島村の金井一族
島村の新野の一角に群馬県の指定史跡になっている「金井烏洲と一族の墓」があるが、この墓所に葬られているのは、「文人画家」として知られる「金井烏洲」と、その父親の万古、兄の莎邨、弟の研香、子の杏雨と親子三代五人の方達である。
私自身がこれらの人たち、とりわけ金井烏洲の存在を知ったのは10代の終わりの頃、その頃よく行き来させて頂いていたT田さんから生地の深谷周辺に関わりのある江戸後期から明治にかけての「絵師」の一人として、渡辺崋山・北亭為直・江森天淵・奥原晴湖らの名と共に聞かされたのが初めてであった。
【渡辺崋山については、以後にも度々触れることになると思うので省略するが、ここに名を挙げた北亭為直とは葛飾北斎の弟子の一人で市内に在る高泰院と云う寺の住職の弟で浮世絵師。江森天淵は寄居用土生まれで東方の江森家に婿入りした絵師。奥原晴湖は古河藩士の娘で熊谷・上川上に住んだ南画の絵師(崋山筆の肖像画で国宝・鷹見泉石像の鷹見泉石は晴湖の伯父にあたり、熊谷・上之の龍淵寺に墓がある(数年前二人のKさんに案内されて訪れたことがあった。)。】
さてそれでは以下に「文人一家」金井一族各人の略歴について大まかに記してみる。
金井万古【明和7年(1770)~天保3年(1832)】
養蚕長者で「万古大尽」と呼ばれた豪農家で、伊勢崎市上連町に住んだ大阪生まれの俳人栗庵似鳩(りつあんじきょう)に学び、華竹庵万古の号を名乗り、酒井抱一や春木南湖などと親交のあった人物。
妻は那波郡下道寺の医家多賀谷養元の娘の春栄(すえ)で、その従兄は能書家の多賀谷向陵。
自邸内には酒井抱一揮毫の芭蕉句碑「降すとも竹うゆる日はみのと笠」がある。
金井莎邨(しゃそん)【寛政6年(1794)~文政7年(1824)】
万古の長男で詩文を能くした人物で、母・春栄の従兄にあたる多賀谷向陵の門人となり、江戸に5年、長崎に1年遊学して後に、江戸四谷の向陵宅にて31歳にて早逝。墓所は島村とは別に牛込七軒寺町(現在の新宿区弁天町)にもあったそうだが、現在、この寺(鳳林寺)は大正3年に杉並区高円寺に移転しているようだ。
金井烏洲(うじゅう)【寛政8年(1796)~安政4年(1857)】
万古の二男として生まれる。兄・莎邨より経史を学び、21歳で江戸に出て父万古と交友のあった春木南湖から南画や書の指南を受け、さらに、詩は菊池五山・文は古賀侗庵から学ぶ。
遊学中の烏洲は、谷文晁(写山楼)を師友と仰ぎ、その画塾・写山楼(現・台東区内に所在した。)にも出入りして、そこで頼山陽や渡辺崋山など等諸名家との交わりを持ち、その画才も認められていたという。
24歳で帰郷して武州新戒村(現・深谷市新戒)の福島氏の娘の紀伊(1803~1850)と結婚し家を継ぎ、父・万古が兄・莎邨の為に書斎として建てたという「呑山楼」を改装して画室として使用する。
天保 2年(1831年) 蘭学者・高野長英が入れ違いに渡辺崋山も吞山楼を来訪(毛武游記)する。
この年の暮れには田島梅陵と共に西遊に出る。
天保 5年(1834年) 田崎草雲(1815~98)が入門。
天保 7年(1836年) この頃より伊勢崎藩への貸金が貸し倒れになり、破産状態となる。
天保13年(1842年) 江戸追放された寺門静軒を迎え入れる。
嘉永 6年(1853年) 四男・之恭と共に幕吏の嫌疑を避けて日光に逃れる。
烏洲の号はと刀水と烏川が形成した洲(島村の前島と呼ばれた現在は利根川の河川敷に当たる地)に家があったことに縁っている。
画家として名を馳せているが詩文にも俳句にも、あるいは月琴を奏でることにも長けていたと云うから、まさに文人で画師であり墨客・風流人であったと云えよう。
また、金井家は新田氏一族に属する岩松氏の支流で、岩松時兼の三男である金井長義を祖とし、数世の後に新田郷から島村に移住したと伝わっている。(渋沢翁は懐疑的な見方をしていたことは前記した。)
鎌倉時代末期から南北朝にかけての時代、天皇の忠臣として活躍した新田義貞の流れを汲んだ一族であると云った思いからなのか、烏洲は勤皇家としても知られている。
同じ、上州細谷(現・太田市細谷町)の高山彦九郎が少年の日に「太平記」を読み、自分の先祖が新田義貞の新田十六騎の一人で秩父平氏の高山氏の子孫とされる高山重栄であることを知り勤皇の志を抱いたとすることにも通じるが、烏洲はこの彦九郎に私淑していたと伝わっている。
上記の通り、天保2年(1831年)呑山楼に来訪した人物として高野長英・渡辺崋山の名があるが、この両名、蘭学を通じてアヘン戦争前夜の対外的な危機状況を捉えて幕府の鎖国政策を批判して、「蛮社の獄」につながったことはよく知られるところだが、それは烏洲を訪ねた年よりも8年後の天保10年(1839年)で、この頃には未だ二人とも幕府から追われるようなことも無い自由な身であったであろう。
両人の年譜などを突き合わせてみると、どうも長英と崋山の二人の出会いと云うのも丁度この前後の頃であったらしく、二人が打ち合わせた上での来訪ではなく、どうも偶々時期が前後するようにしてのことだった様子である。
ただ、私には崋山と烏洲とは絵師としてのつながりがあったろうが、長英が来宅したということには今一つ合点が行かなかった。
長英は蘭学者であり、烏洲は南画家であって尊王攘夷思想を持った人であるという点からしたら、二人の接点は一体何処に在るのだろうかと気になったので少しばかり調べてみることにした。
つづく