歯科医物語

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山下達郎 大好き 2028 「山下達郎のニッチ戦略」、事業成功の5つの条件

2021-05-22 22:44:37 | ☆山下達郎 大好き

5/18(火) 7:10配信
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日本の音楽市場において、最前線を走る山下達郎から成功のヒントを学ぶ(写真:筆者撮影)
 山下達郎は、日本のシンガー・ソングライターとして40年以上にわたって活躍を続けている。本連載ではこれまで企業事例から「事業成功のヒント」を考察してきたが、今回は山下達郎が採ってきた「ニッチ戦略」から、企業が実践できるニッチ戦略の王道を学んでみよう。 【詳細な図や写真】山下達郎は、(1)テレビに出ない、(2)武道館(アリーナ)ライブはやらない、(3)本は書かないを公言し、かつそれを貫いてきた。これが、「ニッチ戦略」の成功につながっている?(Photo/Getty Images) 
成功の鍵1:やらない事を明示  競争戦略の大家マイケル・ポーターは、「やらない事を明示する事が戦略である」(注1)と述べている。特にニッチ企業は、それが強く求められる。  山下達郎は、(1)テレビに出ない、(2)武道館(アリーナ)ライブはやらない、(3)本は書かないを公言し、かつそれを貫いてきた。  従来ミュージシャンは、CDを出し、テレビで顔を売り、ファンを増やし、武道館やドームでライブをやるというのが、黄金のステップアップ路線であった。かつてのニューミュージック最盛期に、当初は「テレビに出ない」と宣言していたにもかかわらず、テレビに出演したら人気が高まり、路線変更していったミュージシャンは少なくない。  しかし山下達郎は、すでにアルバムを30枚以上出しているが、テレビには一切出演せず、DVDも1枚も出していない。武道館(アリーナ)ライブもやらず、本も出していない。  (1)(3)(3)はすべて収入の増加に直結する手段であるが、彼はかたくなに当初のポリシーを守っている。音楽の世界には“流行歌”という言葉があるように、「流行り」があり、息の長い歌手でも、その時々の「流行り」に合わせて演出を変えることはよくある。  しかし山下達郎は、ライブに関しても、舞台装置、照明、映像、バックダンサー、ゲストなどで“ショー化”する事はせず、曲を1曲でも多く演奏することを続けている。音楽とトーク以外はやらないのである。  彼のコンサートは休憩なしで3時間以上続き、途中で山下達郎がステージ上からいなくなる事はない(注2)。前座を置いたり、数曲歌ったら衣裳替えと称して、バックバンドだけの演奏でステージから消えてしまう歌手とは、一線を画している。  やらない事が明確なので、戦略の方向、資源蓄積の方向がブレないのである。 注1:マイケル・ポーターは、『戦略の本質とは、何をやらないかという選択である』と述べている。Porter M.E.(1998)“On Competition”, Harvard Business School Press(竹内弘高訳(1999)『競争戦略論 1』ダイヤモンド社) 注2:過去の最長演奏時間は、六本木ピットインで4時間45分(『TATSURO MANIA』第105号、2018)。なお「休憩なし3時間以上」は、高齢化するファンにとっては、徐々に辛いものになってきている面もある。 ●成功の鍵2:市場を大きくしない  ニッチ戦略は「すき間市場、小さい市場を狙う」と理解されやすいが、正しくは、「競合他社との直接競合を避け、棲み分けした特定市場に資源を集中する戦略」(注3)のことである。  大手企業は保有する経営資源が多いため、小さな市場に参入しても投入したほどのリターンがなく、投資効率が悪い。また社内に「**億円ないと事業とは言えない」という投資の判断基準があり、小さい市場への参入は、社内で承認がおりない事も多い。  逆にニッチ企業の側からは、大手の参入を防ぐために、市場をあまり大きくしないことが必要である。山下達郎の音楽は、最近の言葉で言えば「シティ・ミュージック」の範疇に入るかも知れないが、彼はその市場を拡大しようとはしていない。  山下達郎は後述するように、音楽のクオリティを大切にするため、ライブをやる場合も、観客にも演奏者にも良い音楽が届く会場を大切にしている。彼がホームグラウンドとしてきた東京の中野サンプラザは、収容人数も2222名、かつ老朽化して建て直しも検討されているが、1番後方の席まで音がきちんと届くと言われる。また、会場からのはね返りの音が、演奏者にも正しく聴こえる事も重視している。  収容人数の多い武道館(最大収容人数1万4471名)やドームは、1日ライブをやれば、山下達郎ファンの市場も大きくなり、巨額の収入を得ることができるが、もともと音楽を聴くために設計された建造物ではなく、彼が求めるクオリティは実現できないとして、ライブ会場には選ばれていない(注4)。  山下達郎のライブ・チケットは取りにくいことで有名であるが、クオリティを犠牲にしてまで収容人数を増やすことはしていない。 注3:嶋口充輝(2000)『マーケティング・パラダイム』有斐閣 注4:山下達郎が所属するワーナー・ミュージック・ジャパンの創立40周年ライブに、妻の竹内まりやと共に、武道館に1度だけ出演した事がある。 ●成功の鍵3:クオリティを磨く  ニッチ企業と言えども、技術を磨き続けないと他企業に追随、逆転されてしまうことがある。かつて日本語ワープロの黎明期に、日本デジタル研究所の「文作くん」という名機があったが、大手企業にあっと言う間に追随され、市場から姿を消してしまった。  山下達郎は、音のクオリティについて、職人的とも言えるこだわりを持っている。前述のライブ会場の選択にもそれが表れているが、一度出したCDについても、後に開発された技術で音の改良ができるようになったため、過去のアルバムのリマスター版を毎年のように発売している。これは「CDを出したら後は売るだけ」と考えている歌手からは、信じられないかも知れない。  リマスターの延長線上に「クリスマス・イブ」を挙げることができる。「クリスマス・イブ」は1987年に発売され、JR東海のテレビ広告に採用され、大ヒット曲となった。今でもクリスマス・ソングの定番として売れている。  「クリスマス・イブ」はクリスマスシーズンになると売れ、1987年以降2020年まで35年連続でオリコンの週間シングルトップ100入りを果たしており、トップ100入り連続年収でも歴代1位である。なお、「クリスマス・イブ」のCDは、新しい音源も加えた形で毎年のように限定発売を続けている。  デジタル化に関しても、出始めのデジタル技術ではアナログ時代の“質感”が出ない事から相当悩み、時間をかけて録音機材・録音方法などを変えてきた。  コロナ禍で音楽配信をするミュージシャンも増えてきたが、山下達郎も2020年に2回の配信を行った。しかし、単に映像を流すということでは満足せず、最高の音を届けられるシステム(注5)を用いて配信を行った。  ライブでも、マイクを使わず肉声で観客に声を届ける曲をセットリストに加えており、声量を維持している。かつ年をとったからと言って、曲のキーを下げることは絶対しない(注6)。そのために、身体の節制と発声の訓練を今でも続けているのである。 注5:山下達郎が採用したMUSIC/SLASHシステムは、映像よりも音質を優先した仕組みで、かつ映像に厳しいプロテクトがかかっており、コピーできないようになっている。 注6:歌手は年をとると、若い頃の音域が出なくなり、かつてのヒット曲を、キー(音程)を下げて歌うのが通例である。


成功の鍵4:ロイヤルカスタマー・ファースト  ニッチ企業の戦略として、マーケットシェアよりも顧客シェアを高める事が肝要とされている。  顧客シェアとは、ある人が一生涯に支出する製品・サービスの中で、その製品・サービスを購入する比率のことである(たとえば、ウィスキーはサントリーしか飲まない人のウィスキーの顧客シェアは、サントリー100%となる)。  ミュージシャンにとって、究極のロイヤルカスタマーがファンクラブである。ファンクラブのメンバーには、コンサート・チケットの優先予約や機関誌の購読などの特典があるが、山下達郎は現在ファンクラブの新規募集を停止している。  ファンクラブの人数を増やせば、山下達郎のファンの市場は拡大するであろうが、コアなファンが益々チケットを取りにくくなることは明らかであり、ロイヤルカスタマーの顧客満足を下げるような施策はとっていない。  また、金の力でチケットを手にし、ライブを見ようという客が入ることを断固排し、ダフ屋、転売を防ぐために、日本で1番厳しいレベルの本人確認が行われている。チケットに購入者の名前が印字され、写真のある公的身分証明書と照合しない限り、会場に入る事もできない。 ●成功の鍵5:コア・コンピタンスの内製化  今日、オープン・イノベーションの時代になり、必要なものは外部からその都度調達すれば良いという時代になってきた。しかし持続的な競争力の源泉となるコア・コンピタンス(企業の中核的能力)に関しては、何をコア・コンピタンスとするかに加え、いかに内製化するかが鍵となってきた。  山下達郎の音楽の原点はバンドであり、その核となるのがドラムとベースである。この2つが不安定であると、クオリティの高い演奏はできない。  山下達郎は「シュガーベイブ」というバンドで1975年にメジャー・デビューしたが、翌年同バンドが解散してから、彼はソロとして活動することになった。  ソロと言っても、彼の場合バンドが基盤となることから、彼はメンバーの人選に人一倍注力した。日比谷野音のスプリング・カーニバル(1977年)のためにメンバーを集めたが、ドラムとベースに、なかなか満足ができなかった(彼自身、ギター、キーボードだけでなく、ドラムも演奏することから、ドラムやベースに関しても厳しかった)。  そこで当時の彼の収入からは破格のスタジオ・ミュージシャンを呼んでリハーサルした所、2日やっても全然まとまらなかった曲が、15分で4曲仕上がった(注7)。  この時の経験から、クオリティの高い演奏のためには、レベルの高いミュージシャンが必要だと悟った。これを具現化したのが、彼の最初のライブアルバムである「イッツ・ア・ポッピング・タイム」(1978年)であった。このライブのメンバーは、ドラム:村上“ポンタ”秀一、ベース:岡沢章、ギター:松木恒秀、キーボード:坂本龍一、サックス:土岐英史、コーラス:吉田美奈子ほかと、今では考えられないオールスター・キャストと言えた。  しかし、スタジオ・ミュージシャンはギャラが高く、コンサート・ツアーやパーマネントの活動は難しい。またスタジオ・ミュージシャンは、ギャラさえ払えば、どの歌手でも呼ぶ事ができ、ほかの歌手が同じミュージシャンを集めて、“山下達郎のような音を出して”と注文することも常態化してきた(注8)。まさにニッチ戦略で命の、差別化が図れなくなる恐れがあったのである。  そこで彼は、 コア・コンピタンスを 内製化することを決断した。 それがドラムの青山純とベースの伊藤広規の加入であった(1979年)。彼らは当時まだ若手のミュージシャンであり、山下達郎が録音やライブで長い時間を共有することによって、めきめき力をつけていった。  彼がこの内製化の判断をしたことにより、「ライド・オン・タイム」(1980年)、「スパークル」(1982年)に代表される「達郎サウンド」が確立されたのである。  これらのメンバーで長い間ツアーを続けたが、途中ツアーを7年間休んだ時期があり、その間にバンドメンバーの一部がほかのツアーバンドに引き抜かれ、新たなメンバーを探さなくてはならなくなった。コア・コンピタンスの流出も、ニッチ戦略においては、注意が必要だということである。  以上、山下達郎から学ぶニッチ戦略を述べてきたが、どれも企業戦略としては当たり前の事ばかりであるが、一貫してブレないことが大切である。山下達郎は、「ライド・オン・タイム」「クリスマス・イブ」という国民的ヒットにより、業界からニッチ戦略を緩めることを求められた時期もあったが、それでもニッチ戦略を貫き、そのため今日でもオンリーワンのミュージシャンとして活躍しているのである。
 

 

 
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