二つに見えて、世界はひとつ

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盤珪不生禅/丸亀の巻2

2022-12-16 21:51:00 | 仏教の大意
九月一日、朝の説法

 日月のたとえ

 どなたも私の説法を聴聞しようと、夜明け前からこのように大勢せり合い、窮屈な目を顧みずにこの会合に参られるのは、もちろんのこと有難いことと存じます。というのも皆さん夜明け前から早起きをなさってここへお出でになるのは、どなたも仏に成りたいとお思いになってのこと、そのように思うその心が、そもそも賢く生まれついているからなのでございます。これはそのまま仏心が各々に備わっている徳と申すべきものでございます。そうではありますが、今どきは、世渡りをするのに、悪い習慣が身について育ち、霊明な仏心を暗まして迷っているのでございます。

 仏心は育ちの悪い念に引かれ、迷ったのでこそあれ、失って、無いと申すのではございません。我欲が強く身のひいきに引かれ、迷い暗ましたと申すもので、失ったというのではございません。

 その証拠に、たとえを以ていいましょう。日月は、日々かわらずに照らしますも、雨の夜、また、曇の時は、昼であっても日は見えません。

 しかし、毎日毎夜、少しも違うことない時刻に、朝方には東よりお出になされて、夕方には西の山へお入りなさるではございませんか。ただ雲に隠れて、あらわれないというだけのことです。

 日月は仏心に、雲は迷いのようなものでございます。仏心もそれと同じように、迷いが隔てをなしてあらわれないために、皆さま方が知らぬというだけのことで、たとえ寝入った間も失ってはおりません。

 親の産み付けた仏心は、霊明なものでして、失いようがございません。生まれ出るや否や、水をかければ冷たく、火を近づければ熱く、その仏心一つの働きで、一切のことが調いまする。

 我慢

 このたび、仏になりませんといつになっても仏果をえられません。もし畜生になりましたら、どれほどありがたい事を説き聞かせても話しが通じず、縁が切れてしまいまして、また、仏に成りたいという思いもありはしません。このようなことを皆さんお聞きになり、今日から不生の仏心にもとづこうとお思いになるなら、第一に、この身にひいきがないようになされませ。そうすればおのずから仏心で居るようになるものでございます。

 人には我慢なるものが有るものでございます。何事も人に劣るまいと思うのが、悪い事でございます。この劣るまいという思いが、すなわち我慢と申すものでございます。   何事も人に勝とうと思はねば、劣る事もございません。
また、人がまた自分に悪くあたるのは、きっと我慢があるからでございます。人が自分に悪くあたるのは、自分に悪いところがあるからではないかと、自分に目を向けてみるときは、世間に悪い者は一人もいなくなるものでございます。

 怒りの念が起こりますと、仏心を修羅道にし替えてしまいます。ただ怒りも喜びも、みなこれ身びいきがあるからですので、霊明の仏心を暗まして迷って流転するのでございます。身びいきがなければ、また仏心の不生で居ますので、流転することもございません。

 ですから、どなたもよくご理解なされるがよろしい。このことわりをとくと納得なされば、修行をしなくとも、戒律を保たなくとも、今日から仏心でございます。 


 同二日、朝の説法

 不生不滅の仏心

 これまで皆さんお聞きの通り、めいめいが生まれつきの仏心でございますので、不生のままで居ますればよいのですが、世間のならわしで、悪い世渡りを習いましたので、惜しい可愛いの餓鬼道に仏心を替えているのでございます。ここをよくよくご決定なされば、不生の仏心で常に居るというものでございます。

 しかしながら、不生になりたいと思われて、怒りや腹立ちや、惜しい欲しいという念が起こるの止めようとされますと、二つの念が起こりまして、ちょうど走る者を追うようなもので、 起る念とを止めようとする念が戦いまして永久に止まらぬものでございます。

 たとえを使って言うのであれば、血でもって血を洗うようなものでございます。もっとも、先の血は落ちるでしょうが、また後の血が付きまして、いつまでも赤色はとれません。そのようなものでございまして、前の止められる怒りの念は止むでしょうが、止めようとした後の念がいつまでも止まらないのでございます。

 だとすればどのようにして止めるのかとお思いでしょうが、たとえ、はからずも思わず知らず立腹する事がありましょうとも、あるいはまた惜しいとか欲しいとかの念が出ましょうとも、それは出るままにして、その念を重ねて育てず、執着をせずに、起こる念を止めようとも、止めまいとも取り合わなければ、止むよりほかはないのでございます。垣と論争するのは、一人では成り立ちません。その相手がいないのであれば、自然と止まないではいられないのです。たとえまた色々の念が起こりましょうとも、その起こってきました念は、ちょうど三つか四つの幼い子供の遊びのように、嬉しいも悲しいも続けてその念にかかわらず、止めようとも止めまいとも、思わず知らずにおられることが、とりもなおさず不生の仏心で居るというものでございます。こうした心持ちで常におられるのがよいのでございます。

 また、悪いことも善いことも思うまいとか止めようとかなさらなくとも、おのずから止まないことはないのでございます。怒り、嬉しいというのも、これはすべて我が欲に付いて、身のひいきの強さより生じたものですから、一切貧着の念を離れましたならば、その念が滅せないではいません。その滅したところが、すなわち不滅でございます。不滅なものは不生の仏心でございます。

 とにかく常に不生の仏心を心がけなさい。不生の上にあれやこれやの念を出かしこしらえ、向こうのものに貧着し、仏心を念に取り替えなさらぬ事、これが一番です。これに油断をしなければ、善悪の念も起らず、 またやめようとも思わなくなります。そのときは生ぜず滅せずではないですか。そこが不生不滅の仏心というものでございます。このことを、よくよく納得なされるがよろしい。
     

 漢語より日本語

 私も若い頃には、何としてでも、仏心を見開こうと、あちらへこちらへと善知識をたずねて熱心に参禅問答をしたものですが、すべて普段の話し言葉で問いましたが心安くく聞き受けられました。その後はよく納得がいって、しませんでしたわい。日本人は日本人に似合ったように、普段の話し言葉で道を問うほうがよろしい。日本人は漢語が不得手ですから、漢語の問答では、思うように道が問いつくされないものです。 しかし、普段の言葉で問えば、どのようにも問われぬということはございません。ですから、使いにくい漢語で気張って問答するよりも、使いなれた言葉で気張らずに問答したほうがよろしいのです。

 それもまた漢語でなければ真実が体得できないというのならば漢語で問答するほうがよろしいが、平生の日本語で自由に問答して、結局それでよいわけですから、ことさら使いにくい言葉で問答するのは、どうかと思います。ですから、皆さんそう思って、どのようなことであろうと結構でございます。遠慮せずに、自由に普段の言葉で問答して、らちをあけなさい。らちさえあけば、使いやすい普段の言葉ほど便利なものはないですか。 

 日本の僧侶が漢語にうとい俗人に、ことさら通じにくい外国の言葉で示すのは、自分の上に、仏心のらちが明かぬゆえに、それを俗に通じにくい漢語を使ってごまかしているというものでございます。           
     
 不生で歩く

 仏心は不生にして霊明なものだと、皆さん思いなさい。 一度行った所は、何年たっても、覚えていようと常に思ってはいませんが、よく覚えていまして、忘れはしません。自分の行った所へ、 またほかの人が行きましたら、そこから百里も離れた土地で話しましても、行った者同士はどこで話しても、話が合うものです。また道を行きますとき、向うから大勢の人が来れば、よけようと思う念を人々は生じませんが、向うから来る人に自然と突き当たりもせず、また人に突き倒されもせず、踏まれもせず、大勢の人の中を通っても、あちらにくぐり、こちらにかたより、抜けつ、くぐりつ、しようという思う分別の念を生じなくとも、自由に道を歩きますわい
仏心はこのように不生にして、霊明でございまして、それで一切のことがうまく運びます。もし万一、自然にかたよろうと思う念を生じてかたより通りますは、霊明なはたらきでございます。しかし、片寄る方へは念を生じて片寄りますが、足もとには、一足一足に分別の念を生じて歩きはしません。 それでも自然に歩くは、不生で歩いているからでございます。
     

自力でもなく他力でもない

 私どもの宗旨は、自力にかかわらず、他力にもかかわりませぬ。自力他力を超えているのが私どもの宗旨です。

 その証拠には、私がこう言っているのを、皆さんこちらを向いて聞いておいでになる間にも、うしろの方で、雀の声、鴉の声、男の声、女の声、風の吹く音がすれば、それぞれの声が、聞こうと思う念を生ぜずにいても、こちらへはそれぞれの声が、ちゃんと分かれ通じて聞こえるのは、自分が聞くのではないのですから、自力ではありません。

 またこれを人に聞いてもらって、聞きわけているわけではないので、他力でもありません。そうすると、自力にも関係せず、他力にも関係せず、自力他力を超えているのが、私どもの宗旨でございます。 そうじゃございませんか。

 このように、その不生で聞けば、一切のことが聞えております。そのほかの一切のことも、みなまずそのように、不生でうまく運びます。不生で働く人はどなたであれ、皆一切のことが不生でうまく運びますから、不生な人はどなたでも、自力他力にかかわりなく、自力他力を超えておりますわい。     

 
 香川県丸亀の宝津寺


*禅の六祖慧能の「六祖壇経」に盤珪禅師の日月のたとえと同じものがあります。

 日月のたとえ

 日月はいつも天上に輝いている。しかし厚い雲に包まれると天上は明るくとも地上は暗やみとなる。人々の般若の知恵もこれと同じようである。

 人々の本性の清らかなことはまるで青空のようである。その知は月のようであり、その恵は太陽のようである。知恵はいつも輝いているのだが、外に向いてそこにとらわれると、妄念の浮き雲が現れて本性の輝きが覆われてしまう。やがて妄念が幾重にも厚く重なり、煩悩の根が深くくい込む。それは厚い暗雲が太陽を覆い隠すようなものである。

 風が吹き払ってくれないと太陽は姿をあらわすことができない。そのときは友人をたずね妄念を払ってもらわねばならない。

 間違った考えは正しい考えで払い、無自覚は自覚で、愚かさは知恵で、悪は善で、迷いは悟りで、払いのけるのである。

 このようにして知恵の風が吹きつけ妄念の雲や霧を追い払ってしまうと、ふたたび世界は新しくその姿を現す。

   「六祖壇経」般若第二

       


盤珪不生禅/丸亀の巻1

2022-12-16 19:56:00 | 仏教の大意
盤珪永琢(ばんけい ようたく/1622-1693)は、江戸時代前期の臨済宗の僧。不生禅を唱え、やさしい言葉で大名から庶民にいたるまで広く法を説いた。法名を授けられ弟子の礼をとった者五万人あまり。  wikipedia  

盤珪禅師、丸亀養性山宝津寺にて、元禄三年(1689年)
八月二十三日、昼の説法  

 不生の仏心  

 私が皆さんに申し聞かせますのは、別の事でもございません、不生のことわりでございます。人々の身には仏心がそなわっているのですが、それをご存知ないので、私が申し聞かせるのでございます。

 では、仏心がそなわっているとはどのような事かと申しますと、皆さんそれぞれのお宿よりこの場へ、私の説法を聞こうと思われてお出でになっていますが、説法を聴聞されるうちに、この寺の外で鐘がなれば鐘と、太鼓がなれば太鼓と聞き分け、犬が吠えれば犬の声と、カラスが鳴けばカラスの声と聞き分け、大人子供の声がすれば、大人子供と聞き分け、目には千差万別の色を見分けなさいます。

 いずれの方もお宿からこの寺へまいろうとお出になるとき、私が法の話を申してる最中に、鐘太鼓が鳴れば鐘太鼓と知ろう、犬の声カラスの声がすれば犬の声カラスの声と知ろう、大人子供の声がすれば、大人子供の声と知ろうとは、前もって思いもせず、人より教えてもらうのでもありませんが、このように明らかに聞き分け、見分けできる
心のそなわっていますのを、不生不滅の仏心と申します。       

 たとえばスズメの声を聞かれたとき、「今のはカラスの声であった」と千万人が言おうとも、人に言い惑わされはしますまい。これがすなわち不生の仏心でございます。

   

 見ようとも、聞こうとも思ってもいずに、目には色を見分け、耳には声を聞き分けなさる所が、不生と申すものでございます。不生ならば不滅でございます。不生不滅とは生ぜず滅せぬことです。生じたものは必ず滅しますが、生じないものが滅するわけがございません。

 仏菩薩の世より、今の世の人に至るまで、仏心と申すものは不生不滅でございますので、おひとりおひとりにこの仏心が備わっているのでございます。その仏心の有ることをご存知ないことから、迷いなさるのです。

 その迷いとはどのような事かと申しますと、それは我が身にひいきがある事によって迷います。我が身にひいきがあるとは、どのような事かと言いますなら、たとえば隣の人が自分を悪く言っている事を聞いては、それに腹立ち憤り、その人を見ては嫌悪したり、その人の言う事なす事を悪くとらえたりなどします事、これは我が身にひいきのあるせいでございます。このように憤り、腹を立てますと、わが身に備わっているところの仏心を、修羅道に取り替えてしまいます。また、隣の人が自分をほめているという事を聞きますなら、いまだほうびもなく、喜ばしい知らせもやってこぬ先に、早くも嬉しがるではありませんか。この喜びは何事かといえば、我が身にひいきがあるからでございます。

 この身、親より産まれましたときには、憎いかわいいの念もなく、欲しい惜しいの念もなく、一切の迷いを親が産み付けはしません。これらはみな生まれて後、知恵が付きましてからこのような事を生じたのでございます。このように、憎いと思い、怒りの心になると、この仏心が修羅道となり、欲しい惜しいの心になりますと、この心が餓鬼道となります。これを生死流転の心といいまする。この身にひいきの有るゆえでございますので、この道理をとくと考えられ、怒り腹立ちの心もなく、憎いかわいいの念もなければ、すなわち不生不滅の仏心にかないまする。

 このことについて、皆さんの心に納得できないことがありますれば、何なりとお尋ねなさい。それを尋ねる事に何の遠慮もいりません。このことは、今の世渡りの事について尋ねるのとは違って、未来永劫のためでございますから、不審な点は、今聞かれた方がよいのです。皆さんにまた私がお目にかかることは不定でありますから、このたび、何なりともご不審なことをお尋ねになって、とくとこの心の不生であることを納得なされば、皆さん一人一人のお得になるのでございます。


同二十五日、朝の説法 

うつらうつら過ごした日々

 このように夜明け前から大勢お集まりになり、私の話すことをお聴きになろうとしている心、それがすなわち仏心で不生の心でございます。朝早くからここへ来られましたのは、有難き説法だと思わなければ、このような志しは起りません。

 ですから、ここにお集りの人々、お年五十にもなられた皆さまは、五十年の間、我が身に仏心の有ることも知らずに、またお年三十になられる方は三十年の間、我が身に仏心のあることをお知りにならずに、うつらうつらと月日を送られてきたのでございましたが、今日この場で、我が身に不生の仏心のそなわっていることわりを、とくと納得なされば、そのまま今日からどなたも仏でございます。

  私がどなたへもお話ししますことは、何れもの不生であるということを、 納得させますまでのことでございます。ここをとくと納得なされれば、今日から仏心であって、永遠の後まで、釈迦•達磨とかわらぬ仏体を得て、二度とふたたび悪道に落ちることはございません。

 しかし、私がお話し申し上げる不生のことわりを、この場でよく納得されても、また、 宿へ帰られて、何やかやにて腹を立て、怒りの念を
起しますなら、この不生のことわりをお聞きになる以前の罪よりさらに大きな罪になりまして、ただいま聞かれた不生の心を、修羅道や餓鬼道につくりかえて仏心を失い、流転なさるというものでございます。

 皆さんのなかに、どなたも仏になることは厭だとおっしゃる方はひとりもございますまい。ですからどなたに向ってもお話しいたすわけです。 ここを納得なされるときは、今日から仏心でございます。        
   
     
磨かれた鏡のたとえ
    
 不生の心と申しますものは、とりもなおさず仏心でございます。この集まりの座では、皆さんわたくしが申し上げることをお聴きになろうとお思いになっているばかりでございますが、この寺の外で犬の声や物売りの声がするのを、この説法のあいだに聞こうと思ってはいなくても、各々の耳に聞こえます。これが不生の心というものでございます。
     
   
 

 不生というものは、たとえば磨かれた鏡のようなものでございます。 鏡というものは、何であれ映りますと、自ら映そうとは思わなくても、何であれ鏡に対すればその色形が映らないではおかないものです。またその映っているものをのけますと、この鏡が映すまいと思うわけでもないのに、取りのければ 鏡に映りません。この不生の仏心と申すものはちょうどこのようなものでございます。
 
 何であれ、見ましょう聞きましょうと思ったうえで、見聞きしますのは仏心ではございません。前もって見聞きしようと思いもしないのに、 ものが見えたり聞えたりするのは、 お一人お一人にそなわった仏心の働きによるものでございます。

 このように、どなたにも納得していただけるように、不生のことわりをお話しいたしております。 今日のお話しさえもわかっていただけなければ、ほかの話をなんぼお聞きになっても無駄でございます。また、一度聞いただけでも、このことわりを納得された方は仏と申すものでございます。    
     
 どなたも今までは、惜しい欲しいと、またさまざまな怒り腹立ちを本意とされた悪い心で、仏心を修羅・餓鬼道にかえて流転なされていましたけれど、今日私の話しを聞きまして、これをとくとご納得されれば、惜しい欲しい、怒り腹立ちの心が、たちまち不生の仏心に成りまして、この仏心で居られることにより、今日より生き仏というものでございます。このたび仏心を取り損なうと、いつになっても仏には成れませんから、よくよく納得されるのがよろしい。    

主な参考文献
 岩波文庫 「盤珪禅師語録」
 講談社 禅入門9「盤珪」
 大東出版社「盤珪禅師説法」
 筑摩書房「禅家語録」 

✳岩波本に欠けていると思われる文や語句の差異が講談社本と読み比べるとにいくつかありましたので編集しています。
   
    水月

 うつるとも月も思わず
 うつすとも水も思わぬ
 広沢の池

これは剣の奥義をたとえたものでこの無心の境地を「水月の位」と言います。
  
東慶寺 水月観音

   不生

 見ようとも、聞こうとも思ってもいずに、目には色を見分け、耳には声を聞き分けなさる所が、「不生」と申すものでございます。盤珪

 ふたつ比べるとわかりやすくなりますが、盤珪禅師の「不生」は禅で「無心」というのと同じもののようです。無心とは無分別心のことで分別も思案も何も無いときの心です。