徒然なる写真日記

趣味に関する事や、日々の中での出来事を脈絡もなく貼り付けていく絵日記帳ブログです

大雄寺 芭蕉の里

2013-12-15 13:34:32 | 2013栃木歳時記
11/23 大田原(旧黒羽町) 大雄寺 芭蕉の里


初めて黒羽山 大雄寺(くろばねさん だいおうじ)を訪れた。
600年以上の歴史を持つ曹洞宗の禅寺。


うっそうと繁った杉木立が包み込む山門への坂道



参道にある石佛十六羅漢像




総門
栃木県県文化財指定。
本堂正面に建ち、左右に廻廊が取り付けられている

本堂
栃木県文化財指定。本尊釈迦如来像を安置。簡素で堂々たる大伽藍である
本堂、座禅堂、御霊屋、鐘楼、庫裏、回廊、総門、鐘楼堂、経蔵などの伽藍は、栃木県文化財指定で
いずれも江戸中期再建の茅葺屋根
これだけ大きな茅葺屋根の伽藍を見るのは初めて。葺き替えや手入れが大変だと思う


庫裏


茅葺屋根の総門。珍しい


回廊の屋根も茅葺。総門から本堂、禅堂をつなぐ


大雄寺の草創は、今から600年前、応永11年(1404)余瀬白旗城内に創建されたが、戦乱の中、大雄寺焼失、
その後文安5年(1448)黒羽藩主第 10代大関忠増により再建、その後、大田原藩大田原資清との争いで
第13代大関増次敗死、大関家の後継第14代高増(大田原資清の子)により、天正4年 (1576)に本拠黒羽城を
余瀬白旗城から現在の地に移築した。


大雄寺もこの時期に移築し、大関高増の先代藩主大関増次(戒名 久遠院殿超山道宗大居士)を中興開基とし、在
室玄隣大和尚を中興開山として大関家累代の菩提寺となった。
第13代増次の院号から、黒羽山(くろばねさん)久遠院(くおんいん)大雄寺(だいおうじ)と称することとなる。

現在の大雄寺は、文安5年(1448)の伽藍で保存され、本堂・庫裡・禅堂・廻廊などの伽藍は、昭和44年栃木
県文化財指定を受け貴重な文化遺産として保存している。



黒羽藩主 大関家累々の墓
黒羽町史跡文化財指定。大関氏の菩提寺であり、山中には大関氏累代の墓がある


お墓を撮るのはよくないが、昔のお墓は独特の形状があって興味深い。五輪塔、石碑などもあって歴史を感じさせる


石仏合掌観音像


それとこの寺には見る事はできなかったが「枕返しの幽霊」の掛軸がある
足がなく八方睨みの老女が描かれた、江戸時代から残される珍しい掛軸で、この絵を掛けてその前で床につき寝ていると、
翌朝には反対向きになってしまう、枕が返されると言う不思議で怖い話が伝えられている




大雄寺を過ぎて坂を上がるとすぐ左側に「芭蕉の道入口」の表示がある。ここから芭蕉の館までの間に、句碑がいくつか
ある。

田や麦や中にも夏のほととぎす
今眺める風景は、秋風の吹く白河の風景と違って風情はないが、夏のほととぎすだけが風情を感じさせてくれる。
浄法寺家に滞在した四月七日に詠んだ句



松尾芭蕉と曾良は元禄2年4月4日(陽暦5月22日、1689年)に浄法寺図書(俳号桃雪)に招かれた。「おくのほそ道」によれば、「黒羽の館代浄法寺何がしの方に音信る、思いがけぬあるじの悦び、日夜語つづけて云々」とある。一族をあげて歓待したのでずい分居心地がよかったのだろうか、黒羽で十三泊、あしかけ十四日の長逗留であった。とりわけ桃雪邸には八泊した。現在残っている旧浄法寺邸は、芭蕉が逗留した建物ではありませんが、武家屋敷の趣を多分に残し、当時の雰囲気を味わうことができます。


散ったもみじが敷き紅葉となっていた






芭蕉句碑
「山も庭も 動き入るるや 夏座敷」
黒羽の山河と浄法寺家の庭園の美しさを絵画的に表した句








最後に黒羽城址公園
城郭の跡の土塁


黒羽城は、天正4年に大関高増が築城し、北那須最大の規模を持つ城郭であった。現在、城郭の跡は土塁、空濠、水濠
などが保存されており、当時のおもかげを残している。




本丸跡に立つと、那須、日光連山が一望でき、眼下には那珂川の清流があり、城址公園として親しまれている









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