものではないであらう。運命に押し流されつゝ敢てその運命を試んとする。これは人の子の不遜であらうか。
 美しき我が愛する祖國の山河、俺を愛し慍めてくれる人々、それらを守るべく俺は全力を奮はう。其の前程に快き捨身の道あらばそれを辿らう。 厭はしく呪ふべき死あるもまた止むを得ない、万一僥倖の生あらば、また君と歡語し痛飲する機もあらう。俺は今そんな氣持でゐる。
 消燈十分前時間は盡きた。取りとめもないことを書きならべた様に思ふ。外には依然あるか無きかの雨が降り續いてゐる。第二警戒配備の空は暗い。しかし近頃俺の氣持は頓に明るいのだよ。
  風光り、雲光り、新樹光る日々
 又お便りしよう。君の健康と勉強を祈る。

                                                                     はるかなる山河にp92~p98


戦没学生の手記⑮戦争の話を聞こう

2013-09-07 14:33:05 | 思い出

坂巻豊
 

大正十年六月十七日生
 浦和高校を経て昭和十七年十月文學部教育學科に入學
 昭和十八年十二月入隊
 昭和十九年三月十一日朝鮮京城で戰病死


 昭和十八年十一月十七日


 小田さん(故人が十數年交際した婦人)へ


 前便以來、小一ト月近くなります。最も肝膽相照した親友への一枚を最後として気に入つたレ

ターペーパーもなくなつてしまひました。こんな事を書くにも、色々な過去が思ひ出されて參り

ます。學生としての手紙もこれが或は最後かもしれません。或はもう一度位書けるやうになるで

せうか。とにかく今日ありて明日なき身のはかなさを思ひ現在の感懐の一端でも書いておきたい

と甚だ亂れたもので失禮ですが暫くおよみ下さい。

いつもの通り近況から始めます。木彫は散々苦心したにも拘はらず遂に意に滿たず放棄しまし

た。又他日氣の充實するのを待つて新しく着手する筈です。

 貴女もさうでせうが、吾々近代人は信仰を失つてをります、吾々は既成のいかなる宗教にも同

感できません、キリスト教の奇蹟も救濟もまともに感受することができません。佛教もさうで

す。道などは信仰すべきものですかと反問したくなります。 吾々は信仰すべきものを失つてし

まひました。殊に日本に於て歴史を回顧する時、 吾々はその中から信仰すべき如何なる存在を發

見し得るのでせうか。


 何故、自分は突然に信仰の事を書きだしたのでせうか。端的に申しませう。近い將來に死に直

面してゐるからです。人類が宗を所有したのは人類が生れると共に死の災厄をまぬかれなかつ

たからです。信仰する心は即ち自己の無力に對する自覺から自己以外の他者而も自己に相對する

ものでなく絶對他者─人類がと呼ぶもの─の存在をこひねがひ、只管自己を謙控して彼の絶對

者に心を放射し委托し以て自己のみが人類の災厄からのがれんとするのであります。乍併この意

味に於ける信仰は最も原始的宗教感情であり吾々には所有し得ない信仰です。自分が先に信仰を

失つたといふのはかかる意味のいはば『心の信仰』をさします。素朴的信仰ともいへませう。こ

の『素朴』といふ心の意味、萬葉の日本人以來日本人は『素朴』を以て最も根源的な生活感情と

して生きて參りました。自分は最近一つの生活感情をまとめるつもりでその手がかりを過去の日

本人の中に探してみました。記紀萬葉以來まづ日本人の生活感情は『まこと』といふ表現にみら

れます。『まこと』とは如何なるものかといへば鬼貫は自然のままの情の自然に現はれたものを

『まこと』と稱してゐるのです。素朴自然なる古代日本人が自然のままの情を自然に流露するこれ

が『まこと』であります。
 

『まこと』は又真言であり眞事であります。『まこと』の生活者であつた古代日本人は倫理性に

於て善であり論理的に正しく更にその二つながら一身同時に生活し現はす處に美的な生活者でも

ありました。
 

かるが故に彼等は心からよく
  

海ゆかば水漬く屍山ゆかば草むす屍大君の邊にこそ死なめかへりみはせじ

と歌ひ、又
  

今日よりはかへりみなくて大君の醜の御楯といでたつわれは

と清澄な心境で皇戰(スメラミイクサ)に從ひえたのであります。
 

自分は今戰場に赴かんとして果してよく此の素朴なる感情に徹しうるか否か自分を疑つてゐる

のです。右の二首とも『かへりみ』ないことを強く言ひきかせてゐるのです。『かへりみ』ると

は何をかへりみるのでせうか。具体的に言へば、父母・兄弟・妻子・財産・名譽・權勢等色々あ

りませうが最も端的にはそれは生命そのものでありませう。生死の問題は人類によつて永遠に一

人一人が苦しみ解決を求める問題であります。それは決して或る天才によつて解決しうる底のも

のでなく主体的各自的な問題であります。而も彼の素朴なる人々には大君御一人に歸一隨順する

ことの信仰によつて生を超えることができたと思はれるのであります。


 實に素朴的信仰に歸依しうる人は幸ひであります。近代精は余りにも自我精の自覚を強制

しました。吾々は今やいかにしても自己を放擲することができなくなりました。吾々は自己の内

に確固たるミクロコスモスを構成し終へました。(絶對者)すらも吾々の内に求めようとさへ

します。吾々が吾々の一切であります。吾々の死は即ち吾々自身のコスモスの破滅であります。

生ある限りに於てのみ、吾々は吾々でありうるのであります。所謂素朴信仰を喪失せる吾々にとつ

て今や最も苦惱の時がまゐつたのであります。
 

 吾々は戰場に征くのであります。戰争は勿論すべての兵士を殺すものではありません。併し兵

士の或者は殺されるのであります。吾々は常にその或者であることを覺悟せねばならぬのであり

ます。則ち吾々は今や死に直面してゐると申して過言ではないのであります。吾々は自身好むと

否とに拘はらず即刻生死の問題を解決すべく強制されてゐるのであります。


 九月二十二日學徒徴兵の發表の當時学生は非常に動揺したのであります。吾人の仲間は(三

人)二十三日の夜おそくまで興奮して話しあつたのであります。又三十日には朝四時迄語り明かし

たのであります。その他連日手紙を往復したり又は話し合つたりして活動衝動を抑へえなかつたの

であります。しかしそれらはいはば一時的な興奮であり、未だ兵として召されるの實感もなく況して

死を思ふ程の切迫感はなかつたのであります。やがて興奮も去つたのであります。吾々にとつて問

題となるのは戰場に赴く事によつて吾々は死に直面すると云ふ一事であります。吾々は死を恐れ

てはゐないのであります。たゞ如何にして此の至善にして至美なる生を諦觀し得るかに最後の苦惱

を感じるのであります
 

 貴女も一度は聞かれたでせうが思想家とか論者とかが、そして日本では哲学者と稱する人達ま

でが、生活の問題について言ふことは常に軌を一にしてゐるのであります。即ちライプニッツの

単子論(アトミスムス)以来個人哲学に洗はれた西歐思想と違ひ日本思想はひたすら大君に歸一す

ることによつて永遠の生を得るのであり、日本人は國家の為に死ぬことによつて永遠に生きると云

ふのであります。例へば今机上にある『理想』十一月號を取上げて見ませう。その中に高階順治の

『大戰下學生の世界観の問題』と題する論文があります。これを讀みながら批判してみませう。
 

「……殉國はわれら皇國臣民に於いては正しく永遠の生である。…併しながらそれは直ちに刻下

の肉体的死を意味してゐる。殉國の決意は玉碎への覺悟であり肉体的死への決意である。……

死への決意、玉碎への覺悟、それは比類なく貴きものであるが故に又容易ならざるものであり、不

退轉的信念の根據を必要とするものである。信念は悲願によつて強められ、悲願は諦觀によつて

不動のものとなる。現實への諦觀、それは絶大の勇氣を必要とする。……自らの生を省み、餘儀な

き死をみつめ、……みつめつつ死を迎へるといふことは、それを超えることであり、死を超える事は

生を眞に生きることである。 生を眞に生きることは自覺的存在として自らの生を把持し、それを己

が意のまゝに最高の價値あるものに迄高めるの道は最高の價値者へ合併せしめるところにあり、

唯一聖者にこれを捧げる事にある。」 論者の云はんとする處は概ね同情しうるのであり、公然發

表するにはかかる表現はさけられぬものと思はれるが、しかしながらこれは單に自明の理を形式的

に構成したに過ぎす、内容的に何等示唆するものがない。例へば殉國に於いて永遠の生を見るこ

とは自分が先に共同体の處で説明した事であり、是は全く觀念上の安心(アンジン)であり現實的

生とは又別個の問題とせねばならない。現に論者は直ぐ後で『肉体的死』なる表現を示してをり、つ

まり論者は圖式的には次の如く言ふ。

  瞬間的生        永遠的生
  肉体的生  肉体的死  欠
  具体的生        観念的(抽象的)生

 そして論者も現實的な問題としての、肉体的死への決意の困難を認めるのであるが、そ

の困難を克服すべきものとして示す 『信念』も『悲願』も何等内容的に説明されてゐないの

であり又『現實への諦觀』が『絶大の勇氣』によつて獲得されるといふ考へ方も嚴肅に哲學

する者に對する侮辱といふの他はない。ただ『肉体的死への決意』や『現實への諦觀』が人

生に至善至美の世界を探り、生に深い愛着を有つ吾々にとつて、如何にして可能であるか

が新しい問題となるでせう。
 

 『自らの生を省み餘儀なき死をみつめ、みつめつゝ死を迎へる』ことは正に理想的なもののふの心

境ではありますが、併し死を超克することは『生を眞に生きること』でありえませうか。論者が次に唯

一聖者と云ふのは勿論天皇でありますが、吾々は吾々の生を如何に考へたなら唯一聖者に

合併せしめ得るのでせうか。
 

吾々はここに論者の虚を見るのであります。即ち論者は永遠の生へ轉ずるといふ事を以て現實的

肉体的死を肯定しようとするのであります。『やむを得ざる』死を以て『積極的に意義ある死』たらし

めんとするのであります。そこに無理があり、飛躍があるのであります。自覺的在者として自らの生

を把持し、それを己が意のままに『最高の價値あるものにまで高める』──自覺的在者にとつて最高

の價値が何であるかといふことについて論者の論述は曖昧であり吾々も亦輕々しい議論は出來な

いと思ひます。

 とに角論者は、「……反省による現實理解こそ眞の力の根源である。強いて叡智を曇らして現實

凝視を怠り、自らの強さを盲信する者ほど弱く危険なるものはない。 ……透徹によつて初めて超

克も可能となる。」と説いて以て確固たる世界觀の必要を力説する。是は當然である。
 

私は今まで生死の問題を長々と論じて參りました。そして結局次の結論に至るのであります。
 

即ち、
 

 「吾々は飽くまで生きるのが正しい。正しいとは人間として自然であり素直であり、まことの心情に

かなつてゐるといふ意味である。併し吾々は共同体の一員として共同体の要請に應へねばなら

ぬ。その爲には死も亦止むを得ない。ここに『現實への諦觀』が必要となる。然るに現實は実に諦

観し難き最極點にあり、この諦觀しがたき現實生を敢えて諦觀せんが為には最早觀の世界を超え

て行の世界否『觀行一如』の世界に悟入するに非ざればあらずと思はれる。佛者の謂ふ『觀行一

如』とは如何なる境地か。到底吾々の速急に体認するを得ずとすれば嗚呼われ等遂に煩惱の虜た

るを脱離し得ざるか。」

 

                                                        はるかなる山河にp84~p91