一昨日(5日)小雨をついて「三郷Hanabi ga Night」が行われた。
昨年より増えた江戸川土手の有料席も雨の影響でぎっしり満員とは
ならず、花火師へ感謝のスマホライティングもまばらとなった。
この花火師への感謝のライティングは長岡花火大会が発祥と言う。
フィナーレ
さて、みちのく古代城巡りの2日目、最後は胆沢(イサワ)城(奥州市)。
仙台から下り一番の新幹線で一関へ。東北本線下りに乗り換えて約30分で
平泉の先、金ヶ崎に着く。一関寄りの水沢からよりも少し近い。
立派な駅舎は武家造り。立派な駅舎にある観光案内所に寄り胆沢城址
までの地図を所望すると代わりに「金が咲き宿(武家屋敷)MAP」と
「金ヶ崎町城内諏訪小路重要伝統的建造物群保存地区」のガイドマップ
ををくれる。
金ヶ崎は古くからの軍事上の重要地で、伊達藩の時に金ヶ崎城(要害)
となったが、北上川の浸食で城郭は失われている。
金ヶ崎城と言えば浅井長政の裏切りで撤退を余儀なくされた「金ヶ崎
の退き口」として福井県敦賀市の金ヶ崎城(敦賀城)の方が有名。
胆沢城址までは奥州街道(旧国道4号)を3キロ強のウォーキング。
まだ朝の8時過ぎ、せっかく貰ったので街道を外れ、その武家屋敷跡へ
足を伸ばすことにする。
まちなみ交流館から「裏小路」を入った金ヶ崎城跡はただの野ッ原。
遠く口碑が立つが見に行く気はせずカメラのズームで覗くだけとする。
奥は北上川の支流、宿内川ですぐ北上川に注ぐはずだ。
六軒丁から表小路を歩き数軒の武家屋敷を回るが、生垣や茂みが
深く母屋も建替えられ、おまけに藪蚊が多くイマイチな散策となる。
だが城下町らしい鉤形、桝形は良く残る。特に大松沢家から金ヶ崎
要害歴史館あたりの風情は良い。
予定の倍の小一時間の武家屋敷散策を終えて奥州街道へ戻る途中、
泰養寺の門前に彼岸花が咲く。猛暑で一週間ほど遅れているという。
金ヶ崎町がなぜ「金が咲き」か。それは胆沢城址からの帰り道で
わかる。胆沢城址まではまだ3キロを残し次回となる。