みふうずらの縁側

へっぽこライダー
家族構成は犬・猫・人間、のんびり暮しています。

自分のこと その6

2022-05-31 08:28:00 | 日記
その5から随分と時間が空いてしまいました。

今回が自分の気持ちを整理する為としても、一番辛い時期だった為、いざ文章にするとなると思う様に文章になりませんでした。

私が2度目の入院をしている間、彼とは全く連絡が取れませんでした。
父が再度、彼のご両親に二度と会わせないと告げたと、後に知りました。
2度目の入院は3週間程でしたが、母は「色に狂った子の顔など見たくも無い」と言い捨て、幸いにも一度も両親の顔を見ずに済みました。

退院後は自宅療養と言う事で、直ぐに仕事に復帰出来ませんでした。
ですので、最期の時まで一緒にいたいと思っていた私は勇気を奮い立たせ、彼の主治医に今現在の彼の病状を尋ねるため、主治医に時間を設けて欲しいとお願いしました。
主治医の先生は心良く時間を取って下さり、包み隠さず彼の現状を教えて下さりました。
ある薬の名前を上げて「○○(強い抗がん剤)も効かなかった。とおっしゃいまそた
そして「もう、あなたが立ち入る事は出来ない」と告げられました。
彼は私が入院した後、直ぐに再発が確認され、本人の強い希望で余命宣告も受け入れていました。
「2人部屋に入院し自分のプライバシーを守りつつ、心静かに過ごしているから、あなたの存在は今の彼には邪魔だ」と主治医から言われてしまいました。
私は「はいそうですか」とは簡単には言えず、この後、最後にもう一度だけ面会の許可をもらい、彼に会いました。

彼は脊椎にも転移が見られ、自由に動きづらい状態になっていました。

彼は以外とスッキリした表情をしていましたが、私は無理をしている様にしか見えませんでした。
「会いに来れなくてごめんなさい」とか、「今度こそ本当に元気になったから、また会いに通っても良い?」とか、言いたい事や伝えたい事はいっぱいありました。
父が彼のご両親に酷い事をしたことも謝りたかったですし、その事は私の意志とは全くかけ離れた事であることも。

でも、何も上手に伝える事が出来ませんでした。
たとえ短い時間であっても、その時間を何に変えても一緒にいたいと言う事。
最期まで彼に付き添い抱きしめていたいこと…
ですが、両親への恐怖と自分の幼さから何一つ上手に伝えることができませんでした。
彼は想像していたのかも知れません。
自分が亡くなったら、私が直ぐに後を追いかけようとする事を。

彼は私に言いました。
「ちゃんと生きて、結婚して、子供を産んで育てて、天寿を全うするまでずっとみふうずらを待ってる。そうしたら次の世でみふうずらに会えるまでずっと待ってる。だから幸せな人生を送って自分の所へ来てくれるのを待ってる。途中で自分の人生を投げだしたら待つのはやめるからね、約束だからね」と言いました。

私はもう返す言葉がなくて…「頑張って生きる。だけど、貴方以上に好きになったり愛する人とはもう出会えない。約束を守る努力はするけど、一生貴方を愛し続けるし一生貴方を忘れる日は来ない。だけど私を待っていて。絶対に待っていて。ちゃんと生きて必ず貴方の元に行くから、絶対に私を見つけて一緒に幸せになるって約束して」と言いました。
「ちゃんと生きたみふうずらを待ってるから大丈夫」
…それが私と彼の最後の会話になってしまいました。
私は彼の命日すら今も知りません。
共通の知り合いはいませんでしたから…。

ごめんなさい、こんな私でごめんなさい…とずっと泣き続けていました。
彼を失ってまで生きる勇気は当時の私にはありませんでした。
ただただ死にたい。彼の側に居たい。
死んだら彼の側にいられる…そんな事しか考える事が出来ませんでした。

そんないつも泣きそうな顔をしている私に父は「いつまでそんな顔をしているんだ。そんな顔をしている奴には誰も近寄ってはこない。頭を切り替えて笑顔でいられる人間になれ」と言いました。

その時は父を恨みましたが、よくよく考えると父の言う事は正しいと思う様になりました。
どんなに泣いても戻らないものは戻らない。
このままぐずぐずしていたら、彼も失った上に仕事まで失ってしまう。
もうこれ以上何も失いたくない!
かなり抵抗はありましたが、何も無かったかの様に笑顔で会社に復帰しました。


自分のこと その5

2022-05-13 18:35:00 | 日記
雨が多くなって来ましたね。
わたくしメ、梅雨時期は酷く体調が悪くなります故、梅雨はまだ先ですが、この時期に雨が降ると今にも梅雨入りしてしまうのでは?と、要らぬ心配をしてしまいます。

生きていて良いという資格を得たものの、あっという間に幸せの絶頂から突き落とされた私でしたが、元婚約者の彼と本当に彼の心臓が止まるその瞬間まで、全てを捨てても彼の側に居たいと願っていた私ですが、当時22歳で親から『乞食にもなれない』と言われ続けていた私は親に逆らうことが怖くてなりませんでした。
それでも彼の側に居続けたい❗️という気持ちが揺るいだ事はありませんでした。
結婚式の2ヶ月前に宣告された『余命半年』など1度も信じた事は有りませんでした。

当時は今よりずっとずっと医学は進歩していませんでしたし、私自身も『奇跡という言葉が有るのは、滅多には無い事であっても奇跡は現実に存在するから奇跡という言葉が有る』と信じていました。

現実、退院出来ないとまで言われていた彼は退院出来ました。
退院した彼と一緒にドライブにも行けましたし、美味しいケーキを一緒に食べて「美味しいね💕」って言い合う事も出来ました。
ささやかな幸せと言ってしまえばそれまでですが、その『ささやかな幸せ』こそ私が1番欲しかった物でもありました。

彼は「自分の病気は癌ではないか?」と疑い、私はその彼の疑いを感じつつも将来の話し「結婚式はいつ頃になるかな?」「たくさん心配させられたから、新婚旅行は奮発してね」erc …一生懸命に笑いながら自分達の明るい将来の話しをして、彼も自分自身の病気を疑いながらも、私の話す『2人の明るい未来』に付き合ってくれました。

いつの間にか私の心は病んでいたのかも知れません、彼が亡くなってしまったら『私の存在価値は無くなる』と思うようになり、『彼が死んだら私も死んで良い』『私が死んだら両親も喜んでくれる』と、大真面目に計画を立てる様になりました。

元々両親の為に『早く死ななければならならない』と思いながら生きていましたので、その時が来た程度にしか思えませんでした。

ところが身体は正直なもので、彼がなんとか症候状態を保っている間に、私の身体が悲鳴を上げてしまいました。
以前から胃が痛いな…とは思っていたのです。癌だったら良いのに💕…と思って放っておきました。
そんな日が続いた頃、食後に吐き気がしまして…会社のトイレで吐き続け、血まで吐き続けて意識が朦朧としてしまい病院に運ばれてしまいました。

胃潰瘍と十二指腸潰瘍+過敏性大腸炎になっていました。
どの病名にも「癌」と言う名は付いていませんでした。
3つも病気になっていながら、そのうちの1つにも「癌」という名は付いていないのに、彼はたった1つ!ちょっと気になる…という程度で、自覚症状も無かったのに「癌」という名が付いていました。天は不平等だと心底思いました。

私は再び入院治療となりました。
自分の事なんてどうでも良いから、彼の側に居たかったのに…
両親からは疎まれ、一緒に幸せになろうと約束してくれた彼は手の届かない場所へ一歩づつ近づいているというのに…
本当に自分は何の為に生まれてきたのか?

彼は私と知り合い、結婚に約束をしたせいで死ぬ事になってしまった様な気がして…本当に自分は生まれてくるべきでは無かった。両親の言う通りだったと…泣く事も許されないと思っていました。






自分のこと その4

2022-05-11 17:18:00 | 日記
私は自分の事を文章にする事で、自分自身の気持ちを整理して、『海に沈む月』なんて言うくら〜いブログ名を終わらせて、新しい?自分を自分なりに発信して生きたいという気持ちもありまして、嘘偽りの無い自分の過去から現在?に至るまでを、自分自身の言葉で表現して1つ乗り区切りを付けたいと思って「自分のこと」を書き始めました。
これからもっともっと信じられない様な出来事が起きますが、今現在の私は以前ほど両親を嫌って(恨んで…が正しいかも知れません)いないという私的な真実(事実は変えられないと思っていますので)を持って、自分自身と向き合えたら良いと思っています。

前回の続きですが…
端折って言ってしまえば、家から通える短大の音楽科に合格することができました。
ギリギリなんとか引っかかったという表現が正しいです。
家から2時間かけて通いました。
それでも毎日が楽しくて仕方ない日々でした。
多分わたくしメの人生で、この2年間ほど勉強し充実し楽しかった日々は無かったと思います。
ただ2年というのは本当に短くて…あっという間に就職を考える時期が来てしまいました。
音楽科なんてつぶしが効かない学科ですので、何とか普通の企業に勤めながら音楽を続ける方法を模索していました。
出来れば、家を出て1人暮らしが出来る企業への就職先を探していました。

ところが…長女が一浪して大学を卒業したのですが、遊び過ぎて卒業間近まで単位が足りるか足りないかのギリギリの綱渡りをしていましたので、無事卒業はしましたが今で言うフリーター生活に近い生活を卒業した大学付近でしていました。
父は昭和1桁代生まれで、父の頭の中には家督制度がビッシリと詰まっていましたので、何とか長女を地元に戻らせ、地元で就職させ、婿養子を貰って家を継がせる❗️
それ一択で、あらゆるツテを頼って地元での就職先を探して来ましたが、姉は「地元に戻る気は無い」の一言で、父の苦労を無にしてしまいました。
でも父はせっかく就職先の世話をして下さった方の顔を潰す訳にはいかず、何と!わたくしメがその会社に就職する事になってしまいました。
当時のわたくしメは父に逆らうという事を考えた事も有りませんでしたので、父の言う通りに就職させられてしまいました。
それでも一応、筆記試験、一次面接、二次面接は受けて就職しましたが、既にその会社では『大手取引先のコネで入社してくる新入社員がいる』と、実物のわたくしメを見るより先に噂が先行しておりまして…
就職して一年目はひたすら虐めに耐えながら仕事をしました。

そんなわたくしメでしたが、立派に❓好きな人がおりまして…信じられない事に結婚も考える様になっていました💕

両親はわたくしメの結婚に賛成してくれまして、就職2年目の11月に結婚する事に決まりました。
わたくしメにも生きていて良い理由が出来ましたし、わたくしメを必要だと言ってくれ、こんな自分を肯定してくれる人と一生一緒にいられる…夢の様な日々を過ごしておりました。

生きていて良かった‼️
この言葉が全てを表している幸せな日々はずっと続くと信じていましたが、何と表現して良いか…今も分かりませんが、結婚式の2ヶ月前になって、婚約者に癌が見つかりました。
以前から少し気になっていましたので、早く病院に行って欲しいと、本当は気軽な気持ちで伝えて…重い腰を上げて病院に行った結果、一千万人に1人と云う様な珍しく、そして治る見込みの無い癌が発見されたのです。
私は心の中で絶対に治る❗️と信じていました。が、それ以上に不安に押し潰されそうな日々を送っていましたが、当時はまだまだ癌の告知は一般的ではなく、婚約者には知らないふりをして将来の話しをしていました。

私の両親は当然❓手の平を返し、結婚に大反対で、婚約者に会うことも許してもらえず、私がストレスで過呼吸を起こしたのをきっかけに、知り合いの医師に頼み込んで私は無理矢理入院させられ、婚約者に会うことも出来ない状況に追い込まれてしまいました。
その間に婚約は解消されてしまっていました。
それでも毎晩、お互いの入院先から電話をかけ合っていました。
1ヶ月程入院させられた後、私はやっと退院を許され、しごと帰りに彼(元?婚約者)に会いに行き、仕事が休みの日は面会時間いっぱいまで彼に会い、土日休みは奇跡的?に退院出来た彼に会いに行きました。
そんな私を見て母は「お前は色に狂っている。気持ちが悪い」と言いましたが、私は聞こえない振りをして彼に会いに行きました。

続きます。
また後日。




自分のこと その3

2022-05-02 22:33:40 | 日記
最近になって自己肯定感という言葉を耳にする様になりました。
自己肯定感とは海に泳ぎ出た時の浮き輪の様な物だと教えてくれた人がいましたが、何にしてもよく分からない言葉です。

わたくしメが中学生の後半くらいからは両親からの体罰や暴力は無くなっていましたが、姉たちが大学生になるまで常に欠点を指摘され、いかにわたくしメがダメな人間なのかを教え込まれる日々は変わりませんでした。

小学生の夏休み前半は母の姉(要はおばさんの家ですね)に預けられていましたので、おばさんはわたくしメの状況をわたくしメ自身よりよく見ていたらしく、わたくしメの母に「そんなにみふうずら(わたくしメの事です)が邪魔なのなら、うち(おばさんの家)の養女に欲しい」と申し出たそうですが、母は激しく反論して養女の話しを断ったと後に知りました。

要は他人が見ても両親のわたくしメに対する扱いは酷かったということです。
そんな両親から大学進学とか、家から出さないとか言われてもわたくしメの思考は停止したままでした。

なに者にもなれない、乞食にもなれないと言われ続けて育ったわたくしメは音楽が好きというだけで、夢とか希望とか持った事も有りませんでしたし、勉強したって意味がないと思っていました。

わたくしメに出来る事は早く両親の目の前から消える事、早く死ななければならない。
そういう思考しか有りませんでしたので、それなりの進学校に通っていても、進学も就職も自分の未来も考えた事が有りませんでした。

ですので、急に自分の進学とか未来を考えるチャンスを与えられても何も思い浮かばず、ただただ困り果てるだけでした。

高校3年生の秋になっても自分の進路が見つからず、本ばかり読んでいたわたくしメに父が「○△短大の音楽科へ行け」と言い出しました。
父はわたくしメが音楽が好きな事を誰よりも知っていたのでしょう。
4年制の音大と短大の音楽科は違う物で、短大なら簡単に入学出来ると思ったのでしょう。

ですが入試においては普通の4年制音大も短大の音楽科も何の違いは有りません。
自分の主科とする楽器の試験の他、ピアノ科以外は副科のピアノ、コールユーブンゲン、聴音、新曲視唱、楽典など…(もちろん学科も有ります)一般的にいうソルフェージュなどした事も無い試験が沢山有るのです。
ですので、4年制の音大であろうと短大の音楽科であろうと、音楽と名の付く大学を目指す人の殆どの人は早くから準備して試験に臨むものなのです。
ですからお金ももの凄くかかりますし、主科とする楽器も購入しなければなりませんでしたが、父は振り上げた拳を下ろす事が出来ず、訳も分からないまま4ヶ月後の入試に向けて動き出しました。
音楽は好きでも、ただ音楽を楽しむ事と音楽を本格的に学ぶ事は全く別物でした。

初めての習い事?が入試の勉強というのも皮肉な事でしたが、好きな事をさせて貰える喜びには代え難いものでした。
ここで頑張れば、乞食にもなれない・何者にもなれないと言われ続けたわたくしメが短大とは言え音大生になれるのですから、それはもう必死でした。

早く死んで両親の目の前から居なくなる事が自分のなすべき事と思っていたはずのわたくしメでしたが、本心は生きていたいと思っている自分に気がついた出来事でも有りました。

また続けさせていただきます。







自分のこと その2

2022-05-01 23:31:00 | 日記
わたくしメの高校入試の年は、1浪した長女の大学受験、次女の現役の大学受験が重なった年でも有りました。

ですので、両親はわたくしメが進学校と言われる程度の高校受験などにはほとんど興味は有りませんでした。
両親が1番気にしていたのは、地元どころか、全国的にもそれなりな超進学校に通学していた次女の大学受験でした。
私達姉妹にもそれなりにいとこがおりまして、次女と同い年のいとこは次女を入れて3人いました。
3人とも非常に勉強が出来たせいか、両親はそのいとこ達に妙なライバル心を持っていました。
誰が1番良い大学へ行くか?という、今になって考えれば本当にくだらなくどうしようもない事だと思うのですが、何故か特に母のライバル心は異常とも言えるものでした。正直、今思い出しても気分が悪くなります。
そういった状況でしたので、わたくしメの高校入試など眼中にはありませんでした。

結局、いとこ3人の中で次女は旧帝大と言われる大学へ進学しましたが、次女以外の2人も国立大学へ進学しましたので、さほど威張れる程の事では無かったですし、浪人した長女は今でいうFランとまでは言えないまでも、Eランク程度の大学に進学したので、次女の事で優越感に浸りきっている母が気持ち悪くて仕方ありませんでした。

長女も次女も大学進学と共に家を出て行きました。
わたくしメはいきなり1人っ子状態になってしまいました。

長女は年子の次女と常に比べられて、中学・高校は辛くて仕方無かった。そのせいで殆ど周りを見ていなかったし、わたくしメに関する記憶は殆ど無いと言っていました。(あんなに意地悪をしておいて記憶が無いって…)
そのせいか?大学に進学し家を出てからの長女の行動は異常でした。
勉強もせず、研究会と言う名の部活?で日本中を飛び回り、その為にバイト三昧だったようです。
バイトをして自由になるお金を手に入れられる事を知ったせいか?当時はクレジットカードなど有りませんでしたので信販会社でローンを組み、家にいきなり信販会社から電話がかかって来る…などと言う事も何度かありました。
簡単に言うと、全てにおいて非常に素行が悪かったのです。

次女は大学に入ってから音信不通になりました。
当時は電話は高級品でしたので、手紙しか連絡手段が無く、両親は心配でならない日々が続きました。
次女は大学に進学した頃に「大学3年生の夏休みを海外で過ごす」と言う目標のため、勉強とバイトで忙しくしていた様でした。
今の様に留学などのシステムなどない時代でしたので。
次女は目標を達成しましたが、両親がもの凄く心配したのも事実でした。

姉たちの行動のツケはわたくしメに回ってきました。
元々さほどに勉強が好きでは無かったし、どうせ「乞食にもなれない」と言われて育ったものですから、音楽が好きと言うだけで何の取り柄も無いわたくしメに両親は「あんたはバカなんだから、バカの行く大学に行くなら、遠くのバカ大学より近くのバカ大学に行けば、余計なお金が掛からなくて良い。家から通える大学以外には行かせない」と言われてしまいました。

わたくしメの事は嫌いでも大学に進学させてやろうと思って貰えた事は嬉しい事でしたが、嫌いなわたくしメを家に置いておこうと思う両親の気持ちが全く理解出来ませんでした。
しかも「乞食にもなれない」と言い続けていたのに?

続きはまた後日