エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

今に生きるオバデヤの警告

2018-11-30 | メッセージ
オバデヤ12-15 
 
主を拝し、仕える僕。オバデヤという名前にこめられた意味は、そのようなものであるそうです。ただ、これが個人名であるのか、それとも何か象徴的な意図があるのか、はっきりしません。イスラエルの預言者集団を代表する名を考案した可能性もないとはいえません。最も短い預言書です。章にすら分かれていません。
 
捕囚の後、死海の南東に位置する国、エドムが滅びます。この事態を裁きと称するのは簡単ですが、アモス書にてすでに、エドムには残された者がいると言われていました。オバデヤはこれを受け継ぐかのようにエドムの歴史に触れ、ヤコブに象徴されるイスラエルがこの地に回復していくのだと宣言します。
 
ユダの荒廃を目の当たりにして他人事として軽視していたエドムが、同じ運命を辿ったことになります。それはまるで、私たち異邦人がイスラエルの出来事をどこか他人事のように眺めている様子と重なってくるようではありませんか。他人の不幸を眺めているだけであってはなりません。それを喜んでいてはいけません。苦しみを傍観してはいけません。
 
他人の不幸ですら、私たちはそこから自分の利益に結びつけて考えてしまいがちなのです。自分の損か得かを気にするのです。政治というのはそれをうまくやる技術かもしれません。この機に乗じて、不幸な人を痛めつける側に回るのが、私たちの世の常です。待ち伏せしてダメージを与えるのも、政治的な手法でしょうか。
 
オバデヤは、イスラエルの不幸が世の終わりなのではないことをはっきりと告げます。これから、まだきます。主の日と称する終わりの日は、こんなものではありません。今イスラエルの不義と不幸を、高みに立って見物している者が、それ以上の報いをもたらされることになるものと知れ。オバデヤは、傍観者になりがちな人間に挑戦する言葉をぶつけます。
 
恐らくエドムは、バビロンの手先となってエルサレム神殿を焼く先鋒に立っていたと言われます。単に眺めていたとするオバデヤの言い方は、まだ緩やかなのです。行ったことが我が身に返るというなにげない宣言は、もし自らに思い当たる事実があるのなら、猛烈な力となって効いてくるのではないでしょうか。
 
このことは、もっと私たちは我が身に引きつけて考えなければなりません。私は、オバデヤ、つまり主を拝し仕える僕であると言えるでしょうか。神殿を焼き払うようなことを、実のところしてしまっていることはないでしょうか。まさかそんなことを? いや、私が人や教会に対して、神に対してしていることに判断を下すのは私でなく、神なのです。


主の日は、すべての国に近づいている。
お前がしたように、お前にもされる。
お前の業は、お前の頭上に返る。(オバデヤ15)
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帰還のイスラエルに身を重ねて

2018-11-28 | メッセージ
詩編126:1-6 
 
捕囚の地から戻ってきたイスラエルの民。祈ってきたこと、願い求めてきたことが叶ったのです。どんなにうれしかったことでしょう。神に感謝し、躍った心を表したに違いありません。それはまるで、キリストに出会って救われた時の私たちの体験のようです。イスラエルの歴史もさることながら、このクリスチャン体験を重ねてこの詩を味わってみましょう。
 
私は囚われていました。神ならぬものの手により捕らえられ、その支配下に置かれていました。まるで夢を見ているようなこの救い。喜びに満たされ、主の業を称えます。めでたし、めでたし。――そうでしょうか。詩は、これで終わってはいないのです。4節の初めが問題です。私たちの囚われ人を連れ帰ってくれ、との新共同訳。私たちの繁栄を元に戻してくれというフランシスコ会訳。その繁栄の語を欠くのが新改訳2017。
 
何を戻すのかは、原典の文献選択にもよる場合があります。ただ、戻るのは確かです。戻るからには、元が良かったはずです。たとえばエデンの園に最初人間は置かれたのでした。それはそれは良い時代です。神の支配を受け、守られていた幸せな時代。楽園の回復で片づくかどうか分かりませんが、神の国はそれに類するものであるような気がします。
 
人はいま、まだその全き者とされているわけではありません。詩人と共に嘆きます。自分はなんと足りないところばかりの器なのか。惨めな者だと見なさざるをえません。救いの喜びが与えられたのも束の間、今度はやけに自己嫌悪に陥るということが待っています。自分はクリスチャンとして、てんでだめではないか、と痛感させられるのです。
 
なんとみすぼらしいクリスチャン。涙に包まれて、私はまた世の生活を送らなければなりません。教会の中でもトラブルがあり、また不満が湧いてくるし、自分が貢献できないつまらなさも覚えます。奉仕ができる人が羨ましい。自分には何の取り柄もない。何かしても失敗ばかり、能力は劣っている。優しくもなれないし、人格者には程遠い。
 
でも、私は種を蒔きましょう。淡々と、できる何かをしましょう。神はきっと刈り取りの時、喜びで満たしてくださるものと考えましょう。自分の力に慢心するのが良いはずがありません。悲しむべきなのです。自分のことを嘆くがよいのです。それでよいのです。その経験があって初めて、いつか穂を束ね背負い、戻ってくることができると思うのです。
 
自分で作ったものではない、神からの恵み与えられた何かを受けて、再び立ち上がることが、きっとできます。そのことだけは確信していましょう。イスラエルの詩人の見た幻は、私たちクリスチャンの希望となります。希望は現実となるでしょう。神の国が実現するでしょう。きっと、私たちも、この私でさえ、そこにいさせてもらえるでしょう。


涙と共に種を蒔く人は
喜びの歌と共に刈り入れる。
(詩編126:5)
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哲学という翻訳でよかったのか

2018-11-26 | メッセージ
コロサイ2:6-8 
 
キリストの中に、ソフィアとグノーシスの宝が隠れている。キリストの中にこそ尊い知があるのだ、と言っています。この同じソフィアが、愛するのフィローと合体したフィロソフィアとなると、空虚なペテン師と同格に置かれることになっています。このフィロソフィアこそ、いま私たちが「哲学」と訳す言葉です。
 
フランシスコ会訳はこれを「哲学」とは訳さず、「知恵の操作」と言語のニュアンスを文脈に合わせて工夫して訳しました。これは良い感覚だと思います。いま私たちが哲学と呼ぶからと言って、ここで言っているものが私たちの呼ぶ哲学と同じわけではありません。当時の言葉を現代の解釈の言葉で訳してしまうと誤解を招くし、誤訳にもつながります。
 
ギリシアはアテネのソクラテスが、相手を言いくるめるために知恵を使うのではなく、知を愛することが大切だ、と命を懸けて訴えたのがフィロソフィアの始まりです。知の愛が探究の目標であり動機である、知は愛すべき友なのだ、とプラトンが言いたかったのであろう、そのフィロソフィアを「むなしいだまし事」と片づけることはできないでしょう。
 
ではここで否定されているフィロソフィアとは何でしょうか。キリストに於いては宝となるべきソフィアがを、人間的な思惑で恣意的に操作してしまうこと、分かりやすく言うと理屈をこねて福音を曲げてしまうこと、これに人が惹かれて行ってしまうことが悔しいのです。キリスト教神学やその論争、異端の中でさらに実現していった、人間的な理屈の信仰です。
 
今もなお、自分の理解や感情に聖書を従わせているような読み方や教義がそこかしこに見られます。人間はこの罠に容易にかかるし、それに騙されてしまうものなのかもしれません。聖書を正しく読んでいるのは自分だけだ、と言わんばかりに、他人を蹴落とし、せせら笑い、聖書はこう言っている、と独り善がりの宣言をする団体や個人がうようよいます。
 
例によって「結ばれて」と訳すのが新共同訳とフランシスコ会訳。カトリックの伝統なのでしょうか。キリストにあって、あるいはキリストの内で歩め、で十分だし、読書の受け止める幅を広くして戴きたいところです。キリストという地に根を下ろすことが必要なのであって、その上でキリストに従って、あるいは基づいて、歩んでいくように促されています。
 
かの人間的な知恵の操作は、キリストの上にあるということとは違うのです。たとえその知恵が、たとえば現代的に言えば科学的な知見が、コスモスの原理に基づくのであったとしても、福音はそれにより決定されるものではないと言っているのです。さらに具合の悪いことに、自分の利益や自分の誇りのために、理屈をつけて勝った気になる者もわんさといます。
 
哲学的な用語が多用されています。当時の思想風土による議論を意識しているように見えます。もしかすると私のように、かつて哲学を学んだような人物がこの手紙を綴っているのかもしれません。キリストを受け取ったまたは受け容れたにせよ、とにかくキリストを受けることが第一です。求めるエロスの働きを珍重せず、与えられた恵みによって、キリストという土地に立つソフィアとグノーシスを見出しましょう。


キリストに根を下ろして造り上げられ、
教えられたとおりの信仰をしっかり守って、
あふれるばかりに感謝しなさい。(コロサイ2:7)
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孤独と孤立

2018-11-24 | メッセージ
エレミヤ15:15-21 
 
エレミヤは孤独でした。人々の中でたった独り、国難とその理由を叫んでいました。それしかすることはありませんでした。けれども主はこれをすべて知っている。その確信はありました。エレミヤは人々の間では孤独でしたが、主が共にいることを疑いはしませんでした。独り立っていたわけではないので、ここではそれを孤立してはいなかった、と表現します。
 
それでも、せめてエレミヤに、教会のような共同体があったら、という同情心は湧きます。バルクという弟子めいた人はいましたし、かくまってくれる人もいました。主の下にあれば、何らかの助け手は具えられるものです。神からの言葉を発信する道はきっとあります。だからエレミヤは今日も、明日も、国を憂いつつ天を見上げます。
 
主の御言葉をこそ求めているというエレミヤは、がつがつとそれを食べたと言っています。言葉への渇きです。それが欲しかったのです。私たちもそのようであるでしょうか。喜び躍るようなものとして、神の言葉を受け止めているでしょうか。主の名と共に呼ばれるような存在であるでしょうか。
 
エレミヤは、主の手の内で独り坐っていました。やはり孤独感はあります。主に向けて、何故、何故、と問い続けていますから、エレミヤとて、満足していたわけではないのです。けれども、問いかける相手としての主がそこにいます。その意味で、独りで立っているのではないと考えたいのです。
 
エレミヤは主に向き合っていました。従いのです。関わりを保ちたいのです。無関心でないからこそ、問いかけるのです。そのためエレミヤには、主からの返しがあります。帰りたいか、ならば帰ることができる。考え無しに語るのでないなら、おまえは主の口として語ってよろしい。人々に妥協するな。イスラエルこそ、エレミヤの許に立ち帰るべきなのだ。
 
イスラエルの民は、エレミヤから語られる神の言葉を聞いて、主なる神のところに立ち帰らなければなりません。この立ち帰るということこそ悔改めです。救いです。エレミヤよ、おまえは敗れはしないのだ。主にあって守られ、勝利するしかないのだ。わたしはおまえと共にいる。おまえは自由になり、救いをまとうのだ。主はエレミヤを独り立たせはしません。
 
主にあって語るとは、このエレミヤのように悩み、もがき苦しむことなのかもしれません。主の言葉を食べなければ生きていけない立場。パンだけでなく、神の口から出る言葉によって生きると言えるのです。私にそのエレミヤの気持ちが分かるだろうか。この恵みの力に呼ばれ、近づいているのだろうか。私もまた、孤立するようには少しも感じないのであれば。
 

あなたの御言葉が見いだされたとき
わたしはそれをむさぼり食べました。
あなたの御言葉は、わたしのものとなり
わたしの心は喜び躍りました。
万軍の神、主よ。
わたしはあなたの御名をもって
呼ばれている者です。(エレミヤ15:16)
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自由の概念と適用

2018-11-22 | メッセージ
ガラテヤ5:13-15 
 
あなたがたはサラのように自由が与えられている。パウロが自由を以てむしろ主に仕えることの尊さを伝えるために、苦心している様子が窺えます。近代的な自由の概念と等しいとは言えませんが、新しい自由論が考えられているようにも感じられます。つまり、仕えることは一見自由とは反対のことのようですが、実は仕えることこそ自由なのだ、という見解です。
 
それはルターも言っていました。キリスト者は仕える自由をもっている、と。哲学者のカントもまた、自分が選択の自由をもって自由にしているようでありながら、それは実のところ自然法則と感性的な条件に操られているだけのものであって、それに意志を以て否定を下し、カントなりの愛の律法である道徳律に従うことこそ、自由の発動なのである、と考えました。
 
ガラテヤ教会のメンバーが再び割礼といった不自由な束縛の中へ引き戻されていくことに怒りを覚えたパウロは、冷静に説得しようとします。救われた結果、あなた方は自由を与えられたのではなかったのか。選択を好き勝手にできるというのが自由なのではない。それは実は巧みに操られそう選ぶように強いられている構造に気づくのだ。
 
近年はこれを、マインド・コントロールという言葉で世が知るようになりました。コマーシャリズムもこの効果を狙っていますし、世論操作もそうです。政権担当の政治家はこれに長けた者たちである、とまで言うことが可能でしょう。他人から見ても、こうするだろうと考えられたそのままにしか行動しないとしたら、自分は自由だと言い張っていても、実はただ利用されているに過ぎません。
 
パウロの見ている状況はこれに近いものがあったことでしょう。律法の規定に縛られていくガラテヤの信徒の話を聞いて、歯がゆく思ったに違いありません。ところで、イエスが語った、隣人を愛せという教えは、このときまだ福音書という形では明らかになっていません。が、語録か資料かをパウロは知っていた可能性があります。
 
それにしても、パウロはイエスの語った譬えについて言及している様子が殆どありません。もし知っていたらもう少し語りそうです。イエスのスピリットの理解に長けていたでしょうし、自分がイエスと出会ったことについては冗舌に幾度も語るのに、パウロは福音書に収められた豊富な語録につい触れないのはどうにも不自然です。この点についての研究は寡聞にして私はあまり知りません。ご存じの方は教えてください。
 
互いに食い合っている。面白い言い方です。なるほど私たちは、よく共食いをしているのかもしれません。イエスに従っている、と互いに確信する信徒同士が、自分こそと言い張り、相手の従い方を否定すらします。それはどちらをも滅亡へと誘うようではないでしょうか。現代的な視点で、パウロの忠告をもっと聞き、受け止めることが求められています。


兄弟たち、あなたがたは、
自由を得るために召し出されたのです。ただ、
この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、
愛によって互いに仕えなさい。(ガラテヤ5:13)
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ヨブとイエスの関係

2018-11-20 | メッセージ
ヨブ10:1-22 
 
エリファズに続いて、ビルダドからの批判をヨブは受けます。これに対してヨブは再び抵抗しました。分かっている、そんなことは分かっている。それでも私の身に起こったことは、私の罪の故ではないのだ、と主張します。病気や不幸は罪のせいだとする当時の考え方に対する批判のようにも見えます。これは今でも、祟りなどと言ってまかり通っている考えです。
 
しかしヨブは、抵抗はしても、この批判を乗り越えることができません。子を失い財が消え肉体が病むとき、ひとは打ちひしがれて立ち上がることができなくなります。ヨブは、自分の存在自体が間違っていた、生まれないほうがよかった、とぼやきます。神の創造を否定するかのような言いぐさですが、同情に値します。
 
やがて神はヨブに生きることを教えるのですが、いまヨブは、生きていることがもうおかしなことなのだという考えに苛まれています。私たちはこのヨブを冷静に評することができるかもしれませんが、我が身のことのように気が気でなくこうしたヨブを見つめる人もいるでしょう。私もまた、そのような境遇に陥らないとも限らないのです。
 
ヨブの心情が分かりすぎるという人もいますが、いま幸福な人も、このような共感の心なしでは、とてもヨブ記は読めるものではありません。もしかすると、読んではならないのかもしれません。
 
依然としてヨブは、主に向き合っています。主に向かって訴えています。友たちに対して反論しているのではなさそうです。とすれば、友たちの側から見て、このヨブの態度は自分たちに対する不遜な構えのようにすら見える可能性があります。どうして自分たちの方を見てものを言わないのか。でもヨブは神を見ています。神に対して向き合っているのです。
 
イエスは、このヨブへと近づいた方でした。病に打ちひしがれた人々に近寄り、触れると汚れるとされるような人の手を取り、癒しました。社会復帰ができるようになりました。イエスはヨブを知り、ヨブをに共感し、ヨブに触れたのです。この友たちはヨブに説教はしましたが、ヨブに触れようとした形跡はありません。抱き起こしたようにも書かれていません。
 
イエスはそうではありませんでした。そしてイエスに癒された人、救われた人は、イエスの方を向いていました。イエスに対して向き合っていました。自分は死の闇の中におり、社会から抹殺されている者ですが、イエスよ、あなたを見つめ、あなたに従いたいと告げるのでした。
 
ヨブの絶望は、このような希望を見失った段階であったのかもしれません。私たちはこのヨブをそのまま模範とすることはできないでしょう。けれども、このヨブを心から応援したく思えたとき、それは、私たちがヨブの側に立っていることを意味するものでしょう。自分がイエスに癒される必要があると分かっていることを意味することになるのでしょう。


わたしの魂は生きることをいとう。
嘆きに身をゆだね、悩み嘆いて語ろう。
神にこう言おう。
「わたしに罪があると言わないでください。
 なぜわたしと争われるのかを教えてください。
 手ずから造られたこのわたしを虐げ退けて
 あなたに背く者のたくらみには光を当てられる。
 それでいいのでしょうか。」(ヨブ10:1-3)
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ヨブから得る慰め

2018-11-18 | メッセージ
ヨブ7:1-21 
 
まことに陰鬱な章です。ここから礼拝説教がかつてあったのでしょうか、と言いたいほどです。どうしてここまでヨブは追い込まれているのでしょうか。まだ、友人たちとの対話は始まったばかりです。押し黙ったまま一週間を過ごした末、ヨブがぼやいたのをきっかけに、エリファズが初めてヨブに話し始めました。それはヨブへの批判でした。
 
災いには原因があるはずだ。ただ、それがヨブの罪だというような迫り方はまだしません。しかしヨブは強く反応しました。この苦悩の意味が何であるのか、全く理解できない、と返すのです。しかし、ともすれば神に背を向け心が離れてしまいそうなところを、そうはならないのは、さすがヨブであったと言ってよいでしょうか。
 
ヨブはいま絶望の中にいます。もはや神に願っても、意味不明の辛さを受けるだけです。この章でのヨブの嘆きは、どうしようもない闇の中にいることを表しています。人生はただの兵役で、ただ空しく過ぎ去るしかない。いつまで夜が続くのか。もう何の望みも自分にはない。私たちは、ここでこのヨブの絶望と嘆きに正面から向き合ってみなければなりません。
 
子どもたちを奪われ、財産を失い、身体には耐え難い痒みに苛まれているヨブ。悪魔に試され、神がそれを許可したという図式を読者は知っていますが、ヨブ自身はそんな背後の取引など知る由もありません。こうした立ち位置が、実は私たちの置かれた情況であるということに、いま改めて気づかなければならないと考えます。
 
私の命は風に過ぎません。まもなく消えてしまうのです。それは私もかつて感じていた世界でした。表向きは明るくしていたとしても、生きていることに意味を見出せないのは、鬱と呼んで然るべき状態です。この鬱は罪なのでしょうか。いえ、そのような絶望をそのまま罪と呼ぶことはできない、と思うのです。
 
ヨブは神の方を向いています。神と向き合っています。神よ、と呼びかけており、何故この私が運命の矢に当てられたのかと嘆き、問いかけています。それが精一杯の生命の力であるとしても、まだそれはヨブに残っていました。ヨブはそれでも生きています。生きようとしています。主に向き、主に対して話のできる者は、決して滅びないのです。
 
これだけ暗いヨブが主に従い通す姿を私たちは見ました。勇気が与えられます。自分ばかり見る目に囚われている場合ではなくなります。神が、私たちの知るところ、考えの及ぶところをすべて超えて、支配している世界を体験します。少なくとも、信じられます。このとき、ひとは決して空しい風などに、なりはしないのです。


人を見張っている方よ
わたしが過ちを犯したとしても
あなたにとってそれが何だというのでしょう。
なぜ、わたしに狙いを定められるのですか。
なぜ、わたしを負担とされるのですか。
(ヨブ7:20)
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してほしいことが分かっていなくても

2018-11-16 | メッセージ
マルコ10:35-45 
 
何をしてほしいのか。見えるようになることです。盲人との応答のようにはいきませんでした。ヤコブとヨハネという、弟子たちの中でも中枢を占める2人の弟子が、イエスに対して歴史に残る愚問を呈したのです。主の左右に、いわば大臣格として座らせよ、との願い。然るべき最高の地位を求めたことに間違いありません。
 
これを他の弟子に聞こえるところで主に頼んだとすれば、2人は益々傲慢であり愚かだというようにも見えます。だからどんな状況でこの依頼をイエスにぶつけたのか、それは定かではありません。マルコは、死と復活の予告に続けてこの一件を並べました。栄光をイエスが受けることを前提として、弟子たちの栄光からの遠さを示したとも言えるでしょう。
 
何をしてほしいかと問うイエスは、2人に対して、あるいはたぶん弟子たち誰もに対して、何を願っているか自分のことが分かっていないのだと告げました。自分のしていることが分かっていないのは、十字架の上でイエスが、「十字架につけよ」と叫び狂う人々に対して言ったことには留まりません。
 
イエスの口に、杯や洗礼の言葉を上らせたのは、マルコの意図というよりも、すでに教会の中で伝えられ信じられてきたことなのかもしれません。2人は、できます、とはっきり答えましたが、イエスはこれをどんな表情で聞いたのか、興味が湧きます。しかしそれを定めるのはイエス自身ではないといいます。
 
イエスに求めるならば何でも叶えるというその求めは、こういうことではなかったのです。求めるということについて、実は何にも分かってないどいない私たちの実態が暴かれました。十二人の弟子たちがいたとすると、十人が怒りました。ユダも怒っていたことになります。ユダにサタンが入る前でしょうが、後のことは誰にも分からないと言えます。
 
イエスがここで、異邦人の政治のことをどうして持ち出したのか、不思議です。ローマ帝国の支配を暗に批判する表現であるとも受け取れますが、この世の支配体系とは価値観が明確に異なる世界をイエスが突きつけようとしているのは確かです。弟子たちの見ている方向は違う。仕えるのだ。十字架を経て、ようやく弟子たちはこのことの意味を覚ります。
 
このイエスの姿のようになれ、ということでした。教会としての教えを耳にしつつも、この場は何気なく通りすぎて行ってしまう弟子たち。何も見えていなかったのです。盲人のほうがむしろ見えたのかもしれません。イエスに認められた求めがあったのですから。ただ、この弟子たちもやがて変えられます。私たちもかつてそうでした。変えられたのでした。


「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。
 このわたしが飲む杯を飲み、
 このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」(マルコ10:38)
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キリストの体と数の多さ

2018-11-14 | メッセージ
ローマ12:3-8 
 
手を焼いたコリント教会とのことが、まだ見ぬローマ教会の信徒へのメッセージでは役立ちます。教理的な流れを終えたパウロは、生活レベルの話題を始めようとするに際して、まずこのようなことを心がけました。キリストの体とその一部をなす自分の位置づけを告げるのです。自分を膨らませていくと教会はなりたたない、自分の役割を弁えるという知恵です。
 
ローマの人々へは、具体的な情報をもつパウロではありませんから、自然と話は抽象的とならざるをえません。具体を踏まえた抽象とは違い、一般論に留まるような言い方になるのです。しかしこれは逆に、私たち現代人にも、訴えかける力をもつと言えるかもしれません。抽象なるが故に、誰にでも普遍的に適用が可能となる場合があるのです。
 
私たちには一人ひとり異なる信仰の尺度が与えられています。同じ考えであることはできないはずだということです。そのために、自分の基準に合わない他人を非難するようなことも、ありうるでしょう。でもその前に、自分のことを知るようにする、ということが求められます。自分が変えられることを望む、そこに平安が生まれる、という考え方です。
 
一人ひとりキリストの体の一部を成していたとしても、それぞれに働きや役割が違います、などと言うと本当にコリント書の再現です。パウロはよほどこの喩えが気に入っていたのでしょう、随所で持ち出します。常日頃、口をついてついて出てくる言い回しであったのではないかと推測します。パウロと言えば「キリストの体」だな、などと。
 
この世には、人の役割を勝手に他人が判断して、あいつは用なしだいった発言で満ちています。しかしそう言う口は、顎だの筋肉だのに支えられてこそ動き声を発することができるものです。じっとしているだけの支えがあってこそ、その器官が何かをすることができる、そのようなことは挙げればきりがないでしょう。
 
キリストの体は、このことを忘れると成立しなくなります。教会という全体の中で、各人に与えられた仕事がありましょう。協力し助け合っていきたいものです。新共同訳は相変わらず「キリストに結ばれて」と訳出していますが、これだとキリストと人とが対等に向き合っているみたいにも聞こえます。キリストの内に、私たちはあるはずです。内に、です。
 
ところでパウロは、キリストの弟子たちは「数は多い」と称しています。ローマ帝国の中でも弱小の信仰グループのはず。イスラエルとて、小さな民でした。主の民がこの町には大勢いる、とパウロはかつてコリントの町で主の声を聞いています。同じ「多い」の語が「大勢」でした。預言者も幻の中に大軍の味方を見ました。数は見た目ではないのです。


大ぜいいる私たちも、
キリストにあって一つのからだであり、
ひとりひとり互いに器官なのです。
(ローマ12:5・新改訳)
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主のためと私は受けとめずに

2018-11-12 | メッセージ
ローマ14:7-12 
 
信仰の弱さといった事柄から、食べる、食べないも主のためだ、と言い及んだパウロです。いえ、そもそもすべてのことが、そう、この命すら、主のためではなかったか、と膨らませていくような言葉の投げかけ方をしています。生死すら、自分のためではないではないか、と言うのです。ただ、私はずっとここのところが素直に呑み込めませんでした。
 
原文を見ると、「のため」というような語が明確に置かれているわけではありませんでした。すべて与格になっているだけです。与格の働きは、どうかすると曖昧なところがあります。日本語だと「に」に相当しますが、それに限定もできず、場面によってニュアンスの異なる使い方がなされ、日本語にするときにも様々な訳語が可能です。つまり解釈が入るのです。以下、ど素人の文法の説明は、きちんと学ぶ人は話半分に聞いてください。
 
邦訳聖書は見ると「ために」が並んでいます。この日本語のフレーズは、どうしても目的の意味を連想させます。与格が明確に目的を表すと決められるものでしょうか。いえ、「ために」であれば、手段の意味合いもあるでしょうし、原因を表現する場合があるかもしれません。その曖昧さを訳語は意識しているのかもしれませんが、私は日本語ではどうしても、目的だと解するほかないと感じていました。原文を見る前は、ずっとです。
 
生死はどちらもキリストが支配するように、と結論のようにも言われています。ここもよく見ると、生きる者を、死ぬ者を主人たる支配をするように、のように読めますが、この「を」の部分は属格です。属格もまた厄介です。「の」で片づけられないからです。私たちは主のものとして主に属する、という言い方だと「として」が属格になります。
 
この結論のような部分には、あの与格は使われていません。私たちはキリストを主とする支配下にあります。主に属する者です。このように言っているだけです。ここへ運んでいくようにしたいならば、あの与格の「のために」は、いっそ「に」だけにして訳すのはどうでしょう。「自分に生き、死ぬのでなく、主に生き、死ぬのだ」とでもして。
 
何を言っているのか明確でないと言われそうですが、パウロがそういう書き方をしていることを踏まえると、このような言明を、受け取った各自が、それぞれにその信仰に合わせて受け止めるゆとりがむしろできる、と考えられると思うのです。各人の信仰をそこに乗せてこの言葉を受けるのです。
 
私たちは主の手の中にある。人は自分で自分を支配したり、律したりしているのではない。だからこそ、兄弟を自分の気分や自分が定めた道徳あるいは宗教によって、勝手に評価を決めつける、すなわち裁くようなことをしてはならない、と言えないでしょうか。誰もが神の前に立っているだけです。人から裁きが出るのはよくない、裁くのは神だ、と徹底的に捉える視点です。
 
すべてのものは神に服しています。イザヤ書の引用も、そのことをはっきりと伝えています。できることがあるとすれば、せいぜい自分のことについて弁明するくらいのものです。私の感覚に過ぎませんが、「ために」をこう捉えて受け止めました。「自分を基準にして生きたり死んだりするように考えるべきではなく、生も死も、主を基に捉えようではないか」と。
 
 
生きるにしても、死ぬにしても、
わたしたちは主のものです。(ローマ14:8)
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覚悟のパウロ

2018-11-10 | メッセージ
テモテ二4:1-8 
 
死を覚悟したパウロが言い残す、という形で綴られている書簡です。本当にパウロが書いたとは現代では単純に考えられてはいませんが、パウロと無縁に書かれたのか、何らかのパウロの書いたものや言い伝えに基づいているのか、この辺りはもはや私たちには決めることはできない状況にあると思われます。パウロのスピリットがないわけではないのですから。
 
パウロは死を前にして立っていた時期がありました。刑死したと言われていますから、だとすると人間に意志決定に命を委ねるという思いを懐いていた時があったと考えるべきでしょう。神の手に陥るというふうに考えことでしょうが、人の意志ひとつで生き死にが決まるという状況は確かにあったわけです。パウロはこれをどう捉えたでしょうか。
 
これは神の裁きだ、とは考えなかったに違いありません。裁くのは神のみです。人の手により殺されるにしても、神は自分の味方であることを、益々信じたのではないでしょうか。この思いは、後継者や仲間に、神の言葉を如何なる時にも語り伝えよとぶつけたことは大いにありうることでした。私たちもこの叫びを聞いています。このアドバイスを受けています。
 
当時の教会の状況を懸念しているような表現も手紙に診られます。自分の気に入ることばかり語る者を招き、作り話に熱中する教会の歪みを警告しています。これはもしかすると、当時の教会の様子を描いただけなのかもしれません。福音でも何でもないものが壇上で語られることに気づかないどころか、それを喜ぶという有様。これは実際にいまもあります。
 
表向きの姿に、人々はいとも簡単に流されていきます。中身に気づきません。まあ何かしら考えあってのことでしょう、と許すことが美徳とされていくうちに、いつの間にかその少しずつのズレや歪みが、もうやり直せないくらいに福音とは別のところに連れて行かれてしまっている、あるいは別の福音を信じさせられていく、ということは私も見てきました。
 
手紙の中のパウロは、ここから船出します。美しい言い回しなのですが、翻訳では単に「世を去る」と書いてしまいました。勿体ない気がします。紐が解かれて放たれることを意味する動詞です。美しくも悲しい表現です。できるだけのことはやった。その自負がパウロにこの確信を与えているのです。出た舟は、イエスがいれば目的地にほどなく着くことでしょう。
 
誰がこの手紙を綴ったにせよ、パウロの心境としてこれは嘘がないのではないかと思います。主を待つ者は報われるという励ましを送る、静まった境地のパウロが浮かび上がってきます。パウロにしては自分を誇っているかのようにも見えますが、私たちもそれを拒みはしません。私たちそれぞれが、どう腹をくくりこのパウロの覚悟に意志を重ねることができるか、問題はそこに向かいます。


御言葉を宣べ伝えなさい。
折が良くても悪くても励みなさい
。とがめ、戒め、励ましなさい。
忍耐強く、十分に教えるのです。
(テモテ二4:2)
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死にゆく者に希望を与えるメッセージ

2018-11-08 | メッセージ
黙示録14:13 
 
今から主にあって死ぬ死者。幸いなりと告げる対象はこれです。ここは新共同訳もフランシスコ会訳も、カトリックの息のかかった訳は「主に結ばれて」と訳して、意味を限定してしまっています。英語のinに相当する語にそこまで過大な期待を背負わせるわけにはゆきません。
 
ヨハネはこれを、天からの声として聞いているのですが、聞いたその時には意味が分からなかったのではないでしょうか。後にこれを書き記している時に、彼なりにですが、意味を解するのです。このタイムラグは、私たち読者は普通意識しませんが、現実にはヨハネが、思い起こして筆記していることを、時に考えてみるとよいかと思います。
 
臨場感の描写も、実のところ想起に基づくという事実は、考えてみれば当たり前のことなのですが、出来事が解釈を経て記述されていくテキスト、それを読者は恰もまさに起こったその場の出来事であるかのように理解して読むという、解釈の構図を反省してみることによって、そもそも聖書の記述をどのように捉えるとよいのか、ひとつのヒントになるでしょう。
 
ヨハネは天からの声のようにして聞きました。霊もまた、そうだと付け加えるのを聞きました。主にあって死ぬ死者は、労苦から解放されるであろう。そして休息を与えられることになるだろう。その行いがついてくるからだ。霊が言ったことを、新共同訳は報いだと解釈しています。そうには違いないのですが、単純に報いと表現してよいものでしょうか。
 
行いが、最終的に神の前に出るところについていく、と言っています。このイメージは捨てずに保持しておくべきですが、しかし行いが救うかのような表現に気づくと、プロテスタント信徒としては少々戸惑いを覚えるかもしれません。救いとは何なにか、問い直さなければならなくなるからです。黙示録の描く救いのレベルは、また別の論理があるのかもしれません。
 
迫害の中、不条理な世界に苦しむ信徒たち。そこに希望のメッセージを届けなければならないとヨハネは感じていたに違いありません。それを自分の使命と覚え、苦難の中に同胞たちを励ましたい。この要求が切実であって、のほほんと平和にぼけているような時代の者、信教の自由といったものをぬるま湯のように感じている者とは意識が違うと考えたいのです。
 
当時の教会も、これを肝に銘じて、歯を食いしばって生きていた、あるいは死んでいった、という厳しい状況を、少しでも想像してみます。信仰を捨ててはならない。希望を失ってはならない。今の労は、もうあなたたちを支配し続けない。主に留まっていよ。主の内にいよ。主にあっての死は、第二の死とはならないのだから。それは、今は無縁なのでしょうか。


また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。
「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」
“霊”も言う。
「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。
 その行いが報われるからである。」(黙示録14:13)
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吠え猛る獅子

2018-11-06 | メッセージ
ペトロ一5:6-11 
 
ディアボロス。当時、天使なり悪魔なり霊的な存在については、いろいろな名前を付けられたものが考えられていました。今から見ればオカルト的でマニアックな知識のようにも見えるし、はたまた生活レベルで大変親しい身近なものとして捉えられていたか、実感が湧かないというのが実情かもしれません。
 
吠え猛る獅子のように悪魔が私たちの周辺をうろつき、狙いつつ近づいてくるというイメージが、ここでは鮮烈です。人間を中傷する性格があるとも言われますから、何かと私たちの悪を指摘し、悪を見よと迫り、だからおまえは神に救われるはずなどないのだ、と脅すし、そう思わせるし、また他の人にそのように言いふらしていくことになるのでしょう。
 
だとすると、そもそも他人を中傷する者は、この悪魔と同じことをしでかしているに違いありません。キリスト教信徒が、世の人を嘲り悪と決めつけ軽蔑しているようなことがあるとすれば、悪魔の仕事をまさにしていることになりはしないでしょうか。私たちはどこに立っているのでしょう。何を見て、何を誇っているのでしょうか。
 
へりくだっていると言えるでしょうか。そこにしかクリスチャンの居場所はないのです。私たちは、聖書の中のどこに立っているのか、改めて問い直す必要があります。いえ、常に自らに問うことがあって然るべきでしょう。一瞬たりとも、その気持ちを見失うことがないように。そうでないと、吠え猛る獅子の餌食になり、仲間になってしまいそうです。
 
手紙では、私たちはイエス・キリストに一致する者としてもらっていると言います。私たちが苦しんだからこそ、十全な者として扱って下さるのです。もちろん、それは因果関係で捉えるのではありません。すべては神が先立って愛し、取り扱うのです。けれども私たちは惑うことなく、この恵みの中で揺らぐことがないようにされています。
 
手紙を見ると、すでに教会組織がかなり形作られているであろうことが伝わってきます。その営みがスムーズに進むような配慮をも感じます。上に立つ者の心得から、従う若者への諭しなどが投げかけられていきます。これがやがて教会の規定となっていくのでしょう。手紙自体が規定の書文として機能していたとも思われます。
 
パウロのような具体的な指導というよりは、ずっと抽象的な指示が目立つ文面ですが、だからこそ、どうとでも理解でき、より広い適用が可能になるとも言えましょう。身を慎み目を覚ましていよ、という命令は、私たちの心得としてこれに尽きると思われるようなものです。私たちは眠っています。いつでも襲いかかろうとする悪魔に操られそれに変身しませんように。

身を慎んで目を覚ましていなさい。
あなたがたの敵である悪魔が、
ほえたける獅子のように、
だれかを食い尽くそうと
探し回っています。(ペトロ一5:8)
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同胞を思うエレミヤ

2018-11-04 | メッセージ
エレミヤ14:1-9 
 
日本に住むとき、特に現代では「旱魃(かんばつ)」というイメージがもてません。でもエレミヤの時代と環境において、それは切実なものでした。雨のない情景が詳細に描かれていますが、ここでは精一杯その苛酷さを想像する思いだけを抱えて、先を急ぐことにしましょう。この状態は私たちの罪のなせる業である、とは当時誰もが思いつく発想だったと思われます。
 
主に対して罪を犯した。エレミヤは暗示はするものの、主がこの旱魃を引き起こしたとは直接言っていません。安易に神罰だと結論づけてはいないことにまず気づいておきたいと思います。ここにあるのは、私たちの背信の大きさが目の前に置かれていることを認識させる預言です。ただ、そこだけ見つめていても何も解決しないし、前進もできません。
 
エレミヤは主を見上げ、主に呼びかけます。イスラエルの希望である主よ。救いをなす方よ。私たちに必要は声がここにあります。自分をのみ見つめるのではありません。己れの愚かさと小ささは知らなくてはなりませんが、そこに留まっているわけにはゆきません。この自分を支えているのは誰か。それは主です。主を見上げてそこに信頼を寄せることこそ、主が求めているのです。
 
主なる神はイスラエルにとり、通りすがりの旅人のような対応をするような方ではありません。もっと人格的に深く関わり、交わってくださいます。思えば人は神に対して、その時ばかりの旅の友のように接していたのかもしれません。苦しい時に頼みとするだけであってよいはずもなく、お参りをして帰って無関心ということでよいはずがありません。
 
ここでエレミヤは嘆きます。主の助けはまだ私たちには見えていない、と。今の私たちのように、どうしてまだ主の手は私を完全に救ってはくださらないのか、と心に懐きますが、これを訴えるところが預言者です。神に向けて問うのです。なぜあなたは、と神に向き合って問いを投げかけます。神に嘆願するというのは、そういうことです。
 
エレミヤはそのとき見出します。主はどこにおられるのか。私たちの直中にいるではないか、と。現に共にいる主をエレミヤは発見します。イスラエルの名自体、ここに主はおられる、という証ししているではありませんか。名は体を表し、イスラエルに神は確かにいます。この信頼は揺るぎません。
 
乾いたこの地に、渇いた神の民。大地は雨を待ち望み、民の心は神の救いを慕い求めます。エレミヤはこの民に罵られ裏切られ、捨てられ、いためつけられ続けていますが、それでもこの民の救いを主に願います。軽蔑したり裁いたりするのではなく、救ってくださいと同胞のことを主に頼みます。私たちは、エレミヤになれるでしょうか。


主よ、あなたは我々の中におられます。
我々は御名によって呼ばれています。
我々を見捨てないでください。
(エレミヤ14:9)
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ダニエル書と新約聖書

2018-11-02 | メッセージ
ダニエル6:17-25 
 
大臣となったダニエルが妬まれるのも、分からないではありません。捕囚の民からその才能を見出されて出世しました。バビロニア帝国の人々からすれば、とくにその高官などダニエルを目の上にもつ政治関係者たちには、面白くないでしょう。ダレイオス王がうっかり彼らの企みに乗ってしまったことが事の因ではありました。
 
ダニエルがその神に、それまでと同じように普通に祈り礼拝していたのが、その企んだお触れに引っかかってしまうのです。獅子の穴へ投げ込まれるという定めに従わなければならなくなりました。王はダニエルに同情的でした。この王に信仰があったとは思えませんが、ダニエルの神に託したような言い方をしたと記録されています。
 
人間の王とて、自ら認めた法に対しては、その法の下に置かれている様子が見てとれます。人が作った法に、その人は支配されるのです。王は寝食をとるゆとりもなくしました。ヨブの友にしろ、心情的にはいたたまれないのです。夜明けに急いで訪ねた王の心は、如何ばかりであったことでしょう。常識的に考えてダニエルはもう死んでいる。しかし神に願いました。
 
イエスの復活の朝に墓を訪ねた女たちの心境と比較したいものです。石の封印など、この場面と重ねられるようなイメージがあるのではないかと思います。福音書記者たるもの、ダニエル書は必ず知っていたわけですから、ここでの描写を参考にしたか、または少なくとも無意識のうちにこの場面の記憶が影響して、福音書を記したとは考えられないでしょうか。
 
王は恐る恐る問います。もう生きた人間のいない洞窟の中へ。すると、ダニエルから返答がありました。獅子は何の危害も与えませんでした。吠え猛る獅子は新約聖書で悪魔に比せられています。悪魔がキリストに何の仕業ができましょう。キリストは何の罪も犯さなかったのですから。ダニエルもここでは冤罪でした。象徴的ですがそのように受け止めてみます。
 
ダニエルを陥れようとした者たちへの厳罰は、あまりにも濃い復讐で、妻子までも獅子の餌になったという、おぞましいものでした。キリストを十字架につけた人々、殊にユダヤ人への憎しみは、このような心理がパラレルに働いた可能性も否めません。福音書や書簡を書いた人もダニエル書を知り尽くしていたのです。そしてその後の歴史上の教会も。
 
私たちも獅子の穴にいるようなものだとしてみましょう。ダニエルのように立ち回れたでしょうか。現実には害を受けるでしょう。しかし、死のダメージは受けません。たとえ殺されても、第二の死には及びません。教会学校でおなじみのダニエル物語ですが、軽く扱ってはなりません。王が永遠に生きるように、との賛辞を、イエスがむしろ私たちに向けているかもしれないのです。


神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、
わたしはなんの危害も受けませんでした。
神様に対するわたしの無実が認められたのです。(ダニエル6:23)
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