二つに見えて、世界はひとつ

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霊性的直覚

2022-12-15 22:53:00 | 仏教の大意
般若の智prajñā

 般若prajñāに対して、識、すなわち分別識vijñānaという字がありますが、これは自己を中心にして何か対象をこしらえて分別する働きです。これは不覚性を持ったもので、無分別智ではありませんが、これが一転して般若の智慧になりますと、別境界へ入って来るのです。

 わたしたちの日常の意識は、それだけで十分に役立つものではありますが、般若の指導なしには実際は独り立ちができないものです、いつかは煩瑣きわまりない迷路の中に追い込まれて行くようにできています。それだといって、般若は分別識を跡形なくしてしまうのではありません。分別識が般若の鏡に照らされて、自らの姿をはっきりと見つけることによって、自らの働くべき場処を明了に会得するのです。

 分別識と般若とを別々に考えて対象的に分離させることは錯誤のもとです。 分離の対立は分別識上でいうことで、般若の無分別智はそこにはないのです。そこにはないのですが、無分別は分別の中に入り分別は無分別の中に入って始めて自在の働きがあるのです。分別だけではどうしても行き詰まりになります。

 般若の智は無知の知、無分別の分別、無念の念ということです。また無念無想とも無我無心ともいいます。これは普通心理学などでいう無意識または意識下ということとはおおいに違うことを忘れてはなりません。

 無心または無念とは、つまり無意識的作用ではありますが、この意識は分別識の上から見たものでなくて、もっともっと深く掘り下げて形而上学的無意識の境地とでもいいますか、または霊性的直覚です。

 仏教者は無分別の分別を思弁の上で納得させようというのでなくて、 日常経験の上で無分別が分別の中に浸透していることを会得させようとするのです。 わたしたちは意識の上でいろいろと分別をしますが、この分別は実はいずれも絶対無分別、 絶対無意識といってもよいのですが そこから出ていることに気づかさせようとするのです。そうしてこれを心理学的に経験するのでなくて、霊性的に直覚するのです。

  それは無分別の無理解をそのままに体得するのです。Aと非Aとが同一であるということは分別上のことではないからです。般若自体になりきると、主もなく客もなく見るものも見られるものもないのですが、それでいて何もかも了了分明なのです、無分別の分別なのです、分別の無分別なのです。これは何といっても理智思慮の境地ではありません。 仏教を会得しようというときには、この究竟地にひとたび到達して、絶対に相容れないものが、そのままで自己同一性をもっているということを明らめなくてはならないのです。これを霊性的直覚といいますが、仏教的にいって、得悟でも開悟でも体現
でも得菩提でも般若の開発でも浄土往生でもよいのです。

 結局のところ、仏教の根本義は対象界を超越することです。この世界は知性的分別と情念的混乱の世界であるから、ひとたびこれを出ない限り霊性的直覚を体得して絶対境 に没入することができません。 それだといって、絶対境を分別境と対立させては いけないのです。このような対立はなお分別的二元論の境地を離れていないことになります。これはわたしたちのいつもおちいりやすい落とし穴です。

 絶対は相対をそのままの絶対でなくてはならないのです。相対即絶対、絶対即相対ともいい、また一即多、多即一ともいうのはこの理であります。この世界にいてもいけないし、この世界を出てもいけないということになると、どうしてよいのかと言われましょう。これが論理の謎です、そうして人生の悩みです。そしてこの悩みがそのまま解脱です。

 知性的分別はただ分別するだけでなくて、その分別の上に分別を重ねて、七重八重にその身を縛りつけるのです、これから離れないと自由の身とはなれないのです。

 矛盾の解消、分別と無分別との自己同一、これは信仰で可能になるのです。思慮分別ではないのです。この信仰
は二元性のものでなくて、個人的体験から出るところの一元性のものです。

「仏教の大意」第一講 大智より



仏教の大意

2022-12-15 22:45:00 | 仏教の大意
「仏教の大意」は昭和21年に天皇皇后両陛下のために鈴木大拙が講演したものを基礎にして、後に一般読者のために加筆されて出版されたものです。以下は多少読みやすく編集しています。

 二つの世界

 普通わたしたちの生活で気のつかないことがあります。それはわたしたちの世界は一つではなくて、二つの世界だということです。そうしてこの二つがそのままに一つだということです。

 二つの世界の一つは感性と知性の世界、今一つは霊性の世界です。 これら二つの世界の存在に気のついた人でも、実在の世界は感性と知性の世界で、今一つの霊性的 世界は非実在で観念的で、空想の世界で、詩人や理想家やまたいわゆる霊性偏重主義者の頭の中にだけあるものだときめているのです。

 しかし宗教的立場から見ると、この霊性的世界ほど実在性をもったものはないのです。 それは感性的世界のに比すべくもないのです。

 一般には前者をもって具体的だと考えていますが、事実はそうでなくて、それはわたしたちの頭で再構成したものです。 霊性的直覚の対象となるものではありません。 感性の世界だけにいる人間がそれに満足しないで、何となく物足らない、 あるいは不安の気分に襲われがちであるのは、そのためです。何だか物でもなくしたような気がして、それの見つかるまではさまざまの形で悩みぬくのです。すなわち霊性的世界の真実性に対するあこがれが無意識に人間の心を動かすのです。

 霊性的世界

  霊性的世界というと、多くの人びとは何かそのようなものがこの世界の外にあって、この世界とあの世界と、二つの世界が対立するように考えますが、事実は一つの世界だけなのです。

 二つと思われるのは、一つの世界の人間に対する現われ方だといってよいのです。すなわち人間が一つを二つに見るのです。これがわからないと、実際に二つの対立する世界があると妄信するのです。

 わたしたちの生活しているという相対的世界と、その背後にある(仮にそういっておく)のとは、唯一不二の全を形成するものです。これを離して、各自にそれぞれの特別な価値があるということにすると、両方とも真実性を失います。

 こういってもよろしいです。相対性の世界は霊性的世界に没入することによってその真実性を獲得するが、それだといって、相対性そのものはなくなるのではありません。 無分別の渾沌に還るという意味ではありません。

  霊性的世界も またそのように、この理性的分別の千差性の中に割り込んで来ても、それがために今までの差別的経験の体系が混乱するわけではないのです。ただ今までと違ったより深い意味がそこに読まれて来て、この生活が実に価値あるものとなるのです。

  人生の不幸は、霊性的世界と感性的分別的世界とを二つの別々な世界で相互にきしりあう世界だと考えるところから出るのです。

 妄想 

 すでに一真実の世界だとい うなら 、どうして二つの世界があるようにか話されるのでしょうか。

 それは妄想の故であります。 この世界は理性または知性の上から見ると、合理性をもっているようでありますが、 霊性的直覚の立場から見ると妄想なのです。 人間は元来知性的にできているので、わたしたちは何かにつけ理屈づけをします、そうして
この理屈づけの故に一つが二つに割れるのです。二つの世界の一つは、それで、分別と差別でできているのです。これは合理性で支配されます。

  今一つの世界は無分別と無差別の世界です。前者を感性的(或いは知性的) 世界、後者を霊性的世界といいます。わたしたちの生活は差別の世界で営まれて、わたしたちはこれを真実の世界だと思いこんでいます。 そうして霊性的世界はこの知性的分別の背後に存在するもので、わたしたちは感覚のはたらきが強力なので、これを看取することができないと考えています。

 しかし真実のところは、この差別または分別の世界は、無分別・無差別の世界で、徹底してつらぬかれているのです。(分別も差別も同じこと であるから、どちらかをいえば、他は自らその中に含まれる。無差別・無分別の場合 も同じです。)そうして差別の世界が本当の意義を持って来るのは無差別の光明に照らし出されるときなのです。 これが会得されるとき宗教的生活が始まるのです。

 無差別•無分別の世界

 無差別ということは日常の経験でないことは容易に認められます。 それは千差万別の世界と全然かけ離れていますので何とも考えがつけられません、つまり無差別と差別とは相容れません。 この世界ではこのような矛盾は考えられないのです。 しかし事実は、この無差別、従ってこの考えられないというところに宗教的生涯があるのです。それでここには理性化できないこと、理智の上で了解できない種々の経験があるのです。これをどうしても単なる理智のうえで解しなければならないということにすると、矛盾百出して手がつけられなくなるのです。それゆえ、差別と無差別(即ち平等) とが何とかして✻円融する一点まで出てこないと、その矛盾が矛盾でなくなって、論理にやかましい人を満足させるわけにいかないのです。  

 無差別・無分別の世界を霊性の世界といっておきます。伝統的には涅槃・菩薩・成 仏•極楽往生などといいます。 往生などというと、それは死後の世界ではないかとも 申されましょうが、必ずしもそうだとはいいきれません。 いずれにしてもこれらの仏教語の意味を十分に会得することは容易でないのです、わたしたちはいつも知性的分別につながれているのです。 それは何でも二分してみないと承知しないからです。それゆえ、この繋縛を脱しないかぎりジレンマの解消は不可能です。

 それにはとにかく一時でも 理性と手を分かつことにしなくてはなりません。知性は差別や分別の世界では欠くべからざる道具なのですが、無差別界に入ることになればその必要性を失うことになります。それどころでなくて、かえってさまたげとなるものです。

 無分別界の消息を伝えようとするには、どうしても一度は分別智(ヴィジュニャーナ)と決別しなければなりません。般若の智慧の光明はかくして輝きでるのです。
「仏教の大意」第一講 大智より
   鈴木大拙全集第七巻


円融(えんゆう)
仏語。それぞれの事物が、その立場を保ちながら一体であり、互いにとけ合っていて障りのないこと







無分別智概要

2022-12-15 21:34:00 | 仏教の大意
仏教のほうでよく使われる「般若」という言葉がありますがこれはサンスクリット語のプラジュニャーprajñā,パーリ語パンニャーpaññāの音写語ですのでそのままではなんのことか意味が全くわかりません。

(え)〉と漢訳され〈智慧〉という意味ですが、ほかに無分別智という訳もあります。この無分別智という語は他の仏教語や西洋哲学との関連もよく、般若の訳としては一番わかりやすいのではないかと思います。無分別智とは無分別の智慧のことで思慮分別によらない智とのことです。

 難解な仏教用語と仏教教理ですが各宗派に共通である無分別智というキーワードでの考察を試みました。
まずは辞典による簡単な概要から。

 無分別智

分別を離れた智慧。真如を把握する智慧。

(梵)nir-vikalpa-jñāna。

無分別智は菩薩によって獲得される智慧であり、言語による分別作用を離れた物事の本質を把握する智慧である。玄奘訳『摂大乗論』増上慧学分に「般若波羅蜜多と無分別智と差別有ることなし」(正蔵三一・一四八中)と説かれるように、般若波羅蜜と同義ともされる。
   「浄土宗大辞典」より

無分別智  

無分別心(むふんべつしん)、真智(しんち)、根本智(こんぽんち)ともいう。真如を把握する智慧。人間は言葉によってモノ/コトを概念化し分別するのだが、そのような分別知によっては捉えることのできないさとりの智慧を無分別智という。
 wikiアーク 浄土真宗聖典

無分別智

大乗仏教の根本的立場を示す重要な語で、通常の主客対立にとらわれた見方(分別)を超えた智慧(ちえ)をいう。サンスクリット語ニル•ビカルパ・ジュニャーナnir-vikalpa-jñānaの訳。大乗仏教の根本経典である『般若経(はんにゃきょう)』は、菩薩(ぼさつ)の般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)の実践として、言語習慣に拘泥した主客対立の分別を徹底的に否定したが、この否定に基づく智慧の立場を術語化した表現が無分別智である。したがって、無分別智そのものは言語表現を超えた境地であるが、唯識(ゆいしき)説ではこれを根本(こんぽん)無分別智とよび、この智を、その前段階である加行(けぎょう)無分別智や、当の根本無分別智の体験に基づいてふたたび言語表現の世界へ戻ってくる後得(ごとく)無分別智の二つと区別しながらも、これら三様のあり方をともに無分別智として認めている。無分別智に基づく仏教的考え方は、近代になって西田幾多郎(きたろう)の哲学などに大きな影響を与えたことが指摘されている。 [袴谷憲昭]
 日本大百科全書(ニッポニカ)「無分別智」の解説


無分別智

nir-vikalpaka-jñāna 仏教用語。知られるものと知るものとの対立を超越した絶対知をいう。
 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「無分別智」の解説

無分別智
(nir-vikalpa-jñāna の訳語)

仏語。主観と客観の対立を離れた絶対智。真理を見る心のはたらき。
 日本国語大辞典「無分別智」の解説

無分別智

仏語。相対的な主観・客観の分別を離れた真実の智慧。識別・弁別する分別智に対して、それを超えた絶対的な智慧をいう。
 デジタル大辞泉「無分別智」の解説

 無分別

無分別 むふんべつ
[s: nirvikalpa]

分別から離れていること. 主体と客体を区別し対象を言葉や概念によって分析的に把握しようと しないこと。 この無分別による智慧を無分別智あるいは根本智と呼び, 根本智に基づいた上で対象のさまざまなあり方をとらわれなしに知る智慧を後得智と呼ぶ。

 なお一般には、思慮がない、見さかいがない、わきまえがないなど、 悪い意味にも使われる。

「十界の衆生は品々に異なりといへども、実状相の理は一なるがゆゑに無分別なり」〔日蓮三世諸仏総勘文教相廃立]

「分別は惑ひ有るゆゑに分別を備ふるなり、 無分別智に到れば、分別已前に, 物を照らし分け、つひに惑ふことな し」 [盤珪語録]
     岩波「仏教辞典」

 無分別心
 
法身の菩薩は、無分別の心を得て、諸仏の智の用に相応し、唯だ法の力に依るのみにして、自然に修行し、真如に熏習して、無明を滅する。
        大乗起信論

 分別

分別(ふんべつ梵:vikalpa)とは、仏教において、心、心所が対象に対してはたらきかけ、それを思い計ることをいう。
  凡夫の分別は、主観と事物との主客相対の上に成り立ち、対象を区別し分析するから、事実のありのままの姿の認識ではなく、主観によって組み立てられた差別相対の認識に過ぎないため、妄分別(もうふんべつ)である。それによって得られる智慧である分別智(ふんべつち)も一面的な智慧でしかない。それに対し、主客の対立を超えた真理を見る智慧を無分別智(むふんべつち)という。俗には無分別は「思慮の足りないこと」の意義で用いられるが、仏教では反対の用法である。
      wiki「分別」