拷問による自白-中国の冤罪と戦う弁護士団
有罪判決率ほぼ100%の中で逆転無罪を勝ち取ること
2016 年 7 月 5 日 12:33 JST The Wall Street Journal ByTe-Ping Chen
ある年の11月の肌寒い日に、チェンさんの事件を担当している数人の弁護士が山を登り、墓参りに訪れた。
彼らは墓の前で紙幣を燃やし、花を手向けた。そのなかの一人はあることを心に誓った――。
墓参りに先立ち、ワン・ワンチオン弁護士はチェンさんの年老いた両親に会っていた。
意欲的なビジネスマンだったチェンさんは、自分は拷問され、犯してもい ない殺人の自白を強要されたと話している。
ワン弁護士は、どれだけ法的に努力しても、チェンさんが終身刑から解放され、自宅に戻ってくることはないのでは ないかと懸念した。
「信じがたいほどのプレッシャーを感じた」と話す。
弁護士たちは墓参りの翌日、冤罪(えんざい)問題に取り組む「イノセンス・プロジェクト・イン・チャイナ」を設立した。
米国などにある同様の団 体に触発されたものだ。弁護士たちは、拷問によって得られた自白や証拠をもとに裁判を行うことを禁じた
2012年の法律を盾に挑戦することになる。
中国の一党独裁の政治体制と、しばしば残忍で恣意的に運用されることで知られる司法システムを考えると、
彼らの目指す目標は無謀なように見える。
だが、こ のタイミングは奇しくも幸先の良いものだった。
誤った有罪判決をひっくり返すことは政府が提言するより広範な議題にかなう上、
反抗分子に対して当局が行っ ている取り締まりとも軌を一にしていた。
香港の人権学者ジョシュア・ローゼンツワイク氏は「法的な改革はある面で、政治改革の代わりだ」と指摘する。
「(政府は)国民に対し、何らかの対策がとられていることを示したいが、同時にその成り行きも管理したいのだ」
何が待ち受けているか分からなかったが、弁護士たちは学生ボランティアの助けを借りながら、
北京の質素なアパートで3年前に活動を開始した。
チェンさんのケースが彼らの最初の事件になった。
若者らしい野心
チェンさんは四川省の平原にある小さな町の医療事務員と公務員の息子として産まれた。
3人兄弟の末っ子で本好き――写真とクラシック音楽が好きで内向的な性格だった。
彼はカセットテープと日本製のステレオを買うためにお金を貯めた。
父親と同様にチェンさんは政府関係の仕事に就いたが、地元の工商管理局の仕事を退屈に感じた。
それよりも市場経済という中国初の実験で裕福になっている起 業家たちの話に魅了された。
「当時は、誰でもゼロから始められると感じた」と話す。「自分も同じことができると思った」
両親にとっては残念なことだったが、チェンさんは1988年に25歳で仕事を辞め、友人らと一緒に海南島に引っ越した。
当時、海南島は大いに賑わっている新興の経済圏であり、そこでは新たな富が生まれているように見えた。
チェンさんと友人らは四川料理のレストランを開業するためにお金を出し合った。
開店初日には彼らと同様の若い移住者が大勢で店にやってきた。
休みの日には海南島の熱帯の自然の美しさを満喫し、ビーチで写真を互いに撮り合ったりして過ごした。
だが、調子の良いときは長くは続かなかった。レストランは失敗し、チェンさんはコピー機の修理などいくつかの仕事を転々とした後、
建物の改装を手掛ける会社を始めた(だがあまりうまくいかなかった)。
20代の頃のチェンさん
1992年のクリスマスの日、チェンさんの以前の大家が刃物で刺され、火をつけられて殺害される事件が起こった。
チェンさんは事情聴取のために連行され た。警察はチェンさんが家賃を滞納していることを知っていると話し、
現場近くでチェンさんの身分証明書を見つけたと言った。
チェンさんは事件への関与を否定した。
弁護士や裁判の書類によると、チェンさんは尋問のためにオフィスビルの一つに連れて行かれ、
鉄の棒で殴られ、ムチで打たれ、電気警棒で感電させられた。
チェンさんによると、尋問担当官がチェンさんを自殺に見せかけて建物から投げ落とすと脅したこともあったという。
チェンさんはついに屈し、殺人について自供した。
にもかかわらず、チェンさんは自分が無罪になると信じていた。
物的証拠が裁判所に何も提出されず、指紋採取はなく、DNA検査も行われなかった。
裁判の期間中ずっと、チェンさんは拷問による自供だったと訴え続けた。
1994年に海南の中級人民法院(裁判所)はチェンさんに有罪を申し渡し、執行猶予付きの死刑判決を出した。
実質的な無期懲役だ。その時、チェンさんは 31歳だった。
中国の無罪判決率
家族宛ての手紙の中でチェンさんは「この社会、この国の政府に正義はないとか、公平さがないとは思わない」と書いている。
チェンさんの弁護士は警察が他の容疑者を調べなかったと指摘している。
それには、殺害された大家と以前の借り主の父親との間に、事件直前に激しい口論があったことも含まれる。
1999年に海南の高級人民法院は事件について再び審理し、中級人民法院の判決を支持した。
チェンさんは両親宛ての手紙に「世界が滅亡して、彼らが死なない限り、無罪になることは想像もできない」と書いている。
チェンさんの無罪を証明しようと戦ってきたリン・イークアン弁護士は2003年に死亡。
山の中腹の墓地に埋葬されているのはこのリン弁護士だ。
チェンさんはやがて家族宛てに手紙を書くことをやめた。
刑務所の検閲によって、否定的すぎると受け止められた文言が消されてしまうのが不満だった。
彼の両 親は月に約100ドル(約1万円)をチェンさんに送金していた。
そのお金は刑務所の売店で即席麺やクラッカーを買うことに使っていたという。
無実の訴え
チェンさんの母親は毎月、手紙を書いてきた。書くのはたいてい18日だ。「18日」の発音がいくらか「解放」の発音に近いからだ。
父親は息子の代わりに再審請求の書類を77回作成した。手書きもあれば、パソコンを持っている友人が作成してくれたこともある。
だが、そのいずれも成功しなかった。
ところが、2012年に中国の刑事訴訟法が変更され、拷問によって得られた証言は証拠から除外されることになった。
チェンさんの両親はこれが息子の解放に役立つのではなかと期待した。
退職して北京に住んでいる両親の友人が再審請求の活動に加わり、ブログを開設。
その友人は数多くの弁護士に接触し、再審請求を担当してくれる弁護士を一人見つけた。
リー・ジンシン弁護士は商法を担当する快適な人生を捨てた。
注目を集めた複数の裁判で、拷問で自白を強要されたという依頼人を担当した弁護士を当局が起訴したのを目の当たりにし、
リー弁護士は活動家に転じた。
リー、ワン両弁護士を含む同僚らは2013年終盤にチェンさんのケースを取り上げ、
「イノセンス・プロジェクト・オブ・チャイナ」が扱う第1号の事件とした。
チェンさんは、弁護士らとその年初めて会ったときのことを印象深く覚えていると話す。
リー弁護士は温かさと尊敬をこめてチェンさんを「同志」と呼んだのだ。
それはもう何年も耳にしていなかったものだとチェンさんは振り返る。
弁護士らの手段は限られていた。彼らはその仕事ぶりを称賛することによって、判事たちと良好な関係を築こうとした。
チェンさんのケースでは、弁護士らは有 名な法律学者に裁判の材料を吟味したうえでの分析を求めた。
また、このケースを題材に法律に関する公開討論会を主催した。
イノセンス・プロジェクト・イン・チャイナの発足人の一人、リー・ジンシン弁護士
2014年に、同プロジェクトは人民法院(裁判所)の判決について調査する権限を持っている最高人民検察院に訴えた。
その翌年、同プロジェクトは最 高人民法院(最高裁)に対し、チェンさんの事件を再審理するよう訴えた。
事実関係が明確でなく、証拠不十分だというのが訴えの根拠だ。
最高裁はこれを受 け、浙江省にある高等裁判所にこの件の扱いを命じた。
浙江省の裁判所は2月、最高人民検察院による調査結果を支持し、チェンさんに逆転無罪の判決を下した。
過去の例から言えば、こうした逆転無罪は1998年にあったケースと同じパターンが多い。
妻を殺害した罪で10年以上収監されていた男性が逆転無罪となった事件のことだ。
殺害されたはずの元妻が別の男性とよその土地で暮らしていることが発覚したのが理由だ。
チェンさんのような逆転無罪は珍しい。
ワン弁護士が指摘するように、これは「死人が生き返った」わけではなく、法的な論点に基づいているためだ。
最高人民法院は判決文の中で、チェンさんが大家を殺害したことを示す証拠は不十分であり、信頼もできないと述べた。
前進の兆候
無罪判決は中国ではニュースになる。あまりに珍しいからだ。
昨年は刑事起訴された120万人の中で無罪判決を受けたのは1039人だった。2013年より214人多い。
中国の有罪判決率は、昨年はやや下がったものの、年間で99.9%を上回っている。
中国では逮捕者や有罪判決の数で警察や検察当局が評価されるのが通例だ。
2000年代に公安省は「殺人事件は解決されなければならない」というスローガンを打ち出していた。
イノセンス・プロジェクト・オブ・チャイナの弁護士らは、こうした圧力が脅しや拷問による自白を助長したと指摘する。
ワン弁護士は「どうしたらこんなルー ルが可能なのか。どうしたら事件を解決すると保証できるのか」とし、「こうしたスローガンが誤った
有罪判決を助長している」と述べた。
釈放を伝える新聞の紙面
ただ、前進をうかがわせる兆候もある。最高人民法院のトップは昨年、誤った有罪判決に対して珍しく謝罪した。
そのほとんどは強制的な自白によるもの だった。
最近公開された政府の統計によると、2013年から15年の間に、有罪から逆転無罪になったケースは23件あった。
そのうちの6件はイノセンス・ プロジェクト・オブ・チャイナが関わった事件だ。
イノセンス・プロジェクトは政府からは概ね黙認されている。だが、弁護士らは依然として薄氷の上で活動している。
昨年の夏、政府が人権問題に取り組む弁護士を拘束した際、同プロジェクトの北京事務所も家宅捜索を受けた。
同プロジェクトの弁護士によると、警察はコンピューターやファイルを押収したが何を探していたのかは不明だという。
その後、プロジェクトは転居した。
習近平国家主席は法執行機関を使って政治的な反抗分子を黙らせてきた。
だが中国政府は、中国共産党を脅かすものではない事例については、法制度の見直しに向けて措置を講じてきた。
刑務所から釈放され、両親と電話で話す
チェンさんの帰宅
2月1日、チェンさんは刑務所を出た。判事の一人が頭を下げて謝罪した。
裁判所から渡された750ドルの現金を手に外に出たチェンさんは兄弟や記者団に迎えられた。
その夜、チェンさんは故郷へ向かう飛行機に乗り込んだ。座席の窓から黄色いライトが点滅する滑走路に目をやった。
チェンさんは「(自分の身に)起こったことは歴史や社会と関係していたことだ。システムの問題だった」と話した。「自分の運命と闘えな
いこともある」
チェンさんは自分の過去――殴られ、拷問され、そして長い間収監された過去を水に流したいと機内で語った。
「人の一生には限りがある。私はもう一生のうちの何十年も棒に振った」
84歳の母親は「チェン・マンは苦しんだけれど、法の秩序を向上させるために役立ったと人は言う」と話す。
「でも、この犠牲は大きすぎる。家族全員が払わされた犠牲だ」
現在53歳のチェンさんは再び起業しようと考えている。インターネットに関連する事業になるかもしれないとチェンさんは話す。
弁護士の助けを借りて、チェンさんは政府に賠償金を請求した。政府は5月に、275万元(約4240万円)を支払うことで合意した。
両親と兄と食卓を囲む
自宅に戻った数週間後、チェンさんとワン弁護士は晴れた日の午後に山の中腹にあるリン弁護士の墓参りに出かけた。
墓の前でチェンさんの潔白を証明し た判決の写しを燃やした。リン弁護士があの世で読めるようにとの願いを込めて。
チェンさんとワン弁護士は黄色のキクを手向けた。
ワン弁護士は以前に墓参りに来たときのことを振り返り、「私は心の中で約束した」と話した。
それは、チェンさんが自由の身になったときに、再びここに来るという約束だった。
松・潤の99.9ですね。
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