「行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず」とは言わずと知れた鴨長明の方丈記の出だし。方丈記といえば無常観ということになっているが、ひとまずそういうことはおいておきたくなるくらいこの書き出しに魅力を感じる私だ。
一見あたりまえのことが書いてあるようだが、これをあたりまえと感じるのはすでにこの文章を聞き覚えているからだと思う。実際に川のながれを前にすると、それ以外のことは考えられないくらい「まったくその通りだな」と思う。だが「もとの水にあらず」なんてなかなか言えるものではない。
もとの水とはさっき見た水である。さっき見た水はどこへ行ったかといえば下流のほうへ行った。「今」と「さっき」が同じ流れにのっていてひと目で見渡せるところがすごい。なにがすごいと言葉で説明するのは難しい。川を見ていると、過去、現在、未来という時系列が逆転してわけがわからなくなってくるからかもしれない。
ふつうに考えれば川上方向は過去、川下方向は未来だ。川の一生を想定すればそうなる。だが、今川のほとりに立っているとすると、これから流れてくる未来の水は川上からやってくるし、今ここに流れる水は過去の水として川下に下る。現在、過去、未来がひとつながりになっていて、かつその時系列全体がさらにおおきな時系列にのって流れてくる、とでも言ったらいいか。
たとえば流れに葉っぱを浮かべる。葉っぱの流れていくのを見ていると、葉っぱの上に「現在」が乗っているような気がする。先回りをしてさっき浮かべた葉っぱを下流で待ち受けるとする。するとその葉っぱに乗っているのは「過去」のような気もする。なんだがあたまがこんぐらがってくるが、時間というのは相対的なもの、そう考えればいいのかもしれない。いや、そんな理屈はどうでもいい。
頭のなかのどうどうめぐりにはおかまいなく目は水の流れを追っている。実はそういう時間がいちばん楽しい。最初のひとしずくは究極の過去であると同時に究極の未来でもある。そういうひとしずくがほうぼうから集まってやがて川になる。自然の営みには想像を絶するものがある。