2016 10/25 足尾 備前盾山
秋のワンデイハイクにちょうどいいと思い・・ 確か高校の課外授業かなんかで1度登ったことがある足尾の備前盾山。
(銅山の発見と近世の盛衰)
足尾銅山は、関東地方の北北西に位置し、利根川の一大支流である渡良瀬川の源流近くにある。銅山の最高峰である備前楯山(標高1272メートル)を中心として、直径紛三キロメートルのやや楕円形状の範囲に鉱床があり、千五百本の鉱床と約百個の靴針床から産出した粗鋼量は、ほぼ80万トンに達する。この総産鋼量は、わが国随一の銅山であることを示している。
足尾銅山の発見は、十八世妃半ばといわれ、のち徳川幕府の御用銅山となって、十七世紀末から十八世紀はじめにかけて盛期となり、年産1500トン前後の産鋼をみた。その粗鋼輸送のため、波良瀬川沿いに「銅街道」が開かれ、利根川の舟便を経て、江戸浅草の銅蔵に運ばれた。また延宝四年(一六七六)からは五ケ一鋼として、長崎から年間1000トン前後輸出されている。
当時の鋼の採掘は、露頭周辺の良質な鋼鉱をまったくの人力で採掘するという状態だった。足尾の産銅の急増は、露頭が多い足尾の鉱脈の特徴によるものであった。以後急速に衰え、幕末近くには休山同様となる・・明治維新成立後、鉱山は官収され、有力鉱山は官営鉱山となって欧米の技術を採用して再開発が試みられる。明治10年(一九七七)古河市兵衛が足尾銅山を買収し、経営を開始した。・・
以後目覚ましい発展を見る。
備前楯山は足尾銅山そのものの山で、内部には総延長約1200kmにもおよぶ坑道が掘られている。抗口は本山、小滝、通洞
蟻の巣の様にこの山の下に抗道があるのだ
本山製錬所跡から鷹の巣経由で舟石林道(細い山道、全舗装)で舟石峠着。広い駐車スペース有り
山奥なのに大正7年には47戸の農家があったらしい。昭和29年には全く人はいなくなった。舟石の地名はこの石に由来するらしい
保育園のマイクロバスが1台停まっていた。園児が登っているのかな・・ 登っている途中でたくさん下りてきた。元気だ
今年は山の木の実が不作なのでクマ出没が頻発している。am11:00迷わず鈴をつけて登りだす
天気は残念ながら雨模様に向かっている
まずは笹床と針葉樹カラマツの緩やかな林
尾根つたい 木の階段も出てきてよく整備されている
40分くらいであっけなくそう広くない山頂に着いた。 崖になっているので幼児の引率には気を使うだろう
東の向う側は赤倉の集落と赤倉山
案内板があった。270度展望だが雲が多く男体山など日光側の山々は残念な展望だった
岩場で狭い三等三角点の山頂であるが、展望はよく、北から西にかけて松木沢の茶色い岩肌の先に男体山、中禅寺湖南岸の社山、
黒檜の山々、庚申山から皇海山方面のパノラマが一望できる
製錬所の硫酸工場があった一番上のテーブル台地には太陽光のパネルが並んでいた
製錬所の煙害でまだ岩肌が見えている足尾の山々 沢入山?
足尾ダムが少し見える。男体山の山容は見えなかった。
庚申山とか皇海山もいつか登ってみたい。皇海山は遠いか
ちょっと登山道を外れると岩の割れ目に穴があった。露天掘りの後か?危険だから覗くのはやめた。足場も悪いし
足尾銅山・・いろいろ興味は尽きない
足尾銅山の発見の通説は次のとおり
慶長15年(1610)に 備前国(岡山県)を生国とする足尾の農民 治部(じぶ)と内蔵(くら)の両名が渋川(松原と赤沢の間を流れる川)を遡り、黒岩山(のちに備前盾)に登って銅鉱の露頭(地表に露出していること)を発見し、足尾郷支配の日光山座禅院座主(大寺の主席の僧職)に報告した。翌16年に江戸幕府老中の酒井雅樂頭忠世(前橋藩主)の取次により問吹銅(試験的に製造した銅)を江戸幕府に献上した。時に徳川家康は健在であり、後に三代将軍となる家光の袴着の式(幼児が初めて袴を着ける儀式:七五三の祝いに定着)を挙げる年にあたり、徳川家の吉兆となっる銅山として足尾郷のうち銅山を幕府直轄とした。
黒岩山は功績のあった二人の生国の名を付け備前楯とした。 とされている。
しかし、それ以前から足尾の銅が採掘されているという記録があるにも拘わらず、徳川幕府の権威を誇示する為に古事は抹殺されたのであろう。
足尾銅山の発見として、室町時代(1336~1573)の事であろう「足尾銅山街道(群馬県教委)」とあり、別資料では”弘治・永禄(1555~1570)の頃、産銅の記録が認められる”と記述している。その頃の足尾は佐野城主の支配下にあった。したがって、佐野氏が足尾銅山を取り仕切っていた、とする文書があるとしている・・ (広報 あしおより)
am12:20 舟石の駐車場に降りてきた途端に小雨が落ちてきた
秋のワンデイハイクにちょうどいいと思い・・ 確か高校の課外授業かなんかで1度登ったことがある足尾の備前盾山。
(銅山の発見と近世の盛衰)
足尾銅山は、関東地方の北北西に位置し、利根川の一大支流である渡良瀬川の源流近くにある。銅山の最高峰である備前楯山(標高1272メートル)を中心として、直径紛三キロメートルのやや楕円形状の範囲に鉱床があり、千五百本の鉱床と約百個の靴針床から産出した粗鋼量は、ほぼ80万トンに達する。この総産鋼量は、わが国随一の銅山であることを示している。
足尾銅山の発見は、十八世妃半ばといわれ、のち徳川幕府の御用銅山となって、十七世紀末から十八世紀はじめにかけて盛期となり、年産1500トン前後の産鋼をみた。その粗鋼輸送のため、波良瀬川沿いに「銅街道」が開かれ、利根川の舟便を経て、江戸浅草の銅蔵に運ばれた。また延宝四年(一六七六)からは五ケ一鋼として、長崎から年間1000トン前後輸出されている。
当時の鋼の採掘は、露頭周辺の良質な鋼鉱をまったくの人力で採掘するという状態だった。足尾の産銅の急増は、露頭が多い足尾の鉱脈の特徴によるものであった。以後急速に衰え、幕末近くには休山同様となる・・明治維新成立後、鉱山は官収され、有力鉱山は官営鉱山となって欧米の技術を採用して再開発が試みられる。明治10年(一九七七)古河市兵衛が足尾銅山を買収し、経営を開始した。・・
以後目覚ましい発展を見る。
備前楯山は足尾銅山そのものの山で、内部には総延長約1200kmにもおよぶ坑道が掘られている。抗口は本山、小滝、通洞
蟻の巣の様にこの山の下に抗道があるのだ
本山製錬所跡から鷹の巣経由で舟石林道(細い山道、全舗装)で舟石峠着。広い駐車スペース有り
山奥なのに大正7年には47戸の農家があったらしい。昭和29年には全く人はいなくなった。舟石の地名はこの石に由来するらしい
保育園のマイクロバスが1台停まっていた。園児が登っているのかな・・ 登っている途中でたくさん下りてきた。元気だ
今年は山の木の実が不作なのでクマ出没が頻発している。am11:00迷わず鈴をつけて登りだす
天気は残念ながら雨模様に向かっている
まずは笹床と針葉樹カラマツの緩やかな林
尾根つたい 木の階段も出てきてよく整備されている
40分くらいであっけなくそう広くない山頂に着いた。 崖になっているので幼児の引率には気を使うだろう
東の向う側は赤倉の集落と赤倉山
案内板があった。270度展望だが雲が多く男体山など日光側の山々は残念な展望だった
岩場で狭い三等三角点の山頂であるが、展望はよく、北から西にかけて松木沢の茶色い岩肌の先に男体山、中禅寺湖南岸の社山、
黒檜の山々、庚申山から皇海山方面のパノラマが一望できる
製錬所の硫酸工場があった一番上のテーブル台地には太陽光のパネルが並んでいた
製錬所の煙害でまだ岩肌が見えている足尾の山々 沢入山?
足尾ダムが少し見える。男体山の山容は見えなかった。
庚申山とか皇海山もいつか登ってみたい。皇海山は遠いか
ちょっと登山道を外れると岩の割れ目に穴があった。露天掘りの後か?危険だから覗くのはやめた。足場も悪いし
足尾銅山・・いろいろ興味は尽きない
足尾銅山の発見の通説は次のとおり
慶長15年(1610)に 備前国(岡山県)を生国とする足尾の農民 治部(じぶ)と内蔵(くら)の両名が渋川(松原と赤沢の間を流れる川)を遡り、黒岩山(のちに備前盾)に登って銅鉱の露頭(地表に露出していること)を発見し、足尾郷支配の日光山座禅院座主(大寺の主席の僧職)に報告した。翌16年に江戸幕府老中の酒井雅樂頭忠世(前橋藩主)の取次により問吹銅(試験的に製造した銅)を江戸幕府に献上した。時に徳川家康は健在であり、後に三代将軍となる家光の袴着の式(幼児が初めて袴を着ける儀式:七五三の祝いに定着)を挙げる年にあたり、徳川家の吉兆となっる銅山として足尾郷のうち銅山を幕府直轄とした。
黒岩山は功績のあった二人の生国の名を付け備前楯とした。 とされている。
しかし、それ以前から足尾の銅が採掘されているという記録があるにも拘わらず、徳川幕府の権威を誇示する為に古事は抹殺されたのであろう。
足尾銅山の発見として、室町時代(1336~1573)の事であろう「足尾銅山街道(群馬県教委)」とあり、別資料では”弘治・永禄(1555~1570)の頃、産銅の記録が認められる”と記述している。その頃の足尾は佐野城主の支配下にあった。したがって、佐野氏が足尾銅山を取り仕切っていた、とする文書があるとしている・・ (広報 あしおより)
am12:20 舟石の駐車場に降りてきた途端に小雨が落ちてきた
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