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自分表現

家族に応援されながら、自由気ままに趣味の世界を楽しむ、自分への贅沢なご褒美

『トヨタカローラ高崎』に行って来ました。

2018-07-05 21:33:06 | 日記


女房が、「『トヨタカローラ高崎』に一緒に行って欲しい。」と、言うので、出掛けて来ました。
リニューアルした店内は、まだ独特の香りがしていました。




新車の展示があったので、観察しまし  た。
お金持ちなら直ぐにでも買いたいところです。
今回は、女房のクルマにちょっとしたオプションを取り付けるためにやって来たのです。


このクルマって、『カローラ』です。
随分懐かしいクルマだったので、写真を1枚写しました。

取り付けは、1時間ほどで終了したのですが、それまでの間は、新装なった店内でコーヒーを飲みながら時間つぶしをしました。

アマチュア農業

2018-07-03 12:05:04 | 日記
早朝のアマチュア無線交信の後、アマチュア農業をやりました。

農業は疲れます。
私は、「アマチュア農業家で良かったなぁ。」と、しみじみと思うのです。
農業を専門にしている方は、知力・体力・気力・自然観察力…等々の能力が絶対に必要です。
ですから、私はとてもかないません。
主として農業を専門にして取り組んでいる方を、私は尊敬します。
私の本日の農作業時間は、“30分間”。
今日は、「限界」という文字が、頭の中に大きく創出しました。
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柿は今年もたわわに実をつけました。
柿を専門に育てている方は、実が小さな頃から多くの実を選定し、品質の良さそうな実だけを残すのでしょうが、私は、そんな事はしません。
理由は、選定するのが面倒だからです。そして、売り物にするわけでもないからです。
子どもの頃は、柿は好きではありませんでした。
柿の木がじゃまだったので、家にある柿の木を伐採したのですが、その後、「無い物ねだり症候群」におそわれ、前橋市内の経済連に出かけて行き、柿の苗を購入し、自宅前の畑に植えたのがこの柿の木です。たしか…この柿の正式な品種名があったのですが…忘れました。
たぶん、今後、台風が通り過ぎたり風雨等のために、半分以上の柿が完熟する前に落ちてしまうでしょうが、今後、熟すのが楽しみです。





これは「桃」です。
もう少し時間が経過すると、カブト虫等が集まり出しますよ。
この桃も、実の選定をしないので、お店で売られている甘くて美味しい味には遠い存在です。
簡単に言うと、桃の原型的な味です。
ちなみに、私と私の家族は、ほとんど食べていません。
でも、香りは完全に桃です。
カブト虫が好んで集まる“桃の木”なのです。





「カボチャ」は、食べてみないと美味しいのか不味いのかは分かりません。
1つ収穫して食べてみると美味しかったので、そのつもりで他の実を調理してみると「不味かった」という事があるのです。
“当たるも八卦、当たらぬも八卦”というところでしょうか。
















「ナス」が、結構出来ていました。
ナスって知らないうちに大きくなるので、毎日、朝夕2回くらい観察していないとダメですね。
一昨日観た時は、まだ小さくて収穫できそうにはないと思ったのですが、今日観たらたちまち大きくなっていたので驚かされます。





「トウモロコシ」は、収穫にはもう少し時間が必要かも知れません。
毎年のことですが、収穫の時期になると、野鳥が実を食べてしまいます。
野鳥が近づかないようにテープを張り巡らせようかとも考えるのですが、根っからの面倒くさがり屋なので、今年も、やらないかも知れません。
それよりも何よりも、収穫時期になると、誰かが黙って持って行ってしまうのです。
昔は、そのような人は皆無でしたが、最近は違います。
若い人が黙って持って行くのではなくて、初老以上のご婦人の方に人気があるようです。
困ったものです。
一言、話してくれれば、差し上げるのですが。





「ミニトマト」は、野ざらし栽培でも結構大丈夫です。
太陽の光を直に当てるので、表皮は八百屋で売っている物よりも多少は厚くなります。
まあ、我慢のしどころです。














ブルーベリーの木は、畑に10本ほどありますが、実はまだ緑色です。
我が家のブルーベリーの完熟期は、毎年8月の中頃以降になります。
8月の中頃になると、紫色に染まります。

7月に入り、台風と雷雨の季節になりました。
群馬県は、雷のメッカです。
これからは、毎日のように積乱雲が発生し、「ゴロゴロ、ピカー、ドドーン」と言う音と光のコラボが展開されるのですが、
雷で命を落とさないように、気をつけたいと思います。







タワーの先に取り付けているワイアーズで使用しているVHF・UHFのグランドプレーンアンテナに落雷すると、
自宅内に設置している無線機やパソコンに影響するので、この時季は、同軸ケーブルを取り外しています。
その代わりに、ベランダに取りつけたモービルアンテナを無線機につなげてワイアーズをセットしています。
そのために、サービスエリアは方向によっては凡そ70㎞~100㎞ですが、20㎞くらいまで短くなります。


ところで、下欄のアンテナは144MHz用の9エレスタックです。
分配器はありません。
興味関心のある方に差し上げたいのですが、どなたかいらっしゃいませんか。
勿論、無料です。
面倒なので、解体もせず7年間くらいこの場所に野ざらしです。





今日も、暑い日になりました。
室内の温度は33度です。
エアコンのスイッチを入れて、寛ぐことにします。



安中市松井田町横川に行って参りました。

2018-05-10 18:29:25 | 日記

信越線の横川駅構内の様子です。

東京と長野方面を結ぶ重要な路線の駅として、かつては大賑わいをした所でしたが、今は、ここ横川駅は、信越線の終着地点になってしまいました。

それは、新幹線が通ったからです。

私が、この町に通勤していた時は、少しずつではありましたが、衰退の様子が見え始めていた時代でした。

現在、鉄道文化村になっている所は、その当時は、鉄道員の官舎や寮舎等が建ち並び、栄華ある鉄道員の生活が垣間見られる場所でした。

『峠の釜めし』で有名な、荻野屋さんの本店もここにあります。








今日5月10日は、私にとって終生忘れられない日なのです。

33年ほど前、私は転勤族の一人として人事異動により、碓氷郡松井田町(現:安中市松井田町横川)に、転勤しました。

この松井田町の横川は、群馬の西に位置し、すぐ隣は長野県軽井沢町になります。



田舎は、人との繋がりをとても大切にするところです。

ここで過ごした期間は、わずか3年間でしたが、地域の人達は、私の事を本当に大切にしてくださいました。



私が転勤して2年目の5月9日(土曜日)午後1時過ぎ。

元号が、昭和から平成に変わる1年前の事でした。

信越線と併走する国道18号線の、第15号踏切の横断歩道で、とても悲しい事故が起こりました。

土曜日の放課後、小学校6年生の男の子が、友達の家に遊びに行く途中、この第15号踏切を渡り、

国道18号線を横断するために、歩道を横切っていた時、高崎市方向から軽井沢方面に向かって走っていた

大型トラックにはねられたのです。

仕事を終えて帰宅途中にあった私は、後ろから迫って来た救急車に道を譲り、走り始めたのですが、

自宅からの無線連絡で、T君の交通事故を知りました。

私は、今、先に行った救急車の後を追い、安中市の病院に駆けつけました。

病院に着いた私は、事情を話し、診察室に案内されたのですが、

彼は、治療用のベッドの上に寝かされていて軽い痙攣を起こしていました。

驚いて見ている私に、看護婦(看護師)さんは両手の人差し指を交差させてバッテンを示しました。

それからしばらくして、母親が来院したのですが、私は、気が動転している母親を落ち着かせる事もできませんでした。

母親とドクターとの協議の末、T君を高崎市内の病院に転院することにしたのです。

私も、転院先の病院にそのまま出向き、ご家族に付き添いましたが、治療のかいもなく、

翌日10日(日曜日)の明け方に亡くなってしまいました。

あの事件から、すでに31年の年月が過ぎ去りました。

私は、5月9日、5月10日の日の出来事を忘れた事はありません。

毎年、命日にはお焼香をあげさせてもらいに横川へ出かけています。

T君は、男兄弟の長男で、とても賢い子どもでした。

そして、心優しい子どもでした。

私は、生前のT君とは、良く話もしました。



今日の横川は雨模様でした。

時折降る雹(ひょう)にも驚かされてしまいましたが、横川駅から見る裏妙義の天辺は、霧が漂っていました。

一年ぶりに訪れた私は、この横川という地域の事を一生涯忘れてはならない場所だという事を、あらためて実感したのです。


お線香をあげながら、「今年も会いに来たよ。」と、30年前のT君の元気な姿を思い出しながら、

ほんの少しの時間ではありましたが、生前のT君の思い出にひたりながら過ごしました。

下の写真は、荻野屋の本店です。



横川駅の駐車場を後にし、碓氷峠の関所跡を通り、旧国道18号(中山道)を使い、今は観光地となっている、通称「眼

鏡橋」まで、出かけてみることにしました。



これが、碓氷峠の関所です。江戸時代には、この場所よりももう少し西にあったのですが、今は、この場所に移設されています。

『入り鉄砲に出女』を監視する役割を担った関所ですが、幕末には、京都から江戸の14代将軍徳川家茂に輿入れするために、和宮もこの関所を通過しました。


週休日なら、観光客で賑わっている場所ですが、今日は、誰も居ませんでした。














旧道になってしまった国道18号線(中山道)沿いの坂本宿は、今は閑散としていて、県外ナンバーの車の往来もほと

んど見られなくなりました。



映画「野生の証明」で、有名になった〝麦わら帽子を落としてしまった谷〟の近くの霧積温泉へ行くための道は、ここ

を右に曲がります。



「眼鏡橋」には、数人の観光客が居て写真を撮っていました。

今日は、ほんの3時間ほどの時間でしたが、一年ぶりに松井田町の横川に出かけて来ることが出来ました。


往路・復路共に、第15号踏み切りの所を通りましたが、T君がトラックにはねられた場所には、今も白い生花が飾られていました。

お父さんは、T君が亡くなってしばらくして、南海の海でスキューバダイビングをしていて事故で他界していますので、

事故現場に飾ってある生花が枯れるたびに、お母さんが新しい生花を花瓶にさし替えているようです。

親は、子どもが何歳になっても、無償の愛を差し伸べるものですが、T君のお母さんは、T君が亡くなってからも31年間、

ほぼ毎日、この第15号踏み切りの横断歩道を訪れているのです。

T君が生きていれば、今は働き盛りの42歳の立派な人間になっていたはずです。

仏壇の中に飾られている小学6年生のT君の写真は、いつも笑顔でこちらを見てくれています。



時代は、めまぐるしく変化するものです。

今では、子ども達の頭にヘルメットを装着することを奨励(義務ではない)していますが、昭和後期末の頃は、『交通戦争』という

言葉が飛び交う中にあっても、「ヘルメットを被ると頭が蒸れてしまうから被らせたくはない。」とか、

「ヘルメットは、戦争を思い出させるから絶対反対だ。」とか、今では、考えられない言葉が社会の中を飛び交っていた時代でした。

マスコミも、子どもにヘルメットを被らせる事には、あまり関心を示してはいませんでしたし、親や教師の中にも子どもに

ヘルメットを被らせる事を反対する人がいたのです。

T君の事故当時、交通事故処理にあたっていた警察官は、「ヘルメットを被っていたら助かった事故だったかも知れない。」と

話してくれました。

子どもは、大人と違い、車に当てられた瞬間に、空中で無意識的に身体を丸め自己防御をするのだそうです。

そして、地面に頭を打ちつけて脳をいため、最悪の事態になるケースが散見されるのだそうです。

今、私もクルマを運転する事が多いのですが、交通安全には十分に注意を払ってはいますが、

ヒヤッとする事もあります。

また、ヘルメットを被らずに、自転車に乗っている子どもさんも多く見かけます。

子どもを交通事故では死なせない大人でありたいものです。










蛇を見ました。

2018-05-02 10:23:15 | 日記
今朝、ネコの『幸』が、窓の外を見て妙な声を発していたので、「きっと、野良ネコの黒ちゃんが庭に居るのだろう。」と思い、私も外を観察してみたのですが、黒ちゃんは居ませんでした。

それにしても、幸は、威嚇するような妙な鳴き声で、外を見続けているのです。

幸の見詰めるその先を、私も凝視してみました。

すると!!
微かに動く長い生き物を発見したのです!!
蛇です!!
ビックリしました!!
体長は、凡そ1m50cmはありそうなその蛇は、舌を出しながらゆっくりと岩の上を動いているのです。



ところで、私はここ10年ほど、蛇は見たことがありませんでした。

蛇には申し訳ないのですが、私は、蛇は苦手です。それも、かなりの蛇嫌いです。
ゾ~っとします。
もしも、私の足元にこの蛇が現れたら、私は絶対に達観視する事は出来ないと思います。
たぶん、狂気の声を張り上げて、一瞬身体の動かす機能が止まり、数秒後に、脳から「急いで逃げろ!!」という命令が下され、慌てふためいて逃げるか、もしかしたら気絶するかのどちらかになるだろうと思います。



蛇は、ゆっくりと岩の向こう側に移動して行きました。

移動したと言っても、我が家の庭から、我が家の東側に建つ我が家の空き家の方に移動して行ったので、もしかしたら、また、鉢合わせする可能性はあるでしょう。

しばらくは、蛇が移動して行った方面には行きたくはありませんが、なにしろ、敷地内の畑を含めた面積がそこそこあるので、たぶん、冬になるまでの間には、見かけるのでしょうね。

でも、もう、遭遇したくはありません。



私は家の中に居て蛇は庭に居るのですが、その距離は、3mくらいです。
いや~あ、まいりました。

のたり のたり の ひと時

2018-04-26 11:57:30 | 日記
今日は、息子を職場の近くまで送って行ったついでに、市内の鼻高町方面に寄り道をしてきました。
鼻高町は高崎市内にある町ですが直ぐ隣は安中市になります。
向こうに見える山は、任侠博徒の国定忠治や文学の流派の「白樺派」の発祥地、冬のオリンピックで初の銀メダルを日本にもたらした猪谷千春がスキーの練習に明け暮れた事で有名な『赤城山』です。



ここは、『鼻高展望花の丘』。
地域の人達が丹精込めて綺麗な花を育てています。
近くの鼻高小学校の児童も、授業の一環としてこの花の丘の手入れを手伝います。





花の丘からは、榛名富士を抱える榛名富士を含めた外輪山(榛名山)も綺麗に見えています。
榛名山は、赤城山、妙義山の2つの山と合わせて、上毛三山の1つに数えられています。

右端の山は水澤山。この水澤山の中腹には、水澤観音堂が鎮座し、山門界隈には、日本三大うどんの一角を担う、『水沢うどん』の店が建ち並んでいます。
また、この山の裏側には、伊香保温泉があり、木暮旅館や福一旅館、千明旅館等々、平家の落人が拓いた温泉旅館が軒を連ねています。
伊香保温泉は、北辰一刀流の開祖、千葉周作と縁があります。
千葉周作が若かりし頃に、江戸で馬庭念流(現:群馬県高崎市吉井町)の使い手と戦い敗れてしまったために、再度、馬庭念流に挑戦するために、上州(群馬県)に出向き、馬庭念流の使い手と試合を行い、ことごとくその使い手を打ち破ってしまったのだそうです。
破れた馬庭念流の使い手は、千葉周作に惚れ込み、馬庭念流の使い手やその多くの門弟達は、北辰一刀流に帰依してしまったのだそうです。
その記念として、北辰一刀流に帰依した門弟達が、武道額を伊香保神社に掲げようとして、馬庭念流一門の逆鱗に触れ、一発触発の事態になってしまい、大きな戦いの場になるところでしたが、馬庭念流の使い手だった木暮武太夫(木暮旅館館主)らと千葉周作との話し合いによって、事無きを得たという有名な場所が、この伊香保温泉なのです。
伊香保神社下の片隅に、それを語る石碑がひっそりと昔を偲んでいますが、この話は、今は殆ど知られてはいません。
ちなみに、千葉周作が初めて開いた北辰一刀流の道場は、高崎市冷水町(旧群馬町冷水(ひやみず))の佐鳥家の馬庭念流の道場を変えてつくられました。
『北辰一刀流』の“北辰”とは、北斗七星から名付けられました。また、“一刀”とは、千葉周作が最初に剣術を習った流派が一刀流だったので、北斗七星と一刀流を合わせて『北辰一刀流』と言う名前にしたのです。

北辰一刀流は、多くの門弟を輩出し、明治維新に貢献した坂本龍馬も名だたる門弟の一人でした。

高崎市国府町に妙見様・・正しくは『北斗妙見菩薩』という、今は無人の寺院があるのですが、この寺院が、まさに北斗七星を奉っている寺院なのです。千葉周作の守り本尊が、代々この北斗妙見菩薩だったのですが、上州金古宿国府村(現:群馬県高崎市)の佐鳥家に道場を作ったおりに、近くに自分の家の守り本尊がこの地にある事を知った千葉周作は、たいそう喜んだと、伝えられています。なお、この『北斗妙見菩薩』は、全国3カ所ある内の1つです。

また、大正ロマンを代表する竹下夢二の恋人も伊香保温泉の有名な旅館の娘でした。
第二十代総理大臣の高橋是清の娘も、ここ伊香保温泉の旅館に嫁いでいます。

まだまだ、語りたい実話があるのですが、長い話になるので、割愛します。





この丘は、地域の宝としてみんなが参加して年間を通して綺麗に管理されているのです。

鼻高の丘から見える景色を見ていると、心地好い春の風が頬を撫でながら通り過ぎて行きます。



遠くに見える浅間山の雪は、かなり溶けていますね。


浅間山から左に目を向けると、荒船山がよく見えます。
荒船山は、数年前にクレヨンしんちゃんの作家が訪れて、そこで帰らぬ人になってしまった山でもあります。


カメラのズームを引いた荒船山方面の写真です。
左に荒船山、右に妙義山
妙義山と言うのは、白雲山、金洞山、金鶏山、相馬岳、御岳、丁須の頭、谷急山などを合わせた総称で、表妙義と裏妙義に分かれています。
左から船が右の荒波(妙義山)に向かって進んでいるように見えるところから、荒船山という名前がつけられたようです。
まあ、諸説ありますが。


鼻高花の丘の直ぐ近くには、ダルマで有名な、『少林山』があります。


この少林山ですが、ご免なさい。正式名を忘れてしまいました。
ネットで調べれば出てきますが、今は、ちょっと面倒。
この寺は、黄檗宗派の寺院で、普段はとても静かなお寺ですが、正月などは、他県からも参拝客が押し寄せて、かなりの人混みになります。