飼い猫の遠吠え

とにかく気持ちは前向きに寝る間を惜しんでほふく前進・・・

2011年3月11日(金)

2013-03-11 23:57:19 | 日常のたしなみ

2011年3月11日(金)

東京勤務の自分ですが、その日は、出張で朝から宮城県におりました。
新幹線で行けば、当日午前中から作業を開始出来て、日帰りも可能という有り難さ。昔の出張という響きに対しては、少々味気ない気もしますが、明日は土曜日ですので、こういった改善は有り難い所でもあります。

朝からサーバルームでの納入作業があらかた終わり、そろそろユーザー様に確認を頂こうかと思った頃、その時はやって来ました。

始めは、小さく小刻みに揺れたかと思うと、後は、昔に地震体験コーナーで体験したかのような、立っていられないような揺れが襲いました。ラックは固定しているにも拘らず、倒れんばかりに大きく揺れています。そういった不測の事態に慣れていなかった自分ともう一人は、身の安全よりも、とにかく納入したものが壊れては困ると、サーバルーム内のラックやPCが落ちないようにと必死で押さえ続けていたのでした。今思えば、馬鹿なことをしていたなぁと反省しきりです。

そんな状態が数分続き、ようやく地震がおさまってきました。
普段の地震であれば、「いやぁ凄かったねぇ」「今の震度幾つくらいだ」という雑談が漏れる状況ですが、辺りは、揺れの余韻で建物やガラスが発するキシキシという音が響き、人の声は全く聞こえません。揺れている途中から電気も止まったようで、明かりも機械も消えていました。
恐る恐るという感じで、人の動く気配がするのですが、暫く経つとまた揺れるという状態が続きます。

会社の人の先導により、とにかく外に避難することとなりました。
流石工場ということもあって、人数確認や状況確認は非常に迅速に行なわれ、こちらの作業員に関しては、全員の無事が確認され、一安心。
ただ、外に出ても大きな揺れは続き、避難した駐車場が波打つようにうねるのを不安そうに見ておりました。駐車場の車が踊っているかのように上下左右に揺れ、その位置が変わってしまう程の余震。そこにいるだけで気持ち悪くなるほどの揺れが続き、体力が削られていくかのようでした。そして、追い打ちをかけるように、外は雪がちらついてきました。

何が起こったのか調べようにも、電気が無いため情報が取れない状況で、当然ながら電話は混線中。ラジオなどの情報からこの辺りに大地震が起きたことが分かり、津波が来ているとの情報も入ります。この場所は、山沿いのため、津波の心配は無いものの、海沿いから来ている方もいらっしゃるようで、情報を聞いた段階で、すでに津波の時間を過ぎていたようで心配な状況です。


15時30分ごろ。ある程度の沈静化を見た所で、工場から解散となりました。
とはいえ、元々日帰りで来ていた自分達は、泊まる場所もありません。
会社の方からは、色々と心遣いを頂きましたが、皆さんの方が大変なことは分かっておりましたので、徒歩圏内で何とか行けそうなホテルを紹介してもらい、歩いて行くことにしました。
ただ、この時は、情報も断片的であったため、このような状況になっている事を知らず、地震に強い日本のインフラを信じていたこともあって、余り深刻に考えてはおりませんでした。

「ここらのホテルがダメなら、仙台辺りまでどうにかして行けば、ホテルも多いから大丈夫じゃないの?」

と話しつつ、まずは駅まで歩いていきました。
そこで、まず目に留まったのは、線路の電柱が線路の内側にこんにちは状態となっていたことでした。これを見て、ようやく今回の地震が今までとは違うことと、電車では帰れないということを理解。そして、お洒落だった駅舎は、どこかの暴徒にやられたかのように、ガラスは殆ど割れて、立ち入りすら出来ない状態となっており、これは、予想以上の事態なのでは? とようやく感じ始めたのでした。

電気が使えないということ。
電気が点かない、自販機が使えない、自動ドアが開かない、エレベータが使えない、当然その程度は分かっていましたが、信号機が点かない、レジが打てない、トイレも流せない、水すら出ない、何もかも自動化したために、何も出来なくなるという状況に陥っていました。
ただ、信号機が無い事に関しては、それ程問題になることも無いようで、アイコンタクトと身振りであれだけスムーズに行くのだと、ちょっと関心。
途中で立ち寄ったコンビニは、いつも見る煌々と明かりが点いた整然とした状況は無く、瓶のお酒が飛び散り、閉店しているかのような真っ暗な店内。発生から1時間程経過した後でしたが、防災用品や食料、水などは全てなくなっており、食料になりそうなのは、お菓子程度。何も無いよりましということで、お菓子と水になりそうなものとしてビール(?)を買っておきます。同じように食料などを求める人が集まっていましたが、レジが使えないため、長い行列が出来ていました。

「もう、お釣りが無くなってしまいますので、お会計が出来なくなりそうです」

というお店側の声があり、「お釣りはいらない」「その分だけ買う」という客とのやり取りが印象的でした。

何とかホテルに着くと、ロビーには多くの人がいらっしゃいました。
受付の方の話を聞くと、「室内も大変な状態でお客様をお泊めできる状況に無い」ということでしたが、なんとか片付けをして泊まれるようにして下さるとのことで、本日の宿は確保できそうな模様。ただ、今も余震が続いているため、安全が確保できるまでは、ロビーで待機して欲しいとのことでした。
避難のことも考え、入口の自動ドアは開け放たれ、次第に寒く暗くなるロビーにラジオの声だけが響きます。大津波で大勢の方が亡くなったこと、仙台は火の海になっていること、東京などでも帰宅できない状況になっていること(最初、東京の方も帰れないという連絡があり、何を言ってるんだろうと思っていましたが、東京は東京で会社から帰れなくなったりと大変だったようです)、ラジオの断片的な状況を聞きながら、とんでもない状況であることを聞かされます。家の方には、電話と携帯メールが使えなかったため、ショートメールで何とか連絡出来ましたが、日帰りのため、出張と伝えていなかったので、東京の会社から帰れないのは仕方ないと思っていたところに、まさか現地で巻き込まれているとは思ってもいなかったようでした。

ホテルの方には、携帯コンロで調理した夕食を振舞っていただいたり、突貫といいつつ非常に綺麗になった室内まで案内していただいたりと、非常に親切にしていただきました。部屋では、防災用のライトが1つだけ渡されましたが、早々に切れてしまい、真っ暗な状態に。外に出ると、見渡す限り電灯の無い真っ暗な中、皮肉にも星が綺麗に光っていました。外の駐車場では、この状況で電気が使えることもあり、多くの人が車中で暖と情報を取っていたようでした。

暖房が無いため、外套を着こんでベッドに入りました。
夜になっても余震は、引っ切り無しに続いています。
余震の揺れる音以外、何も聞こえてこない部屋。周囲が静か過ぎるためか、廊下で誰かが歩く音が聞こえてくる程でした。ただ、それがホテルのきしむ音であることを理解した所で、眠ることが出来なくなりましたが・・・。


何か大きな事があった訳ではありませんが、あの場にいた殆どの人が、このような経験をされたかと思います。いつ何時何が起こるか分かりませんので、自分で出来る支援というのを考えていきたいです。
また、あのお世話になったホテルには、行ってお礼を言いたいと思いつつ2年が経過してしまいました。相馬野馬追いの際に取ろうとした時も満室で機会を逃してしまいましたので、何とか行く機会を見つけたいと、この記事を書きながら思ったのでした。

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6 コメント

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Unknown (おおまえ)
2013-03-12 08:13:00
遠く離れた愛知でも私が生まれてから体験したことのない、長い揺れがありました。
震源地が東北と聞いて、一瞬理解できず、次の瞬間、連鎖的に近くで別の地震が起きたんだろう、と思いました。
津波被害が頭に浮かびますが、地震そのものの脅威も忘れてはいけませんね。
ニュースや被災者の方の話を伺うたび言葉を失います。できることを考えていきます。
二年越し (かいねこ)
2013-03-12 18:12:21
>おおまえさん

コメントありがとうございます。
実際、この時は、ニュースを聞いている状況ではなかったため、
自分の地域以外のことは、あまり覚えていませんが、大変広範囲に
なっていたのですね。そちらでもそんなに揺れていたのですね。

本当は、そのホテルにいった際に記事にする内容として考えていましたが、
一つの区切りとして掲載することにしました。
二年前ですが、あの日と翌日のことは、まだよく覚えているようです。
Unknown (sanae)
2013-03-13 14:57:38
あの日の状況がよくわかりました。
なんとか連絡をとろうとしてようやくメールが届いたときはまさに震源地に近い所にいたということで大変驚いたのを覚えています。
私も忘れられない当日、翌日です。かいねこさんとリンクしているという何とも妙な巡り合せですね。
越生梅林 (かいねこ)
2013-03-14 07:08:41
>sanaeさん

久し振りに山行の記事を書きました。
二年越しに実現となって嬉しかったです。

あの時は、関東の状況を知らなかったので、自分が行けなくなったことを
いかに早くsanae さんに伝えるかで、難儀しました。
地震規模は大きいとは感じていましたが、あれだけの影響力があったとは、恐ろしいでものすね。
Unknown (ぜいぜい)
2013-03-14 10:16:18
かいねこさん、まさに現地にいらしたんですね。
相当な恐怖体験だったでしょうね。

うちの長男は当時、仙台市青葉区に住んでいて、やはりまずパソコンを守ったというお馬鹿者でした。

その後数日間の食料不足だったようですが、人間お菓子で1週間は大丈夫と悟ったようでした。

1日も早い復興を心よりお祈りします。
仙台 (かいねこ)
2013-03-15 07:13:38
>ぜいぜいさん

青葉区もなかなか大変だったとあの頃は、ニュースでやっていましたから、息子さんのことは、
心配だったかと思います。
自分がいた場所は、震源地から近くない山側でしたので、地震に関しては、
物理的被害も少なく、そんなに危険な場所でもなかったと思います。
ただ、福島原発には、そこそこ近くにある距離ですので、その位置関係は心配です。

お菓子もなかなかのカロリーですから、体重や健康に拘らなければ、結構いけそうですね。
乾パンよりは、アルフォートの方が美味しいですし。

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