国境の南/south of the border

ysaÿe design officeの いえ 音楽 旅

マタイ受難曲 BWV244 / バッハ

2005-12-26 16:23:05 | ワールドミュージック


マタイ受難曲 BWV244 / バッハ
価格:¥7,264 (税込)
作曲:バッハ
指揮:小澤征爾
演奏:サイトウ・キネン・オーケストラ
ユニバーサルミュージック/PHCP-11110/2

クリスマスというわけではありませんが、ついに買ってしまいました。
小澤征爾とサイトウ・キネンによる「マタイ受難曲」。
すばらしい!鳥肌が立つ!なんだか・・・ぼわーっとなる。聞き惚れる。
音楽を聴くという行為が、ここまで崇高で気持ちのいいものだとは気がつきませんでした。
「マタイ受難曲」はバッハの代表曲であるばかりか、西洋音楽の最高峰。3時間以上の大作です。
以前はリフキンの「マタイ」を聴きいていたのですが、こちらは学者さんの解釈によるもので、渋く味わい深いものでした。
しかし、この小澤=サイトウキネン盤はいい意味で現代的。そして小澤らしく緻密で精巧で力強い。
みぞおちワクワク、あたまクラクラ(古い!)
コラールという合唱部分があるのですが、これがいい。空間が清らかさに満たされていくような。
そしてこのオケはやはり、弦が魅力。決して厭きさせることなくグイグイ引っ張っていってくれます。
スピーカーの音量を上げて3時間通して聴きたいのですが、それはやはり無理。
地道に少しずつ聴いています。

現地松本市でのコンサートもNHKの放送も観ていないので、本番を体験できた方はうらやましい。至高の芸術に生で触れたのだから。
お金と暇があったら、小澤征爾の追っかけをしたいくらい。


ディベートって?(2)

2005-12-25 16:15:54 | 社会科

「ディベートって?」の記事を書き終えたところでアイディアがひらめいた。
ディベートに『真偽の検証』ができないのであれば、そもそも何のための「ディベート」なのか?
そう、論者の優劣を決めるためのものである。・・・初期の目的
しかも対象とされている議題の「真偽」は不可知なのだから、議論から外すべきだ。
初期の目的を達成するために、論者には必要最低限の要素のみを、均等に与える。

そう、賛成か反対かではなくて、両者とも「賛成」かあるいは「反対」の立場で論議してもらう。
第三者は「どちらの説明がうまかったか」だけを判断すればよろしい。
論議の「真偽」などを絡めるから、争点がぼやけてしまうし、ディベートにいらぬ特権まで与えてしまう。

これは比較実験の基本的なことです。
すなわち、比較されるAとBは、与えられた条件が同じでなくてはならない。
この条件が満たされない限り、実験結果は無意味ということです。

よろしい?


ディベートって?

2005-12-25 13:30:35 | 社会科

相手から「言い負かされる」という言葉がある。
相手のほうが言葉数が多くて比喩が的確だった場合、自分の持論をすごすごと引っ込めてしまう。
かくいう僕もそんなにボキャブラリーが豊富なわけではないので、今までの人生の中で「すごすごと引っ込めて」きた回数は多い。
でも、数時間後とか家に帰った後とかに、はたと気がつくことも多い。
あの時「ああいえば良かったんだ」とか「良く考えたら相手が間違ってるじゃん」とか・・・。
でもまあ、目の前の敵はすでにいないので後の祭りなのだが・・・。

NHKの番組で若者たちが言い争っている光景を観たことがある。
これがディベートというヤツか、と思った。
感想は「若いなあ」のひとこと。
別に僕が年をとったという意味ではないが、今はこんなことをするエネルギーなんてない。
こんな「熱い」ことは若いうちじゃないととてもじゃないが、できない。
この時ぼんやりと「そうか、ディベートで訓練すると『言い負かされる』なんてことがないのか」とも思った。

ディベートというのは「ある特定のテーマの是非について、2グループの話し手が、賛成・反対の立場に別れて、第三者を説得する形で議論を行うこと」らしい。
賛成側・反対側の割り振りはランダムで決められ、ルールにのっとって発言し、第三者が審判(ジャッジ)を下す。
だから「きちんと理由・筋道をつけて自分たちの主張を正確に相手に伝え、納得してもらうこと」が重要。
いいたいことはわかるし、相手に納得してもらうことはとても大切なことだとおもう。
・・・でも、なにか引っかかる。(「」内は全国教室ディベート連盟のHPから引用)

僕は、論理的整合性があればディベートなんかしなくても支持する。
というと身も蓋もない言い方であるが、正直なところである。
たとえば、うまい比喩が見つからずに第三者に対して真意が伝わらなかったとするどうだろう。
資料の提出が遅れたばかりに「白」が「黒」と判断されてしまったら・・・。
そうなればディベートでの「勝敗」はつくが「白」が「黒」になるということでは、もちろんない。
こんな勝敗に意味があるのだろうか。

問題点は山ほどある。
たとえ相手が正しいと思っても、自分を修正することができない。
賛成側・反対側の折り合いをつけること(たとえば折衷案)ができない。


自分たちに不利な情報は矮小化し、有利な情報は誇張して宣伝するような 態度を身につけてしまう。
物事には肯定か否定かのどちらかの立場しかないかのような印象を与える。
<ディベートは命題検証のための建設的な議論の方法になり得るか?>より

そう、ディベートには『真偽の検証』ができないのである。
これは科学的な思考ではないし論理的な思考でもない。
せいぜいアメリカ人を言い負かしてやろうという場面には重宝するかもしれないが、実社会の仕事の商談や実生活では絶対に使えない。持論をぶって喧嘩するのがおちだ。
世界は『肯定か否定かのどちらかの立場しかない』わけがないのである。
インターネットの掲示板やテレビの討論番組(深夜にありましたよねぇ)なんかを観ていると感じる、あの居心地の悪さはここである。
たとえば今の総理大臣の政策のオプションの少なさはどうだろう。まるでAかBのどちらかしか選択肢がないような言い方は「ディベート」そのものではないか。

といったところで検索してみると、最近はディベートは教育機関などでも取り入れられているそうだ。
いったい何を考えているのだろうか?
そもそも今の日本人にとって「理科系ばなれ」が深刻な問題だったはずではないか。
論理的思考の欠如が大問題だったはずなのに、それが、論理的科学的思考を阻害する「強者の倫理(と、いってもいいよね)」を教えるとは。
それよりも「ディベートに勝ったってなんにもならない」という社会をつくったほうがいいのではないか。

いやいや、結論が間違っていますね。このままでは「ディベートの勝者」=「偽」と思われてしまう。
正しくは「ディベートの勝敗」と「命題としての真偽」には関連性が認められない、ということが結論。

こうやって普通は「修正」していくものですよね。


由布山、おお寒っ!

2005-12-24 11:11:01 | 日記

雪をかぶった由布岳。
NHKの「風のハルカ」のオープニングでは緑につつまれている由布ですが、我が家から見える由布は最近ではずっと白い雪に包まれています。
九州の人間は雪には慣れていないので、先日のように大雪(我々にとっては)が降るともうパニック。会社へ着くのに1時間もオーバーしました。
つくづく、北国や日本海側の方はたいへんだなあ、と思います。

そういえば沖縄は久高島のおばぁ。「沖縄だって10℃くらいになるときがある」と、なかば得意げに話していました。ある意味、うらやましいです。

うちなんか、気温がマイナスになったんだぞぉ(えっへん)。

音楽がもう一度、好きになるクリスマス

2005-12-18 11:02:55 | リゾート音楽

こうみえても、クリスマスはけっこう好きです(笑)。
毎年この時期になると、山下達郎とかマライヤ・キャリーのクリスマスソングを聴いてしまう。
年末だなぁとか、年賀状書かなきゃとか、やはり人並みに(?)感慨深くなってしまうものなのです。行事ごとって楽しみ。
で、今年は下の2枚のアルバムを手に入れたので、クリスマスはカフェ気分に浸ってみましょう。なんてったってクリスマスなんですから。

カフェ・アプレミディ・クリスマス
東芝EMI/TOCP-67797

意外や意外。サバービアの橋本徹によるカフェ・アプレミディ・シリーズでは初めてのクリスマス・コンプレーションアルバム。
ポール・マッカートニーの『ワンダフル・クリスマス・タイム』は定番中の定番。ほかにもダニー・ハサウェイやチェット・ベイカー、ローラ・ニーロなんてでてくる、いかにもサバービア的カフェミュージック。
クレプスキュールやエルという知る人ぞ知るレーベルからも選曲されているのは、カフェ・アプレミディの魅力そのもの。
この人の選曲は「音楽がもう一度、好きになる」という不思議な魅力があります。曲は古いし聴いたことある曲もあるのだけれど、なぜかワクワクしてくる。


フリー・ソウル : ジャクソン・ファイヴ
ポリドール / POCT-1612

クリスマスアルバムではないけれど、ジャクソン・ファイヴもこの時期はずせない。
「クリスマス・ウォント・ビー・ザ・セイム・ディス・イヤー」は、前振りでなんとなく笑ってしまう素敵なクリスマスソング。つづく「ウィー・ウイッシュ・ユー・ア・メリー・クリスマス」で、もう最高潮。
あとはこのモータウンのりで突っ走れってカンジです。

残念なのは上の2枚には「ママがサンタにキスをした」が入ってないこと。
マイケル・ジャクソンのいちばん輝いているエンターテイメントをこの曲で聴きたかった。

さて、正月になったら東儀秀樹の越天楽でも聴くかな。ヒャラリ~ン。


里芋、大根、ゆずでどうだ!

2005-12-16 10:39:49 | レシピ

昨日はヨメさんも子供もいなかったので、男の料理に挑戦しました。
といっても、ハードな料理ではなく、冬らしいあったかな煮物。
材料はすべて、近所の農家で採れた根野菜。
冬の根野菜は体を温める効果があるそうです。

1.まず、里芋の皮を剥き塩で「ぬめり」を取る。

2.大根は厚めに切り、角を取って、十字の隠し包丁を入れる。
3.鍋に水と一握りの米をいれ、大根と里芋を下茹でする。これでアクをとり、やわらかくなる。
爪楊枝でさしてやわらかくなったらOK。

4.今日は「ゆず」で煮ます。柑橘系の香りでさっぱりした味に。皮を包丁で削ぎ、千切りに。
5.取り出した大根と里芋と、水4カップとほんだし(適量)、砂糖大さじ2杯を鍋にいれ煮ます。

6.煮立ったら、薄口しょうゆ・・大さじ2杯、みりん・・大さじ2杯、酒・・大さじ1杯をいれて、落し蓋をします。ゆずの皮と搾り汁も入れます。

7.茹で汁が少しになったら完成。煮っ転がしのように煮すぎるのは好きではないので、汁をかけて盛り付けます。
コツは、ほんだしはケチらずに多く入れる(と、グッチ裕三さんが言ってました)。ゆずは入れすぎないように、上品に味付けをする。

煮物が好きでない子供も、ゆずの香りなので大丈夫。ふーふーしながら、残さず全部食べました。
残ったゆずの皮をお風呂に入れて、ゆず風呂に。
さて、こんな時のBGMは、って・・・なにも聴いてなかったよ。
来週は「ロール・キャベツ」の予定です。
すでに、なんのブログなのかわからなくなってきています(笑)。いやいや。


声にだして読みたい日本国憲法

2005-12-11 11:18:40 | 社会科

おそらく、ほんとうに恐怖したのだと思う。
太平洋戦争の日本人の推定死亡者数は310万人(別の資料では約260万人)。
阪神・淡路大震災ではおよそ6400人の犠牲者がでたから、その400倍以上の数である。
400回、阪神・淡路大震災が起きたのだ。
これほどの人が亡くなるというのは、一体どういうことだろうか。

あらためて日本国憲法を読みました。
すばらしい文章です。
これほどまでに、格調高く崇高で目的が明確な文章を見たことがない。
前文なんて声に出して読みたいくらいです。

われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

ね、すごいでしょう。こんな美文があったなんて驚きです。
昨今の論調によくある「国の誇りがない」なんてとんでもない。少なくとも現憲法は、誇りと威厳に満ちています。
しかし文章の向こう側には常に、暴力に対する恐怖があり、60年前のあの戦争が現在の憲法をつくったのです。
二度とあのような経験は嫌なのだ、という動機が現在の日本国憲法を貫いています。

戦争は国家による暴力である。
だから国家に暴力を起こさせないような装置をつくらなければならなかった。
その装置こそ日本国憲法なのです。
そう、憲法とはそもそも「民」が発した「政府」への命令なのです。
「政府」は憲法を守らなければならない義務を負っているのです。

第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

この憲法は絶対的に「わたしたち」の側から「政府」へ発せられた命令であって、その逆ではない。
そこが憲法と民法や刑法との違いなのでしょう。
日本国憲法は「民主主義」を高らかに宣言した「あなた」や「わたし」のためにある法です。
この国の指導者は改憲を論じるのなら、少なくともこの憲法よりも高らかに民主主義を謳うものでなければならないはずです。
アメリカが作ったとか現実に沿わないというのは、この民主主義の理念を無化しようとしているのでしょうか。
それとも、わざわざ自分に与えられた「主権在民」という権利を放棄して「民」よりも「国家」が上の社会をつくりたいという「市民」がいるのでしょうか。

やさしいことばで日本国憲法―新訳条文+英文憲法+憲法全文
C.Douglas Lummis (翻訳), 池田 香代子, C.ダグラス ラミス
出版社: マガジンハウス ; ISBN: 4838714173

僕は子供のためにこの本を買いました。
まだむずかしくてわからないかもしれませんが、60年間、この国はたしかにこの理想を掲げて生きてきた。
そのことを知ってほしかったのです。
もしかしたら数年後、このすばらしい憲法はないかもしれません。
あれだけの悲劇を糧として生まれた憲法は、大した必然性もなく改訂されているかもしれません。
自分の子供に対して、平和な未来を残してやれないかもしれません。
それは国民としての責務の前に、親としての責務を果たせないということです。


このことを / 内藤 礼

2005-12-10 12:00:17 | 絵画
このことを / 内藤 礼

先日、瀬戸内海の離島、直島にある「ベネッセアートサイト直島」から注文していた本がやっと届いた。
アーティスト内藤礼さんの直島での作品集「このことを」である。
内藤礼さんの作品は、絵画いわゆるタブローではなく、立体というよりも空間作品である。
繊細でか弱くて、泣きそうになるくらい儚い。ものによっては、物凄く小さい。
西洋絵画の彫刻的な筋肉やボリュームを習わされてきた自分にとっては、対極にある作品だった。

「このことを」はこの直島でアートプロジェクトとして、築200年の古民家を芸術作品に仕立て上げた作品である。
民家の中に入ると、外からの光は制限され、自然光がまるでなにかの装置のように差し込む。
ガラスや糸やプラスティックでできた小さなオブジェに、魔法のように繊細な光があたり、浮かび上がる。
土の上に置かれたナイロンの輪は、そのまま宇宙の異空間に誘う。
我々鑑賞者は、その微小なオブジェを見れば見るほど、その「大きさに」圧倒され吸い込まれそうになる。いつしか我々の「見る」という行為は反転され、「小ささ」「儚さ」といったものが実は相対的なものでしかないことに気づく。あとにはただ、絶対的な美があるだけだ。

内藤さんの過去の作品「地上にひとつの場所を」はすばらしいタイトルだ。
内藤さんは作品を作り上げたのではない、と思う。
「小ささ」や「儚さ」は、もともと空間に備わっていた属性のようなもので、内藤さんはそれを愚鈍な我々が見えるように、そっと取り出しただけではないだろうか。
もともと、空間には我々の眼に見えない何かがあった。
それはセンダックの「かいじゅうたち」であったり水木しげるの「妖怪」だったりした。
宮澤賢治の童話に現れる、狼や森や座敷童子。

私たちの社会は「大きさ」や「強さを」価値基準として成り立っている。
そのベクトルが単一方向しか向かなくなったとき、小さきもの、か弱きものは隅に追いやられ、排除されてしまう。
だから「地上にひとつの場所を」なのだ。
マイノリティを擁護せよと言っているのではない。
世界はもともと、対称性でできているのだ。どちらかが一方的に勝ってはいけないし、あろうことか、略奪してもいけない。
我々の存在する意味を「このことを」で考えてみた。
内藤さんのおかげで、この世に出現することができた「か弱き者たち」を礼賛しましょう。

つき・そら

2005-12-02 10:37:22 | 日記


わが家から見える朝焼けと月。
田舎に住んでいると、こういうのが毎日見れて楽しくなる。

路地売りの野菜は、今は冬野菜が旬。
大根一本、50円。里芋一袋、100円。
だし汁としょうゆとゆずで煮込みましょう。
寒い日は、根野菜の煮物がうまい。