奥州糠部 九戸四門~西門の歴史~

岩手県二戸郡の歴史と風景をご紹介します。浄法寺町を支配していた浄法寺氏とその先祖畠山重忠も扱っています。

畠山氏ゆかりの古都鎌倉

2010年05月04日 | 平姓畠山氏
鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮(元鶴岡若宮)は、八幡宮の本宮である豊後の宇佐八幡神を勧請し、造営された
京都の岩清水八幡宮を、源頼朝の祖先である源源頼義が勧請して造営された社に由来する。
現在の鶴岡八幡宮は、頼義が創建した鶴岡若宮を子孫である頼朝が、再度岩清水八幡宮を勧請して、現在地に移したものである。
残された若宮は元鶴岡八幡宮(由比若宮)と呼ばれて現存している。

尚、日本三大八幡宮と言われるものは、大分県の宇佐八幡宮(宇佐神宮)、京都府の岩清水八幡宮、三つ目に福岡県の筥崎宮か、或いは鎌倉の鶴岡八幡宮が入る。

重忠は鶴岡八幡宮で源義経の愛妾、静御前が舞いを舞った際、銅拍子を打ったという。
軍記物の義経記では、漢竹の横笛を吹いた事になっている。

畠山重忠邸址(重忠の邸宅は鶴岡八幡宮の横に在った)


国指定遺跡 永福寺跡
重忠は永福寺建立の際、大岩を持ち上げて運んだという。


 永福寺は源頼朝建立した寺院で、源義経や藤原泰衡をはじめ奥州合戦の戦没者の慰霊ため、荘厳なさま感激した
平泉の二階大堂大長寿院を模して建久三年(1192年)、工事に着手しました。
 鎌倉市では、史跡の整備に向けて昭和56年から発掘調査行い、中心部の堂と大きな池を配した庭園の跡を確認しました。
堂は二階堂を中心に左右対称で、北側に薬師堂、南側に阿弥陀堂の両脇堂が配され、東を正面にした全長が南北130メートル
に及ぶ伽藍で、前面には南北100メートル以上ある池が造られていました。
 市では昭和42年度から土地の買収を行っており、今後は史跡公園としての整備事業を進めていく予定です。
             平成13年鎌倉市教育委員会


永福寺跡


永福寺跡

永福寺跡(横のテニスコートあり)


手打ちそば処 鎌倉武士(写真撮った時間が丁度4時で入れませんでした)

佐助稲荷神社
重忠、頼朝の命により造営せしむ。

由緒

下社


観音山 望夫石
重忠の嫡男、重保が由比ガ浜で非業の死を遂げた。
その訃報を聞きつけた妻が、観音山と云われたこの山の頂上から由比ガ浜を望み、亡き夫重保の死を嘆き悲しみ亡くなった。
そしてこの地で石化したという。観音山は巽神社の北西にある。





重保邸址にある重保の五輪塔


六郎茶屋(昔、重保墓の隣で茶屋が営まれていた)

由比ガ浜
六郎重保は北条時政に呼び出され、三浦氏の郎党佐久満太郎たちによって由比ガ浜で最後を遂げた。
この佐久満太郎は、重忠の外祖父である三浦義明の四男、多々良四郎義春の嫡男佐久間太郎家村の事であろう。
同じく、多々良義春の子である多々良三郎重春は、小坪合戦の際、重忠の軍勢に討ち取られている。
また、小坪合戦の折に畠山の軍勢は、由比ガ浜の稲瀬川付近に陣を敷いた。

多々良重春の墓は、材木座に在る時宗の来迎寺にあり、横にある祖父義明の墓と一緒に残されている。




そのうちに建長寺、長谷観音、江ノ島を訪れて追加予定です。
江ノ島は藤沢市ですが旧鎌倉郡ということで(笑)