貞観法 和らぎ通信

和らぎ体操研究会のニュースなどを中心にして記して行きます。

Iさん見える

2022-06-20 07:22:21 | 今日の道場

先週の16日につづいて19日の日曜日にもIさんが川口道場にと見えた。

IさんはKさんの乗馬クラブの会員さんの一人でピラティスのインストラクターであるから、私とは言うなれば同業者である。

今回、腰痛に膝痛、足首には水が溜まり、とにかく半身が重苦しく感じてどうにもならない。と言って見えた。

手助けさせて貰いながら、当方のやり方で呼吸と身体の動かし方に注意しながら体操を行った。

大分痛みが取れたと云って喜んで帰って行かれたが、一度、今、ご自分がしている体操を休んでこうした動きと呼吸とで自療の方法をアドバイスした。

頑張って元気な状態に戻って下さい。

 

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これから

2022-06-03 08:01:02 | 日記

書きかけの記事も筆の中折れ状態で60日が経過して、アクセス解析のサービスも停止してしまったので近況などを。

キンリョウヘンの開花時期も今年は遅くなってしまい日本蜜蜂の来箱も期待出来ないかと半ば諦めかけていたが5月半ばになって自然入居してくれて、花粉を運び入れてくれるようになって、どうやら落ち着いてくれそうである。

昨日は世田谷からMさんが見えてくれ、夜には北本のHさんからの連絡があって足指に痺れが感じられるし巻き爪にもなってしまったということから数日後に見えてくれることになった。

今日はこれから川島の車屋さんまで出かける。長年乗った車もいよいよポンコツになってしまい、手頃な中古車を見つけて貰ったことから、車の乗り換えを行って来る。

「刀水のほとり」の続き記事も近いうちには続きを記事更新するつもり。

 

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刀水のほとり 10

2022-04-04 22:27:49 | 刀水のほとり


長英と崋山を見送った天保2年(1831年)の10月末から程なくして、この年の暮れに烏洲も同じ島村の田島梅陵と共に西国への旅へ出かけて行き、伊勢では神宮を拝し奈良の皇陵を巡り詣で、その荒廃した様子に悲嘆したと云うから彼の尊王家ぶりを想像することが出来る。

月ヶ瀬梅渓では彼の代表作の一つとも云われている「月ヶ瀬探梅図巻」を描き、これを携えて京都に頼山陽を訪ね「筆龍萬玉」の題を与えられ、併せて、新田宗家の新田萬次郎宛に「左中将(新田義貞を指す)七律一首」を託されたという。

山陽と聞くと私の頭には「鞭聲粛粛夜渡過河」と詩吟される漢詩が、そして、幕末の勤皇志士たちに大きな影響を与えたとされるその著「日本外史」の存在などが頭に浮かんで来る。
彼は南朝の忠臣である楠木正成や新田義貞に対しての思い入れを持っていたとされているから、この烏洲に託したと云う七律一首の内容とはどんなであったのだろうか・・。

京都では山陽の他にも多くの文人たちと交わり、石川丈山ゆかりの詩仙堂を訪ね、往時から雪舟や与謝蕪村など等の創作の意欲を駆り立てて来た天の橋立に遊んだ後、大阪に出て篠崎小竹を訪ね、ここでも「月ヶ瀬探梅図巻」に「墨含千芳」の題書を贈られ、山陽と小竹の両雄から題を授かったことで「月ヶ瀬探梅図巻」は一躍有名になったと云う。
(現在、作品は東京国立博物館に収蔵されている。https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0082699
《山陽は烏洲の訪れて揮毫を受けた半年後の旧暦天保3年9月16日肺結核によって53歳で亡くなっている。》

旅の最終的な目的地は長崎にあったようだが、頼杏坪を訪ねて広島に至る頃には眼病を患い治療を受け、揮毫して薬代などに充てながら旅を続け壇ノ浦まで行くも父万戸の訃報を受け帰郷の途に就き、天保4年には烏洲は父・万古の一周忌に呑山楼で盛大な書画会を催している。その2年後の天保6年には追悼句集「竹の落葉」を編纂上梓している。

 

前掲した年譜には翌天保5年(1834年)には田崎草雲が入門とある。

ここでまたまた本題からは逸れ、寄り道となってしまうが田崎草雲のについて少しばかり触れておく。

草雲は文化12年(1815年)足利藩の江戸藩邸に足軽藩士の家に生まれた南画家であり尊王思想家であり、烏洲とは縁戚筋にあたると云うが実際にどんな繋がりであったのか詳しくは判らないが、幼少の頃から画を嗜んでいたという父親から絵筆を握らされ、その才能のあることが知れたと云う。

ここでは天保5年(1834年)に草雲が19歳で入門したとあるが、草雲は文政12年(1829年)14歳の少年の時に父親に伴われて烏洲の下にと絵を学びに入門したとするものや、8歳の頃から烏洲からあ手ほどきを受けたと記されているものもあることからすると、この翌年の天保6年(1835年)、草雲は画業一筋で生きて行こうと決心をして継母の連れ子に家督を譲り、足利藩を脱藩、放浪の後、旗本・加藤梅翁の内弟子となったそうで、この時の烏洲への弟子入りは、そうした覚悟もあった上でのことだったのだろうか。

ただ、彼の異名に「あばれ梅渓」・「喧嘩草雲」が残されてる通りに、酒は飲むは暴れるはと云った素行の悪さに手を焼いた烏洲は、紹介状とともに加藤梅翁の下へと送り遣ってしまったと云う話も伝わっている。

その後には谷文晁に師事したとも伝えられているが、弟子の小室翠雲の著した「田崎草雲先生の生涯」によれば実際には文晁との師弟関係は無かったと記されている。》

さらに烏洲の師の春木南湖の子である南溟にも師事して、文晁や崋山には私淑していたともされている。

天保8年(1837年)22歳で、師の加藤梅翁の家の近くの住んでいた幕府御用の「かわらけ師」である松井氏の娘・菊子を娶る。翌年には一粒種の息子・格太郎を授かる。

天保14年(1843年)には浅草山谷堀に借家して絵師として独立するものの画は一向に売れずの貧乏暮らしで、「貧乏梅渓」・「遊歴梅渓」の異名も生まれたようだ。

そんな暮らしを送る中、安政2年(1855年)妻の菊子が狂死する。

安政3年(1856年)江戸を離れ、居を足利に移して足利藩の絵師として藩に復帰したが、一方で幕末の激動期を勤皇の志士たちと交流をし、その志を強くして「誠心隊」と云う民兵組織をつくり自らが差図役を負って治安維持にあたっている。
(このあたりの経緯については、特に興を惹かれるところでもあるので別に稿を起こすつもりでいる。)

維新後、明治11年(1878年)足利・蓮岱寺山に「白石山房」を建て画業一筋の生活に入り多くの作品を描く。
明治23年(1890年)には川越藩の絵師であった橋本雅邦らと共に帝室技芸員に選ばれている。

司馬遼太郎・「喧嘩草雲」。吉川英治・「田崎草雲とその子」のモデルであり、国定忠治の肖像画を描いたことでも知られる。

 

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刀水のほとり 9

2022-02-23 03:09:31 | 刀水のほとり

話を元に戻そう。

烏洲の呑山楼へと高野長英が天保2年(1831年)に来訪した陰には、村上随憲が介在したことによって成り立っていることに納得は出来たが、私にはもう一つ気にかかることがあった。

それは長英の後に崋山も烏洲宅に来訪しているということである。

崋山と長英の二人はよく知られている通り、この8年後の天保10年(1839年)には共に「蛮社の獄」によって弾圧を受け、崋山は国元での蟄居を命じられ、その2年後の天保12年(1841年)に藩主に累の及ぶことを懼れて切腹して果て、長英は小伝馬町の獄に永牢(無期禁錮)を命ぜられたのだが、その後、弘化元年(1844年)に脱獄をして6年間諸方を逃亡し続け、最後は嘉永3年(1850年)に江戸にて捕吏に踏み込まれて捕まり移送中に脇差で喉を突いて自殺すると云う凄絶な人生を終えている。

この二人が間を置かずに前後して、烏洲宅へと来宅した天保2年の時点で既に知友関係を成り立たせていたものだったのかどうかが大いに気になりだしたのだ。

長英が長崎から江戸へと帰り、江戸麹町貝坂に町医者を開業したのは天保元年で、沢渡や境や島村といった上州路を訪ねる旅をした前年であり、崋山や長英など蘭学や儒学など幅広い分野の学者や技術者や官僚などのメンバーが集まり、「蛮社」の蔑称をも用いられた「尚歯会」を発足したとされるのが天保3年(1833年)であったとされるから、長英が江戸に戻った天保元年から尚歯会の起ち上げられたという天保3年までの2年間の何処かの時点で崋山との知遇が生まれた筈なのだが、それが果たして烏洲宅で二人がニアミスをした前のことだったのか?。それとも後であったのかと云った疑問を持ったという訳である。

長英が上州路を旅して江戸を空けていた時期、重なるようにして一方の崋山もまた藩主の命によって家譜調査のために相州や上州から野州さらに武州へと旅に出ていて、一連の「游相日記」・「毛武游記」・「訪瓺録」と云った紀行文を記し遺している。
(この辺りのことについては、また後に稿を改めて触れようと考えている。)

このように二人が揃って江戸を長いこと空けていたこの年の残された日数の内に二人が出会う機会があったのだろうか?。

そこで崋山と長英の邂逅の時期を示す史料などは無いものかと思いながら色々とググってみたのだが、直接的にこれを明確に裏付けるようなものには出会えなかったが、崋山の日記「全日堂日記」の天保2年4月16日の条に「小関三英来る。三英は出羽庄内の人、洋書を読み医を業とするが、治療を好まず、唯一の楽しみは読書と飲酒である。」と記されてあることが知れた。

小関三英は、長英よりも17歳の年長で同じ吉田長淑に学んだ蘭方医であり蘭学者であって長英とは同門であるが、崋山がこの年諸方に旅にと出る前に逢っていることを確認することが出来た。

つまり崋山は長英との知遇を得る前に小関三英と出会っていて、長英との出会いは翌年の天保3年になってからであったと云うことのようだ。

あるいは長英の存在は三英の紹介によるものであったかも知れず、長英の開業した場所麹町貝坂と崋山の住む三宅坂の田原藩上屋敷とは至近の距離でもある。

これで烏洲の呑山楼を前後して訪れた崋山と長英が、この時点では知り合いの間柄にはなっていなかったことが判ったのだが、人と人との縁とは不思議なもので、会わされるべきして会わされる人同士には互いに引き合う磁力のような力が働いているものなのかも知れず、呑山楼でのことはその予兆であったと言えるような気がする。

 

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刀水のほとり 8

2022-02-12 08:31:28 | 刀水のほとり

結果知れたのは、島村と隣接する境宿で開業していた蘭方医・村上随憲と呼ぶ人物の存在が烏洲と長英との邂逅に大きく関わっているようだと云うことである。

横道に逸れてしまうが、少しばかり村上随憲について触れてみる。

随憲は長英よりも6歳年長で、寛政10年(1798年)に武州大里郡久下村(現・熊谷市久下)に生まれ、18歳で江戸へ出て蘭学者吉田長淑の蘭馨堂に8年間学び、26歳の時にシーボルトが来舶(文政6年・1823年)したことを知るや出向いて1年余師事し、その後各地を周遊した後、文政11年(1828年)31歳で境に居を構え開業。

【長英とは同じ吉田長淑の塾で知遇を得ている。シーボルトの下に学んだのも共に同じである同門の蘭方医ということになる。(長英の名は長淑の一字を貰ってのこと。)】

随憲が開業したのは、現在の群馬銀行境支店のある場所だそうだが、病人には貴賎貧富を問うことなしに接し、貧しい者からは薬代を貰わずに医術を施したと伝わる。

併せて、随憲は父が皇室を崇拝していたという影響もあって尊王思想を持ち、毎朝皇居に向かって遥拝することを欠かさず、医業とは別に、私塾「征病余暇楼」を無料で開設して多くの子弟を育て、その中には子息(三男)・村上俊平、烏洲の子息・金井之恭、大館謙三郎、黒田桃民などの勤皇志士が出ている。

【随憲の三男・俊平は医師を志し江戸に遊学するも、父と同じに尊王攘夷の理想に燃え、京都守護の為に幕府が募集した浪士組の一員として京に上るものの、この分裂に伴い、清河八郎と行動を共にして幕吏に追われる身となり、終には京都・池田屋事件の際に捕らえられて六角の獄舎につながれ、蛤御門の変の折の起きた出火が獄舎に燃え移る危険から脱走を恐れた幕府の意向で、かつての浪士組の仲間であった新選組の手のよって27歳で斬殺されている。】

随憲は息子・俊平の死の翌年の慶応元年(1865年)に68歳で病没。墓所は現・伊勢崎市境町の長光寺に在る。


烏洲と随憲とは烏洲が二歳違いの年長で同世代であり、お互いが隣村に住む者同士であり、同じく尊王思想を抱き、また、共に俳諧を嗜む者同士として交友したと云う。
(随憲から烏洲に当てた絵の依頼をした書簡も残されているhttps://www.archives.pref.gunma.jp/course/course-1/inter-koza-203-2013.07-2)

さて、このような長英と随憲の関係、随憲と烏洲との関係が知れた上で烏洲の呑山楼へと長英が訪れた経緯について察してみるに、それ以前から長英と烏洲の二人に面識は考えにくく、長英にとっての同門の先輩に当たる随憲を介して烏洲宅へと訪ねたのではないだろうか。

そこでもう少し詮索して、長英が随憲や烏洲を訪ね来たという天保2年が長英にとってどんな時期に当たるのかを考えてみたい。

長英が長崎のシーボルトの「鳴滝塾」へと遊学したのは随憲よりも2年程遅れた文政8年(1825年)で、文政11年に起きた「シーボルト事件」によってシーボルトが国外追放された時までの3年間であったが、その間に長英はここの塾頭となり、23歳の時、ずば抜けた学力で蘭語論文を提出して「ドクトル」の称号も授かっている。

シーボルト事件の時には多くの塾生たちも逮捕されたのだが、丁度その時に長英は旅に出ていたと云うこともあって、そうした難を受けることもなく長崎から離れることが出来たようだ。

その後に広島・尾道・大阪を経て京都で開業するも、天保元年(1830年)には江戸に戻り麹町貝坂に開業し、かたわら西洋生理学の研究を進めた。

その翌年が、長英が随憲や烏洲を訪ねたという天保2年(1831年)と云うことになる訳で、この時、彼は上州吾妻郡沢渡(現、中之条町沢渡)に住む漢方医・福田宗禎等の招請に応じて、当地に足を運び蘭学の講義や診療を行っている。併せて、この地から後に長英の私塾「大観堂」の塾頭になる高橋景作や柳田鼎蔵などの弟子を得てもいたり、榛名山中に薬草の採取を行ったりしていて縁深い地域となって、この後にも数回訪れているようだ。

つまりは、この年に境の随憲や島村の烏洲を訪ねた折の長英にとって、随憲との旧交を温めるといった意味合いを持ったものであるのと同時に、初めて吾妻行の機会を得た時の帰路のことであったのであろうから、単に随憲に逢うための旅というだけの目的では無かったことが判る。

 

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刀水のほとり 7

2022-02-01 09:28:34 | 刀水のほとり


島村の金井一族

島村の新野の一角に群馬県の指定史跡になっている「金井烏洲と一族の墓」があるが、この墓所に葬られているのは、「文人画家」として知られる「金井烏洲」と、その父親の万古、兄の莎邨、弟の研香、子の杏雨と親子三代五人の方達である。

私自身がこれらの人たち、とりわけ金井烏洲の存在を知ったのは10代の終わりの頃、その頃よく行き来させて頂いていたT田さんから生地の深谷周辺に関わりのある江戸後期から明治にかけての「絵師」の一人として、渡辺崋山・北亭為直・江森天淵・奥原晴湖らの名と共に聞かされたのが初めてであった。

【渡辺崋山については、以後にも度々触れることになると思うので省略するが、ここに名を挙げた北亭為直とは葛飾北斎の弟子の一人で市内に在る高泰院と云う寺の住職の弟で浮世絵師。江森天淵は寄居用土生まれで東方の江森家に婿入りした絵師。奥原晴湖は古河藩士の娘で熊谷・上川上に住んだ南画の絵師(崋山筆の肖像画で国宝・鷹見泉石像の鷹見泉石は晴湖の伯父にあたり、熊谷・上之の龍淵寺に墓がある(数年前二人のKさんに案内されて訪れたことがあった。)。】


さてそれでは以下に「文人一家」金井一族各人の略歴について大まかに記してみる。

金井万古【明和7年(1770)~天保3年(1832)】

養蚕長者で「万古大尽」と呼ばれた豪農家で、伊勢崎市上連町に住んだ大阪生まれの俳人栗庵似鳩(りつあんじきょう)に学び、華竹庵万古の号を名乗り、酒井抱一や春木南湖などと親交のあった人物。
妻は那波郡下道寺の医家多賀谷養元の娘の春栄(すえ)で、その従兄は能書家の多賀谷向陵。
自邸内には酒井抱一揮毫の芭蕉句碑「降すとも竹うゆる日はみのと笠」がある。


金井莎邨(しゃそん)【寛政6年(1794)~文政7年(1824)】

万古の長男で詩文を能くした人物で、母・春栄の従兄にあたる多賀谷向陵の門人となり、江戸に5年、長崎に1年遊学して後に、江戸四谷の向陵宅にて31歳にて早逝。墓所は島村とは別に牛込七軒寺町(現在の新宿区弁天町)にもあったそうだが、現在、この寺(鳳林寺)は大正3年に杉並区高円寺に移転しているようだ。


金井烏洲(うじゅう)【寛政8年(1796)~安政4年(1857)】

万古の二男として生まれる。兄・莎邨より経史を学び、21歳で江戸に出て父万古と交友のあった春木南湖から南画や書の指南を受け、さらに、詩は菊池五山・文は古賀侗庵から学ぶ。
遊学中の烏洲は、谷文晁(写山楼)を師友と仰ぎ、その画塾・写山楼(現・台東区内に所在した。)にも出入りして、そこで頼山陽や渡辺崋山など等諸名家との交わりを持ち、その画才も認められていたという。
24歳で帰郷して武州新戒村(現・深谷市新戒)の福島氏の娘の紀伊(1803~1850)と結婚し家を継ぎ、父・万古が兄・莎邨の為に書斎として建てたという「呑山楼」を改装して画室として使用する。

天保 2年(1831年) 蘭学者・高野長英が入れ違いに渡辺崋山も吞山楼を来訪(毛武游記)する。
           この年の暮れには田島梅陵と共に西遊に出る。
天保 5年(1834年) 田崎草雲(1815~98)が入門。
天保 7年(1836年) この頃より伊勢崎藩への貸金が貸し倒れになり、破産状態となる。    
天保13年(1842年) 江戸追放された寺門静軒を迎え入れる。
嘉永 6年(1853年) 四男・之恭と共に幕吏の嫌疑を避けて日光に逃れる。 

烏洲の号はと刀水と烏川が形成した洲(島村の前島と呼ばれた現在は利根川の河川敷に当たる地)に家があったことに縁っている。
画家として名を馳せているが詩文にも俳句にも、あるいは月琴を奏でることにも長けていたと云うから、まさに文人で画師であり墨客・風流人であったと云えよう。

また、金井家は新田氏一族に属する岩松氏の支流で、岩松時兼の三男である金井長義を祖とし、数世の後に新田郷から島村に移住したと伝わっている。(渋沢翁は懐疑的な見方をしていたことは前記した。)
鎌倉時代末期から南北朝にかけての時代、天皇の忠臣として活躍した新田義貞の流れを汲んだ一族であると云った思いからなのか、烏洲は勤皇家としても知られている。

同じ、上州細谷(現・太田市細谷町)の高山彦九郎が少年の日に「太平記」を読み、自分の先祖が新田義貞の新田十六騎の一人で秩父平氏の高山氏の子孫とされる高山重栄であることを知り勤皇の志を抱いたとすることにも通じるが、烏洲はこの彦九郎に私淑していたと伝わっている。

上記の通り、天保2年(1831年)呑山楼に来訪した人物として高野長英・渡辺崋山の名があるが、この両名、蘭学を通じてアヘン戦争前夜の対外的な危機状況を捉えて幕府の鎖国政策を批判して、「蛮社の獄」につながったことはよく知られるところだが、それは烏洲を訪ねた年よりも8年後の天保10年(1839年)で、この頃には未だ二人とも幕府から追われるようなことも無い自由な身であったであろう。

両人の年譜などを突き合わせてみると、どうも長英と崋山の二人の出会いと云うのも丁度この前後の頃であったらしく、二人が打ち合わせた上での来訪ではなく、どうも偶々時期が前後するようにしてのことだった様子である。

ただ、私には崋山と烏洲とは絵師としてのつながりがあったろうが、長英が来宅したということには今一つ合点が行かなかった。

長英は蘭学者であり、烏洲は南画家であって尊王攘夷思想を持った人であるという点からしたら、二人の接点は一体何処に在るのだろうかと気になったので少しばかり調べてみることにした。

つづく

 

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ぶらり館林

2022-01-04 00:46:54 | 血脈

正月二日

元日に自宅でお籠りだった反動で何処か出かけて来ようかと云った気を起こし、特別ここと云った目的地も無く車を走らせていく中で、それ程距離も無く手ごろな場所として「館林へでも行ってみるか」と、全くいい加減な気持ちからの目的地選定。

確か一昨年の2日にも同じ舘林へと出かけたものだったことを思い出した。

不思議なもので、実際に館林と目的地を決めだしてみると、訪ねて行ってみたく思う箇所や人物などが頭の中にと浮き上がって来た。

とりわけ私の生地との関わりで云うと、最後の舘林城主となった秋元氏の先祖は戦国時代の深谷上杉家の三宿老と呼ばれた中の一人であり、城内の一角には「秋元氏別邸」が遺されていて、こちらは一昨年に訪れた。

そして、この秋元氏と共に幕末まで、その家臣として従った、同じく深谷上杉家の三宿老の一人岡谷香丹(おかのやこうたん)の子孫に当たり、今現在も刊行されている「名将言行録」の著者・岡谷繁実という人物。尊王攘夷の志士でもあり維新後は明治政府の官僚となり修史家として足利学校の保存や金沢文庫の再興などに活躍をし、墓所は深谷の清心寺に在る。

さらにもう一人、館林と云うと気にかかる人物がいて最近になって読み直してみた渡辺崋山の「毛武游記」に出て来る館林藩士・生田萬(よろず)である。(秋元氏よりも前の越智松平氏が城主の時代の藩士)

この人物、国学者平田篤胤の「気吹舎(いぶきのや)」の高弟塾頭であったという。「毛武游記」によれば崋山が桐生の妹の嫁ぎ先を訪ねて行く旅の途中、板橋でタバコの火を借りようとして前を歩く旅人に声をかけると、それが萬であり話を交わし意気投合して大宮まで一緒に歩いたことが記されている。その後、彼は越後柏崎にて大塩平八郎に刺激を受けて「生田萬の乱」を起こし37歳で自決して果てたという。私は興を惹かれている。

これらの人物に関わる事物にでも引き合わせられる館林行と成るようにとの思いは持ったものの、如何せん事前に何の予定も目的も立てずに、フラッと出かけて来たのだから期待を抱く方が間違いである。

実際にそうした状況には結果としてなることは無かった。

城沼縁の善長寺・善導寺の二ケ寺を巡り、昼食には同じ城沼縁の川魚料理屋さんでナマズの天ぷら定食を頬ばる。

なお、寺に案内板などは無いが善導寺は崋山の弟が生活困窮の為に8歳で小僧に入った寺であるが、その弟は25歳で熊谷での托鉢行の折に急死してしまったのだと伝わっている。

食後に館林総鎮守の「長良神社」へ詣でに立ち寄ったのだが、ここで急に思い出したのが「館林聖天堂」のこと。

妻沼聖天の造立よりも60年前に、この神社の隣接地の「天福寺」の境内に、当時城主であった綱吉やその母桂昌院によって天福寺聖天堂の大修理が行われ、日光東照宮で活躍した名工や彫刻師の手によった建物であったこと。天福寺の住持がこの神社の別当を勤めていたこと。明治の終わり頃にこの寺は廃寺になって隣の寺に合併されたこと。大正になって直ぐ聖天堂は焼失してしまったこと。その際本尊の聖天像は焼失は免れたことなどである。

神社から見える隣の寺の一角に本堂とは別のお堂の宝形型した屋根が見える。もしや、あれが焼失されずに遺った聖天像が祀られている建屋ではあるまいか。合併された寺とはこの寺のことか。境内に入り込んでみたら想像した通りに間違いなく、寺の名前は新義真言宗の五宝寺とありお堂の額には「聖天宮」の文字。

今回の館林行での一番の収穫であった。

 

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新年おめでとうございます。

2022-01-01 14:55:38 | 日記

新年おめでとうございます。

冬至を過ぎ、段々と日足が伸び出して来ると、老境に入った我が身であっても何だか嬉しくなるような気分に浸れるなぁと思う日々を幾日か過ごした先に迎える節日としての正月元日。

子供の頃とは違い、うきうきするような心持には到底なれなくなってきていて、実際に大晦日も元日も普段と何も変わりはなく、おせちを食べるわけでも社寺参りするでもなく、コロナ禍もあって静かに自室で過ごしている。

 

 

去年はNHKの大河ドラマを自分の生地の出身である渋沢翁が主人公であったことから、今まで見たことは一度もなかったのにはじめて見る機会を持った(実際に見たのは全放送回数の半分くらいだったろうか。)

実は、ここに記事にした「刀水のほとり」を記してみようかと思い立ったのは、この大河ドラマの放映がキッカケとなってのことで、渋沢翁を生み出した風土や周りにいた人物たちから、彼の人となりが形成される必然性があったことなどを私自身が検証しながら、あらためてそれを確認したく思ったからなのだが、中途で筆が止まってしまい、ドラマも終わってしまった。出来ればドラマの終わるころまで合わせ、自分の記事も終了したいものだと予定していたのだが・・・。

時機を逸してしまったが、元日の今日、その記事の続きを書いてみている。

心積もりしていたものを年が跨いでしまうが引き継いで記事にして行こう。

 

12月の中頃、一本だけ川口道場にお借りしている珍竹林さん家の敷地内で自然薯を掘り出した。

長さが60cmくらいあって、私が一人で2回に分けてとろろ汁にしてご馳走になったのだが、これを掘り出しながら、その蔓の巻き方を見ながら、またまた考え込まされたことは、渦巻きや螺旋の形状が持ち合わせている意味合いについてであったのだが、こちらも今までにも幾度となく触れてはいるものの「まとまり」をえるには至らずにいる。

今年こそ何とかして、皆さんに理解していただけるようなものにしたいと思う。

今年もどうぞよろしくお願いします。

 

 

 

 

 

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残念だったこと

2021-12-12 11:49:53 | 血脈

昨日12月11日のこと。

熊谷市上新田に所在の諏訪神社にて、神社改修に伴い社殿の一般公開と説明会とが催された。

9日の新聞記事を見た珍竹林さんから「妻沼の聖天様を手掛けた大工や彫刻師で造られた諏訪神社という神社で、現地見学会と説明会とが行われるそうだ。」との連絡を受け、すぐさま上新田の諏訪神社であると察し、記事も見させて貰い、見学に是非訪れたいものだと思ったのだが・・。

前日、寒い中で庭いじりの作業をしていて、その際に不注意にも左足で地面を強く打ち付けた時にグキッと膝に鈍い音がした。

数日前から膝の調子に少し違和感を覚え、我が体操で何とか快方仕掛けていたものを逆戻りさせるようにしてまたまた傷めてしまい、訪ね行くことが出来なかった。

当日丸々一日、この傷めた膝を快復させるべく終日ひたすら体操三昧の時間に費やした。

お陰で痛みも消え、動くに支障はなくなるまでになったが、とんだ「紺屋の白袴」でお笑い種であることよと自嘲することしきり。

それにしても、元へと戻すにもなんと大変な努力と時間がかかることかとしみじみと思わされた。

加齢であれ、事故であれ、疾病であれ、身体の痛みや機能低下になった状態から、これを快復させるのはそれこそ大変なことなのだとわが身を以て実感した。

それにしても諏訪神社の社殿、実見してみたかった。

(画像と以前にここを訪れた際に揚げた記事は「血脈」カテゴリーにあります。)

 

 

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刀水のほとり 6

2021-10-13 12:29:51 | 刀水のほとり

境島村

上州島村は度重なる利根川の洪水によって集落は南北に二分されていて、利根川右岸の南側は埼玉県側に飛び地となっている。

20代・30代の頃、「落ち鮎」の時期になると烏川と利根川の合流する地点付近から右岸の高島裏の地点にかけての利根川右岸側で、この「落ち鮎」のコロガシ漁(錨形した幾つもの針を連ねた糸を川床に回転させながら流して、産卵するために集まった鮎を針にかけて捕獲する漁。)に戯れていたこともあって、とりわけ、ここ島村を挟んで上流の久々宇、下流の中瀬の辺り一帯にはよく出かけて行った事もあって私にとっては馴染み深い場所である。

刀水の右岸側(埼玉県側)の島村地域は、東西凡そ2.5K・南北一番広い所でも(堤防から)0.5Kしかない。

境平塚の上流に位置して、刀水に沿うように帯状に伸びた集落であるが、この狭い地域の中に幕末から明治にかけての時代、実に「多士済々」の方たちが生まれ出ている。


舟問屋の息子 島村伊三郎

前回、隣村の境平塚の舟問屋「福甚」の息子・福島泰蔵について記したが、ここ島村で舟問屋を営んでいた佐七の倅(長男)として寛政2年(1790年)に生まれたのが、後に博徒の親分となる「島村伊三郎こと町田伊三郎」である。

この辺り東上州には大前田栄五郎・国定忠治など現在にもその名の伝えられる博徒が大勢生み出されている。

島村伊三郎もその内の一人で、当時には「上州一裕福な親分」との評判であったとされ、その「縄張り」の中には日光例幣使街道の境宿(柴宿と木崎宿の間宿であったが、幕末・文久3年に宿場として格上げされた)は、六斎市での生糸の取引高は上州一であったと云われていた場所である。

さらに、利根川舟運の河港のあった平塚も中瀬も彼の縄張り内で賭場も開かれていたとされるが、二つの河岸共に利根川を上り下りする舟運の舟の荷積みを大型船から小型船へ、小型船から大型船へと積み替えをするための河港であったことから、人や物や金の行き来が盛んな豊かな所であった。

加えて、世良田の八坂神社や長楽寺といった社寺でも賭場が開かれたと云うから、これらの所から上がるテラ銭だけでもかなりの額の収益があったことは容易に想像がつく。

その島村伊三郎と縄張りと隣接して、境宿の西側には大前田栄五郎の息のかかった百々の紋次親分がいたが、年若くして病を抱え、一家の跡目をその子分であった国定忠治(長岡忠次郎)が引き継ぐことになる。

その忠治は自分より20歳年長で当時すでに大親分の貫禄の伊三郎を闇討ちし惨殺したのである。

「国定忠治」が主役の浪曲・講談・映画・読み物や上州民謡八木節などなど、これらの中で登場する伊三郎親分は「二足の草鞋」を履いた、お上の手先で民百姓を泣かす「悪役」で、忠治の子分の一人「三ツ木の文蔵」に賭場や酒屋で暴力をふるい痛めつけた仇敵のようにして描かれており、伊三郎を斬殺した原因はこれらの遺恨に因るものとされている。

が、実際のところは収益の多かったその縄張りに食指を動かされて、武闘派の忠治一家が伊三郎と敵対していた大前田栄五郎の意向なども受けて取った行動ではなかったかと私はそう思っている。

この事件が起きたのは、天保5年(1834年)7月伊三郎の行年は44歳。

忠治は24歳であったが、所謂「二足の草鞋」を履き、お上の御用を果たしていた土地の顔役であった伊三郎を駆け出し博徒の忠治が殺害したことから、八州取り締まり役からも目に付けられた忠治は大戸の関所を破り抜けて信州中野へと逃亡して、その名が関東一円に広まるキッカケになったとされる。

伊三郎の墓所は、島村の立作(りゅうさく)の共同墓地の一角に在り、その墓石には「蓮清淨花信士」の戒名が刻まれてある。

そしてもう一箇所、ここから南西方向へ一里ばかりの現・本庄市牧西の宝珠寺の境内の一角にも墓所が在るが、こちらは16歳の伊三郎が当地の兵助の子分になって博徒の道を歩き出した地であり、無宿人になった関係からか、生活の拠点は島村ではなしにここ牧西にあったようで、また、こちらには妾も居たと伝わっていることもある関係からか島村とは別にここにも墓地が設けられたのだろうか。

 

現在放映中の大河ドラマの主人公・渋沢栄一との絡みで云うと、伊三郎の生家や墓の所在地は、栄一の生家の北方約1キロの距離にあたり、伊三郎が忠治に斬殺された事件は栄一生誕の6年前であって、栄一の父・市郎右衛門と忠治とは生年が一年違いで文化6年・7年で同世代と云えるだろう。

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