般若の智prajñā
般若prajñāに対して、識、すなわち分別識vijñānaという字がありますが、これは自己を中心にして何か対象をこしらえて分別する働きです。これは不覚性を持ったもので、無分別智ではありませんが、これが一転して般若の智慧になりますと、別境界へ入って来るのです。
わたしたちの日常の意識は、それだけで十分に役立つものではありますが、般若の指導なしには実際は独り立ちができないものです、いつかは煩瑣きわまりない迷路の中に追い込まれて行くようにできています。それだといって、般若は分別識を跡形なくしてしまうのではありません。分別識が般若の鏡に照らされて、自らの姿をはっきりと見つけることによって、自らの働くべき場処を明了に会得するのです。
分別識と般若とを別々に考えて対象的に分離させることは錯誤のもとです。 分離の対立は分別識上でいうことで、般若の無分別智はそこにはないのです。そこにはないのですが、無分別は分別の中に入り分別は無分別の中に入って始めて自在の働きがあるのです。分別だけではどうしても行き詰まりになります。
般若の智は無知の知、無分別の分別、無念の念ということです。また無念無想とも無我無心ともいいます。これは普通心理学などでいう無意識または意識下ということとはおおいに違うことを忘れてはなりません。
無心または無念とは、つまり無意識的作用ではありますが、この意識は分別識の上から見たものでなくて、もっともっと深く掘り下げて形而上学的無意識の境地とでもいいますか、または霊性的直覚です。
仏教者は無分別の分別を思弁の上で納得させようというのでなくて、 日常経験の上で無分別が分別の中に浸透していることを会得させようとするのです。 わたしたちは意識の上でいろいろと分別をしますが、この分別は実はいずれも絶対無分別、 絶対無意識といってもよいのですが そこから出ていることに気づかさせようとするのです。そうしてこれを心理学的に経験するのでなくて、霊性的に直覚するのです。
それは無分別の無理解をそのままに体得するのです。Aと非Aとが同一であるということは分別上のことではないからです。般若自体になりきると、主もなく客もなく見るものも見られるものもないのですが、それでいて何もかも了了分明なのです、無分別の分別なのです、分別の無分別なのです。これは何といっても理智思慮の境地ではありません。 仏教を会得しようというときには、この究竟地にひとたび到達して、絶対に相容れないものが、そのままで自己同一性をもっているということを明らめなくてはならないのです。これを霊性的直覚といいますが、仏教的にいって、得悟でも開悟でも体現
でも得菩提でも般若の開発でも浄土往生でもよいのです。
結局のところ、仏教の根本義は対象界を超越することです。この世界は知性的分別と情念的混乱の世界であるから、ひとたびこれを出ない限り霊性的直覚を体得して絶対境 に没入することができません。 それだといって、絶対境を分別境と対立させては いけないのです。このような対立はなお分別的二元論の境地を離れていないことになります。これはわたしたちのいつもおちいりやすい落とし穴です。
絶対は相対をそのままの絶対でなくてはならないのです。相対即絶対、絶対即相対ともいい、また一即多、多即一ともいうのはこの理であります。この世界にいてもいけないし、この世界を出てもいけないということになると、どうしてよいのかと言われましょう。これが論理の謎です、そうして人生の悩みです。そしてこの悩みがそのまま解脱です。
知性的分別はただ分別するだけでなくて、その分別の上に分別を重ねて、七重八重にその身を縛りつけるのです、これから離れないと自由の身とはなれないのです。
矛盾の解消、分別と無分別との自己同一、これは信仰で可能になるのです。思慮分別ではないのです。この信仰
は二元性のものでなくて、個人的体験から出るところの一元性のものです。
「仏教の大意」第一講 大智より