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国境の南/south of the border

ysaÿe design officeの いえ 音楽 旅

Space: Japanese Design Solutions

2006-10-19 08:29:49 | 書籍


Space : Japanese Design Solutions for Compact Living-US-
ISBN:0789310651 (Hard cover book)
Freeman, Michael /Nose, Michiko Rico (COL) /Publisher:Universe Pub Published 2004/08

出版はアメリカですが紹介されているのは日本の住宅です。
small houseやsmall officeはなにも日本だけの専売特許ではなく、世界的なデザインの潮流の一つといえます。
そのような中で、昔から狭小住宅をデザインしなければならなかった日本の建築家のレベルの高さが伺える本です。

単純化あるいは抽象化するというミニマリズムというデザイン思想は、もともと禅や茶室の空間を良しとする「和」的空間構成に結びやすかったのかもしれません。あるいは日本的デザインはミニマリズムというデザインの手法を手に入れることにより、デザインという国際マーケットに羽ばたいたのかもしれません。
日本という視点からミニマリズムを捉えるのではなく、ミニマリズムという視点から日本を捉えるとこうなるという恰好のデザイン指南書です。

たまには「外」から自分たちを眺めてみるのも興味深く面白いものです。


Tibetan Buddhist Altars

2006-10-18 08:09:46 | 書籍

洋書シリーズ第2弾です。
アマゾンから注文していた品が届きました。


Tibetan Buddhist Altars: A Pop-up Gallery Of Traditional Art & Wisdom
ハードカバー: 7ページ
出版社: New World Library; Pop-Up版 (2004/8/16)
言語 英語
ASIN: 1577314670


なんと携帯型(とび出す絵本式)チベット祭壇!
そこんじょそこらの「しかけ絵本」ではありません。チベット仏教の瞑想用祭壇なのです。
でもなんだか、たのしそう!

扉を開くと、こんなカンジ。
観音開きでいかにも仏壇です。

これがシャカムニブッダ。
英語表記ですが、マントラやどういった仏様かの説明もあります。

釈迦三尊(釈迦如来・舎利弗尊者・目連尊者)
Shakyamuni Buddha, the founder and exemplar of the Buddhist path
観音様
Padmapani Avalokiteshvara to inspire compassion
緑ターラ尊
Green Tara to encourage longevity and protect from fear
文殊菩薩
Bodhisattva Manjushri to inspire knowledge and wisdom
薬師如来
Medicine Buddha to alleviate affliction and suffering.

ギャラリーやインテリアとしても使えるし、なによりもチベット仏教を身近に感じることができる。
チベットにはタンカという極彩色の仏画があり、このTibetan Buddhist Altarsもタンカ風のグラフィックがとても美しい。


Minimalism Designsource

2006-10-17 13:13:22 | 書籍

なかなか更新ができませんが、デザイン事務所設立は順調に進行しています。
ところで最近よく利用するのがアマゾンの洋書販売。
インテリアや建築などのデザイン・ソースは洋書の中に目を見張るものがあります。

Minimalism Designsource-US-
ISBN:0060747986 (Paper cover book)
Castillo, Encarna (EDT) /Publisher:Harper Design Intl Published 2004/10

Minimalism Designsourceはペーパーバックでありながら、ミニマルアートの簡単な紹介からはじまって、ミニマリズムの良質な建築やインテリアなどの図版を多数紹介しています。
本自体が小さいのが難点ですがその分価格も安いし、何よりこの情報量の多さに圧倒されます。
デザインにおいてミニマリズムという概念がどれだけ需要か、またはデザインを美しく統制するためのミニマリズムを知るための「美しい」書籍です。
シンプルなライン、簡略化された要素。いいデザインとはどんな意味でも整理されていることが重要なんです。
よーし、部屋の片付けすっぞー。


ダライ・ラマに恋して / たかの てるこ

2006-09-26 16:11:26 | 書籍



ダライ・ラマに恋して / たかの てるこ

単行本: 296ページ
出版社: 幻冬舎 (2004/09)
ASIN: 4344006755
サイズ (cm): 19 x 13

職場の事情や自分の事情であわただしく、ゆっくり本を読める状態ではありません。
それでも「旅」や「アジア」を少しでもいいから味わいたくて手に取った本がこれ。
あっという間に読んでしまったやんか!しかも、面白すぎる!

まず写真がいい。というより、写真に写っている人々の表情がいい。ラサ、ラダック、ダラムサラの人たちのニコニコとした笑顔。たかのてるこサンを旅先で包んでくれた人々の屈託のない笑顔。
そういえば以前こんな本を読んだよなあ、と思い出してみると・・・あれあれ!池澤夏樹と垂見健吾の「やさしいオキナワ」だった。オキナワの人も笑顔のオンパレードだった。
笑顔に包まれている本というのは、なんというか幸福だ。パラパラとページをめくるだけで幸せな気分になれる。
しかもこの本、チベット仏教の入門書にだってなれる。
中沢新一の「虹の階梯」や「バルド・トドゥル(死者の書)」をしかめっ面しながら読んだ自分が情けない。
仏教とは実践なり。自分ひとりの平和なんてあり得ない、「すべての人の幸せと平和を願えば、自分もその中に含まれる」からだ。
ということでお寺で祈る時は「家内安全」や「商売繁盛」なんて祈らない。すべての人の幸せと平和を、なのだ。
世はすべて「cause&effect(原因と結果)=因果応報」しかも悪いことをしたら罰が当たる、といった日本式ネガティブな教えではなく、いいことをしたら幸せになるというポジティブ・シンキング。
「死は終わりではない」といった輪廻の思想も面白い。たかのさんも触れているが、昔から日本では死んだらチャラになると思われているヘンな思想がある。
最近話題になった生命保険など命を担保にとった金融業に、「死刑にして」という殺人事件の被告。
何を考えとんのじゃ。「死んでお詫びを」なんてチベット仏教から見たら甘ったれだ。

このたかのてるこサンのように説教され続ける旅というもの一度はやってみたい旅。沖縄のおばぁから「~しなさい」と、この歳になって怒られるありがたみを実感してます。それが仏教哲学の実践ならば尚のこと。
とくに仏教の大リーグであるチベットに憧れる身としては、大変参考になりました。そうか、ラサのポタラ宮に行くよりもインド側からラダック、ダラムサラへ行った方がいいのね。中国側は難しそうだし・・・。
あっ!行く気になってる!?


デザインのデザイン

2006-05-18 10:57:08 | 書籍


デザインのデザイン
ISBN:4000240056
原研哉 岩波書店 2003/10出版
20cm 230p
[B6 判] NDC分類:757 販売価:1,995(税込) (本体価:1,900)

デザインは日常の未知化だ、というのである。
なるほど、そうだったのかと思う。

建築家がデザインした「ゴキブリホイホイ」
既存のアットホームなモニュメンタルな「ハウス」を否定して流動的な「チューブ」状のゴキブリホイホイである。
台所の日常レベルに建築家の洗練されたデザインが現れた瞬間である。

四角いトイレットペーパーは従来の丸型と比べて出しにくい、というより必要以上に配給されないので「省資源」の機能を生む。そしてかたちが四角だから、運搬やストックの省スペースに貢献する。
これはデザインの生活というポジションからみる文明批評であるとする。

右向きの飛行機と左向き飛行機のスタンプ。これはパスポートの出入国スタンプで、飛行機の向きで出国か入国かを表している。ちょっとオシャレで素敵。これは「陽性のびっくりマーク」である。「あ、日本ってちょっとやるな」というポジティブな認識を一日に五万個(入国者数)生産できる。
同じイメージ戦略をTVコマーシャルでやろうとしたら、いくらかかるかわからない。

傘立てをデザインせよ、といわれたら誰もが「円筒形」ののようなモノをイメージする。
しかしそういう発想をまず、排除しなければならない、とする。
家の外壁面から15cmくらい離れたところに巾8mm、深さ5mmの溝を彫る(コンクリートの床面に)。
この溝が傘立てであり、だれも傘立てとは気付かない。

「汚れやすいものを常に清潔に保つ」というコンセプトで(わざわざ)白い木綿で作った院内の表示サイン(看板)。
空間のやさしさと清潔さを利用者に伝えている。

などなど・・・。

本書はデザインについて書かれた本で、まことにすばらしい本です。
久しぶりに良書に出会えたなあ、という感じ。
日ごろの鬱憤が解消され、デザインの道程を考える上でとても参考になりました。

欲張るのはみっともない
身の回りのデザインには余分なものが多すぎる・・・変なところで頑張りすぎているのは逆にみっともないと思う
建築という名目で立派すぎる造形を世界に示すことを「恥ずかしい」と感じ・・・。
さりげなく伝わるデザイン

まだまだ紹介したいエピソードはたくさんありますが、最後に一つだけ。

成熟した文化のたたずまいを再創造する。
「町おこし」なんかしないし「情報発信」などもしない。
静けさと成熟に本気で向き合い(略)ひっそりと置いておけばいい。
優れたものは必ず発見される。
「たたずまい」とはそのような力であり、それがコミュニケーションの大きな資源となるはずである。

今回はあまりにすばらしい本だったので、引用だらけになってしまいました(笑)。
もっと日常生活の中に「美意識」を!


すばらしい新世界/池澤夏樹 を読む(2)

2006-05-01 18:09:39 | 書籍

すばらしい新世界・池澤夏樹【著】
中公文庫

 物語の構造は、大雑把に言うとベルドルッチが監督した映画「リトル・ブッダ」によく似ている。
 先進国(を自称している国!)の現代的な夫婦と小さな男の子。奥さんはチベット仏教に造詣があるか、理解がある。その代わり、旦那のほうは現実的で宗教のことなどあまり良くわからない。
 ひょんなことから、旦那と男の子はチベットへ旅することとなる。ひとつは運命の力。もうひとつは風車を作るという現実的な話。
 映画「リトル・ブッダ」では旦那さんは建築士。「すばらしい新世界」の林太郎は風力発電の技術者である。両者ともある意味、現代技術の中で生きている人間。それがダラムサラやカトマンドゥでチベット仏教に触れ、意識というか心が変わっていくお話(「リトル・ブッダ」の真の主人公はあの男の子ではなく、絶対にお父さんのほうだと思う)。
 面白いのは、小説の中でアユミさんが「リトル・ブッダ」や「セブン・イヤーズ・イン・チベット」をプロパガンダといって切り捨てている点。まぁまぁアユミさん、商業映画なんですから。

 物語は冒険談というよりは、ヒマラヤの奥地を旅する過程で、現代における二項対立を浮かび上がらせていることではないでしょうか。
 理想と現実、企業とNGO、地球環境と人間、子供と教育、近代化とは・・・。
それら対立を対立要素としてではなく、チベット仏教を展開することによって、新たな方向性を見出すというもの。
 しかし、ことはそう簡単には運ばない。

 この小説の新聞連載中に「仏教徒」と称する集団が、地下鉄にサリンを撒いた。
 小説では(リアルタイムなので)著者の苦悩がアユミさんのメールに見て取れる。正直、どう理解して良いのかわからないほどの衝撃を著者は受けたのだろう。

 思うにこの麻原とかいう人は、本の背表紙しか見なかったのではないだろうか。それで仏教を理解した気になった。百歩譲って「理解」したとしても、仏教とは実践の哲学であるから、本を読んだくらいでは(いいとこ取りしたくらいでは)だめで、信仰の土俵にも上がっていなかったのではないかと思う。
 特に仏教は各人ごとに違う側面がある。真言密教の秘儀なる修行と、在家信者の信仰とはかなり違うものであるはずだし、宗教学者とチベットのおじさんでは理解の仕方がまるで違うはずである。だから、一口に救済といっても、戸籍の数くらいに千差万別のはずだ。
在家並の理解力と超常現象に対する憧れが、あの事件を引き起こした。
 仏教の深遠なパーステクティブを、安物の矢追純一風ミステリーに同化させてしまった。

 とりもなおさず、麻原は仏教をリスペクトしていたのだろうか、という疑問がわいてくる。
 教義うんぬんではない。それ以前の信仰に対する姿勢のことだ。
 あらゆる信仰には敬意を払うべきだ。

 林太郎は旅の途中、見捨てられた仏教壁画に出会う。最初は、宝の山だ、こんなすばらしいものを風化させてはいけないと思う。しかし・・・。
 博物館に収めてはいけない。・・・信仰と美を切り離してはいけない。と、思い直す。
 立派な芸術作品であるが、それよりも信仰の力でここに生まれたものなのだ。
 これは星野道夫が、クィーンシャーロット島で見たハイダ族の朽ち果てたトーテムポールに抱いた想いと同じものだ。
 「芸術作品」とか「市場価値」といったものは、あくまでわれわれの側の価値であって、仏教壁画やトーテムポールはそういった現代的価値基準の外にあるものだ。
 美術館に行った途端に、信仰の輝きを失い、過去のものになり、運が悪ければ値札まで貼られてしまう。
 それは悲劇だ。

 信仰の篤い国に行くと、後ろめたい気持ちになる。
 バリ島にいったとき、いいところを見せようとして現地のガイドさんに「マハーバーラタ」の話をふってみた。するとそのガイドさんは驚いた顔になって「なんでヒンズー教徒でもないのに、そんなものを読むのか」と変な顔をされた。あきらかに当惑していた。
 これは僕の最初で最後の大失敗。信仰を面白半分や興味本位で扱ってはいけない。
たとえ学術的価値があろうと、その他もっともらしい理由があろうと、その人の心とか信仰に興味本位で入ってはいけない。土足で立ち入るな、ということでしょう。


すばらしい新世界/池澤夏樹 を読む(1)

2006-04-29 15:10:48 | 書籍



すばらしい新世界・池澤夏樹【著】
中公文庫
ISBN:4122042704
723p 15cm(A6)
中央公論新社 (2003-10-25出版)
[文庫 判] NDC分類:913.6 販売価:1,100(税込) (本体価:1,048)

 じつはこの本を読んだのは、2000年のこと。
子供が生まれて、建築士の試験勉強をしていました。
このときは、今のような「沖縄好き」ではなく、ただの池澤夏樹の熱心な読者のひとりでした。
 ついでに言うと「沖縄好き」は、2002年に家族で沖縄旅行に行き、同じ年に久高島に生まれてはじめての「ひとり旅」をしたのがきっかけ。
 だから、この本を読んでいる当時は、僕にとって沖縄は日本の都市の一つにすぎなかった。だから、こうして改めて読み直してみると、沖縄が舞台の出発点になっているのがうれしいというか、新鮮。

 池澤夏樹は北海道出身でギリシアに住んでいた。当時は沖縄在住で、写真家の星野道夫と大の仲良し、ということぐらいしか、この作家に関する知識はありませんでした。
 同世代の作家がやもすれば、小説のための小説を書いている中で、彼だけは「外」に向って作品を発信していた。理系の洞察力と詩人の魂で創作された作品群は、僕の波長とぴったり合っていたのです。

 さて、今回からはこの「すばらしい新世界」をじっくり読んでいこうと思います。
理系のまなざしで世界をじっくり見ていこうとする著者の会心の作。
 沖縄という、日本を相対化することのできる視点を手に入れる前と後では、どんな風にこの作品に対する「受止め方」が違うのでしょうか。
 そう思いながら、ワクワクしながらページをめくることとします。


「台風を見に行こう」
 こんなことを突然言い出すお父さんは、すばらしい。というか、この気持ち、とてもよくわかる。
自然現象に対する好奇心は僕も同じ。
 去年は僕も、家族や甥や姪を連れて、ペルセウス流星群を見に行きました。
観光地と違って、自然現象は人間が自然の都合に合わせないといけない。どうも人間は、天体ショーも含めて、自分に合わせてくれていると思っているふしがある。けれど、そんなことは絶対にない。
 ペルセウス座流星群は、母彗星のスイフト・タットル彗星が軌道上に落としていった塵です。その塵の中に地球が年に一回通り過ぎる。そのときに大気圏で燃え尽きてしまう塵が、流星の正体です。
だから、流れ星といいながら、じつは大気中の話だったりする。電離層で発生するオーロラのほうが、よっぽど高度が高い。
 僕らは、理科年表で流星群の極大日を調べ、夏だというのに寒さ対策をして、空気が澄んでいて人口の光のないところを探して観測するのです。アウトドア用のテーブルを出して、コーヒーを沸かしながら星座の説明をする。それでも、雲が出ると一貫の終わり。家族のひんしゅくを買い、娘が風邪をひく。なんというか、お父さんは大変なのだ。

 話はそれたけど、本編の主人公である風力発電の技師である林太郎は、家族を連れて、台風を見に沖縄へ行くところから、この小説ははじまる。
 技師である林太郎と奥さんのアユミさんの掛け合いが面白い。夫婦である前に、エコロジストと現実派の掛け合いみたい。理想と現実の争いではなく、理想を実現するための(あるいは近づくための)現実の模索。どっちが正しい、なんて無意味な議論をしないのがいいところです。
 個人的には、アユミさんのいう「小さいサイズ」の発電ユニットが普及すればいいと思う。
たとえば原発を一基作るのと、それぞれの地方やそれこそ町内に「小さいサイズ」の発電ユニットを無数に作るのとでは、どちらがリスク回避ができるか。生産性やコストを一義的に考えるのではなく、リスクマネージメントで考える。普及すれば生産性やコストはあとから着いてくる。
 この後、なん世代にもわたって、半減期が何万年もあるような強い毒性のプルトニウムをコントロールしなければならないのだろうか、という憂鬱を持たなくていい。
 大きなものを一つドンと作るのではなく、小さなものでネットワークをつくるという発想がいい。
風力、太陽光、水素、潮力、バイオ・・・発電の素材はなんだってある。
 じつは浄化槽だってそう。道路工事をして公共下水を通し巨大な浄水場をつくるより、各家庭に小型合併処理浄化槽をつくったほうが安上がりになる。
 考えてみればインターネットも同じ。無数の個人用のパソコンが繋がっている。
 昔のアメリカ映画で、開発されたばかりのコンピューターが反乱を起こすというSF映画があった。名前は「コロッサス」。巨大なコンピューターだった。むかしのコンピュータに対するイメージというのは、こんなものだったのでしょう。暴君で融通がきかず、だれも暴走を止められない。
しかし現実はごらんのとおり、コンピューターは小型化の一途をたどり、それこそパーソナル単位で使われています。

 一極集中という発想(思想も含めて)は終わりにしたい。「これ」がだめだったらすべてが崩壊するようなシステムなんて、信じることはできませんよね。

つづく


アフターダークとナイト・オン・ザ・プラネットのあいだ=去年マリエンバードで

2006-01-21 12:04:10 | 書籍


アフターダーク / 村上 春樹
価格: ¥1,470 (税込)
単行本: 288 p ; サイズ(cm): 19 x 13
出版社: 講談社 ; ISBN: 4062125366 ; (2004/09/07)

 

読み終えたとき、トム・ウェイツの「オン・ジ・アザー・サイド・オブ・ザ・ワールド」が聴こえてきそうだった。そう、映画「ナイト・オン・ザ・プラネット」のラストシーンである。
なんだかいろんなことが起こった一夜だったけど、夜明けというものがこんなに希望に満ちているものかと思った。
ジム・ジャームッシュはジャームッシュらしく都市の孤独と再生を、ユーモアたっぷりに描いてみせた。
村上春樹は小説という技法を使って「言葉に拠らない」希望を表現してみせた。

この一夜は、個々の登場人物たちの人生にどんな影響を及ぼすのだろうか。人生が変わった人がいるかもしれない。あるいはただの通過点でしかない一夜だった、かもしれない。
作家はそこまでは明かさない。ただ、可能性があるのみだ。
高橋君は最後まで「ある愛の歌」がどんな映画か知らないままだったし、間抜けな売春組織は携帯電話に空虚なメッセージを送り続ける。結果はない。
一晩のうちにこれだけ誰かの人生にコミットするなんてないだろうけど、世の中はこんな「一夜」が存在する可能性を秘めている。だから「アフターダーク」の「一夜」は小説で表現するに値する「一夜」だった。

 

文体がどうのなんて、どうでもいい。それよりも、この第三者の「私たち」とは何を意味しているのだろうか。「研ぎすまされた純粋な視点」とは何を指しているのだろうか。
僕には、物語に介在することができない<うつろな人間たち>のような気がしてならない。そうだとしたら、読者にとっては残酷な話だ。むしろ作家は安易な現実的な解釈を拒絶しているのではないだろうか。

記憶は、アラン・レネの「去年マリエンバードで」のようにはかなく美しい。
そして、それを超越するかのような朝焼けはもっと美しい。

ナイト・オン・ザ・プラネット
監督ジム・ジャームッシュ
出演ウィノナ・ライダー, ロベルト・ベニーニ
リージョン 2 (日本国内向け)
ビクターエンタテインメント - ASIN: B00005GRI1

 

これは間違いなくオススメです。
ヴェンダースをとるかジャームッシュをとるかと聞かれれば、まちがいなく(当時は)ジャームッシュ派でした。
トム・ウェイツの唄がいいんだ、これが。


フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで

2006-01-20 08:48:12 | 書籍


フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで
サイモン シン (著)
価格: ¥2,415 (税込)
単行本: 397 p ; サイズ(cm): 19 x 13
出版社: 新潮社 ; ISBN: 4105393014 ; (2000/01)


3以上の自然数nに対してX^n+Y^n=Z^nを満たすような自然数X、Y、Zはない。
「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」。
というある意味、非常に意地悪な書置きを残した17世紀の数学者「ピエール・ド・フェルマー」
この一見ピュタゴラスの定理のような「単純」な定理がその後300年もの間、日本人を含む世界中の数学者を巻き込む「最大の謎」になろうとは!
という話ですが、とてつもなく面白い。数学が苦手な方でも、この困難と栄光の物語に感動を覚えることでしょう。

アンドリュー・ワイルズがどういうふうにこの「超難問」を証明できたかというと、誤解を恐れずに単純化すれば(できっこないのですが)・・・

ワイルズは「楕円方程式」の研究者になった。
「楕円方程式」は「モジュラー形式」に関係するという予想があった・・・「谷山=志村予想」
ゲルハルト・フライは「谷山=志村予想」を証明することは、フェルマーの最終定理の証明になると主張した。

(1)もしも谷山=志村予想が証明されれば、すべての楕円方程式はモジュラーでなければならない。
(2)もしもすべての楕円方程式がモジュラーなら、フライの楕円方程式は存在し得ない。
(3)フライの楕円方程式は存在しなければ、フェルマーの方程式は解をもたない。
(4)ゆえに、フェルマーの最終定理は成り立つ!

しかし、世界の数学者の絶対多数は「谷山=志村予想」は証明できないと考えていた。
アンドリュー・ワイルズはこの予想を証明できると考えた(無謀な)ひとりだった。


ワイルズはそのために、19世紀に決闘で命を落した仏のガロアの生み出した「ガロア群」を利用した。
そして(まだ新しい)「コリヴァギン=フラッハ法」を適用して、ついに「谷山=志村予想」を証明した。


「これで終わりにしたいと思います」といって世紀の証明「フェルマーの最終定理」を証明したワイルズであったが、数ヵ月後、欠陥が発見された。ワイルズのすごいところは(これまでも十分凄い)この欠陥の修正に不屈の闘志を見せたこと。
それだけでは不十分だった「岩澤理論」と、またそれだけでは不十分だった「コリヴァギン=フラッハ法」を相互に補完しあうことで完璧にしたワイルズは、真に「フェルマーの最終定理」を証明した。(ホント強引)

17世紀の天才数学者フェルマーのだした超難問を証明するには、文字通り古今東西の数学者たちの「先駆」があったからです。そしてそれを不断の努力で「優雅に」結びつけたのがアンドリュー・ワイルズだったのです。

「大事なのは、どれだけ考え抜けるかです。(略)長時間とてつもない集中力で問題に向わなければならない。(略)ただそれだけを考えるのです。それから集中を解く。すると、ふっとリラックスした瞬間が訪れます。そのとき潜在意識が働いて、新しい洞察が得られるのです」

これはもう仏教でいう「他力」のことですよね。
数学という縁遠い分野ですが、小川洋子さんの「博士の愛した数式」を読めばこの「数」という神に愛を感じるのも、あながち理解できないことではないと思います。
素人の我々には一見無益だと思えることでも、その舞台裏にはすばらしいドラマが隠されているという好例です。

 


海辺のカフカ(下) / 村上春樹

2006-01-16 09:48:43 | 書籍


価格: ¥780 (税込)
文庫: 528 p ; サイズ(cm): 15 x 11
出版社: 新潮社 ; ISBN: 4101001553 ; 下 巻 (2005/02/28)


前回の続きです。


「海辺のカフカ」はおよそ「村上春樹」らしくない作品だ。
まずこれは世の中の「少年」にむけて書かれた作品で、ときに勇気付けたりあるいは(あろうことか)示唆したりしている・・・、と僕は思うのだが。
それに、単純にわかり易い作品だとも言える。メタファーがメタファーとして理解されやすいような構造を持っているからである。「大島さん」や「カーネル・サンダース」が随所に説明をいちいちしてくれるから「理解」しやすくなっていると思う。
だいたい、チェーホフの「拳銃」におけるドラマツルギーなんて小説の種明かしみたいで、逆にほほえましい。
僕はこの「カーネル・サンダース」がいつか、背中から斧を取り出して「ホシノちゃん」をズタズタにするのではないかと思ってヒヤヒヤしながら読んだが、この作品に限っては、そうはならなかった。それほどの暗部は必要なかったようだ。
やはりこの「海辺のカフカ」は世の若年層に向けて書かれたのではあるまいか。

迷惑について考えなくていい(大島さん)
世界と世界とのあいだの相関関係(カーネル・サンダース)
柔軟な好奇心に満ちた、求心的かつ執拗な精神(店主)
でもそうしなくちゃいけない。それが君にとっての唯一の救いになる(カラスと呼ばれる少年)

僕のようなオジさんで昔からの読者だとここまでくると、こそばゆい。
「ダンス・ダンス・ダンス」の「ユミヨシさん」や「笠原メイ」や「ノルウェーの森」の「緑」に励まされているのとは訳が違うような気がする(本質は同じなのだろうけれど)。いつも彼女たちは「早く帰ってきなさよ」みたいなことをいっているのに、大島さんや店主は大人の包容力というか、暖かく見守っているといった印象が強い。
村上春樹はおそらく「15歳(をメタファーとする、ある世代か集団)」へのメッセージとして、世界に対するコミットメントを長編では珍しく行なったのではないだろうか。
湾岸戦争、オウム、震災と作家(我々も含めて)を取巻く世界は激変した。これによって我々の心の中が変質したはずである。どういったものかわからないが、異形なものに変質したはずだ。
もしかしたら第1次大戦後、ドイツ人の心に巣食う病理に気がついたユングのように、作家はなにかを見抜いたのかもしれない。

過去の作品における「暴力」とは、いわれのない不条理な世界に属する「暴力」だった。「やみくろ」や「組織」や「ドルフィン・ホテル」はむしろ自己の暗闇が顕示したものだった。
しかし「海辺のカフカ」においては「暴力」の出所を明らかしているのである。
それは「想像力の欠如」から来るもの、である。


もちろん「海辺のカフカ」は立派な小説作品でこのような読み方は邪道だと思う。むしろ「海辺のカフカ」に限らず村上さんの作品はいつもジャーナリスティックにならないように構成され、存分な物語世界を構築しているところが好きなのだ。像が失踪したり、パン屋を襲撃したりという、ジャーナリズムの手法を逆手にとって「物語」が出来ている。こんな素敵な物語作家はそうそういるものじゃない。


だから今回のような読み方は例外中の例外。
ガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読むように次回はもっと物語りに浸りたい。