じんべえ時悠帖Ⅱ

日光壬生道を歩く(初日)

 好天の昨日、武蔵野線の一番電車で出発して壬生(ミブ)道を歩いた。

先月末に次は壬生街道と書いたが、壬生道あるいは壬生通りと呼ぶのが

一般的らしい。その他日光西街道、日光街道西往還などもあるが、以降

「壬生道」としよう。

 壬生道はスタートの小山宿(の北)からゴールの今市宿まで約48キロ

(十二里)、飯塚、壬生、楡木(ニレキ)、奈佐原、鹿沼、文挟(フバサミ)、

板橋の七宿がある。日光街道の小山・今市間よりも5キロ強(一里半)

短いので日光詣でにはこの壬生道を歩く旅人も多かったという。

 例によってのんびりウォークだから、多分4回(日)なろう。

歩行記ものんびりである、まずはその初日の一回目。

 JR、東武、JRと乗り継いで7時前、宇都宮線小山(オヤマ)駅に着く。

壬生道の起点は北へ3キロの喜沢(キザワ)追分。2年ほど前に歩いた

日光街道を再び歩く。喜沢の交差点を通る路線バスもあるが、始発に

間に合わず次発は2時間後とあっては歩くしかない。

 小山駅を出て30分ほどで両毛線の踏切を渡る。小山は宇都宮線、

新幹線、両毛線、水戸線と交通の要所。踏切名は「第一奥州街道」。

第二は宇都宮駅の北、旧奥州街道が県道から分岐したところにある。

 50分で喜沢追分に着く。壬生道は左折してすぐ国道4号を渡る。

日光街道は直進しすぐ細い旧道になり、その先間もなく喜沢一里塚

があったはずだ。 

 その分岐点の追分道標には大きく「男體山」と彫られる。脇の口碑

読むと実に面白い経緯を辿っている。

 天保六年、地元出身の力士の二荒山大願成日に壬生と喜沢の村民が

建立した追分碑を、この先の奥州街道沿いの村民が、旅人が皆日光に

行ってしまうと怒って倒してしまった。

 建てた村民が起こしても起こしても倒されること七十年。明治に

入り近くの日枝神社境内に移された。平成に入り近隣総代会の合議と

県土木課の配慮で元の場所に戻されたというもの。

 国道4号を渡り、壬生道へと踏み出す。時に8時ちょうどである。

続きは次回。


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コメント一覧

jinbei1947
ワイコマ様
仙台の伊達を成敗に行った家康が光成挙兵の報を聞いて折り返した小山評定が
有名ですね。
評定が行われたのは小山城近くの思川の河原だったと言います。
白河の関は少し先ですが、小山が関東の北の外れ、東北の入口だったことを
窺わせます。
ykoma1949
宇都宮線小山(オヤマ)駅・・じつは、私は小山の駅に降り立った
ことはありませんが・・信州から東北へバイクで、車で行く折に
信州からの18号から高崎から50号にそして足利、佐野そして
小山で国道4号に・・そして宇都宮から東北を目指しました。
国道は2回走りましたか、その後は高速が出来て・・小山の街は
走ることもなくなりましたが・・懐かしい地名に、若かった頃
のエネルギーが・・懐かしく思い出されました。
壬生道・・本道ではないが、昔の人は、少しでも身近な距離で
歩きやすく、安全な道を選んで「旅」をしたんでしょうね
信州の中山道も・・旧中山道があるように・・その昔はどんな
道だったのか・・想像も出来ませんよね *\(^o^)/*
続きが楽しみです
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