自分表現

家族に応援されながら、自由気ままに趣味の世界を楽しむ、自分への贅沢なご褒美

2020年 3.543MHzモービルハム~群馬倉渕小栗の里の集いについて~

2020-04-20 20:59:07 | アマチュア無線
3.543MHzモービルハムの皆様、今年の幹事を仰せつかっています宮原です。中華人民共和国の武漢にて発生した『コロナウイルス』による感染は、猛威を振るい、今や世界を席巻している事は周知のとおりであります。日本国政府は三蜜を訴えるとともに、先日、『緊急事態宣言』を発しました。この猛威を振るうコロナウイルス感染に終止符を打つための薬は現在出来ていません。これに感染した場合、死に至る場合もあり、世界各国における死者の数は、日を追うごとに増えています。したがって、令和2年度の幹事として、各位の健康安全に対しての責任が持てませんので、表記の集いは、中止といたします。ただし、①コロナウイルスに対する新薬が出来上がり、②完全治療が出来、③政府による『緊急事態宣言の終息宣言』が発せられれば、この限りではありません。しかしながら、その時の時勢はどのようになっているのか、予想が尽きませんので、あらためて考えていければよろしいのではなかろうかと、提案させていただきます。以上、残念ではありますが、集いの中止宣言を申し上げます。
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日本古式弓馬術協會の初稽古を参観しました。

2020-01-16 18:37:57 | 日記
令和2年1月12日、日本古式弓馬術協會の初稽古が湘南馬事センターで行われたので、参観をさせていただきました。湘南馬事センターは、関越高速道の本庄児玉インターの近くに在るのですが、車のナビゲーションにヒットせず、その所在がわからず、結局、理事長の豊田重之先生に電話をして、途中まで迎えに来ていただきました。理事長の豊田先生が直々に迎えに来てくださるような事をしてしまい、大変申し訳なく思います。

2頭の馬は、日本古式弓馬術協會が保有する馬で、これから初稽古が行われるために静かにスタンバイしていました。向かって右の馬は“麦風”左の馬は“天蓬”という名前です。
二頭ともに静かに初稽古の準備です。


武田流流鏑馬を現代に伝え広められた方が、金子有鄰先生です。有鄰先生は、師匠である井上平太氏から武田流流鏑馬を伝授され、昭和9年に一子相伝の武田流流鏑馬を受け継いだ方として知られています。以後、鎌倉の地に在って東京を中心とし、私財を投じて流鏑馬の保持と日本馬術の振興を図りました。有鄰先生は、昭和55年6月2日に子息の四郎家教さんと六郎家堅さんに武田流を継承する資格があると遺言し、没されました。四郎家教さんは、大日本弓馬会会長として活躍され平成21年1月に没する前に、金子家暢氏を後継者として指名したのですが、大日本弓馬会が後継師範としてそれを受け入れず、師範のいないまま運営されるに至ったようです。
一方、金子六郎家堅氏は、昭和58年7月に金子有鄰先生の弟子達と共に、武田流鎌倉派を結成して、武田流門人を正会員とする『日本古式弓馬術協會』を設立し、理事長として湘南馬事センターを稽古の拠点にして活動しました。そして、平成24年1月に没する前に、直弟子の伊村直也範士を後継者に指名し、今も、日本古式弓馬術協會は、武田流流鏑馬を世に伝えています。

現在の理事長、豊田重之範士です。








この方は、高橋宗和範士です。


1月の空は曇り空でしたが、空気が澄んでいて爽やかな気持ちになりました。
弓を持って颯爽と稽古をされている方は、橋本秀昭範士です。




左が橋本範士、右が豊田範士(理事長)です。






初稽古が終了する時に、ご厚意により麦風に騎乗させていただきました。初稽古で、体から湯気が出ていた麦風の背中に乗らせていただきましたが、いささか体重のある私ではありますが、麦風は、私の体を優しく支えてくれました。騎乗の私は、実に感激いたしました。
さらに、近くの食事処で美味しい昼飯もご馳走になってしまい、たいへん恐縮してしまいました。


騎乗した麦風からの眺めはとても良くて、馬事センターの外の景色までもしっかりと見渡せました。
私は、橋本先生が付き添ってくださったので落ち着いて乗ることが出来ましたが、神事の流鏑馬奉納の時には、凡そ300メートルもある流鏑馬のコースをフルスピードで駆け抜ける間に、騎乗で両手を離し、的をめがけて矢を放つ人馬一体の神業をやってのける事を想像すれば、武田流流鏑馬の迫力を感じずにはいられませんでした。
今年も、近江神宮にて武田流流鏑馬の神事を奉納されるかと思いますが、先生方をはじめとし、お弟子さんたちの益々のご活躍を祈念申し上げ、湘南馬事センターを後にしました。
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群馬県沼田市のリンゴ園に出かけてきました。

2019-11-11 08:50:38 | 日記
先日、沼田市内のりんご屋さんのところに出かけてきました。




この時季の沼田市は、日光に向かう街道はリンゴ一色のアップル街道になります。





私が、毎年出かけるりんご園さんは「山田リンゴ園」です。この山田リンゴ園は、登山家だった山田昇さんの実家です。彼は世界的にも有名な登山家でしたが、登山に出掛けたまま消息不明になってしまいました。







山田リンゴ園の南側のリンゴ畑には、リンゴがたわわに実っていました。









登山家だった山田昇さんも、子供のころからこのリンゴの実をこの季節には見たり食したりしながら育ったのですが、前述したとおり、登山中に消息不明になってしまいました。時は流れ、今は彼の甥っ子夫婦がこのリンゴ園を経営しているようです。リンゴ畑の一角には『山田昇記念ミュージアム』があり、無料で開放されていて彼の活躍を垣間見ることが出来ます。私は、ここへは毎年来ているので、写真を写しませんでしたが、来年またここに来るようなら、ブログ用に写真を写そうと思います。
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3.543MHzモービルハム木曾路の集い(その3)

2019-11-08 18:38:39 | アマチュア無線
このブログ、文章を書き込みにくくなりましたので、どこに文章が入り込むかわかりません。



と言うわけで、その3をご紹介します。


会食の楽しいひとときが終わり、各自は部屋にてショートミーティングをしました。そして、旅の疲れと今晩のご馳走を頂いた事を良い思い出にして、各々お休みの時間になりました。アッ、勿論、風呂にも入りました。
駒王のトイレはとても綺麗なトイレなのですが、なぜか男子トイレと女子トイレを間違えてしまいます。でも、大丈夫です。小便器が無いから直ぐに男子トイレでは無いことがわかりますから。












そして翌朝は快適に目覚め、朝食後に全員揃って記念写真を写しました。田口さん、今年の幹事、お疲れさまでした。とても良い集いでしたよ。
さて、来年は向かって右側の人が幹事さんだそうです。来年の会場は、群馬県になります。今回参加された人たちには、予定している会場の場所等のパンフレットは配布済みで、私も、いただいています。彼が言うのには、「あくまで、予定の会場だけれど、予定日の五か月前にならないと予約は出来ないが、ほぼここで執り行いたい」との事でした。




私は、他の用事があるために、往路にご一緒させていただいた方々と、この駒王でお別れし、自宅に向かうことにしました。
昨日、家族へのお土産を購入し忘れたので、昨日立ち寄った奈良井宿に寄りこむ事にしました。和菓子は、田口さんの実家で購入したのですが、他の物も買い足そうと思います。





なかなか風情のある太鼓型の木橋です。






山の上に、三筋の雲が見えたので、「はい、チーズ





早朝のためか、昨日の混み方が嘘のようです。日曜日だというのに、お客さんは、あまりいませんでした。それに、開いているお店もあまり在りませんでした。

















買い物を済ませて、自宅に向かったのですが、帰路を間違えてしまい、往路につかった中山道が見つからず、何故か松本市内をウロチョロしてしまいました。高速道路に再度乗り、少し戻ろうかとも考えましたが、カーナビゲーションの指示通りに、新潟方面に進路を取り、姥捨て地区を通りズ~ッと高速道路を使って自宅方面に向かうことにしました。カーナビゲーションをセットする時に、高速を使うように指示したのが、今回の誤算を招く結果になりました。
それでも、午後1時頃には自宅に到着することが出来、急遽来宅した知人にも会うことが出来ました。




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3.543MHzモービルハム木曾路の集い(その2)

2019-10-31 18:31:24 | アマチュア無線



駒王での夕食会の始まりです。









名カメラマンの増田さん(JR0RMC)は、飲み食いそっちのけで、いつも写真サービスをしてくださっています。







加藤さんは、静岡からお越しの小関さん(JE2XVU)と、お話に興じています。
んん?二兆円のもうけばなしですかぁぁぁぁ。原田さんはひたすら食事ですね。んんんん???ペーパーナプキンですかぁ?つまんでいるのは。
あっ。すいません、見間違いです。
ペーパーナプキンに隠れた物をつまんでいるんですね。







亀岡さん(JH1JSZ)何か、歌でも唄っているんでしょうか。じょんがら節でしょうかねぇ。ゆっくり聞きたかったなぁ。
そして、今回の大会幹事長の田口さん(JR0BEA)、田口さんは亀岡さんの歌を聴きながら食事ですかねぇ。








いょっ・・・御嶽海~(吉田さんの背後に貼られた写真の力士です)







































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3.543MHz モービルハム木曽路の集い(その1)

2019-10-29 09:39:42 | アマチュア無線

 


10月26日27日の一泊二日の予定が組まれたモービルハム木曽路の集いに出かけて参りました。

 


左から、立ちながらカメラを構える原田さん(JI1DIY)座って下から獲物を狙う加藤さん・・・いったい何を狙っているのでしょうか??(JA1TJV) 笑いながらカメラを左手で握る吉田さん・・「加藤さ~ん、ははははは~そんなところを写すんか~い。」等と、吉田さん(JI1MGS)の声が聞こえてきそうです。

吉田さんは、百草丸をご購入。家で待つ人へのお土産ですね。 たぬき君、なぜこんな場所にあるのでしょうか。 原田さん、水の流れる景色は好きなんですねぇ。 青春の甘い思い出を味わう加藤ご夫婦

お団子は、加藤さんご夫婦からの差し入れです。加藤さん、ごちそう様でした。美味しかったです。

増田さん(JN1DGY)お団子美味しいですよね。

 

奈良井宿での連れ◎◎◎です。連れ◎◎◎友の会です。

 

 

絵になるお二人です。向かって左側の黒板には、『私は まことのぶどうの木~』等と、書かれています。お二人は、まさにぶどうの木、そのまわりには、たわわに実るブドウ達がくっついています。そんな私もブドウの実。

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赤城山に出かけてきました。

2019-08-15 17:13:27 | 日記

先日、地域の方たちと一緒に赤城山に出かけてまいりました。

 

前日は、雨天だったので天候の心配をしましたが、当日は晴れ間が広がったので安心しました。

 

覚満淵は、とても綺麗に見えました。

 

 

 

 

画面中央には、うっすらと富士山が見えていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

 

赤城神社では、モデル撮影会を行っていました。

 

 

 

 

 
 

 

二十数年ぶりに赤城山に出かけてまいりましたが、赤城山は、気温が低くて過ごしやすかったです。

この赤城山には、かつて冬季オリンピックのスラローム競技で、日本人初の銀メダルをとった猪谷千春さん(元JOC会長)が父親とともにスキーの練習に励んだスキー場があります。また、猪谷の姉さんが経営していた旅館があったのです。この旅館には、まだ学生だった武者小路実篤や志賀直哉達が時折参集し、小説の議論を交わました。この旅館の周りには沢山の白樺の木の林があったために、彼らは、自分たちのグループ名を“白樺派”と名付けたことは有名な話です。

 

 

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金古第5号古墳(金古入道山古墳)

2019-08-09 14:17:01 | 雑観

 


 これは、金古第5号古墳(前方後円墳)、別名を金古入道山古墳と言います。

 

 文献によると、この古墳は、紀元6世紀後葉の時代に生きていた人の手により造られた“墳墓”と言われています。 『後葉』の意味から考えると、100年間の三分の一、つまり、紀元6世紀が終わる凡そ33年前~紀元6年が終わるまでの間に造られた古墳で、紀元7世紀に入るほんの少し前頃の建造物だと言う事になります。そして、この頃になると、古墳文化は終わりを告げる時期に入っていたのです。

 金古入道山古墳は、おおよそ1,500年の時の流れの中で、自然現象や人の手により“前方後円墳”の容は、かなり壊れてしまっていますが、紀元21世紀の令和の時代までのこの国のありさまを、寡黙にずっと見続けて来たのです。そう考えると、なんと凄いことなのでしょうか。

 今回、私がこの古墳を紹介した理由を、以下に記します。

 

 

 



 

 

この古墳には、ある人の碑が建っています。


 

 この写真は、しばらく前に写された『大蔵少輔(おおくらしょうゆう) 金子家長の碑』です。

  大蔵少輔 金子家長の碑は、昭和27年に、金子有鄰氏により建立された碑です。

大蔵少輔とは、従五位の貴族で明治期初期には廃止された位らしい

 

 この古墳を、ボランティアで長い間維持管理していた人の中に、天田三郎さんと私の祖父が居ましたが、ともに物故者となっていて、この前方後円墳は、荒れ果ててしまっています。

 

 


 

 裏側から写した碑の写真ですが、裏面には、天田〇〇(不明)という文字がうっすらと読み取れます。この碑は、前述の金子家の碑ではありません。おそらく、金子家所有の金古入道山古墳に隣接している方の物だろうと思います。草木が生い茂り、蛇が出て来そうだったので、足を踏み入れる事が出来ず、前面からはその全様を確認することは出来ませんでした。

 


   

 

 金子家長という人物像については、巻末の『雑ぱく文』に、書き込んであるので、後ほど一読してください。

 今から凡そ1500年も前に建造された金子氏の先祖のお墓(金古第五号古墳)に、戦国時代に、八王子城を拠点にして活躍した「大蔵少輔 金子家長」の碑を建立した金子有鄰さんの思いは今となっては分かりません。

 

  金子有鄰さんは、大日本弓馬会を創設され、武田流流鏑馬を現代に伝えた人として知られている方で、映画監督の黒澤明氏に懇願されて、映画の「影武者」に武田流流鏑馬司家役として出演しました。また、当時の役者達への馬術指導に関わった事でも有名です。

 戦後、アメリカ軍の高級武官達に馬術を指導し、日本とアメリカの戦後処理をスムーズに行った第一人者としても、篤志家あるいは学識経験者を自ら名乗っている方なら、知らない人はいないと思います。

 この金子有鄰さんのご先祖のお墓が、高崎市金古町に現存する『金古第5号古墳(金古入道山古墳)』なのです。 そして、高崎市金古町の町名の〝金古〟は、金子有鄰さんのご先祖の“金子氏”から頂いた名前なのですが、これらの事を知る人は、私以外に、あと何人いるのかはわかりません。 それでも、せいぜい、高崎市の市長や教育長くらいは、知っていて欲しいものですが、行政の場や教育の場等で、なんのアクションも起こしていないところから察すると、まったく知らないのだろうと思い、残念でなりません。

 

 小学校の社会科の授業で使われているのが、社会科の「教科書」ですが、それと併せて「社会科の副読本」が使われていて、地域を知る学習として授業時数にカウントされています。 地域によって、この社会科の副読本の名称は様々ですが、〝のびゆく◎◎市〟(◎◎のところには、市町村名が入ります)等という名称になります。 この副読本は、それぞれの地域の教育委員会の肝いりで、各学校から選出された社会科の教員が、時間と手間と予算を使って作成し、小学生の中学年(三年生と四年生)の児童に、自分の住んでいる地域を学ばせるために配布しているものなのです。 一人一人の児童に、自分の住んでいる地域を学習させる事で、自分の住む郷土への誇りを持たせ、自分の住んでいる地域と他の地域との歴史的・地理的・経済的な文化的繋がりを考えさせる手がかりとさせるのですが、残念ながら、この『金古第5号古墳(金古入道山古墳)』の事は、社会科の副読本には掲載されてはいません。

 

 

 


 上の写真は、雛壇に金子有鄰さん、右の女性は令夫人、手前は私の祖父が写っています。

 これは、金子有鄰さんが金古入道山古墳に金子家長の碑を建立された折に関係者と食事をした時の写真だろうと思われます。

 

 

次の写真は、アングルを変えたものです。  金子有鄰さんの左隣にいる人は、福田赳夫さん(元内閣総理大臣)です。一番左の人は福田赳夫さんの弟さんの福田宏一さんです。


 

 

 

 

 

 


 


 大蔵少輔金子家長碑は、上の写真の右側の鬱蒼とした木々の中に存在しています。

 

 金子有鄰さんは、既に亡くなられてしまいましたが、この武田流流鏑馬は、一子相伝により、息子さん、そして『日本古式弓馬術協会』にて、お孫さんに受け継がれています。 金子有鄰さんは、戦前・戦中・戦後を通して私の祖父と交流があり、1年に数度、我が家に立ち寄られていました。 私の祖父も、有鄰さんから明治神宮や鶴岡八幡宮に奉納される「流鏑馬」に毎年招待されるので、武田流流鏑馬の参観に出かけて行きました。私は、小学校の低学年の児童でしたが、祖父に連れられて、流鏑馬の見学に出かけた事があります。その時には鎌倉にある金子有鄰さんのお宅にお邪魔させて頂き、遠路の長旅の疲れを癒させてもらったものです。

 千数百年の長い歴史を持つ『金子家』と、『金古町』との関係は、時の流れと共に風化し、すでに忘れ去られてしまいましたが、私は、我が家の中で語り継いでいこうと思います。

 金子有鄰さんが創設された『大日本弓馬会』、金子有鄰さん亡き後に、お孫さんが創設した『日本古式弓馬術協会』は、共に今でも武田流流鏑馬を継承していますが、いつの日にか一つになり、これからも純粋に武田流流鏑馬を伝えて行って欲しいと願うばかりです。 そして、願わくば、高崎市内あるいは近隣の市町村内で毎年実施されている祭り事に、金子氏ゆかりの『武田流流鏑馬』を誘致してみようとする団体、または行政が手を挙げてほしいと思うのです。ちなみに、戦国時代に長野氏の居城だった箕輪城(高崎市箕郷町)を落としたのは、武田信玄公の騎馬軍団です。武田の騎馬軍団と武田流流鏑馬は、同族です。箕輪城祭りは毎年盛大に行われてはいますが、流鏑馬は実施されてはいません。さらに、歴史的にこの武田流流鏑馬をつなげようとするならば、甘楽町の小幡さくら祭りです。このお祭りには、武者行列はあっても流鏑馬はありません。甘楽町は、織田信長公ゆかりの地として有名な地です。このような場所だからこそ、本物の武田流流鏑馬の誘致を期待したいところです。

 金子一族の長い歴史を調べると、主だった歴史上の出来事の中には、必ず金子一族の名前が見え隠れしています。

 


 古墳の縁にたたずむと、私はいつも松尾芭蕉のある俳句が頭の中に響きます。 

“ 夏草や 兵もの(つわもの)どもが 夢のあと ”

 

 

※ 以下は、金子氏に関する歴史的な流れですが、この流れを文章にするのにあたり、幾つかの資料を読みあさり一つの流れにしてあります。したがって、文脈が乱れている部分が多々あることを事前にお断りしておきます。

 

 金子氏は、武蔵七党の一つ村山党の一族で、武蔵押領使村岡忠頼の四代の孫頼任が、武蔵の村山郷に居を構え、村山氏を名乗りました。

 保元の乱では、金子十郎家忠が源義朝に従い為朝方の高間氏を討ち、平治の乱では源義平のもとで平重盛を攻めたのです。その後、源平合戦には源義経のもとで一の谷の戦い等で数々の軍功をたて、本領の金子郷のほか、播磨国斑鳩荘などの地頭職になりました。

 応安元年(1368)二月、武州平一揆が起こり、一揆方は河越館に立て篭り鎌倉公方足利氏満に叛しました。この時、金子氏は同じ武蔵村山党の一族の河越氏に率いられた武州平一揆に参加をしたのです。そして、永禄二年(1382)に起こった下野国小山義政父子の乱で、金子忠親の子息の家祐は、軍忠を申告しています。武州平一揆の金子家祐が提出した軍忠状に証判を加えたのは、将軍義満となっています。これは、このとき出された他の軍忠状と同様に、小山の乱で討手の両大将をつとめた上杉朝宗・木戸法季のいずれかが証判を加えたものと推定されます。

 長尾景春は、山内上杉氏の家宰だった景信の子で、父景信の死後、家宰職が叔父忠景に奪われたために上杉氏に背き、古河公方の足利成氏と結びました。山内上杉氏に従っていた金子氏が景春に味方したのは、景春が主家山内上杉氏の執事白井長尾氏の嫡流であったからであろうと推察されます。  文明九年(1477)四月、扇谷上杉氏の執事太田資長(道灌)は、小沢城を落とし、その残党を武蔵国奥三保に遂っています。  上杉氏と対立した古河公方成氏は、文明十四年(1491)に和解しました。そして、延徳三年の伊豆国堀越公方の滅亡により、古河公方は幕府公認の鎌倉公方の地位を回復するに至ったのです。  やがて、伊豆国から相模国に入ってきた後北条氏は、次第に武蔵国をその支配下に組み入れていきました。そのころ武蔵国は、江戸・河越・岩槻の三城を支城とした扇谷上杉氏が南部地域を支配していました。やがて、その扇谷上杉氏の領域が、後北条氏の支配するところとなりました。一方、河越城に近い入東郡内にいた金子氏は、山内上杉氏に属していました。  武蔵金子氏の概要は、『萩藩閥閲録』に記されています。同書の一点に、永和五年(1379)二月十六日付宗基譲状があり、その中の『金子家譜』によれば、宗基は家祐の子の家重であり、法名も家重を名乗っていたようです。この譲状によって、金子氏は南北朝時代の末頃には、武蔵国金子郷を伝領していたことが分かります。 《金子氏の流転》  金子家には、北条氏康の判物も見つかっているようです。

  家譜によれば、金子家定の弟正義は、北条氏政・氏直に仕え、天正十八年直江兼続の手に属して討死したとあります。兼続は上杉景勝の重臣ですから、八王子城攻めに上杉方に属して討死しました。一方、金子三郎右衛門は八王子城内金子丸を守って討死しています。高正寺所蔵家譜によれば、金子正助の子の家定は天正十五年(1587)に死去し、家督を継いだ金子政熙は、北条氏滅亡ののち上杉景勝に属し、慶長五年(1600)の徳川家康による会津出兵によって、景勝の領地が削減された時に浪人の身となりました。その後、京都守護代板倉勝重に仕え、その子息の金子政景は、板倉家の老臣として重用されたと記されています。のちに政景は、ある事情から自害し、長門藩主の毛利秀就の家臣宍戸元真の女だった政景の妻は、自分の子である就親を連れ、実家の宍戸家に戻りました。

 就親は、外祖父の主家毛利氏に仕えました。戦国時代の末まで武蔵国にあった金子氏に関わる文書が、西国の萩藩士の家に伝来したのは、政景の妻子が、自分の実家である宍戸家に帰った時に持参していたから残されたものと考えられます。
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『令和元年度 バーベキューの集い』に参加してきました

2019-06-30 15:38:57 | アマチュア無線
私は、今回で2度目のバーベキューの集いに参加させて頂きました。
昨年度のバーベキューの集いは雨がぱらつきましたが、今年は本格的な雨になり、室内での集いになりました。
オーナーの増田さんとスタッフの皆さんは手慣れていて、天候の急変にも瞬時に設定を変えてくださいました。
まさに〝危機管理〟の徹底がはかられてるようです。


































私が、到着したのは午後1時30分前後だったと思います。
空模様は、ほんの僅かながら雨が降り出していました。
空はドンヨリとした雨雲が漂っていましたが、〝ホワイトヒルはまゆう〟の草花は、ここまで長旅をしてきた私の疲れた心身を癒してくれました。





カメラと真剣に向かい合う加藤さん・・・カメラに何を語っているのでしょうか。
まさに、哀愁ただよう男の美学かな





座禅風の座り方の吉田さん
オリジナルモービルアンテナの三つ星作家さんです。




















大澤さん(左)と宇田川さん(右)。
お二人は、とても仲が良い盟友に見えます。







・・・・ここをチョコチョコっとまさぐると・・・・ああなって、・・・こうなるのか。
そうすると・・・・・ここを、こんなふうに突っつくと素敵な写真が切り取れるんだなぁ~。
納得











オッと田口さん、やや疲れ気味?
左の耳たぶの一隅が、紅色に色づいています。
田口さん、缶コーヒーを握りしめ、遠路を越えてやってきた道のりを、感慨深く述懐する・・・・。

田口さんは、今年の10月の木曾路大会の幹事をしてくださいます。


田口さん、お世話になりますが、どうぞ、ヨロシクお願いします。






原田さんと吉田さん、お二人の見つめるその先には、幸せな未来が待っています。











静岡から参加された小関さん。
ハンティング帽がとても似合うのです。
私も、小関さんを真似て、いつかはハンティング帽の似合う人間になってみたいと思います。


















さぁ、大澤さんが『乾杯』の準備を始めました。





乾杯~












肉と野菜の量がもの凄く多く、かなりの量が余ってしまいました。
『ホワイトヒルはまゆう』オーナーの増田さん、大奮発して頂き本当にありがとうございます。














清水さんのお連れの皆様の、黙したもぐもぐタイムです。










今回初参加の桝谷成純さん(JH9VYA)です。
彼は、金沢市内でタクシードライバーとして活躍されているらしいです。

















今回のバーベキューの集いも、美味なるお酒や用意された食物を沢山頂くことが出来、至福のひとときを過ごすことが出来ました。
ホワイトヒルはまゆうの増田オーナーと、スタッフの皆さんの微に入り細に入るオモテナシを受け、良い時間を皆様と共有することができました。
時季の雪のシーズンに、また『雪見の会』を企画して頂けると個人的にはありがたいのですが・・・・・いかがなものでしょうか
雪の降っている時のホワイトヒルはまゆうは、とても素敵なのです。

大変ありがとうございました。

おっと、そういえば、今年の3.543MHzの木曾の集いも、私は楽しみにしています。
私は、すでに申し込みましたよ。
12,000円は、安いと思います。
低料金での設営も、昨今なかなか大変だろうと思います。
幹事の田口さん、自腹を切らないようにしてくださいね。
今年の集いの場所、木曾、カーナビを頼りに出かけます。



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気の向くままに撮り溜めた写真を公開します。

2019-06-23 12:14:59 | 日記
シュロの葉をフィルターにして日の光が目蓋に飛び込んできます。






ブルベリーの花に、一匹の熊ん蜂がとまってます。






シャクヤクの花も綺麗に咲き誇っていましたが、7月になろうとしているこの時期は、すっかりこの美しさは消えて、来年に向かっての準備に入ってしまっています。





赤城山の向こう側から、今日も太陽が顔を覗かせてくれました。





群馬県のシンボル、前橋市に在る県庁舎に、太陽の光がゆっくりと差し込もうとしています。



熱しやすく冷めやすい性格の私ですので、ブログから離れていましたが、今日は、久方ぶりに投稿しました。
これからは、無理の無いよう〝牛歩〟のごとくブログを楽しみたいと考えています。

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