もしかすると、ここのところ私は行き詰まっていたのかもしれない。
昨日、今日とで蓋をしていたモヤモヤが姿を露にしはじめた。
心身共に豊かに生きていくための「手段」や「道」であるはずのヨガが知らぬ間に「目的」にすり変わっていることがある。自分をより高めたいという思いが高じて「あのアーサナ」「このアーサナ」と欲が出て、まんまとその欲に支配されてしまう。
すると、自分を認めていく力をヨガで培ってきたはずなのに、途端にそれができなくなる。
いつもより少しばかり難易度の高いアーサナが上手くできないことは私の単なる努力不足、経験不足なのだろうが、練習環境などといった自分の外に原因(=言い訳)を見つけようとしたりして、そんな自分の心の作用にはたと気づいて嫌気が差す。
いくらやってもできない。何ヶ月も何年もやっているのに、できないことがある。己の限界を知ることも生きていく上で実はとても重要なのだけれど、「これが限界だ」というには、私はあまりにも練習経験が足りない。
人並みに負けず嫌いでもある私は、どうにかして体得したい気持ちを捨てられず、自己向上という目的にしがみついて、いつしか不必要な感情を絡めて劣等感に変えていく。練習中にマットの上で悔し涙をこぼしてしまう。アーサナができるとかできないとかは、明日の死活問題にはこれっぽっちも影響がないにも拘らず、どうしてこんなに苦い思いをしなくてはならないのかと、我ながら全く意味不明な葛藤を抱く。誰に言われるでもなく、自ら望んで選んだ道なのに。
一進一退の中でも微かな手応えはあるにはある。練習の後にはいつだって心地良さが残る。それでも不定期にスランプがやって来る。何度目かのスランプで、それは手段が目的にすり替わってしまっているためだと思い至った。
過程そのものがヨガであるならば、私がそのように考えるのは誤りかもしれない。
間違いだらけ、矛盾だらけの解釈の中で私が勝手に思い悩んでいるに過ぎないかもしれない。
いい歳をして経験不足、勉強不足を晒しているであろうことは否めない。
この国に移り住んでからヨガ環境もがらりと変わった。東京とは違い、スタジオ“選び”ではなくスタジオ“探し”に時間がかかった。当時の私はアシュタンガヨガ・ビギナーだったが練習の軸を自主練に切り替え、どうにかこうにか続けてきた。私にとってはそれだけが誇りであったのに、その誇りとやらも劣等感の前には意外と脆かった。
「とにもかくにも練習ができる、ただそのことが十分に幸せなことである」ということを、今一度、胸に刻みたい。
ナマステ&シャローム
Nozomi
昨日、今日とで蓋をしていたモヤモヤが姿を露にしはじめた。
心身共に豊かに生きていくための「手段」や「道」であるはずのヨガが知らぬ間に「目的」にすり変わっていることがある。自分をより高めたいという思いが高じて「あのアーサナ」「このアーサナ」と欲が出て、まんまとその欲に支配されてしまう。
すると、自分を認めていく力をヨガで培ってきたはずなのに、途端にそれができなくなる。
いつもより少しばかり難易度の高いアーサナが上手くできないことは私の単なる努力不足、経験不足なのだろうが、練習環境などといった自分の外に原因(=言い訳)を見つけようとしたりして、そんな自分の心の作用にはたと気づいて嫌気が差す。
いくらやってもできない。何ヶ月も何年もやっているのに、できないことがある。己の限界を知ることも生きていく上で実はとても重要なのだけれど、「これが限界だ」というには、私はあまりにも練習経験が足りない。
人並みに負けず嫌いでもある私は、どうにかして体得したい気持ちを捨てられず、自己向上という目的にしがみついて、いつしか不必要な感情を絡めて劣等感に変えていく。練習中にマットの上で悔し涙をこぼしてしまう。アーサナができるとかできないとかは、明日の死活問題にはこれっぽっちも影響がないにも拘らず、どうしてこんなに苦い思いをしなくてはならないのかと、我ながら全く意味不明な葛藤を抱く。誰に言われるでもなく、自ら望んで選んだ道なのに。
一進一退の中でも微かな手応えはあるにはある。練習の後にはいつだって心地良さが残る。それでも不定期にスランプがやって来る。何度目かのスランプで、それは手段が目的にすり替わってしまっているためだと思い至った。
過程そのものがヨガであるならば、私がそのように考えるのは誤りかもしれない。
間違いだらけ、矛盾だらけの解釈の中で私が勝手に思い悩んでいるに過ぎないかもしれない。
いい歳をして経験不足、勉強不足を晒しているであろうことは否めない。
この国に移り住んでからヨガ環境もがらりと変わった。東京とは違い、スタジオ“選び”ではなくスタジオ“探し”に時間がかかった。当時の私はアシュタンガヨガ・ビギナーだったが練習の軸を自主練に切り替え、どうにかこうにか続けてきた。私にとってはそれだけが誇りであったのに、その誇りとやらも劣等感の前には意外と脆かった。
「とにもかくにも練習ができる、ただそのことが十分に幸せなことである」ということを、今一度、胸に刻みたい。
ナマステ&シャローム
Nozomi
とても似かよった思いを私も持ちます。
ため息が出て、でもまた思い至って、立ち戻って、みたいな…
そういうの、これからまだ何回もあるんだろうなぁ...とうすうす感じてきた今日この頃です 笑
グルジの仰った「All is coming」には実はこういう経験も含まれているんじゃないかなと考えるようになりました。
そして、それを乗り越えるのもやはり「プラクティス」しかないわけで。
きっと続けている限り繰り返すのでしょう。
デヴィッド先生もナンシー先生も「楽しんで」とメッセージされているのが興味深いです。