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トランスフォーマー小劇場

*Webにおけるパーソナリティについて考えた

2008年12月23日 | 覚え書き
テレビ東京で『BLEACH』の劇場版第二弾が放映されることを、今日の午前中までは覚えていたのですが、午後になってPC内の掃除(Web上のデータ管理も含む)などをやっているうち、ついうっかりAmazonの本家やイギリス版に引き寄せられ、トランスフォーマー関連のレビューを読み始める……などという現実逃避を始めてしまい、けっきょく忘れてしまいました。

……などという情報には、果たしてどれほどの有益性があるのでしょうか。

こういうつぶやきは今やTwitterの領分ですね。「Twitter名言集」というものがちらほら見られるようになり、それなりに面白いのですけれども、じゃあすべてのポストがこのクオリティなのかといえば、もちろんそうではありません。これら「名言レベル」をフォローする労力はどんなものかということに思いを馳せると、けっこう頭の痛い問題ではないかと思います。僕自身もアカウントを取得していますが、いざ何かをつぶやこうと思っても、けっきょく何も思いつきません。うまいこと言おうと気負いすぎて。

インターネットばっかりやってると馬鹿になる、などと言われますけれども、少なくとも、時間を浪費しやすいメディアであるとは思います(これを読んでいるあなたも……)。Webに一日あたり投じられる情報は、もうすでに人間が一生分で処理できる量を越えている(ちょっとうろ覚えなので、正確な量はわかりませんが)という話もありますので、情報の取捨選択はとても大事です。つまり「見切り力」ですね。うーん。久しぶりに自己啓発的なことを言った気がします。(で、見切られるのはどこのgooブログですか?

「『BLEACH』が見られなかったよー」と冒頭に書いたのは、エントリの枕だからいいとして(いいのか?)、個人的かつ一時的な感情を脊髄反射的に吐露する、というのは果たしてどうなのかなー、などと考え込んでしまう僕はやはりデジタルネイティブではないのでしょう。

しかしそれはともかく、Web上の情報流通の阻害とか情報価値のフラット化(あるいは価値の棄損?)とか、そういうリソース論的な側面を考慮せず、単純に「Webへの投稿という行為」そのものを評価するとすれば、Twitterへのつぶやきも、「投稿者の人格を形成(規定)する重要な要素」とみなすことができるでしょう。ブログなんかも同様。誰かが自分について語れば語るほど、その人のWeb上での存在感が強まってくるということです(ただし、故意に情報をゆがめることもできるのですが)。

つまり僕というオンライン上の人格は、「ことあるごとにトランスフォーマーのことばかり口にする馬鹿」とか、そういうふうにみなされるわけ(ちなみに実際にはそんなトランスフォーマートランスフォーマー言ってないです)。それが嫌だという人は発言に気をつけましょう。空間はつぶやきを消し去りますが、Web空間はつぶやきを記憶します。

僕はもう遅いです。そもそも僕自身としては、今キーボードを叩いている人間に近似した「islecape」という人格を、生涯かけて演じきってみようか、というふうにも考えているのです。とすると、Webの「僕」と現実の「僕」との関係性を、どういうふうにとらえるべきなのでしょうか?

……なんてことを考える時点で、やはり僕はデジタルネ(以下略)ではないですね。もっと若い世代なら、それは不可分のような気がします。

ただ、なにかしらの表現をしたことが、人から反感を買うこともある(そして、その何気ない一言が永久に保存される可能性もある)ということを考えると、いざというときにWeb人格をパージできるようにするというリスクマネジメントも必要になるかもしれません。ただ、それはWebでの無責任な言論を助長するかもしれないし……。

つまりこれは、Webがメディアであり、かつ現実の延長であることの難しさです。どちらに大きく振れるか(振れないか)で、対応が変わってきます。月並みな言いかたをすれば、考え続けていかねばならない問題、ということでしょうか。

話がどんどんずれてつまんないことを書きすぎたようですな。

えー、僕は『BLEACH』と『アイシールド21』のカラー画集を持っています。どちらも連載初期からの「絵柄の変遷」を追いかけることができて、大変興味深いですよ。

と、無理やり絵の話をして今日はここまで。

じゃまた。

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