徒然なる写真日記

趣味に関する事や、日々の中での出来事を脈絡もなく貼り付けていく絵日記帳ブログです

2019 足尾町・中才鉱山社宅

2019-08-24 09:29:38 | 足尾/足尾銅山
2019 6月 日光市足尾町 中才鉱山社宅

足尾銅山を経営していた古河鉱業は、各抗口や工場付近に職員と鉱夫のための住宅地を設け、社宅として提供していました。またその共用施設として集会所や共同浴場を備え、住宅地に隣接して神社も置かれました。足尾の町は、銅山関連施設の周囲に数多くの社宅群や一般住宅、商店などを合わせて1つの都市的形成がなされています。昭和時代の名残りのある社宅群は現在は町営となっています。年々入居者が減り取り壊しも進んでいます。
撮影:2016年






昭和の時代に何回かこの集落を訪れている。父が幼少期を過ごした社宅が中才の外れ、遠下のはざまあたりにあったという事で
父亡きあと2016年に久しぶりに再訪   まだ昭和時代の懐かしい風景が残っている。
鉱山長屋社宅は町のあちこちにまだ点在しているが、閉山の翌年あたりにいち早くなくなった本山社宅、2010年ごろに取り壊された通洞、愛宕下、深沢エリア、廃墟と化している芝の沢・・ 渡良瀬、赤倉、南橋、砂畑あたりも少なくなっている

撮影:2019年6月
古い石積みの階段


明治37年(1904)通洞第2選鉱所完成とともに、38年には銅山長屋6棟が建てられ、以後、選鉱に働く鉱夫の住居となっていく。さらに明治40年には商店など町部10余戸が建ち、集落の体裁が整うようになった。


明治41年2月、中才の銅山長屋が全焼したため、その復旧が進められ、同時にレンガ造りの防火壁を設ける契機となったといわれている。


明治43年(1910)には山沿いの道路が付け替えられ、現在の国道の道筋に変わった。これに伴い、旧道筋は足尾鉄道の軌道となったのである


昭和30年(1955)年に中才は、社宅が184戸、900人。町部61戸、262人を数えていたが、銅山閉山後は、町が社宅166戸の提供を受けて町営住宅にしたものの、人口の低落が続き、平成元年には全体で138戸、343人になった
銅山の町 足尾を歩く  村上安正氏 著より





比較的新しい集落の共同浴場


共同浴場前広場と長屋


平地の少ない山に面したエリアで、雛壇上に社宅群が形成されている  対面に斜面状に見えるのは旧通洞選鉱所跡


山側(西側)の社宅群




ここは入居者がいないようだ









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