風に吹かれて ~いつか どこかで~

徒然なるままにと気取って始めた 母の介護・趣味の工作・覚書に日々雑感
自己満足だけど書くと楽になることもある

納骨が済んであっという間に1週間

2016年02月21日 | 何となくひとり言
1月1日に母が亡くなり 初七日の1月7日が通夜 1月8日に告別式

不思議なことに12月中あの遠い病院に通う間 母を亡くしてなすすべもない正月

そしてお通夜も告別式も冬の最中なのに暖かかった

お骨になって祭壇に飾られた母 

遺影は昨年5月のGWに珍しく木更津の弟のところへ行った時のもの

その顔が昨日までの母の顔だから見る度に 側にいないことが信じられなくて寂しさに涙がこぼれた

役所や年金事務所 その他もろもろの手続きがあり 

母の関係の用事に出掛ける度に不思議と好天に恵まれ暖かかった

必要書類に『故 前多美津江』と記入するたびに涙と嗚咽に困った

なのに担当してくれた方々がみんな暖かかった 

窓口のカウンターで涙を流す私を静かに慰めてくれた

見知らぬ人々の優しさに心が慰められてありがたかった


そして四十九日にあたる2月18日は両親の結婚記念日

納骨はその前の2月14日の日曜に行うことになったが「晴れ女の母」にしては天気予報は雨

長男は「雨天決行」と言うものの 最後のお別れに雨に濡らせるのは嫌だった

ところが「午後には晴れ間が広がり 気温は23度と暖かく 春一番も吹く」との様子で

時間を午後一番にずらせて納骨となった さすがの晴れ女 

読経の最中は暑いほどの春の嵐が吹きまくっていた


もっとも前日 仲が良いはずの我々兄弟もご多分に漏れず あわや中止の大揉め

葬儀から一人で母と向き合っていた私の気持ちが理解できない長男家族相手に

「納骨は私一人でやる!」と言い出すことになった

実は納骨のことだけではない 今までいろいろあってそれでも我慢していたことが

ここにきて爆発してしまった 

結局はヤキモチだし 言ってみたところで「何を言ってるんだろう」としか理解ができないみたい

間に入った次男も可哀想だし 何よりも納骨で揉めたら母が可哀想だ

次男の「みんなで送ってあげようよ」と言う言葉に一晩寝ずに姪や嫁にメールして

とにかくみんなに謝り(私が謝ることではないと今でも思っているし爆発して良かったとも思っている)

朝 黙って帰ろうとする長男に「納骨に行ってください お願いします」と頭を下げた

彼は怒っている訳ではなく 私の言ってることが図星なだけに私を説得する気力をなくし

私が頭を下げてお願いしなければ動けなくなっていた


天気だけではなく残された兄弟たちにも嵐が吹きまくった

無事に納骨が済み「お母さんはこの日を選んだんだね」と私は独りごちた

仏壇に位牌として納まった翌日 結構な喪失感に襲われた



母に関する諸々の手続きは年金や保険など細々ではあるけれど

過誤納の返金だったり 還付金だったりと少しでも私にお金を残してくれようとしている

母の温かさだと勝手に解釈している


年金事務所では たった4ヶ月分ではあるけれど「記録漏れの年金」が見つかって 

50年前の母の勤め先に問い合わせることになった

スカイツリーのすぐ足元にある小さな会社だったけど現在も操業していたことに驚きと感謝 

話を聞いてくれた方が創業者のお孫さんで副社長 

当時からの社会保険労務士さんのところにあった資料から

個人別台帳に母の名前があったのを見つけ出し わざわざコピーを送ってくれた

私の記憶にあったその会社の記念品であろうクリスタルの灰皿も同じものではなかったけれど

自社のショーケースに飾られているものの写真を撮って一緒に送ってくれた

たった1本の電話でそこまでしてくれた親切さに触れることが出来たのも母の縁だと思う

また不思議なことに休眠口座になっていて復活の手続きをしたかった『大信』の支店が

その会社の並びにあり 母の勤めていた会社にお礼に伺ったついでに 

何年も放っておいた口座の復活の手続きも済ませられた

その帰りに近所に住む高校時代の友達にも会えて夕飯をごちそうになったりと

久々に寂しさから解放される日になった


納骨が済んであっと言う間の1週間 私は何をしていたんだろう?

四十九日が済むまでは母のことでやるべきことはやろうと

遺品整理はまだ辛くて手を付けられないけど 他の家の片づけをした

合間をぬって諸々の手続きに出かけた 行きたくなかった病院への支払いにも行った

毎晩朝4時まで掛ってあの酷い病院に16Pにも及ぶ手紙を書いた 

取るべき手段はないかと弁護士にも相談した 東京都の指導第3課にも連絡をした 

結局なんの返事もして来ない病院に乗り込んで言いたいことは言ってきた

区役所や年金事務所、昔の地元スカイツリーの足元で触れた人の温かさ

「どうしてる?」「遊びにおいで」「外に出よう」と声を掛けてくれる人がいる

お悔やみを言ってくれる人にほろりと涙したり 

団地の当番であらぬ言いがかりの上名指しで会計係にさせられ受けた自分がバカに見え

母が亡くなってから妙に昭和の時代が恋しくて懐かしいタイガースの映像を見て

母のことを考えてしまうから演歌系の歌番組やのど自慢は見なくなった 

見通しが良くなるように新しく眼鏡を作って 加山雄三のCDをアマゾンで買った

元日から長い長い時間を一人で過ごしてきた とっても長かったように思う

母の入院中の3ヶ月は苦しくて辛くて長かったはずなのに今になってはあっという間に感じている

そしてほとんど記憶のないこの1週間は本当にあっと言う間 いったい何をしていたんだろう・・・。

一人で家を出るのとは違い 一人残されるのがこんなにも寂しいものか・・・。

 
四十九日で忌明け 翌日の2月19日は雨水

雨水とは「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となればなり」

「寒さも峠を越え、春一番が吹き、鶯の鳴き声が聞こえ始める地域もある」とあり

「昔から農耕の準備を始める目安とされてきた。」とのこと

春に向かってそろそろ動き出さなくては・・・。


写真は霞が関の弁護士会館に相談に行った帰り 外へ出ると目の前が日比谷公園でした
「日比谷の野音」にジュリーや上々颱風の思い出がよみがえり 日比谷図書館で遅めのランチ
図書館を出ると陽はとっぷりと暮れて 夕闇の中ライトアップされた大噴水
     
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ごめんなさい

2016年02月21日 | 明るい介護生活
母が亡くなってから いろいろなことを考えた

病状を見つけられなかった増田クリニック ただ寝かせて現状維持の友愛病院 姥捨て扱いの第2洪誠病院

いろんなところを恨んだり ああすれば良かった こうすれば良かったと考えたけど


でもでも今日気がついた

去年の8月 増田クリニックに連れて行った時 増田が「憩室炎」と言ったのは明らかな誤診で

でも「炎症があるから通った方がいいんだけどな」と言われたんだから 点滴に通えば良かったんだ


私は懸念していたんだから「肺炎」を診てくれと 点滴に通っていれば

おかあさんは体力があったんだから 1週間も通えば改善したかもしれない

首が座らなくなっていたお母さんを 車椅子に乗せ 介護タクシーを頼み

毎日点滴に通うのを躊躇したんだ 結構面倒だなーと・・・。


9月いっぱい 段々食欲がなくなっていき 体が動かなくなって・・・。

それでも元気だったよね 食べようとしたよね 明るかったよね

私が手を抜いたんだ。。。  ごめんね

3ヶ月も病院で寝たきりにさせたのは私なんだ  

辛い思いをさせちゃった  ごめんね

こんなに早く逝かなくて済んだのに まだまだ楽しく暮らせたのに ごめんね

誰のせいでもない 悔しいのは自分のせい 私が哀しくなるのは当然だよね ごめんね


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明るい介護生活はまだまだ続けさせて欲しかった

2016年02月07日 | 明るい介護生活
1月1日 早朝 母は年が明けると共に逝ってしまった。

まだ信じられない 受け入れられない 納得出来ない

3ヶ月も食べられず 話せられなくなり 動けなくなった母を見ていたのに



今 私はこのブログを読み返し 母は動けなくなるギリギリまで

家にいてくれたんだと自分を納得させようとしている


諸々の手続きで行った 各窓口で母の名前を書くたびに涙が止まらなくなり 

窓口の担当者に慰められ その優しさに感謝した


介護中も入院後も対応した病院、医者に憤りを覚える

彼らは患者自身を自分の眼で診ようとしない MRIやデータをPC画面で見るだけだ

母は12/9に友愛病院から紹介された第二洪誠病院へ転院した

この第二洪誠病院が酷い病院だった

そこに転院させ 一人で逝かせてしまった自分が許せない

もう取り返せない やり直せない悔恨 でも見過ごしにはできない事実がある

命を預かる病院が命を軽視し 相手が答えられないのを幸いに手を抜く 

貧すれば鈍する 見えることころだけ体裁を整え 中身はカラッポ 必死に金集め

あの軽井沢のバス事故を起こしたバス会社と同じ構造

高齢者を預かる病院や施設は大変だと思う 思いやりだとか献身を求めている訳じゃない

せめて大切な命を預かっているんだ 人生を背負った人を診ているんだという意識くらいは持っていて欲しい

もう何を言っても母は帰ってこないけど 私が許せない事実だけは認めさせてやる


公的機関に相談したが「病院に直接確認する方が良い」と言われ

病院長あてに質問状と言う形で1/28に手紙を送った

まだ返事が来ない このまま黙殺するつもりなのか? 

返事が来なければ しかるべき方法を取るつもりだ


母を見送った朝の景色
頭はカラッポのまま上る朝日を見つめていた












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……。

2016年02月07日 | 何となくひとり言
4時38分 眠れないから起きてしまった 

インスタントのカフェラッテを入れ 炬燵とストーブを付けた まだ温まらない

TVは消して 眠るつもりで本を読んでいた 面白い本でちゃんと中身は頭に入っていた

なのに頭の別な部分で母の面影を追っていた 涙が出た 鼻が詰まった 苦しくて起きてしまった

時々目じりに涙の痕があった 切ない気持ちでウェットティッシュで拭いていた

なぜ暖かいタオルで母の顔を拭いてあげなかったのか・・・。

髪がぐずぐずに絡まっていたね そっと濡らして指先で少しづつほぐした

なぜもっとしっかり世話してあげなかったのか・・・。


私が入院していた時 「ヨシコは?」って聞いてくれたんだってね ほとんど話せなくなっていたのに

退院して会いに行った時「元気になったよ」って言ったらニコ~っと笑ってくれたね 嬉しかったぁ

心配かけちゃったんだね でもとってもいい笑い顔を見せてくれたね あの顔を忘れないよ


お母さんはたった一言と笑顔だけでこんなに語ってくれるのに

私は何が出来たんだろう? ただ心配してそばにいただけ

もっともっと話しかければよかった もっともっとお母さんを見ていればよかった


私が最後に聞いたお母さんの言葉は「オバアサン カエル」

ミトンをはめた手を胸に当て「オバアサン」その腕をのばし「カエル」と訴えた

あれだけはっきり意思表示したのに 気持ちは分かってるのに そうしてあげられなかった 

ごめんね。

お母さんが病院にいた3ヶ月 出来るならやり直したい!

全てが動いたあの10/6に戻りたい!




なんで「もう嫌だ!」ってぐらいに世話させてくれなかったの?

あと5年はまだまだ平気で続けられたよ

なんでこの部屋にいないの?  なんでこんなに寂しくさせたの?

まだこの肩につかまって歩く感触が残ってるよ 

外に出ればお母さんの車イスを押して歩いた道ばかりだよ

部屋の片づけをすればお母さんの為に買ったものばかりが目に付く

お母さんの使っていたものなんて処分できないよ

オムツだってまだいっぱい残ってるよ

こんな気持ちになるなんて想像も出来なかった バカだね。



身内を亡くした人は辛かったんだろうな どうやって癒したのかな 

こんなことしてちゃいけない しっかりしなきゃ 

お母さん いろんなことを教えてくれたんだからね 大人にならなきゃ


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母の年金

2016年02月05日 | 何となくひとり言
母の諸々の事務手続きで最後になったのが未支給年金の申請 先週 弟と手続きに行った

そこで聞かされたのが 「年金記録に漏れがあり それが母の年金に該当するのではないか?」ということ

50年も前の昭和40年のたった4ヶ月分 ただ会社名が分からないと支給されないらしい

支給云々よりも 驚いたのは昭和40年という年のこと

その年は 父が「胃がん」と診断され 千葉医大で匙を投げられ

見つけてくれた病院で「たとえ10%でも助かる可能性があるなら切って下さい」と

夫婦で病院の床に頭をすりつけて頼んだと聞かされている

入院前に家族5人で浅草に食事に行った 両親にとっては最後の晩餐の覚悟だったのだろう

私が小6 弟が小1に入学の年 その下は4つか5つ

手術の日 私は学校を休み自宅で待機していたのを覚えている

手術を終え無事に退院はしたものの父は職を失い 貧乏のズンドコで子供3人抱えて

36歳の母はどんな気持ちだったのだろう

母の頑張りのお蔭で父は 手術をしてくれた先生より長生きし 私たちは健全に育った

両親の生きる姿と思いに感謝し 母の生きた証の一つとしてなんとしてもその事実をつかみたいと思った


今日は 以前 母の年金記録を見ながら母に確認して書きこんでいた資料を持って

再度 社会保険事務所に行ってきた


余談ですが、この年金記録もほとんど会社名が記入されておらず 

最初の厚生年金の資格を失った日付は 昭和20年3月10日

あの東京大空襲のあった翌日になっている これも戦争を生き抜いた母の生きた証だ


帰り道 いつもの橋の上で年配の方が集まっている
聞くと「ダイヤモンド富士」を見に来たらしい
残念ながら今日は雲が掛かり 日も沈んでしまって見ることは出来なかったが
記念に写真を撮った ↓


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