じんべえ時悠帖Ⅱ

日光街道中田、寺社仏閣を巡る

 プーチンの誤算の一つに、大義なき侵略に対する自軍兵士

のためらいがあるだろう。侵略戦争とは知らされずに訓練の

延長と思いながら犠牲になった若い兵士の話もある。

 また、道路を埋め尽くしてロシア軍の進攻を阻む勇気ある

ウクライナ国民の愛国心にも驚いているだろう。だが往々に

して振り上げた拳を下ろすのは「大人」でも難しい。

 ますます拡大するだろう「大義なき侵略」の双方の犠牲者が

少なからんことを祈るばかりである。

 

 「まぼろしの宿」となった中田宿の移転先、今の中田の街

を歩く。当然ながら宿場の面影はなくお寺さんなどを巡る。

 まずは利根川の河川敷から移転された鶴峯八幡宮。

 「日光街道旅の神」、おーこれはいい。

 由緒としては頼朝や新田義貞の戦勝祈願が古いが、江戸時代

には日光を参拝する徳川各将軍がここに立ち寄り「旅の安全」

を祈願したという。もちろん足踏みをしてみる。

 摂社である丸山稲荷には茅輪潜りがあるが、神使(シンシ)

である動物(狐が筆頭)を敬う「誓いの輪くぐり」とある。

一年前に十八年半の天寿を全うした愛犬を偲び潜る。

 隣の「光了寺」も、やはり栗橋の「高柳寺」が利根川を

越えて移転したお寺さん。

 山門脇に「静女」の文字があるように静御前所縁の寺で

ある。義経を追ってここまで来た静御前だが、義経討死の

報を聞き京へ戻る途中、利根川を越えた栗橋の高柳寺で病に

倒れそのまま没したという。

 寺宝である静御前の遺品「蛙蟆龍(アマリョウ)の舞衣」の

由来である。

 長い日照りが続き、高僧をが雨乞いをしても雨が降らず、

業を煮やした後鳥羽院が次々に雨乞いの舞を舞わしたが

やはり雨は降らず、百人目の白拍子(後の静御前)にこの

衣を着させて舞わせたところ突然雨が降り出したという

伝説の衣である。

 ネットからの「蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣」の写真。

 もう一つは立派な「聖徳太子殿」。中にある木造の聖徳

太子像は別名「松葉太子像」。乳母が三歳の聖徳太子に桃の

花と松の枝を差し出したところ、松の枝を取った。

 桃の花は一時の美しさ、松葉は長持ちし目出度いからと

言った(!)という伝説から松葉太子とも。

 日光街道の旧道に戻るとすぐ円光寺。このあたりに江戸から

十五里目の中田一里塚があったというが形跡も標柱もない。

 続く本願寺、顕正寺は通りから門前を眺めるだけにして

中田の街を進む。続きは次回。

 

 

 

 


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コメント一覧

jinbei1947
ワイコマ様
宿の中心は今の河川敷でしたがこのあたりも中田宿の一部だったはずです。
よって日光街道だったことには間違いありません。
これだけの数のお寺さんが成り立つのは集落(財力)のお陰ですが,
やはり威張っていたんでしょうね。
ykoma1949
当時は 中田宿に存在した寺院が・・移転して
やはり
ある程度の住民たちも移転したんでしょうね
でも一つの街道としてのルートは無くなって
今は史実だけの日光街道のあった 中田宿・・
ですね
お寺さんだけは どこも 立派ですね~
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