石田地震科学研究所サロン

地震爆発説に関連する話題以外にも自由に語るサロンです

国家民族としても因果は不昧

2002年11月10日 | Weblog
国家民族としても因果は不昧 2002/11/10(Sun)

 仏教では考えられない独善的、自分勝手な教義の影響が、西洋社会の行動原理に知らないうちに潜入していることを述べました。それは念願の建国という戦利品を獲た最大の勝利民族の一部が信奉する教義の影響なのですが、良識あるユダヤ人、たとえばアンナ・ハーレントのような知識人にとっては、大変迷惑なものであったと思います。イスラム原理主義グループの行動が多くのイスラム教徒にとって迷惑なように、一部のグループの独善的な思想と行動とは言え、その責任を民族全体として取らされるからです。勝利のためには、その独善的な教義と共に、戦術的にも、二者択一を迫る性急さ、対立させ緊張させて漁夫の利を得るような秘密作戦などで、国家建設までを勝ち抜いてきたことが、「日本人に謝りたい」を読むと、推定できます。建国されたイスラエルという国家の態度を見ていると、継続勝利に向けて執念とも言える頑なさを感じます。
 対照的なのが仏教の教えを開い釈尊の態度です。釈迦国の王子であった釈尊は、釈迦国滅亡の危機にあたり、三度までは手を貸そうと動きましたが、釈迦族の犯してきた過去の罪業を見ると、釈迦国の解散も法に則ったもので、因果は不昧であると覚られたようです。民族も国家も常なるものではあ
りません、諸行は無常です。ムーの教え「聖なる霊感の書」を伝道した、ナガ族(ナーカル)はもうありません、マヤ族やインカの民もいまは、国家を持ってはいません。善因があれば、善果としての国家、民族の繁栄は持続するでしょうが、悪因があれば、悪果としての民族や国家の解散もこれは法則でしょう。それに逆らう動きをすれば、歴史の中で執着だらけの粘着型恥晒しグループになることは、個人としても国家、民族としても避けられない法則だと思います。仏教の教理は個人の生き方のみならず、国家民族にとっても、行動の規範を与えてくれるものだと思います。 

砂漠の中のオアシス

2002年11月09日 | Weblog
砂漠の中のオアシス 2002/11/09(Sat)

 さて、二つの世界大戦で一番大きな戦利品を獲たのはだれでしょうか、それが本当の勝ち組といって良いのではないでしょうか。アメリカでしょうか、イギリスでしょうか、アメリカが最強国といわれますから、アメリカという見方もあるでしょうが、一番大きな変化を遂げたのはユダヤ人たちでしょう。ゲットーに閉じ込められていた気の毒な生活から開放されて、今ではアメリカ政府の最強のブレーンといわれるようになって、世界中で大活躍しています。民族開放運動とはユダヤ民族にこそぴったりの言葉のように響きます。
 断っておきますが、ここでユダヤの陰謀論を言い出すつもりはありません。真相を見つめてみたいのです。二つの大戦で、国家も樹立でき、民族の解放も成し遂げたユダヤ人の知力はたいしたものだと評価します。
 ただその中に、また大きな紛争の種があって、今パレスチナで噴出しようとしています。それはユダヤ教徒の一部の人でしょうが信奉しているタルムードの思想が原因です。これはユダヤ人である、モルデカイ・モーゼ氏が教えてくれていることですが、「非ユダヤ人の財産は一時彼等に預けてあるものである。故に、何時でも代償なくして奪い返すも可なり」という仏教では考えられない独善的、自分勝手な教理です。パレスチナの地を代償無く奪い返すも可、という発想が、西洋人の発想に根を張ってしまい、アフリカの土地を切り分けて、分捕っても可、もともと俺たちのものだから、資本家の財産を取り上げても可、一時的に預けてあるものだから、という発想が生まれてしまうのです。いつかテレビを見ていたら、ウォール街のデリバティブを扱う証券マンが「その行為は相手を不幸にしませんか?」という質問に「俺たちに道徳を押し付けてくれるなよ!」と平然と語っているのにびっくりしました。彼がユダヤ人かどうかは知りません、ましてやタルムードの信奉者だとは思いませんが、知らないうちに、最大の勝者の発想が当たり前になってしまうのです。これも洗脳効果でしょう、周囲の強者がその発想で成果・実績をあげていくのですから・・・。
 重ねてくりかえしますが、全てのユダヤ人がこの発想をしているとは思いません。ユダヤ人であるアインシュタインは日本を訪れたときに「日本という国を地上に残しておいてくれたことを神に感謝する」と述べたということです。仏教の真髄が根ずく東洋の島国が、アインシュタインには砂漠の中のオアシスのように感じられたのではないでしょうか。仏教は幸福論です、相手の幸福を願っているのです。