九戸西門、西門(二戸郡)を治めた領主は浄法寺氏である。
浄法寺氏の祖は桓武平氏秩父流畠山氏、畠山重忠の三男、阿闍梨重慶が祖と伝わっている。
重慶については、浄法寺を始め、各地に伝説が残る。
まずは浄法寺氏の由来をいくつかご紹介しよう。
『奥南落穂集』
畠山庄司次郎重忠三男出家、大夫房阿闍梨重慶、奥州二戸郡浄法寺ニ住シ、
父重忠依讒討死、両兄共殺害ヲ憤リ兵ヲ起スノ企アルヨリ、鎌倉ノ命ニヨリ
長沼五郎宗政討手トシ来リ。重慶誅セラレ其の男幼弱、民間ニ潜シ、
後浄法寺太郎重基トイフ。夫々住居シテ近村ヲ従ヒ一家ヲナセリ。
南部守行公ニ応永ノ頃ヨリ従ヒ、軍功アリ。信直公御大、5千石ヲ領シ、
浄法寺修理重安、九戸攻ニ功アリ、帯刀ト改ム。
『南部藩士由緒記』(南部氏諸士由緒か)
畠山重忠と太郎重保が、奥州の戦功によって頼朝から二戸郡を受けたとする。
その後この地を継いだのは二男であるが、この嫡子が死んだため、
鎌倉浄法寺で出家した者が還俗してこの家を継いだ。
『南旧秘事記』
畠山庄司重忠の後裔也 右大将頼朝公伊達次郎泰衡御退治以後 重忠の弟重宗に二戸郡を賜
(此時畠山重忠の郎等本多次郎近常か二男供して下向故に浄法寺の内本田と伝村有)
浄法寺と唱ふることは 重忠の末子鎌倉浄法寺と云寺に出家して有けるか 重宗の嫡子死去して
嗣子なし 故還俗下向して家を継 仍て家名を浄法寺と号 (元松岡氏と称す) 子孫永く浄法寺に
居住し浄法寺修理代慶長年中岩崎合戦有 此時修理利直公の命に背き (或は岩崎城代被仰付
といへ共修理命に従はすとも云) 浄法寺五千石召放され 重宗より数代二戸郡を領する嫡家此時断絶す
(浄法寺氏は松岡から大館に移住し、西は田山から北は上斗米まで領有したという。その上斗米に本田という地名があり、それが本田の伝村があった場所であろう。上斗米本田に館跡があるというが詳細は不明)
一戸平糠 畠山家の由来
「畠山重忠、小坪の敗戦後、重忠の三男重慶坊なる人来りて、東平に寺院を開き、
地方民をして仏教に帰依せしめ、人民を教化せしが、後此地を去るに臨み一子を残してさる。
そのとき、我が子孫は永く此の地に移住すべし。万一寺院が衰いて信徒なくならば、破壊して家として、
本堂の丸柱を以て家の重要なる所に用すべし…」と言い伝えられ、寺財で作ったという柏の丸柱が残るという。
(この畠山氏の庵(寺院?)は平糠小学校の場所にあった)
頼朝による奥州征討の時に二戸郡と呼ばれるものがあったか、それは明らかではない。
「餃目氏旧記」(余目氏旧記か)によれば、頼朝は重忠を奥州守護に任命しようとしたと云う。
しかし梶原景時の讒言により思い留まったとある。
いつの頃かに、畠山氏分流は宇多源氏の佐々木氏と同じく、今の二戸郡に移住し、二戸氏を名乗ったようである。(天正の頃、九戸政実の家臣に二戸一休斎という人物がいる)
奥州征伐の功で重忠が賜ったと明らかになっているのは狭小といわれる葛岡郡(長岡郡か)だけであり、浄法寺松岡の地頭になったのは同じく奥州征討の功によるものと考えてよいのではないだろうか。
重慶母は「二戸郡史」によれば北条時政の娘、新編武蔵風土記稿 下関の宮之原系図によれば足立遠元の娘という。
足立系図によれば、北条時政の子、北条時房の母は足立遠元の娘である。
重忠の子、重秀の母も足立遠元の娘であり、時政と重忠は義兄弟にもなるようだ。
鎌倉の浄法寺については、江戸時代の編纂物「南方紀伝」に1430年(永享二年)の正月に炎上したと書かれている。
現存していなく、鎌倉のどこにあったかもわからない。また開基も不明である。
浄法寺氏の祖は桓武平氏秩父流畠山氏、畠山重忠の三男、阿闍梨重慶が祖と伝わっている。
重慶については、浄法寺を始め、各地に伝説が残る。
まずは浄法寺氏の由来をいくつかご紹介しよう。
『奥南落穂集』
畠山庄司次郎重忠三男出家、大夫房阿闍梨重慶、奥州二戸郡浄法寺ニ住シ、
父重忠依讒討死、両兄共殺害ヲ憤リ兵ヲ起スノ企アルヨリ、鎌倉ノ命ニヨリ
長沼五郎宗政討手トシ来リ。重慶誅セラレ其の男幼弱、民間ニ潜シ、
後浄法寺太郎重基トイフ。夫々住居シテ近村ヲ従ヒ一家ヲナセリ。
南部守行公ニ応永ノ頃ヨリ従ヒ、軍功アリ。信直公御大、5千石ヲ領シ、
浄法寺修理重安、九戸攻ニ功アリ、帯刀ト改ム。
『南部藩士由緒記』(南部氏諸士由緒か)
畠山重忠と太郎重保が、奥州の戦功によって頼朝から二戸郡を受けたとする。
その後この地を継いだのは二男であるが、この嫡子が死んだため、
鎌倉浄法寺で出家した者が還俗してこの家を継いだ。
『南旧秘事記』
畠山庄司重忠の後裔也 右大将頼朝公伊達次郎泰衡御退治以後 重忠の弟重宗に二戸郡を賜
(此時畠山重忠の郎等本多次郎近常か二男供して下向故に浄法寺の内本田と伝村有)
浄法寺と唱ふることは 重忠の末子鎌倉浄法寺と云寺に出家して有けるか 重宗の嫡子死去して
嗣子なし 故還俗下向して家を継 仍て家名を浄法寺と号 (元松岡氏と称す) 子孫永く浄法寺に
居住し浄法寺修理代慶長年中岩崎合戦有 此時修理利直公の命に背き (或は岩崎城代被仰付
といへ共修理命に従はすとも云) 浄法寺五千石召放され 重宗より数代二戸郡を領する嫡家此時断絶す
(浄法寺氏は松岡から大館に移住し、西は田山から北は上斗米まで領有したという。その上斗米に本田という地名があり、それが本田の伝村があった場所であろう。上斗米本田に館跡があるというが詳細は不明)
一戸平糠 畠山家の由来
「畠山重忠、小坪の敗戦後、重忠の三男重慶坊なる人来りて、東平に寺院を開き、
地方民をして仏教に帰依せしめ、人民を教化せしが、後此地を去るに臨み一子を残してさる。
そのとき、我が子孫は永く此の地に移住すべし。万一寺院が衰いて信徒なくならば、破壊して家として、
本堂の丸柱を以て家の重要なる所に用すべし…」と言い伝えられ、寺財で作ったという柏の丸柱が残るという。
(この畠山氏の庵(寺院?)は平糠小学校の場所にあった)
頼朝による奥州征討の時に二戸郡と呼ばれるものがあったか、それは明らかではない。
「餃目氏旧記」(余目氏旧記か)によれば、頼朝は重忠を奥州守護に任命しようとしたと云う。
しかし梶原景時の讒言により思い留まったとある。
いつの頃かに、畠山氏分流は宇多源氏の佐々木氏と同じく、今の二戸郡に移住し、二戸氏を名乗ったようである。(天正の頃、九戸政実の家臣に二戸一休斎という人物がいる)
奥州征伐の功で重忠が賜ったと明らかになっているのは狭小といわれる葛岡郡(長岡郡か)だけであり、浄法寺松岡の地頭になったのは同じく奥州征討の功によるものと考えてよいのではないだろうか。
重慶母は「二戸郡史」によれば北条時政の娘、新編武蔵風土記稿 下関の宮之原系図によれば足立遠元の娘という。
足立系図によれば、北条時政の子、北条時房の母は足立遠元の娘である。
重忠の子、重秀の母も足立遠元の娘であり、時政と重忠は義兄弟にもなるようだ。
鎌倉の浄法寺については、江戸時代の編纂物「南方紀伝」に1430年(永享二年)の正月に炎上したと書かれている。
現存していなく、鎌倉のどこにあったかもわからない。また開基も不明である。