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チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「ドイツ統一の真の功労者」

2017-08-31 10:40:18 | 独学

 145. ドイツ統一の真の功労者  (塩野七生記 文芸春秋2017年8月号 日本人へ・百七一)

 私は、東西ドイツが統一されたのは、ベルリンの壁が崩されたからだと単純に考えてました。一九八九年にベルリンの壁が壊された時、私は五〇歳になろうとしてましたが、新聞やテレビでは、ベルリンの壁が壊される場面が何度も放送され、そして間もなく東西ドイツは統一されました。

 何かを破壊しただけで、何かが生まれると考えた、私は何と浅はかなことかと、塩野七生のこの論文を読んで反省させられました。特に私が驚いたことは、東西ドイツの統一前のレートは、10:1くらいであったのですが、コール元首相は、政治判断で、1:1のレートで交換したことでした。では読んでいきましょう。


 『 六月一七日、ヨーロッパ各国のテレビはいっせいに、ドイツの元首相ヘルムート・コールの死を報じた。それを聴きながら、日本の元首相小泉純一郎が言ったという「政治家とは使い捨てにされるもの」を思い出していた。

 そして、今私が書いている古代ギリシャのリーダーたちも、使い捨てにされたことでは同じなのだと思った。「使い捨て」にされるには、まずは使ってもらわなくてはならない。

 民主政の国ならば選挙で絶対多数を与え、まあやってみなはれ、という感じで押し出してやらねばならない。

 大統領選に勝ったマクロンは議会選挙でも絶対多数を獲得したが、それをイタリア人は、ガソリンを満タンにしてやって、さあ行け、というフランス国民の意思の表れだと言っていた。

 途中で給油所に立ち寄らなくてもよい状態で、つまり政局不安の心配もない状態にしてあげて、やってみなはれ、というわけだ。これは国民が、国政の最高責任者に権力の行使を託したということである。

 この面ではコールは恵まれていた。一九八二年から一九九八年までの一六年間、首相の地位にありつづけたからである。そしてこの人が最高に「使われる」、一九九〇年が近づいてくる。

 その前年、ベルリンの壁が崩壊した。これをコールは、ドイツ人の秘かな願望であった東西ドイツの統一を実現できる、好機と見たのだろう。壁の崩壊は、東ドイツの崩壊。その東独を上手く崩せれば、東西ドイツの統一はなる、と。

 だがあの時期、ドイツ以外のヨーロッパ諸国は、ドイツ統一に賛成ではなかったのだ。第一次、第二次と二度もの大戦によるトラウマで、強大化する可能性大のドイツの統一を喜ぶヨーロッパ人はいなかったのである。

 英国のサッチャーもフランスのミッテランもNO.イタリアの首相だったアンドレオッティは、例の調子で、「ドイツを心底愛するわたしとしては、愛する相手が一人でなく二人のほうが嬉しいですね」と言う始末。

 西ドイツ内でも、東と西では経済力の差がありすぎるという理由で、経済界が反対。労働界も、東独からの安い労働力が入ってくれば西独の労働市場が破壊されるという理由で反対。

 国民投票にかけていたならば、反対多数でポシャっていただろう。あの当時の情況をリアルタイムで追っていた私には、西ドイツ首相のコールは孤立無援に見えた。

 だがここから、後年になって「外交の傑作」と言われることになる。「目的のためには手段を選ばず」と言ってもよい手腕が発揮される。

 まず、強大なドイツへの恐怖心までは持っていなかったらしい、米国大統領ブッシュ・シニアの支持を取りつけた。

 次いでは、仏大統領ミッテランの支持を獲得。ミッテランには、統一後といえどもヨーロッパあってのドイツであり、ヨーロッパ無しのドイツは存在しえないと強調することで、説得に努めたようである。

 英国首相だったサッチャーも、この時期には敵ではなくなっていた。同時に、ゴルバチョフの懐柔をはじめる。同じ時期、宿敵であった東ドイツのホネカーとも接触していた。

 東ドイツの崩壊を、穏やかに終える策であるのはもちろんだ。ドラスティックに瓦解した後では、統一の困難さはさらに増すからである。国内では、経済界の反対にも、労働界の強硬な反対にも、耳を傾けなかった。

 ドイツ連銀に至っては、反コール一色になった。コールが、強い西ドイツマルクと弱い東ドイツマルクを1対1で、つまり同等の価値での交換を公表したからである。たしかにこれは、経済を無視した政策であった。

 しかし、コールは、東西ドイツの統一を、経済ではなく政治の問題であると確信していたのにちがいない。もう一つ彼が信じていたのは、ドイツ人が胸中に抱きつづけてきた祖国の統一への熱い想いであったろう。

 こうして、あの当時はほとんどの人が不可能と思い込んでいた東西ドイツの統一が、実現したのである。壁の崩壊から一年しか過ぎていない、一九九〇年の十月であった。

 次の選挙では、コールは大勝する。だがこの直後からコールを、統一のマイナス面が一挙に襲う。経済力の低下、大量の失業者の発生、等々。

 改革とは新しいことに手をつけることだから、それによるプラスは、始めの頃は出てこない。反対にマイナスは、すぐに現れる。

 だから時間と忍耐が必要なのだが、それを理解してくれる人は少ない。次の選挙では、コール率いるキリスト教民主同盟は野に下った。

 そのコールを政治の世界から追放したのは、政治資金スキャンダルである。だが彼は、自分の党に流れたとされた資金の、使途を明かさなかった。私の想像では、ゴルバチョフとその一派に流れた、と思うのだが。

 「目的のために手段を選ばず」であった。だが、あの時期を逃していたら、東西ドイツの統一は永遠に実現しなかったろう。コールは、ベルリンの壁の崩壊に、不可能を可能にする勝機を見いだしたのだ。

 そしてそこに、思いきってくさびを打ち込んだのである。今ではそのコールを、「ドイツ統一の真の功労者」と讃えるように変わっている。

 「使い捨て」にはされた。だか、使った後で捨てられたのだから、これこそ政治家、政治屋ではない政治家、の生き方ではないだろうか。 』 (第144回)


ブックハンター「100のスキルよりたった1つの考え方で仕事が変わる」

2017-08-18 08:38:44 | 独学

 144. 100のスキルよりたった1つの考え方で仕事が変わる  (高橋政史著 2013年4月)

 仕事をさせると遅くて、質の悪い仕事をしてきた私がこのような本を紹介するのは、違和感がありますが私も様々なスキルアップの本は読んできました。でも多くのスキルの中から、1つでもニ、三十年継続すると必ず成果が出ることも確かです。

 仕事のポイント(一番ピン)がどこにあるかは、仕事のセンスのある人でなけば、なかなか見えないものです。とにかく自分の頭で考えたものを書きなれた筆記用具で、紙の上に文字や図や絵コンテを駆使して、手で書きまくり、次に自分が批評家になって、推考し絞り込む。

 仕事のポイントを見つけるには、仕事を工程と順序に分けて、どこにボトルネックがあるか、成果をわける分岐点はどこにあるのか、その仕事の損益分岐点はどこにあるか考えながらすることによって、見えてくると思います。

 このような作業を何百回、何千回と経験して、はじめてスキルアップができるようにおもいます。簡単な方法はないと初めにお断りしておきます。では読み始めましょう。


 『 1776年、一冊のベストセラーが生まれました。舞台はイギリスの植民地だったアメリカ。トマス・ペインの書いたわずか8ページの「コモン・センス」という冊子は3ヵ月で12万部のベストセラーとなりました。

 この1冊から、人びとの意識は、「植民地支配の緩和」から一転「イギリスからの独立」へとシフトしていきます。アメリカの独立、それは”たった1つの考え方”からはじまりました。

 舞台は変わり、1930年。イギリスの植民地だったインドで1つの運動が起こりました。60歳を超えたガンジー率いる「塩の行進」。

 この運動を支えた「非暴力・不服従」という考え方。インドの「独立」、これも”たった1つの考え方”からはじまりました。

 「地球は丸い」という考え方から大航海時代がはじまり、「人間は空を飛べる」という考え方からライト兄弟の人類初飛行が生れ、「人類を月へ」という考え方から宇宙への扉がひらかれた。

 このように、人類の歴史の大転換はシンプルな”たった1つの考え方”から生まれています。これと同じように”たった1つの考え方”で、あなたの仕事も大きく変わります。

 本書に登場するスティーブ・ジョブズから年収1億円クラスを稼ぐ人まで、彼らの成功もまた”たった1つの考え方”からはじまっています。 』


 『 時給2000億円だったスティーブ・ジョブズ。年収1億円の外資系コンサルタント。時給900円のコンビニのバイト。その差はどこからうまれるのか?

 私は、昨年1年間で125名のビジネスパーソンの方にコーチングを実施してきました。そこで必ず聞く質問があります。

 「今の年収に満足していますか?もし満足していないのでしたら、いくらだったら満足できますか?」この質問に対し、9割以上の人が現在の年収に不満をもらします。

 そして、年収180万円のアルバイト・スタッフをされている方から、年収数千万円の外資系証券会社の管理職の方まで、おもしろいことに、口をそろえて「今の年収の2倍欲しい」というのです。

 時給900円でも、年収が数千万でも返答は同じでした。実に7割近い方が「2倍の年収が欲しい」と答えたのでした。

 次に、「では、その目標を実現するためのロードマップは描けていますか?その目標が実現したらどんな夢(ビジョン)を叶えることができるか、その青写真はありますか?」

 この質問に対しては、ほぼ100%近い確率で、「NO」という答えが返ってきました。年収を2倍にしたいけど、そのための地図をもっていないというのが、多くのビジネスパーソンの現実かもしれない。

 その一方で、本書に登場する年収1億円を稼ぐ人たちに同じ質問を投げかけると、目標とする年収とその目標を達成する時期が明確で、さらにそのための青写真とロードマップを、まるで映像が浮かぶかのような鮮明な物語として語ることができるのです。

 「年収を2倍にしたい」と言う人の多くはピンボケな目標と地図をもち、「年収1億円」を稼ぐ人はフォーカスされた目標と地図をもつ。

 仕事も人生も「フォーカス」で決まる。これが本書でお伝えする”たった1つの考え方”です。 』


 『 スティーブ・ジョブズは、「重要なのはフォーカス(集中)だ」と言ってました。実際、アップルはフォーカスすることで再生しました。

 たとえば、ジョブズは136品目あった商品を4種類にフォーカスしたのを皮切りに、数々のフォーカスを通してアップルを成功へと導いています。

 ドラッカ―も、仕事で成果をあげる鍵はフォーカスにあるとして、「重要なことにフォーカスせよ!」と言っていました。これは、特に現代に生きる私たちにとっては重要なことです。

 ドラッカーは、知識労働においては「仕事の目的」にフォーカスすることで、より成果をあげることができると言っています。

 そして、肉体労働から知識労働へシフトできるかどうかが個人の豊かさや国の盛衰までも決定づける時代を「知識社会」と名づけました。

 少し別な言い方をすると、知識社会とはフォーカス格差の社会と言えます。やり方でなく、目的にフォーカスできるかどうかが仕事の質とスピード、さらには自分の生き方すら決めてしまう時代です。 』


 『 一生懸命がんばっているのに、なぜ仕事の成果があがらない……。そのタイプは次の3つのパターンにわけられます。

 Aタイプ:仕事が遅くて質も低い人、Bタイプ:仕事が早いが雑な人、Cタイプ:仕事が丁寧だけど遅い人

 仕事が遅くて質も低いAタイプは、そもそも、仕事をする上での根本的な部分を押さえることができていません。

 たとえば、パワーポイントで資料をつくるとしましょう。このタイプは、本来押さえるべきポイントをはずし、資料に使う写真や図解にこるなど、自分のこだわりに時間をかけすぎています。

 ある程度のこだわりは必要かもしれませんが、スピードと質を低下させるようなプライドは捨てるべきです。もしかすると、そもそも資料をつくらずに、口頭で説明すれば十分だったかもしれません。

 あるいは、カンタンなメモ書きを上司に手渡せばすむことだったかもしれません。フォーカスすることを知るところから、自分の仕事を見なおしてみましょう。

 Bタイプ:仕事が早いが雑な人は、基礎をおろそかにしてしまっている人だと言えます。基礎とは、その仕事をする上で必要な能力や情熱のこと。

 たとえば、ライフハック(仕事術)や思考法、ノート術など最新のビジネスノウハウを仕入れ、仕事を加速しようとしても、基礎体力がなければ、かえって仕事が空回りしてまわりに迷惑をかけることになります。

 仕事の基礎体力は、筋力のようなもので、毎日鍛えなければ強化されません。そして、鍛えるには時間がかかります。ですから、Bタイプの人は、腰を据えて基礎をみっちり毎日訓練することにフォーカスする必要があります。

 Cタイプ:仕事が丁寧だけど遅い人は、その仕事のセンターピンをはずしている人です。センターピンとは、ボーリングの1番ピン。その仕事で成果を上げるために押さえなくてはならない最重要ポイントです。

 仕事では収益アップにつながる重要な活動こそ注力しなくてはいけません。売上アップのためのセンターピンと、コスト削減のためのセンターピンを押さえることが仕事の基本です。

 仕事におけるセンターピンを見極め、フォーカスする。仕事をする上での原理原則です。仕事が丁寧すぎて、仕事が遅い人というのは、丁寧にするところが間違っています。

 あるいは、仕事のすべてを全力でやろうとしています。仕事はメリハリが大事といいますが、このメリハリが意味することは、センターピンに1点集中すれば、あとは自然と仕事がまわるということです。 』

 

 『 戦略というと複雑で難しいメソッドが必要なように思えますが、要は、戦略とはフォーカスです。

 戦略コンサルタントでも、一流の人ほどシンプルなフレームワーク(基本の型)1つ2つだけで、目の前の複雑な問題を料理し、最高の解決策を導き出してしまいます。

 普通のビジネスパーソンであれば、万能包丁1本、つまりシンプルな基本の型が1つあれば十分です。その基本の型が「仕事のGPS」です。

 つまり、戦略にせよ日常の業務にせよ、はじめに「仕事のGPS」を正しくセットできるかどうか、その一点を考えればいいだけです。

 「一芸に秀でる者は多芸に通ず」という言葉があるように、中途半端にしか使えないフレームワークを10も20も知っているより、”たった1つの考え方”、つまり「仕事のGPS」で仕事をすればよいのです。

 「仕事のGPS」の基本の型は以下のようになります。

 G:1ゴール。理想の姿(ビジョン)を目指してゴール(目標)を設定します。

 P:3ポイント。ゴールを実現するために押さえておくべき3つのポイントです。

 S:ステップ。ゴールの実現に向けての手順です。

 「貯金」ができる私になるとしたら、G:貯金をする。その金額と期日を決める。P:優先順位を、1位「貯金」、2位「生活」、3位「趣味」と決める。

 S:あとは必ず、「できた!」になる手順を決める。たとえば、銀行へ行き、定期預金口座を作る。同時に、毎月定期預金口座に振り替える額を決める。月末に生活費が足りなくなりそうなときに備えて、選択肢を3つ用意する。 』


 『 ハーバード大学医科大学院のアトゥール・ガワンデ博士は、著書「アナタはなぜチェックリストを使わないか?」のなかで、高度に専門化した仕事ほど「チェック・リスト」で確認することが重要と言います。

 それは、「知識の量と複雑性は、一個人が安全かつ効果的に運用できるレベルを超えてしまったから」という理由からです。たとえば、ICU(緊急治療室)では178の手順を毎日正しく行なう必要があります。

 そして、毎年5000万人以上の手術が行われ、15万人が手術の後に亡くなる。これはアメリカの交通事故の死亡者数の3倍を上回る数値です。

 こうしたなか、ジョンズ・ホプキンズ病院では、チェックリストを使うことで、感染率が11%から0%になりました。それは200万ドルの経費削減にあたるとされました。

 ガワンデ博士は、良いチェック・リストの条件として「紙1枚」「シンプルな文章」「カンタンに使えること」をあげています。それにはチェック・リストの数は5個から9個にしておくとよいのだそうです。 』


 『 ジム・コリンズは著書「ビジョナリー・カンパニー2」で紹介した「ハリネズミの概念3つの円」というものを使い、人生でフォーカスすべき場所を見つける3つの質問を投げかけています。

 ① あなたは、何に深く情熱をそそげます? ② あなたにとって、最高の仕事はなんです? ③ あなたは何で生活の糧をえますか?

 この3つの質問(円)の重なるまん中のところ、つまりこの3つのバランスがとれているところに、あなたがフォーカスすべき人生があると言います。

 三つの円を別の言葉で言うと、① 冷めない情熱 ② 最高の自分 ③ 生活の糧 の三つの円が重なるところです。

 今のあなたはどうでしょうか。③の「生活の糧」に重心が偏りすぎていませんか?生活が保障されるだけの収入がなければ夢なんて追えないし、幸せになんてなれないと思ってはいませんか?

 喜劇王チャップリンは「人生に必要なものは何か」という問いにこう答えています。「夢と勇気とサム・マネー」と。

 あなたが心の底から情熱を注げる仕事にフォーカスすることは、クリエイティブな仕事が求められるこれからの時代、必須の課題になりそうです。

 だからこそ、今一番時間を注いでいることと情熱とが一致しているかどうか、見つめ直してほしいのです。 』


 『 ユニクロの柳井社長からアートディレクターの佐藤可士和さんに、「今度、新宿のビックカメラの巨大フロアに出店するんだけど、佐藤さん、店名を考えて」と振られた3秒後に、佐藤可士和さんの口から「じゃあ、ビックロでしょ」という言葉が飛び出しました。

 この「ビックロ」の4文字に、柳井社長は膝を打ち即決したそうです。3秒の決断で大型プロジェクトが動き出しました。

 店名は「ビックロ」、そのコンセプトに基づきその場でプロジェクトチームが編成され、必要な段取りが瞬時にとられ、一気に「ビックロ」オープンに向けて動き出しました。その誕生は「3秒の衝撃」でした。

 仕事のできる人は、スタートを決める速さもダントツです。自分の仕事の進め方を振り返ってみてください。良いスタートダッシュを切ることができるでしょうか。スタートに膨大な時間がかかってしまってはいないでしょうか。

 ものごとははじめにフォーカスする。出発点で「仕事のGPS」をきちっとセットする。そこから早くて質の高い仕事は生まれます。 』

 

 『 とある外資系コンサルティング会社の役員を務め、世界中の経営コンサルタントの育成プログラムを手がけた方はこうおしゃっていました。

 「ロジカルシンキング(論理的思考)は、きちんとトレーニングをすればしただけの能力が身につく。でも、トレーニングによって仮説思考を身につけさせるのは難しかった。仮説思考はセンスだからな」

 たしかに、できるコンサルタントは「1つの仮説」から業績向上の扉を開けていきます。質の高い仮説を立てるセンスがあるかどうか、それがコンサルタントの成果の差をもたらす。そう思っていました。

 しかしその1年後、あるクリエイティブ・ディレクターと仕事をするようになって、その考え方が一変します。「仮説思考はセンスでなく”口グセ”だ」と思うようになったのです。

 「誰でも、ある口グセを習慣かすれば、仮設脳になれる」と実感したのでした。そのクリエイティブ・ディレクターの口グセは、語尾に「かな?」という「2文字」を入れることでした。

 たとえば、あるファースト・フード店の新規業態の開発の依頼を受け、既存店舗を訪れた際のこと。お店に到着すると、店舗を見渡し、さっそく「~かな?」でいろんな仮説を繰り出していきます。


「何でお客さんが入っていないのかな?」 「店員さんのあいさつが元気ないせいかな?」 「なんで元気ないのかな?」 「訓練受けてないのかな?」 「ゆとりがないのかな?」 「採用されて間もないのかな?」

 「いや待てよ、サービスよりも入り口の看板が原因かな?」 「時間帯ごとのメニューの表示がわかりにくいせいかな?」 という具合に、延々に「かな?」を起点に思考が展開していきます。

 このように、「お客さん目線で」で「~かな?」をひたすら繰り返しつづけます。すると、マシンガンのように10分で100個も仮説が飛び出してきました。

 「この人の頭は、いつも語尾に「~かな?」がついているんだな」と感心しながら、その話に耳を傾けていました。いつも、どんなときでも語尾に「~かな?」のワンパターンです。

 これを繰り返し、繰り返し、口に出しては、まるで打ち出の小槌のようにアイデアを出していきます。「質問を投げかけると答えを早く見つけようとして、脳が活発になるらしい」、そんな話を思い出しました。

 この口グセで仮説思考の流れを書き起こしてみると、① 体験する、見聞きする ② 感じる(共感、違和感) ③ 仮説を立てる ④ 映像化する ⑤ ③と④の繰り返し となります。

 目にして感じたことから頭の中で映画の風景が瞬時に切り替わるように映像化思考が展開していきます。すると脳が高速ではたらき、問題解決スピードが格段に上がります。結果、仕事の質が高まります。 』


 『 考えがなかなかまとまらず、同じところで思考がグルグル回り、堂々巡りが繰り返されて、しだいに頭の中がぐちゃぐちゃ、整理できずに時間がどんどん過ぎていく……。

 そんなとき、頭の中の混乱の嵐をしずめ、シンプルに自分の考えをまとめることができるのが、論理の力です。論理というと何か難しそうな感じがしますが、「口グセ」ひとつで論理的な思考が身につきます。

 論理展開の速さは「口グセの速さ」に比例します。頭の回転を速くしてくれる代表的な口グセを、3つ上げます。 ① 「なんで?(=WHY)」 ② 「具体的には?(=HOW)」 ③ 「それで?(SO WHAT)」

 これを私は「ロジカル3姉妹」と呼んでいます。長女は「なんで?」、次女は「具体的には?」、三女は「それで?」口グセ。この3姉妹の口グセを習慣にすることで、論理的に物事を考えることができるようになります。

 鍵となるのは、「いつも使う言葉で」ということです。これら3つの口グセを日常的に使っているならOKですが、日常的に口に出して使っていない言葉は身体になじみません。

 買ったばかりの革靴をはいているようなぎこちなさがあります。はきなれた靴は身体の一部のようにフィットしてくるように、思考でも使い慣れた言葉を使うことが大事です。

 トヨタで仕事をする上での基本の型は「なぜ5回」です。ゴールとのギャップがあったら、「なぜ?」を5回繰り返し、真の原因を突き止め、その解決にあたれ、ということです。

 「なぜ5回」を問うとき、トヨタのある部署では「そもそもさぁ~」という口グセを使うという話を社員の方に聞きました。会議をしていて、疑問に思った人は「そもそもさぁ~」とすぐ口に出します。

 「そもそもさぁ~、なんで、これが大事なの?」 「そもそもさぁ~、これって、本当の原因なの?」 「そもそもさぁ~、ピントがずれていない?」 といったように、会議参加者全員でより根本的な問題を探し始めるというのです。

 トヨタの強みは「自分の頭で考える」社員さんたち。「疑問を放置せず、徹底して議論し、自分の頭で考える」という文化がこんなところにも見え隠れします。 』


 『 時間をいかに管理するかは、忙しくなればなるほど切実な悩みではないでしょうか。手帳を変える。時間管理術をマスターする。日報で管理する。スマホを活用する。ライフハックを仕入れる。

 時間を管理するための方法はたくさんありますが、そもそも時間管理という考え方を根本から変える「時間単位」という考え方を紹介します。

 「仕事のGPS」という枠組みで見ると、時間を管理するためには、ゴールを変える、ポイントを変える、ステップを変える、の3通りあります。

 これまでの時間管理は、要は、誰かがやってうまくいったステップ(やり方)にフォーカスした時間管理です。ジョブスや年収1億円稼ぐひとは、ゴールとポイントにフォーカスしています。

 ジョブスは「時間単位が他人とは違う」と言われていました。たとえば、ヒューレット・パッカードにいた人物がアップルに入社し、ある事業を任されることになりました。

 そのとき、事業戦略の構築について「3ヵ月後に方向を固めます」とジョブスに言ったところ、ジョブスは「今日中に決断してくれ。ヒューレット・パッカードでは3ヵ月でも、うちじゃ今日中なんだ」とジョブスから言われたのです。

 他にも、他社では数週間もかけて決断するようなこともジョブスは「30分で決断」してました。ジョブスの足取りを見ていると、「今日中の決断」とか、「30分で決断」など、「時間単位」で仕事を完結しているのを見ることができます。

 まるで、時計の針が時を刻むように1パターンで正確な「時間単位」を刻んでいきます。

 ソニーの創業者・盛田昭夫さんが、アメリカのプルデンシャル生命の会長と乗り合わせたエレベータ―の中で、上階から1Fのフロアまで30秒間で、「日本でソニーが生命保険会社をはじめる!」という決断をしたという有名なエピソードがあります。

 この「30秒間の決断」が、のちのソニー生命につながることになりました。一流は時間の単位がちがいます。たとえば、企画作成。年収1億円を稼ぐあるコンサルタントは、「企画は60分で」としてます。

 「ちょっと時間をください」と言って、その15分後に紙1枚で企画書が出てきます。その企画書のたたき台をもとに30分議論して、残り15分で企画書を仕上げる。こんなことをよくやってました。

 先が読めない、延々と作業をしてしまっている、その都度再現性のないやり方だから効率が悪い……という悩みを持っている人は、このような「企画は60分(など時間を区切って)で仕上げる」というような基本の型をもっていない人が多いです。 』


 『 報告書の肝は3つです。まず報告書は「タイミング」が命。「報告書は厚いうちに書け」でいきましょう。クライアント先を出たところの喫茶店や帰りの電車の中の10分間で仕上げていきましょう。時間が経つほど人の記憶は消えていきます。

 つづいて、報告書は「上司の基準」でつくるということ。ですから、あらかじめ上司と報告書の型をすりあわせておきましす。報告書は、上司が認めた型でさくっと仕上げましょう。

 そして、「報告書は実況中継だ!」ということを押さえておきましょう。この3点を押さえ、さくっと簡潔につくりましょう。

 「タイミング」「上司の基準」「実況中継」を押さえたら、あとは「相手の知りたいことを見せる」の原則を押さえていれば大丈夫です。

 上司の知りたい最低限のことは、1メッセージ・3ポイント・1アクションです。「要は、何が言いたいか?」=1メッセージ 「で、ポイントは何なの?」=3ポイント 「で、俺は何をすればいい?」=1アクション

 報告書のゴールは1アクションです。上司から、「俺はこれをすればいいわけか」というひと言がもらえればOKです。 』


 『 世界に目を向けると、解決できない問題のひとつに貧困があります。そんな中、1700万人の貧困を救済した問題解決メソッドがあります。

 「世界一大きな問題のシンプルな解き方———私が貧困解決の現場で学んだこと」の著者で「残り90%の人たちのためのデザイン」を提唱し、スタンフォード大学やMITなどの研究者から絶大な支持を得ているIDE(International Development Enterprise)のポール・ポラック。

 彼は、「実戦的なビジネス戦略を用いて、1日1ドル以下で生活する貧しい人びとの収入を増やす」というミッションのもと15ヵ国、1700万人の貧困解消を実現しています。

 この問題解決メソッドは、ホームレスの問題解決を手がけるところから発見されました。ポール・ポーラックがなかなか抜本的な解決策を見いだせないでいたある日、アプローチ方法を根本から変えてみました。

 彼がしたことは、ホームレスの人たちがとる行動の理由をじかに聞くことでした。ホームレスのひとりと一緒に暮らし、彼の行動を見て、「なんで、こんな行動をとるのだろうか?」と疑問に思い、その理由を聞きました。

 それによって、研究室でいくら脳みそに汗をかいても出てこないようなアイデアがぽろりと出てくるようになったのです。「現場」へ行き、「行動」を見て、「理由」を聞き、「解決」をする。

 彼らは、この問題解決メソッドをアジアやアフリカの貧困地域でそのまま実践しました。結果、1700万人の貧困救済につながったわけです。

 彼らは「現場・行動・理由」の3点セットを実践し、そこから1ゴールを導き出しました。それは、とても単純で当たり前のことでした。

 その1ゴールというのは「1エーカーの農場で十分稼げるようになる」ということです。そのために、いちごをはじめとする高付加価値な果実などの栽培方法、それを現金に換える流通のやり方を指導したのです。

 つまり、彼らは「現場・行動・理由」の3点セットを実践した後、「GPS」をセットして問題を解決していったのです。 』 


 本書に出てくるスティーブ・ジョブズは、本ブログの「52.最後の版元」で以下のように、書かれています。

 『 先頃他界した米国アップル社のスティーブ・ジョブズは、親日家で密かな新版画のコレクターであった。

 彼は1980年代に、毎年のように日本を訪れていたが、日本で新版画を購入し始めたのは1983年〈昭和58年)からである。彼には新版画についての知識があり、好みもはっきりしていた。

 1983年3月11日、ジーンズにシッツ姿の若いアメリカ人が、サンフランシスコに支店を持っていた兜屋画廊の銀座店を訪れ、慌ただしく新版画を購入していった。

 この時ジョブズはまだ28歳、「世界のジョブズ」になる少し前のことである。ジョブズが購入していったのは、富士の稜線が美しい川瀬巴水の「西伊豆木負の富士」、鳥居言人の美人画「朝寝髪」、そして橋口五葉の「髪梳ける女」などであった。

 その二年後の1985年〈昭和60)にも、密かに来日し、橋口五葉、伊東深水らの美人画と巴水の風景画を何十点か購入していった。

 彼がアップル社を去り、新会社ネクストを立ち上げた頃である。この頃からジョブズはすっかり時の人となり、それまでのように日本で自由に行動できなくなっていた。

 ジョブズの担当であった松岡春夫は、その翌年、86年の来日の時には電話で直接注文を受け、ジョブズの常宿であったホテル・オークラへ届けに行ったと話す。

 ジョブズはとくに川瀬巴水の風景画を愛し、「全部ほしい」と電話で注文してきたこともあった。…… 』

 と書かれています。(第143回)


ブックハンター「未来企業」

2017-08-10 15:27:51 | 独学

 143. 未来企業  (リンダ・グラット著 2014年8月) (The Key  by Lynda Gratton ©2014)

     How Corporations Succeed by Solving the World's Toughest Problems   [Tough : 折れにくい]

 

 最初に”日本の読者のみなさんへ”より、紹介します。

 『 本書は、いわば、「ワーク・シフト」の企業バージョンです。この本で私は未来の世界を形づくる要因が、企業とそこで働く人々にどんな影響を及ぼすのかについて書きました。

 企業は今後、どのような活動にどのような方法をもって取り組むべきか。どんな企業文化がもっとも望ましいのか。未来企業を導いていくリーダーの条件とは何か———これらの問についての私なりの答えがここにあります。

 その中核にあるのは「レジリエンス」(resilience)である、という考え方です。レジリエンスという言葉のおおもとの意味は、「負荷がかかって変形したものが、元の形状に戻る力」です。これが転じて、ストレスからの回復力、困難な状況への適応力、災害時の復元力、といった意味合いで使われるようになりました。

 本書では、世界のレジリエンス、企業のレジリエンス、個人のレジリエンス、というようなかたちでこの言葉をつかいます。メインテーマである企業のレジリエンスについては、「三つの領域」で考えています。

 企業の中核となる一つめの領域が、従業員が知性と知恵を増幅し、精神的活力を高め、互いの結びつきを深めることができるような職場環境です。

 企業のレジデンスは、社外でも試されます。地域のことを考え、サプライチェーンの末端まで配慮した活動が二つめの領域におけるレジリエンスを形成します。

 もっとも外側にある三つ目の領域におけるレジリエンスは、企業がその資源や能力を活用して若者の失業問題や、気候変動といったグローバルな課題に取り組むことによって実現されます。

 本書「未来企業」では、未来を見据えて、この三領域のそれぞれにおいてレジリエンスを強める取り組みをおこなっている企業の事例を紹介してます。 』


 本書で取り上げられている、企業の例として、

 インフォシス:インドのITコンサルティング会社

 P&G:米国の洗剤、化粧品のメーカー

 ロシュ:スイスの製薬会社

 タタ :インドの自動車メーカー、タタ財閥

 BT :イギリスの電機通信業者

 シスコ:アメリカのネットワーク機器開発会社  などなどの多国籍企業です。すなわち、日本の一流大学を出ても入社することは、かなり難し企業であることが、少し気になります。では、読んでいきましょう。


 『 グローバルなバランスが変化し、どこからでもつながることができる時代には、有能な人材が集まる地域が新たに生まれる可能性がある。

 シリコンバレーの発展は移民に支えられたところが大きく、1980年から1999年までに誕生した新興企業の約25%はインドまたは中国の起業家によって創業された。

 これらの企業は二〇〇五年までに五二〇億ドルを稼ぎ出し、四十五万件近くの新規雇用を創出したと推定される。彼らのおかげで、社会学者リチャード・フロリダの言う「スパイキーな世界」になりつつある。

 とてつもないイノベーションを起こす才能とやる気のある人材がいくつかの地域に偏っているのだ。専門的な仕事をしているクリエイティブ・クラスが集まる地域では、こうした創造性の集積地がすでに形成されている。

 たとえばアメリカの場合、金融部門であればニューヨークへ、バイオテクノロジー部門でればボストンへ、メディアや戦略情報の分野であればワシントンへ、といった具合に人々が移り住む状況が変わらない限り、こうした才能の偏在はなくならない。

 ヨーロッパの場合、ロンドンは世界の金融および創造性の中心地、ミラノとローマはファッションや工業デザインの中心地、シュトゥトガルト、フランクフルト、マンハイムは高性能な工業製品の中心地という状況が続くだろう。

 新興国の場合、インドのバンガロールに強力なテクノロジーの集積地がすでに三つ誕生し、上海はアジアの金融の中心地となりつつあり、ヨハネスブルクとナイロビが商業と電気通信の分野でアフリカのリーダーになる可能性がある。

 経営陣にとって、これは矛盾した現象に見えるかもしれない。

 技術の進化のおかげで仮想空間で働くことが当たり前になり、無人島や山の上でも仕事ができるようになる一方で、人々が都市に流れ込み、同じような才能や関心を持った人々が一部の地域に集中するという一見矛盾した現象が起こっている。 』


 『 どの国においても、不況期に割りを食うのは若者たちだ。実際、二〇一二年の時点で、スペインでは若年層の失業率が五〇%近くに達し、先進国の多くで二〇%を越えていた。

 これは単に景気が悪化したからではなく、求人市場の構造や働き方が大きく変わり、労働が空洞化した影響がある。とはいえ多くの地域で、求人件数が増えているのに若年層の失業率は高いという矛盾した状況が生まれている。

 たとえば二〇一〇年、アメリカでは求人件数が三百万件あったにもかかわらず失業率は上がり続けた。

 研修制度が十分に整っておらず、将来どの仕事の需要が高まるのか不透明で、能力開発の機会が限られているため、スキルギャップは拡大の一途をたどっている。

 興味深いことに、景気対策が十分で教育機関と企業の連携が密接なシンガポールなどの国ではこうしたスキルギャップがほとんどなく、若年層の失業率が低い。

 社会流動性が明らかに失われつつある先進国では、このスキルギャップがさらに広がっており、若者が高度なスキルが要求される仕事に就くことを一層難しくしている。

 幅広く教育や能力開発に投資をしていない国では、こうした労働市場の二極化がさらに進むだろう。とくに、科学、テクノロジー、エンジニアリング、数学といった分野への投資を怠ると、スキルギャップは広がる一方で、長期間にわたって失業率が悪化し、低い社会的流動性を固定化させてしまう。 』


 『 中国、インド、ブラジルなどの成長を続けている新興国では、ここ三〇年で貿易や資本の入出量が大幅に増えているが、後発発展途上国の多くはそのような状況にない。

 かって世界銀行のチーフエコノミストを務めていたジョセフ・スティグリッツの言葉を借りると、「二〇世紀の終わりの一〇年間に貧困の削減が何度も約束されたにもかかわらず、実際は貧困にあえぐ人は毎年平均二・五%ずつ増えた」のだ。

 二〇一〇年に世界銀行は約二十億人がグローバル化から完全に取り残された国で暮らしていると報告した。そのなかにはパキスタン、インドネシア、そしてアフリカや南米の大半の国々が含まれる。

 これらの地域では、国民所得の減少に伴って貿易が縮小し、経済成長が頭打ちになって貧困が進んでいる。アフリカ人のほとんどは四〇年前のほうが裕福だった。

 こうした地域では収入格差も広がりつつある。たとえばモロッコからバングラデシュ、さらにインドネシアまでを含めたイスラム圏からフィリピンにかけての地域では、一人あたりの平均収入が全世界の半分である。

 第二次世界大戦の終結以降、全世界で貧困を撲滅するためにおよそ一兆ドルの助成金や貸付金が投じられてきたにもかかわらず、世界銀行の報告によると地球の全人口の半分近くがいまでも一日二ドル未満で生活し、全人口の六分の一が一日一ドル未満で生活している。

 貧困の問題は格差の問題でもある。アメリカを例に挙げよう。一九七六年には上位所得者の一%の家計が全所得の九%を占めていたが、二〇〇七年にはその数字が二四%に跳ね上がった。

 これは先進国だけの現象ではない。新興国でも格差は拡大している。 

 経済学者のラグラム・ラジャンの考えでは、いま歯止めをかけなければ、この格差はこのまま定着し、教育や医療を受ける機会にまで影響を及ぼし、さらなる格差につながりかねない。

 その結果、世界経済の亀裂が表面化するケースが増え、社会の分裂や権力争いに拍車がかかる。 』


 ここから、要約しながら話をすすめます。著者は、以下のように論じます。

 企業経営者の影響が及ぶ領域は、三つの円としてイメージすることができる。最も内側の領域(社内のレジリエンスを高める)、中間の領域(社内と社外の垣根を取り払う),最も外側の領域(グローバルな問題に立ち向かう)です。

 最も内側の領域、社内レジリエンスという核を構築するのは、企業の持っている資産と能力です。特に重要なのは人的資産です。企業の従業員は、知性と知識を増幅し、意欲を高め、社会的つながりを通じて能力を発揮することができます。

 人的資産を構成するのは、つぎの三つです。「知性と知恵」は、個人として、チームのメンバーとして、洞察力と分析力が高められるとき生まれる。

 「精神的活力」は、やる気があってじっくり考えられる状態であれば、仕事に創造性とイノベーションをもたらしやすくなる。

 「社会的つながり」は企業が持っている社会的な資産であり、企業の枠を超えてサプライチェーンや社会にまで及ぶネットワークのなかに存在している。

 中間の領域(社内と社外の垣根を取り払う)は、企業が自分勝手に活動できる存在ではなく、地域社会と深く関わっていることを自覚することを求められている。

 最も外側の領域(グローバルな問題に立ち向かう)は、企業が世界全体から影響を受けており、環境の悪化、格差の拡大、若年層の失業、貧困の広がりといった問題は複雑で、解決するためには多くの人々の協力が必要だ。

 これらに立ち向かう姿勢も、リーダーシップのあり方としては、重要になります。


 『 企業が誕生して以来、共同作業のほとんどは少人数のグループが直接顔を合わせておこなってきた。

 だが知性を増幅するためのツールのおかげで、少人数が直接顔を合わせて共同作業をするだけでなく、バーチャル環境を通じて数千人が密に繫がり、アイデアや情報を交換できるようになってきた。

 問題の解決に少人数のグループで取り組む代わりに、十四万人で取り組むとどうなるか想像してもらいたい。洞察力や考え方が異なる膨大な数の人々が集まり、知力を結集するさまを。

 インドのIT企業、インフォシスはまさにこの実現に挑んでいる。同社はグローバルなネットワークを構築し、三十三ヵ国に及ぶ数千人の従業員の意見を出させ、問題解決案を交換させることで、さまざまな革新的なアイデアを掘り起こそうとしている。

 このグローバルなネットワークの威力で、トレンドを見つけ、現状に対する疑問を投げかけ、さまざまな意見を出し合って、数千人が議論を戦わせるのだ。

 インフォシスの経営陣は、この「賢い群衆」を最大限に活かす方法を本気で見つけようとさまざまな試みをおこなっている。最終目的ははっきりしている。

 経営戦略づくりや問題解決を経営陣だけでおこなうのをやめ、従業員からも広く意見を募ることである。そのためには古いやり方を改め、働き方やコミュニケーションの方法を一新し、改善していく必要がある。

 従来の経営手法では、経営戦略をより完璧なものにするために、経営陣は次第に密室のなかで戦略を練るようになっていた。

 しかしこの新しい問題解決手法を取り入れるにあたって、数千人という人々のアイデアや洞察力を増幅するという方法を選択したのだ。 』


 『 まず経営陣が取り組んだのは、社内のヒエラルキーを覆し、入社わずか数年の若い従業員の声に耳を傾けることだった。

 数千人という若い従業員の声を生かすことで、彼らが日常業務をこなすだけでなく、インフォシスの長期的な発展のためにより積極的な役割を担う意欲を持つことを期待したのである。

 この取り組みをさらに加速させ、二〇〇九年には若い従業員のグループが同社の年次戦略会議で経営陣に直接意見を伝えられるようになった。

 この話し合いの首尾は上々だった。経営陣の多くにはY世代(1980~95年生まれ)の子どもがいるが、社内で若者たちの考え方を知る機会はそれまでほとんどなかったのだ。

 その後、インフォシスは若い従業員の意見を長期的な戦略決定に生かすための取り組みをさらに推し進めた。それを可能にしたのは、仮想プラットフォームの急激な進化だ。

 経営陣は最新テクノロジーとY世代との話し合いから生まれたアイデアを組み合わせ、社内全体でのスムーズな話し合いを可能にする仮想プラットフォームをつくった。

 それにより、情報のやり取りが活発になった。たちまち一万二千人を超える従業員がこのプラットフォームにアクセスし、アイデアを共有して、自社が直面している問題について理解を深めた。 』


 『 経営陣はこの成功を足掛かりにして、六十五都市以上にいる従業員同士が顔を見ながら話し合えるミーティング、自社チャンネルでのテレビ放送、アイデアを書き留めるための仮想黒板、重要なテーマについて話し合える「ナレッジカフェ」、社内の専門家とのチャット、全社規模での質疑応答など、世界中でさまざまな取り組みをはじめた。

 その結果、二〇一〇年末までに四万六千人以上の従業員が参加しておよそ二万のアイデアを提供し、これによってインフォシスの未来の戦略が練り上げられた。 

 インフォシスの経営陣は、次に、より積極的に協創して問題を解決するためのツールを社内で開発した。

 二〇一一年に導入された「イノベーション・コ・プラットフォーム」という仮想プラットフォームをつかえば、従業員は協同作業をおこなう相手を見つけ、詳しいデータにアクセスし、専門家に助言を求めアイデアを提供することができる。

 こうした取り組みのおかげで情報が世界中にスムーズに伝達されるようになり、ただちにフィードバックが得られるようになった。

 また、社内で最も知識が豊富でやる気のある従業員がどこにいるのかも特定できるようになった。その結果、経営戦略に強い関心を持ち、やる気にあふれた従業員の人脈が築かれたのである。

 彼らは次第に、各地域、各部署で生れたアイデアを生かすための中心的な役割を担うようになり、なかには経営戦略に関するヒントを得るために勤務時間の二十五%以上を世界各地の同僚との話し合いに費やしている従業員もいる。 』


 『 世界中の同僚と経営戦略について話し合えるプラットフォームづくりへの投資を増やしていくなかで、経営陣が直面した問題の一つは、機密性の高い情報の扱いだった。

 従来の常識では、自社に関する機密情報を閲覧できるのは経営陣のみであり、こうした情報はめったに公開するものではなかった。だが本物の情報が得られなければ、従業員が経営戦略について真剣に話し合うのは難しくなる。

 自由な発想で適切な意思決定を従業員にさせるには、機密情報も含めて本物の情報をリアルタイムで提供しなければならないことに気づいたのだ。

 本物のデータがなければ、どんな話し合いも空虚な理想論になるだろう。具体的には、業界シェア、収益性、他社と比較した競争力といった機密情報が社内で公開された。

 言うまでもないが、従業員を心から信用していなければこのようなことはできない。

 テクノロジーが進化して「賢い群衆」のつくり方が明確になるにつれ、こうした群衆の知恵の生かし方もさらに洗練されてきた。

 こうした知恵は、社内の人材を活用して利益を追求するためのものから、社外の人材を活用して公益を追求するためのものにまで拡大されてきている。 』 (142回) 


ブックハンター「劉邦」

2017-07-15 09:13:48 | 独学

 142.  劉邦(上、中、下)  (宮城谷昌光著 2015年6月)

 ”89.劉邦と項羽” で、文芸春秋の記事を紹介しましたが。私は、宮城谷の作品である三国志が文藝春秋に連載されていましたが、読めませんでした。宮城谷の作品は、史実に忠実ですが、漢字があまりに多く、スーと頭の中に入りませんでした。

 今回 ”劉邦” を読んでみて、毎日新聞に連載されただけあって、漢字の割合が少なく読みやすいなと感じました。現在の中国に宮城谷より中国史についての深く研究している研究者が、”いるのかなあと” ふと考えてしまいました。


 ”劉邦と項羽” の中で、以下のように述べています。 

 『 秦王朝の末期には、劉邦のみならず、多くの英雄が生まれました。進路に迷う人々は自分の夢や将来を「この人に托そう」と考えて、それぞれの選んだ英雄に期待を寄せました。

 そして、最後に最も多く期待を集めた英雄が劉邦だったのです。私は、個人の才能や徳ではなく、天下の人々が劉邦に托した意望の強さと多様性を書くことで、より多面的で複雑な劉邦像を描けるのではないか、と考えたのです。

 ではなぜ、劉邦はそれだけ多くの期待を集めることができたのでしょうか。その理由を探っていくと、一つの結論に行きつきます。劉邦は聴く耳を持った男だったということです。ライバルだった項羽と最も大きな違いです。 』


 劉邦(紀元前247年~195年)は、前漢(紀元前221年~西暦8年)の高祖で、都を長安に定め、長安はシルクロードによって、西アジアから地中海に至った。(長安が全盛だったのは、唐(西暦618~907)の時代です)

 私がこのインターネットの英語全盛に時代に、何で紀元前の中国の話と思われるかもしれませんが、集団で死力を尽くして戦うためには、現代でも、紀元前でも、リーダーの度量にかかっているからです。

 では、最初に上、中、下を本の帯から紹介した後、中巻の最初の部分を読んでいきます。


 劉邦(上)の帯より、『 秦末、王朝を覆す「天子の気」を遠望した始皇帝は、その気を放っ者を殺すように命じる。配下に襲われた泗水亭長・劉邦は九死に一生を得る。始皇帝の死後、陵墓建設のため、劉邦は百人の人夫を連れて関中に向かうことを命じられるが……。 』

 劉邦(中)の帯より、『 民に推されて沛県の令となった劉邦は、近隣の県を平定しながら勢力を拡大していく。行軍中に名軍師張良との出会いがあった。楚と結んだ劉邦は項羽と共に秦の城を攻めるが、戦地に衝撃の一報がもたらされ……。

 劉邦(下)の帯より、『 秦王の降伏を受け劉邦は秦の都・威陽に入る。しかし、項羽によって劉邦は、巴、蜀、漢中の王となって左遷されることに、項羽と天下を争うことを決意した劉邦は、関中に兵を挙げる! 』


 『 なぜかうわさのほうが劉邦(りゅうほう)の帰還より早く沛(はい)県に着いた。 「沛公が秦(しん)軍を破った」 沛県の官民は歓喜にふるえた。劉邦の将器(しょうき)を疑っていた者たちも、———沛公はぞんがい用兵に長じている。

 と、ようやく安堵(あんど)のため息をついた。もしも劉邦が負けて帰ってくるようであったら、かれらは父老(ふろう)に強く迫り、城門を閉じて劉邦の帰還をこばみ、あらたな県令を立てたであろう。

 胡陵(こりょう)と方与(ほうよ)という二県の攻撃に成功をおさめなかった劉邦にとって、監平(かんへい)の軍と野天(のてん)で戦えたことは天祐(てんゆう)のひとつであったといってよい。

 凱歌(がいか)とともに帰着した劉邦を、県丞(けんじょう)である蕭何(しょうか)、獄をあずかっている任敖(じんごう)、それに父老らがにこやかに出迎えた。

 だが、劉邦は冴えぬ表情で、「大切な子弟をすくなからず喪(うしな)ってしまった」 と、父老にむかって頭をさげた。父老はおどろいた。秦王朝のもとでは、兵卒の死に心を痛めた将など、ひとりもいない。

 父老はとまどって蕭何をみた。そのまなざしを承(う)けた蕭何は、「戦えば、かならず死者がでます。が、戦わなければ、もっと多くのものが死ぬでしょう」 と、いった。———そうであろうか。

 それは儒教(じゅきょう)的詭弁(きべん)ではないか。そうおもった劉邦は、とにかく戦いというものは、勝っても負けても、気が重くなるものだ、と実感した。 


 『 兵を解散させた劉邦は、妻子の顔をみるまえに県庁にはいり、蕭何とふたりだけで話あった。

 最初に劉邦は、「戦場で勲功を樹(た)者に与える賞がない。秦が作った級(きゅう)とは、便利なものだな。銭や物を与えるかわりに、級をあげてやればよい。制度とは、そういうものか、とよくわかった」 と、苦笑を蕭何にむけた。

 人民を階級わけする。この発案者は商鞅(しょうおう)という戦国時代の大才である。その案が新法となって実施されたのは、秦の孝(こう)公のときである。

 国主が王ではなく公であることからもわかるように、当時の秦は雄国(ゆうこく)と呼ばれる以前の後進国で、現状を嘆いた孝公が他国からきた商鞅を鈎用(こうよう)しておこなわせた大改革のひとつがそれであった。

 極端ないいかたをすれば、商鞅の新法が天下統一の道を拓(ひら)いた。それはそれとして、その階級についていえば、最下級は一級であり、「公士」(こうし) と、いう。最上級が十七級であり、「大良造」(だいりょうぞう) と、いう。

 公士も大良造も、正確には爵名(しゃくめい)であり、級名とはいわない。それらの級は軍籍に適用される。公士は兵卒にすぎないが、大良造は大将である。

 ちなみに、のちにその級数と爵名に多少の変更があり、二十等爵となる。敵兵の首をひとつ獲れば、公士となり、ふたつ獲れば上造(じょうぞう)となる。 「首級」(しゅきゅう) ということばは、その制度による。

 「たしかに秦の制度はよくできています。 が、血のかよっていない制度は改めなくてはなりますまい」 蕭何は法官ではないが、秦の法令の欠点はわかっている。 』


 『 その血のかよっていない法令によって痛い目にあわされた劉邦は、「皇帝ひとりを守る法令を、人民を守る法令に更(か)えればよい、ということではないのか」 と、いった。

 すこしまなざしをさげた蕭何は、「皇帝ひとりを守るだけの法令はたしかにまちがっています。陳勝(ちんしょう)が起こした叛乱は、そのまちがいを匡(ただ)そうとしたものです。しかし法令は人民を守るためにあるのか、国家を守るためにあるのか、と考えてゆくと難解さにつきあたります」 と、慎重に答えた。

 ———われはなんのために挙兵したのか。基本的には沛県の民の総意に従い、沛県の民を守ろうとしたにすぎない。陳勝の志行(しこう)にはとてもおよばない。 「これから、われはどうすべきかな」 劉邦は素直に蕭何に訊(き)いた。

 もしも劉邦が今後の戦略的方向を問うのであれば、その問いを曹参(そうさん)にむけるであろうと考えた蕭何は、答えをひとひねりした。

 「陳勝は秦の法令の批判者であったことはたしかですが、是正(ぜせい)者にはなれなかった。あなたさまが是正者になればよろしいではありませんか。あなたさまが新法となり、人民を守る。それ以外に、あなたさまが為(な)すべきことがありましょうか」

 「ふむ……」 蕭何の回答はやや抽象的ではあったが、劉邦がばくぜんと想(おも)ってきた理念に比(ちか)かった。 いうまでもなく劉邦はおのれの利益のために挙兵したわけではない。

 苦しんでいるもの、哀(かな)しんでいる者など弱い立場におかれている者たちを助けようとして立ったのである。ただし秦に叛逆するかたちで立つかぎり、強者にならなければ、理念は具体化できない。

 「よく、いってくれた。これからも迷ったわれをさとしてくれ」 これほど素朴な劉邦をみたことがなかった蕭何は、感動して、しばらくことばをだせなかった。———また器量が大きくなった。 』


 『 時が劉邦を急速に変えているともいえる。ここにいるのは、泗水貞長(しすいていちょう)であった劉邦ではない。そう断定しておかなければ、その変化についてゆけない、と蕭何は軽い恐怖をおぼえながらおもった。

 「ところで、ひとつ解せぬことがある」 泗水群府から兵がでたのは当然であるとして、群府には交誼(こうぎ)の篤(あつ)い周苛(しゅうか)がいるのだから、かれはそれに関してなぜ黙ったままであったのか。

 「周苛のことだから、われが窮地(きゅうち)におちいりそうになったことを推測したはずなのに、なんの報(しら)せもよこさなかった。よこさなかったのではなく、よこせなかったのか。それが気がかりでならぬ」

 「あなたさまは、それほど周苛を信頼なさっていたのですか」 蕭何は劉邦と周苛のつきあいの深さをはじめて知った。

 「周苛にはずいぶん助けられた。もしも周苛が苦境に立たされているのであれば、助けたい」 「わかりました。しらべてみます」 蕭何の答えにうなずいた劉邦は県庁をでて帰宅した。

 三日間、妻子とともに過ごした劉邦は県庁にでなかった。四日目には樊噲(はんかい)と妻子それに尹恢(いんかい)や夏侯嬰(かこうえい)などを招いて慰労の会を催した。

 この会で、表情に魯(にぶ)さのある劉邦に気づいた樊噲は、「どうなさったのですか」 と、問うた。

 「ふむ、周苛がどうしているか、まったくわからなくなった。蕭何にかれの消息をしらべさせているが、なにもいってこない。まだわからないということだ」 すると尹恢が、

 「周苛の実家は、ここ沛県にあります。明日にでもわたしがたずねてみます」 と気働(きばたら)きをみせた。翌日、県庁へでるつもりの劉邦であったが、尹恢の報告を自宅でまった。

 「お待たせしました」 そういってなかにはいってきた尹恢の表情にも冴えがなかった。 「なにもつかめなかった、と顔に書いてある」 

 「その通りです。あなたさまが挙兵なさるまえから、実家には便(たよ)りがなくなったそうです。じつは周苛の従弟の周昌(しゅうしょう)の家もおなじで、いまふたりがどこにいてどうなっているかは、実家でもまったくわからないそうです。ついでに申しますと、すでに蕭何の属吏(ぞくり)が実家にしらべにきたということです」

 「なるほど、蕭何にはぬかりはなかったということか」 劉邦はやるせなげにうつむいていた。 「あなたさまとの密(ひそ)かな通好(つうこう)が、郡守に知られたのでしょうか」 

 「われに通じたと見なされれば、かならず斬られる。みせしめのために郡守はその屍体(したい)を沛県へ送りつける。そうなっていないのだから、周苛と周昌は生きている」

 「そうあってもらいたいものです」 この尹恢の声をきいて、劉邦は県庁へ行った。執務室に坐るや、蕭何がはいってきた。その顔をひと目みて、———手がかりがあったな。 と、劉邦は感じた。

 「まだ憶測(おくそく)にすぎませんが、周苛は薛(せつ)にいるのではありますまいか」 と、蕭何は述べた。 』


 『 現今、諸城の門が閉じられているので、情報の蒐集(しゅうしゅう)は困難をきわめている。 が、蕭何は多くの属吏を三方に放って、うわさをも摭(ひろ)わせた。そこでわかったことは、泗水郡と薛郡が連合しようとして、泗水郡守が薛県へ往ったという事実である。

 「これはまちがいないところです。当然、泗水郡の兵も郡守に従って薛県へ行ったはずですが、その一部があなたさまを急襲した。すなわちその急襲は予定になかったことなので、周苛はあなたさまに報せようがなかった。

 また郡府のある相(しょう)県に郡守がおらず、周苛が残っているのであれば、報せを密送(みつそう)することが可能です。だがそれができないとなれば、周苛は郡守の近くにいて、遠ざかることができない、と想うのが妥当(だとう)です」

 「ははあ、それで周苛は薛にいると推理したのか」 劉邦はすこし安心した。 「ただし周苛はあなたさまにひそかに通じているのではないかと郡守などの上司に疑われているのでしょう。なにしろ沛県の出身ですから」

 周苛が実家にも何も伝えなかったのは、用心を累(かさ)ねて、自分にむけられている疑いの目をかわそうとしたためであろう。

 「ひとつのことがわかると、わからぬことがひとつ生ずる。人は、悩みの種(たね)が尽きぬものだな」 劉邦はあえて笑ってみせた。

 「べつに不可解が生じましたか」 「なんじは一をきいて十を知るほどの怜悧(れいり)さをもっているのに、ときどき一をきいて二がわからぬことがある。それとも、わからぬふりをしているのか」

 「何のことでしょうか」 蕭何はとぼけてみせた。 「では、問おう。 薛郡の守は泗水郡の守を招き、両郡の兵を合わせた。何のためであるか」

 「沛公すなわちあなたさまを討滅(とうめつ)するためでしょう」 「しかしながら、われが沛県にもどってから五日目になるのに、薛の兵に動きはない。なにゆえであろう」

 「そのことですか……」 両郡の兵が連結したのに起(た)たないのは事実である。劉邦はその理由を知りたがっているが、蕭何はその原因を知りたいとおもっている。 疑問の質がややちがう。

 「あなたさまの問にお答えできるのは、一をきいて十一を知るものだけです。薛には、兵をだせぬ事情がある、と申すしかありません」

 不確実な情報をもとに推量をかさねていっても事実には到達しない。なぜであるかわからないが、薛は討伐軍を起こさない。 が、この状態がいつまでもつづくとはかぎらないので、防備をおこたらないでおく、というのが蕭何の任務である。

 「一をきいて十一を知る者か……。そのような者はいまい。十年後のことを知る占い師でも、十一のことはわかりそうもない。時が教えてくれるのを待つか」 そういって劉邦は蕭何をさがらせた。』


 『 たしかに時はかくされた事情を曝露(ばくろ)する力がある。十月の末に、ひとりの男が薛県をぬけだして沛県に趨(はし)りこんできた。氏名を、「陳胥(ちんしょ)」と、いう。

 かれは薛の有力者の使者である。その有力者とは、「陳武(ちんぶ)」である。劉邦がつけている竹皮冠(ちくひかん)は、薛に住んでいる冠職人が作ったものである。

 往時(おうじ)、薛にしばしば行った劉邦であるが、陳武の名は知らなかった。が、蕭何と曹参はその名を知っていた。

 「数百人を養っている豪族ですよ。ただし威勢を張りだしたのは数年まえですから、ご存じないかもしれません」と、蕭何が説明した。

 「その陳武が、われに訴願(そがん)することがあるらしい。なんじらもわれとともにその使者に会ってくれ」ほどなく三人のまえにあらわれた陳胥は武骨そのものの人物であった。

 直観にすぐれている劉邦は、―――ひとくせありそうだが、欺騙(きへん)の人物ではない。と陳胥をみた。「至急のたのみごとであるときいた。それはどのようなことか」

 この劉邦の声に、一礼した陳胥は、いささかも口ごもらずに述べはじめた。「来月の三日の明け方に、薛を攻めていただきたい」突飛(とっぴ)な申し出である。

 劉邦は眉(まゆ)をひそめ、蕭何と曹参は顔をみあわせて目語(もくご)した。

 正確には、明日が十月の晦日(かいじつ)で、明後日が十一月一日である。三日の明け方に薛城の攻撃を開始するためには、軍を明後日に発たせ、しかもどこかで夜行しなければまにあわない。

 徴兵にてまどると、一日に出発できない。「むりです」蕭何が目で劉邦に伝えた。が、劉邦はいきなり使者の申し出を拒否せず、「三日の明け方に何があるのか」と陳胥に問うた。

 「県内で陳武が挙兵し、郡守らを襲います。まえから陳武は挙兵の機をうかがっていたのですが、それを察してか、郡守は郡外どころか県外にもでません。

 城外に泗水郡の兵の駐屯地があり、そこに三千の兵がとどまったままです。泗水郡の監平の兵が沛公の兵に敗れたため、泗水郡守に従って薛にきた兵も畏(おそ)れて一千以上の兵が逃げ去りました。

 また、どうやら陳王の属将でもある周市(しゅうし)が泗水郡内を東進しはじめたようなので、泗水郡守は相県に帰ることをためらったまま、薛にいます。

 その郡兵が薛の郡守と県令をかばう側に立つと、陳武の苦戦は必至です。そこで沛公には、泗水郡守と郡兵を伐(う)っていただきたいのです。

 三日をすぎても沛公の助力をいただけなければ、おそらく陳武もそれがしも、捕縛(ほばく)されて、処刑されるでしょう」 この語気には力があった。』


 『 もしも陳胥が薛の郡守か県令の配下で、劉邦を誘いだして殺すために弁舌をふるったのであれば、かれの語ったことはほとんど妄(うそ)であろう。

 しかしながら、たとえ妄でも、これほど滔々(とうとう)と語ったのはたいしたものだ、と考えるのが劉邦であった。

 しばらく陳胥を観察するようにみつめていた劉邦は、「陳武は、自身の都合で、われを利用するのか。虫がよすぎないか」と、つき放ちぎみにいった。

 「陳武は、ひごろ秦の悪政を憎み、嘆いておりました。陳勝の挙兵とめざましい進撃を知って大いに喜びましたが、かれが王になったとしり、失望しました。陳武は冷酷さも貪欲さも嫌っています。ところが沛公だけが民も兵もいたわると知って、恃む(たの)むのはこの人のみ、と喜悦したのです」

 劉邦は破顔(はがん)した。―――おだててくれるではないか。すこしからだをかたむけた劉邦は、「なんじと陳武のおだてに乗って、われは薛に征くつもりであるが、急遽(きゅうきょ)、兵をあつめるのはむずかしい。そのときは、われ独(ひと)りで薛の城外に立っているであろう、そう陳武につたえよ」と陳胥にいった。

 「しかと、つたえます」 再拝した陳胥はすみやかに退室した。 「沛公―――」蕭何と曹参が同時に発したのは諫(いさ)めの声である。

 が、片手を挙(あ)げてそれを掣(せい)した劉邦は、「死の淵に片足をいれた者が、助けてくれといってきているのだ。それを、是非を問わず助けるのが義侠(ぎきょう)というものさ。朔日(さくじつ)(一日)の朝までに、集められるだけ兵を集めてくれ」と、強い口調で命じた。

 独りでも行くと名言した劉邦を止めることはできないと判断したふたりは、手わけして兵を集めはじめた。

 帰宅した劉邦が妻の呂雉(りよち)にその話をすると、翌朝に、妻の兄である呂沢(りよたく)と呂釈之(りよせきし)がきて、「兵が足りぬときいた。われらも参じよう」と、いった。

 おどろいたことに、県庁にはいった劉邦に蕭何までが、「参戦したい」と、申し出た。―――よほど兵が足りぬ。そう感じた劉邦は、蕭何の申し出を聴(ゆる)すと、獄の主吏(しゅり)となっている任敖(じんごう)を呼んだ。

 「蕭何がわれに従って薛へゆくことになった。この城を守る者は、なんじを措いてほかにいない。たのむぞ」

 「はあ……」 任敖は、一瞬、くやしそうな表情をみせた。―――参戦したかったにちがいない。任敖の心情を察した劉邦は、「戦いは、はじまったばかりだ。なんじの戦いの場はこれからだ。われがなんじの力量を知らぬはずがないではないか」

 と、なぐさめた。おそらく任敖が守った城は陥落しない。すなわち任敖は墨守(ぼくしゅ)のひとである。そういう長所を任敖自身が意識したことはあるまい。が、劉邦にはわかる。』


 『 ―――敵を知っておく必要がる。と、考えた劉邦は、蕭何と曹参に諮(はか)り、百人程度の隊をつくると、先遣(せんけん)隊として、夜間に出発させた。

 一日の朝に集合した兵の数をかぞえてみると二千未満である。―――これでも多いほうだ。一千の兵でも出発するつもりであった劉邦は、兵にみじかく訓辞を与えると、すぐに兵車に乗った。

 兵車に近づいてきた任敖に、「われが帰らなかったら、王陵(おうりょう)を迎えて、県令に立てよ」と、いった。が、任敖はうなずかず、「まっぴらですな。沛公には子息がいる。仕えるなら、そのご子息がよい」と、いいかえした。

 小さく笑声を立てた劉邦は、全軍を出動させた。慣(な)れた道である。閉じられた泗水亭のまえをまたたくまに通過した。

 そこから東北にすすむと戚(せき)県に到るが、戚県はあいかわらず秦の城なので迂回することにした。その迂路(うろ)で露営(ろえい)した。戚県から兵が出撃しないともかぎらない。

 翌日、さらに東北にすすみ、薛県に近づいた。先遣隊がひきかえしてきた。泗水郡の兵の駐屯地を遠くから実見(じつけん)してきたのである。

 「善(よ)し、夜間にすこしすすみ、明け方にこの駐屯地を襲う」と、劉邦は決定した。かれには迷いも畏れもない。あえていえば、―――周苛ひとりを救いにきた。それだけの水師(すいし)である。

 東の天空が明るくなるまで、すこし待った。本営にいる蕭何は、曹参をみかけたので、「これが薛の郡守がしかけた罠(わな)であったら、われらはひとたまりもない」と、いってみた。

 不安があるわけではないが、すでに三つの戦場を踏んできた曹参がどうみているかを知りたくなったからである。曹参は蕭何の近くにきて、

 「薛の郡守は、泗水の郡守の力を借りようとしたくらいだから、小心者で、みずからが動くことはできない。だからといって、巧妙な策はない、とは断言できないので、罠の有無(うむ)についてはなんともいえない。ただし、泗水郡の兵にはわれらを迎え撃つ用意はない」

 と、はっきりいった。「ほう、どうしてそれとわかる」「けはいだな。待ち構えているのであれば、早めに腹ごしらえをしているはずだ。が、そういうけはいはなかった。あたりが明るくなって、駐屯地に炊煙(すいえん)が立てば、まちがいなく無警戒であることがわかる」

 「なるほど」戦地にあっては、蕭何は曹参から教えられることが多い。 』


 『 このころ劉邦の近くにいた樊噲は本営をでて先陣にむかった。「なんじは先鋒(せんぽう)にくわわり、なるべく早く周苛をみつけて、保護せよ」劉邦にそう命じられた樊噲は、先陣の将である紀成(きせい)への伝言をたずさえていた。

 「矛(ほこ)をさかさまに持っている者を、撃ってはならぬ」劉邦の命令である。矛をさかさまに持つ、とは、敵意のないさま、をいう。劉邦は泗水郡の兵をなるべく多くとりこみたい。

 やがて東天(とうてん)の雲が紅く染まった。雲が多く、天地の暗さが衰えないのに、突然あらわれた紅色はぶきみな美しさをもっていた。それをみた劉邦は、「午下には、雨になるか」と、つぶやいた。

 東天の紅色は徐々にひろがった。その紅色が大きくわかれると淡い水色の天空があらわれた。駐屯地にひとすじの炊煙が立った。直後に、劉邦軍の先鋒が動いた。

 樊噲(はんかい)の比類(ひるい)ない剛力(ごうりき)があきらかになったのは、薛(せつ)の城外においてである。かれは楯(たて)で飛矢をはらいつつすすみ、まっさきに土の壁を登った。

 この侵入者をはばもうと数人の兵がかまえて待ち構えていたが、樊噲が旋回(せんかい)させた矛に吹き飛ばされた。数人が同時に地から浮いて墜落したのである。それを目撃した兵は、「わっ」と、あとじさったまま、樊噲にむかっていけなくなった。

 かれらをひと睨(にら)みした樊噲は、「秦(しん)の悪政を憎み、正義に与(くみ)したい者は、沛(はい)公に降(くだ)れ。矛をさかさまに持つ者を、われらは撃たぬ」と、大声でいった。

 「どけ―――」 この樊噲に一声で、敵兵が左右にわかれた。樊噲を先頭に十数人が営所のなかを突きすすんだ。まだ樊噲の剛力を知らぬ兵がこの集団を襲ったが、またたくまに蹴散(けちら)された。

 「守壮(しゅそう)は、どこだ」そう叫びながら樊噲は前進しつづけた。かれの背後では乱戦がはじまり、樊噲の声が消されるほどの喚声(かんせい)が挙(あ)がった。

 造りのよい兵舎をみた樊噲は、―――ここが上級の吏人(りじん)のすまいだ。と感じ、なかをのぞいた。くらがりから矛がつきでた。それをかわして柄(え)をつかんだ樊噲は、なかの兵をひきずりだして抛(ほう)りなげた。

 なかが無人になったことを確認した樊噲は、「この舎に、火をかけよ」とうしろの兵にいった。城内では、陳武(ちんぶ)が私兵を率いて郡守と県令を急襲しているはずであるが、連絡をとりあっているわけではないので、現状はわからない。

 この兵舎を焼けば、いちおう合図となる。つらなっている兵舎のなかをいちいちのぞいてゆくわけにはいかないので、「周苛よ、樊噲だ」と、呼びかけながら歩いた。

 また数人の兵にゆくてをさえぎられたが、樊噲はかるがると排除した。ながれ矢がかれの鼻さきを通過した。「おおい、樊噲、ここだ、ここだ」遠い声である。

 いちばん端の兵舎のほとりにふたりの影があった。―――あれだ。高々と矛を揚げた樊噲は、喜び、走った。周苛は泗水(しすい)郡の吏人でありながら、樊噲のような下賤(げせん)な者をさげすまず、山沢(さんたく)に逃げこんだ劉邦を陰で支えてくれた。

うれしい再会である。立ったまま樊噲を待っていたのは周苛と従弟(じゅうてい)の周昌(しゅうしょう)である。周苛は剣しかもっていなかったが周昌は戈(か)をもっていた。

 「やあ、おふたりとも、ごぶじでしたか」そういって歯をみせた樊噲の甲(よろい)をこぶしで周苛は、「遠くからでも、なんじとわかったわ。よくきてくれた」と、ため息をまじえていった。

 その周苛の耳もとで、「沛公はあなたを救いだすための水師(すいし)したのです」と、劉邦の真情を察している樊噲はささやいた。えっ、と小さく叫んだ周苛は目をまっ赤にした。

 かって周苛はこれほど深く感動したことはない。酒屋で酔いつぶれた劉邦の上にかならず龍があらわれるという話からはじまって、劉邦はさまざまな奇談に装飾されてきた。

 それらを奇瑞(きずい)とみて、劉邦とのつきあいをおろそかにしなかった周苛であるが、驪(り)山へむかった劉邦が途中で少数の人夫とともに郡境近くの山沢へ逃げこんだと知ったときには、さすがに、―――あの奇瑞は、まやかしであった。

 と、落胆した。劉邦は山賊になりはてるだけだ、とおもわざるをえなかった。それでも劉邦の力になろう、と危険を承知で蔭助(いんじょ)したのは、義侠(ぎきょう)心というもので、一個の劉邦を一個の周苛が助けようとしたといってよい。

 劉邦は沛公とよばれる県令になったのに、一個の劉邦が一個の周苛を助けにきてくれたのである。周苛は全身でそう感じた。「さあ、沛公がお待ちです。十人ほどつけますので、おふたりは早く駐屯地の外へでて、本営へ趨(はし)ってください」 』


 これ以降、鴻門の会へと続きますが、これまでで、宮城谷の劉邦の雰囲気は十分に伝わったと思います。(第141回) 


ブックハンター「億万長者の黄金律」

2017-07-09 08:28:45 | 独学

 141.  億万長者の黄金律  (グレン・アーノルド著 峯村利哉訳 2012年1月)

 The Great Investors : Lessons On Investing From Master Traders   by Glen Arnold   ©2011

 私が本書を紹介しますのは、これを読めば億万長者になれますからという意味はまったくありません。彼らは結果として、億万長者でありますが、その前に学者であり、哲学者であり、慈善事業家(お金をどのように使えば、社会が良くなるかを考える人)です。

 原題には、億万長者とも黄金律ともありません。直訳しますと「偉大なる投資家:名トレーダーから学ぶ投資の教訓」となります。

 株式投資は、資本主義の基礎を形づくり、企業の経営内容をオープンにし、投資家が企業を評価し、結果として、社会の未来に対する方向づけを行っていると私は考えています。

 株式市場は、常に個々の企業を評価することによって、企業の方向性、社会の将来を導いています。そのために、株式市場は、社会に開かれ、公平で、企業は社会の未来に貢献し、利益を得て、企業価値(株価と信頼)を高め、株主に配当を支払い、国家には税を支払います。

 たしかに、20万円の投資と2億円の投資では、利益が出ても雲泥の差ですが、元金に対する割合は同じです。

 私のように70歳を過ぎたわがままな貧乏な投資家を受け入れるところはありませんが、わずかな投資額であっても、公平に受け入れてくれるのがオープン・ソエティの象徴としての株式市場の素晴らしいところです。

 開かれた社会の未来の価値を形づくる株式市場で、成功した男の生き方と哲学の話として、私は紹介したいと考えました。


 この本に出てくる名トレーダーは、以下の八人です。

 ベンジャミン・グレアム : Benjamin Graham(1894年~1976年) 20世紀の投資界における最高の知恵者

 フィリップ・フィッシャー : Philip Fisher(1907年~2004年) 成長株投資の第一人者

 ウォーレン・バフェットとチャールズ・マンガー : Warren Buffett(1930年~) Charles Munger(1924年~) 能力を補完し合う最強のコンビ

 ジョン・テンプルトン : John Templeton(1912年~2008年) グローバル・バリュー投資の大家

 ジョージ・ソロス : George Soros(1930年~) 投資界の哲学者

 ピーター・リンチ : Peter Lynch(1944年~) 最もパフォーマンスが高いファンドマネージャー

 アンソニー・ボルトン : Anthony Bolton(1950年~) 地球上で最も優秀な投資家の一人

 彼らの中での、直接的な手法よりも、その時代、その国の政治や経済、株式市場、個々の企業をいかに観察し、分析し、矛盾と失敗の中から、自分の哲学を構築し、成功を勝ちえたかを読んでいきましょう。


 『 ベンジャミン・グレアムは1894年にロンドンのユダヤ系の家庭に生まれた。一歳のとき、家族とともにアメリカに移住してきた。父親は陶器を商売にしており、家族は楽な生活を送っていた。

 しかし、1903年に父親が死亡すると、どんどん家計は苦しくなっていった。収入を得るために、母親は自宅で下宿屋を始め、世帯所得を上げるべく、株による投機に手を出した。

 初めはそこそこの利益が出ていたものの、1907年の株価暴落で全財産が失われた。投機は危ないという教訓は、グレアムが投資哲学を築きあげる際、投資の安全性を重視する原動力となった。

 もしも、あなたが投資と投機の違いを真剣に考えた経験を持っていないなら、グレアムの生涯にわたる熟考は大いに役立ってくれることだろう。

 きわめて優秀な生徒だったグレアムは、さまざまな子供向けのアルバイトをこなしながら、小中高を飛び級で修了した。そして、コロンビア大学に全額奨学生として入学したあとも、パートタイムで働きながら、全科目で優秀な成績をおさめ、わずか2年半で卒業した。

 1914年に若干20歳で卒業するころには、コロンビア大学の英語科、哲学科、数学科から教鞭を執るように誘われた。しかし、彼はこれらの誘いを断り、母親の件があるにもかかわらず、いや、母親の件があるからこそ、ウォール街で働く道を選んだ。

 証券会社の使い走りから始まったキャリアは、窓口係、アナリスト(分析専門家)と進み、最後には共同経営者にまでのぼりつめたのだった。 』


 『1923年、グレアムは同級生たちと〈グレアム・コーポレーション〉を設立した。この会社は2年半のあいだ活動し、高い資本収益率を達成した。

 グレアムは固定給と歩合給をもらっていたが、共同経営者たちからいいように利用されていると、自分はもっと高い歩合をもらうべきだと感じていた。

 ウォール街での金儲けの仕方について、すべてを知っていると自負するグレアムは、固定給を辞退する代わりに、収益に応じてスライドする20~50パーセントの歩合給をもらいたいと提案した。

 この一件は、〈グレアム・コーポレーション〉の解散につながり、〈ベンジャミン・グレアム・ジョイント・アカウント〉の設立につながった。総額40万ドルの出資をしたのは、グレアム自身と彼の旧友たち。

 以前に提案した通り、グレアムはスライド制歩合給をもらうこととなった。1929年までに、出資金は250万ドルに膨らんだ。良く知らない相手からの出資を断ってきたにもかかわらず、投資者の数は増えていた。

 学生時代から親交が続く友人グループの一人に、ジェローム・ニューマンという後輩がいた。コロンビア大学の法科大学院を出たジェロームは、1926年、グレアムの会社に応募するとき、自分の能力が証明されるまで無給で働くという条件を出した。

 グレアムはこの条件を受け入れた。つまり、バフェットよりも高い評価を与えていたわけだ! ジェロームはすぐに頭角をあらわし、このときから始まった2人の関係は、グレアムの引退まで続くこととなる。

 2人は親友という中ではなかったものの———グレアムの場合、知り合いは何百人もいたが、親友と呼べる存在は1人もいなかった———仕事面では素晴らしい協調性と実績を見せた。

 ジェロームが明晰な頭脳を実務と交渉に役立てたのに対し、グレアムは投資に革命をもたらすような新しい理論と戦略を生み出した。 』


 『 グレアムが参入した当時、ウォール街は大変革期を迎えていた。「ウォール街の長老の回顧録(The Memoris of the Dean of Wall Street )」と題した自叙伝の中で、彼はこう書いている。

 「草創期のウォール街では、ビジネスはおおむね紳士たちのゲームであり、複雑なルールのもとでプレーされていた」。

 紳士たち! 当時のウォール街では、いかにしてインサイダー情報を入手するかが重視され、財務分析にはまったくといっていいほど関心が払われなかった。

 人間の感情と ”コネ” が株価を左右すると見なされていたため、無味乾燥な統計数値に没頭するのは無駄な努力と考えられたのだ。しかし、1920年代に入ると、この体制は衰退しはじめ、近代的な財務分析ツールが幅をきかせていった。

 グレアムこそが、株式分析に知力を注ぎ込むという新しいやり方の先駆者だったのである。真の価値を大きく下回っている株を探す、という投資哲学をグレアムは築きあげたが、そのためには、企業の根源的価値の分析方法を自ら編み出す必要があった。

 過大なリスクをとることなく、安心して大きなリターンを得るには、どんな点に注意すればいいのか? グレアムは自分にこう問いかけ、苦労の末に答えを見つけ出したのである。

 いったん評価方法を習得してしまえば、安く売られている株を買うこともできるし、高く売られている株を避けることもできる。すべての産業が大規模に拡大し、それに伴って証券市場が上げ相場になるという状況は、グレアムとその新理論にとって完璧な環境だった。

 彼は金銭的勝利の時期を謳歌し、彼の生活水準は劇的に向上した。1927年、グレアムは自分の投資理論を本にまとめようと考えていた。

 これはやがてデビット・ドットとの共著「証券分析」として具現化され、同書はバリュー投資の概念と、”グレアム・ドット村”の考え方を世に広めることとなった。1934年の初版以来、「証券分析」は継続的に版を重ねてきた。

 グレアムは執筆前に、自分の考えを実証するため、コロンビア大学で講座を開設した。この講座は成功を収め、以後40年間に及ぶ教授生活のきっかけとなった。

 グレアムは資金運用の傍ら、さまざまな学術機関で教鞭を執ってきたのである。グレアムは博識で、さまざまな分野と言語に精通しており、学問に対する真の好奇心を持っていた。

 投資と教育のほかにも、暇を見つけては数多くの戯曲を書き、1つの脚本は実際に上演された。多くの重要な米国政府の聴聞会では、株式評価の専門家として証言を行った。

 グレアムは詩も書き、1949年には「賢明なる投資家」を執筆した。「証券分析」と同じく、「賢明なる投資家」も世界的なベストセラーとなり、今日でもランキングの上位を賑わせている。 』


 『 1920年代のグレアムは、”比較的” 安全第一主義をとる投資家だった。しかし、自身が認めていたとおり、周りの浮かれ騒ぎに便乗してしまう場合もあった。

 「わたしはすべてを知っていると確信していた。少なくとも、株と債券で金を儲けることに関しては、必要な事柄はをすべて知っていると……。自分はウォール街の急所をつかんでいると……。自分の野望と未来は無限であると……。若かったから、重度の自信過剰に陥っていることがわからなかったのだ」

 1929年から32年にかけての株式大暴落では、それまで利潤をあげてきた投資が損失に転じ、資金の約70パーセントが失われた。この事件は、物的所有に対するグレアムの姿勢を変え、身の丈を越える出費はもう絶対にしないと彼は決意した。

 二度とふたたび、誰かに誘導されたり、虚飾や不必要な贅沢に突き動かされたりしたくなかったのだ。さらにグレアムは、1928年から29年までを振り返り、根本的な過ちがどこにあったのかを探り出そうとした。

 彼の結論では、原因は投資家が自ら投機家に転向してしまったこと。じっさい、当時の株式市場の参加者たちに、”投資家” という言葉はふさわしくなかった。

 彼らは、投資価値についてゆがんだ考え方を持っており、重要な原理原則を踏み外していた。安全第一の手法で株を評価する際には、用心の上にも用心を重ねなければならないが、彼はそれをすっかり忘れていたのだ。

 収益予想に基づく評価は、当てにならない可能性が高く、有形資産に基づく評価がもっと重用されるべきだった。

 グレアムは、いまだに自分を信頼して資金を託してくれている人々に対して、名誉をかけて優れた実績をあげる義務があると感じていた。世界大恐慌のあいだ、グレアムは給料をまったく受けとらず、失った資金を取り戻すべく、身を粉にして働いた。

 大暴落の後始末を終えた1933年、彼はわずか37万5000ドルの顧客資金で再挑戦を始めた。〈グレアム・ニューマン・コーポレーション〉は同年、50パーセントの収益率を達成し、グレアムが引退するまでの約20年間、世界屈指の長期投資の実績をあげることとなる。

 グレアムは1955年、市場の発展に関する合衆国上院の調査委員会でこう証言した。自分の顧客たちは ”長い期間” にわたり、年20パーセントの粗利益、〈グレアム・ニューマン〉の手数料を引いたあとで、17パーセントの利益を手にしてきた、と。この数字は、市場平均の約2倍にあたる。

 リスクを冒さない投資家は低いリターンに甘んじるべきである、という昔ながらの物の見方にグレアムは与しなかった。ローリスク・ハイリターンは可能だと彼は考えていたのだ。

 しかし、それには条件があった。投資家が投資(投機ではない)の主要原則についての充分な知識を持っていることと、業界分析と企業分析についての充分な知識を持っていることだ(ビジネスの仕組みに対する真の好奇心があることは大前提)。

 さらに、投資家は難しい投資学を勉強しながら、長い時間をかけて経験を積みあげ、絶えず自分の失敗から学ぶというオープンな姿勢を持たなければならない。

 最後に、投資家は感情を制御しなければならない。投資家が重視すべき事柄は価値の分析であり、投資家全般の一時的なムードや騒ぎに乗らない方法を学ぶ必要がある。 』


 次に紹介しますのは、ジョージ・ソロスです。ソロスは自分自身をまず何よりも哲学者と見なし、社会構造の中で集団として人々は、ときとして経済のファンダメンタルズ(基本的条件)を、”均衡に近い” 状態から、”均衡にほど遠い” 状態に変える……。

 ソロスは、この仕組みを哲学的に理論づけ、”再帰性” 理論といわれる。私もソロス自身の本を読みましたが、よく解かりませんでしたが、本書はソロス自身の著書より、解りやすく書かれていると思います、では読んでいきましょう。


 『 1930年8月、ジョージ・ソロスはハンガリーのユダヤ人家庭に生まれた。母親は愛情に満ちあふれていたが、とても内省的で、詮索好きで、自己批判に陥りやすく、その姿勢は自虐的に見えるほどだった。

 ソロスによれば、母親の自己批判の傾向は息子にも受け継がれていた。大きな勝利をつかむ原動力となったのは、内なる敗北感を打ち消したいという強い欲求だった。

 父親のティヴァダルは外交的で、社交的で、他人の運命に純粋な興味を持っていた。このような美徳を持ちながら、人前で自分をさらけ出そうとしない父親を、ジョージ少年は偶像視した。

 まだ若いティヴァダルには大志があった。しかし、ちょうどこのころ第一次世界大戦が勃発した。義勇兵として参戦し、中尉に昇格した彼は、ロシア軍に捕えられ、シベリアの捕虜収容所へ送られた。

 ティヴァダルは大志を持ちつづけた。少なくともしばらくのあいだは……。彼は収容所内で、”厚板” と呼ばれる新聞(記事は人間の手で板に刻みつけられた)を発行し、人望が厚かったため捕虜代表にも選ばれた。

 しかし、近隣の収容所から捕虜が脱走し、その収容所の捕虜代表が射殺される事件が発生した。見せしめと抑止のための処刑だった。ティヴァダルは決断を下した。

 脱走者の代りに打ち殺されるのを待つよりも、自ら脱走するのが最善の方法である、と。彼は必要な技能を持つ30人の捕虜———大工、コック、医者など———を選び出し、脱走計画を実行に移した。

 イカダを作って川を下りはじめたものの、ティヴァダルたちは大きな間違いを犯していた。シベリアの川は北極海につながっているのだ。数週間後、ようやくミスに気づいた一行は、広大なシベリアを徒歩で横断することとなった。

 当時のシベリアは騒乱のただ中にあった。第一次大戦後、赤軍と反革命勢力が戦いを繰り広げていたのである。無残な光景を目の当たりにしたティヴァダルは、生きつづけることに大きな価値を見いだし、きっぱりと大志を捨てた。 』


 『 富と権力はもうどうでもよかった。望みは人生を楽しむことだけだった。いずれにせよ、無秩序な社会での悲惨な体験は、ティヴァダルにサバイバルの能力だけでなく、”均衡からほど遠い” 時期に入りそうな社会を見抜く能力を与えた。

 ジョージ・ソロスは平凡な生徒で、スポーツとゲーム(モノポリー:資産を増やす双六風ゲーム)を好んだ。特に数学の成績は低く、しかし、古典哲学の本に深い興味を持っていた。

 13歳のとき、美術館からの帰宅する途中で、街中にドイツ軍の戦車がいるのを目撃した。時は1944年3月。ドイツが同盟国のハンガリーに侵攻したのである。

 ソロスはのちに、あのころは人生で最もエキサイティングな時期だったと語っている。しかし、状況をすぐさま理解した父親のティヴァダルは、異常な時代に正常なルールは通用しないと判断を下した。

 当時は父親の独壇場だったとソロスは回顧する。ティヴァダルは法の遵守を ”危険な習慣” とみなし、法を無視することが生残につながる唯一の道だと考えた。

 ジョージ少年は後年の投資に生かせるさまざまなスキルを学んだ。彼にとって父親はサバイバルの教官であり、第二次世界大戦は上級サバイバル講座だった。

 ティヴァダルはロシア革命での体験を手本に、決然と行動し、家族分の偽造身分証明書を手に入れ、生活するための場所や隠れるための場所を探し出した。

 助けたのは自分の家族だけではなく、何十人もの命を救った。ソロスはこの当時を、人生で最も幸せな時期だったと見なしている。

 ハンガリーがナチスに支配され、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)が絶頂を迎えるころに、幸せだったというのは矛盾しているように思えるが、冒険好きな14歳の少年の目に映っていたのは、敬愛する父親が陣頭指揮をとり、他人を助けつつ窮地を乗り切っていく姿だった。

 侵略者を出し抜こうとしたときのリスクに比べれば、大人になってからとったリスクはどれも大したことがない、とソロスは発言している。 』


 『 1945年のソ連軍による占領は、ハンガリー全土に共産主義の圧迫感を蔓延させ、人々は危険な生活というよりも、退屈な苦役のような生活を強いられた。

 ナチス体制と共産党体制を経験したソロスは、現実の客観的側面を尊重するという健全な姿勢を身につけた。また、ドイツとロシアの占領下での ”均衡からほど遠い” 生活は、ソロスに洞察力を与えた。

 この洞察力は後年、ヘッジファンドの運用責任者としての成功に重要な役割を果たすこととなる。ティヴァダルにとってサバイバル技能の先生がロシア革命なら、ジョージ少年にとっての先生はナチスのハンガリー占領だった。

 共産党政権の厳しい管理のもと、ジョージ少年は社会からの束縛と、父親からの過干渉を感じていた。彼はティヴァダルに抗議した。15歳の子供に50歳のような考え方をしろというのは不自然であり、人間の成長にはもっと自由が必要だ、と。

 父親は息子を自立させようと思い立ち、どこへ行ってみたいかと尋ねた。ジョージ少年は、イギリスとソ連を候補に挙げた。ティヴァダルがソ連での体験を残らず息子に打明けたため、結局、行き先はイギリスに決まった。 』 


 『 1947年9月、17歳の誕生日の直後に、ソロスはロンドンの地を踏んだ。金はなく、友達はおらず、彼は深い孤独と絶望を感じた。ソロスの目に映る戦後のロンドンは、重苦しく、よそよそしく、感情的に冷たかった。

 遠い親戚が寝場所として長椅子を提供してくれたものの、諸手を挙げた歓迎ムードとはいかなかった。ソロスはつまらない仕事を転々とした。ブレントフォード(ロンドン近郊)でプールの係員をしたり、皿洗いをしたり、家の塗装をしたり……。

 大きな期待を持つ若者にとって、いちばんつらかったのは、勤め先の給仕長から仕事ぶりが認められ、一生懸命働けばいずれは給仕長補佐に出世するのも夢でないと言われたときだった。

 英語の教室に通いはじめるなど、前向きな進展はあったものの、1年半のあいだ、心の奥の失望は増幅していき。英語能力の不足でロンドン大学スクール・オブ・エコノミックス(LSE)の入学試験に落ちたとき、絶望感は最高潮に達した。

 まさにどん底の感覚。しかし、ソロスは何とか自分の中にポジティブな思考を見つけた。どん底からは落ちようがなく、これからは上に向かうしかない、と。金も友達もない痛みは、一生消えない傷となった。

 本人が率直に認めるとおり、もうあんな経験をしたくないという思いは、恐怖症のように体に染みついてしまっていた。この思いは、大金を稼ぎたいと心に決めた理由の一つでもあった。

 ソロスはしばらくケンティッシュタウン工芸学校に通っていたが、1949年春、ようやくLSEの入学試験に合格することができた。

 78歳のときに執筆した本の中で、ソロスは再帰性の観念を明確に説明したあと、”均衡に近い” 状態と ”均衡から程遠い” 状態の違いを強調すべく、自分の発達期を例に挙げた。

 彼は安定した中産階級の環境———通常の ”均衡に近い” 状態———で生れ育った。その後、ナチスの脅威と共産主義の抑圧が、”均衡から程遠い” 状態を作り出した。

 よそ者としてイギリスで暮らしたときは、安定した自己完結的な社会を窓越しにのぞき込むしかなかった。安定は有用な生活必需品であり、いつでも手に入るわけではないという事実を、ソロスほど深く認識している者はほとんどいないだろう。 』


 『 ソロスはLSEで経済学を専攻したが、すぐさま自分に向いていないことに気づいた。理由は2つ。(1) 自分は数学が苦手なのに、経済学は数理的要素を重視する傾向を強めていた。

 (2) 教授たちが好んだのは、”知識の完全性” のような古典的前提に基づき、代数的な構造を築きあげることだったが、自分の興味の対象は、経済学の基礎——— ”知識の完全性” のような古典的前提そのもの———にあった。

 大学生活で明るい話題は、カール・ポッパー教授との出会いだった。ホッパー教授は刺激的な発想を与えてくれ、ソロスと真剣に向き合ってくれた。

 「 カール・ホッパーは主張していた……理性には、一般法則化の真実性を一片の疑念もないレベルまで高める能力はない、と。じっさい、科学法則でさえ実証は不可能である。

 なぜなら、演繹的論理学を用いる限り、どれだけ大量の個別的観察結果を集めようと、そこから例外なき有効な一般化を引き出すことができないからだ。

 幅広い懐疑の姿勢を採用したとき、科学的手法は最もうまく機能する。科学法則は、誤りが証明されるまで有効な暫定的仮説としてあつかわなければならない……。

 彼が主張するとおり、科学法則を実証することは不可能だ……。法則に合致する実例がどれだけ存在しようと、疑う余地のない一般法則化の証明には不十分だが、法則に合致しない実例が一つでも存在すれば、一般法則化の有効性は破壊されかねないのである 」

 経済の参加者に ”知識の完全性” を想定しなければならない経済学者と、人間の理解は本質的に不完全であると主張するホッパーは、真っ向から対立する。

 しかし、前者はアイザック・ニュートンを手本に、一般法則化を通じて一つの学問分野を創りあげようとした。この結果、経済学は複雑さを増し、数学の利用頻度が高まったのだ。

 人間の思考と行動から生まれた不測の影響が、予告も前触れもなくやってきたり去っていったりする、というティヴァダルの実体験は、人間の誤謬性を強調するホッパーの主張とがっちり嚙み合っていた。

 ホッパーの影響を受け、標準的な経済モデルを拒んだソロスは、歴史の流れが形成される上で、誤認と誤解が大きな役割を果たしたと考えた。そして、この自説を基に、人間の行動に関する枠組みを構築しようとした。

 市場参加者の意思決定は、知識のみに左右されるわけではない。市場参加者の偏向した認識は、市場価格だけだなく、市場価格を決めるとされるファンダメンタルズにも強い影響を及ぼす。ここで注目すべきは、偏向した認識が2つの効果を持つという点だ。

 ソロスは独創的な哲学者としての成功を熱望し、この思いを生涯持ちつづけた。具体的にいうと、人間の誤謬性を法則にまとめ、幅広く認められたかったのだ。

 しかし、残念ながら学校の成績は中の下でしかなく、学者としてキャリアを積むのはとうてい無理に思えた。

 「観念の冒険」を書いた哲学者、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドからも刺激を受けたソロスは、新しい物の見方を哲学的思索だけではなく、ビジネスという現実世界にも適用した。

 彼を魅了したのは、観念の ”冒険” という発想だった。賢明さを併せ持つソロスは、新理論を経済や金融に適用する場合、塾考よりも行動から多くを学べるということを理解した。彼の思考は行動につながり、行動は思考を向上させた。 』


 ソロスは、これから就職し、ロンドンで働き、26歳でニューヨークに移り、主としてヨーロッパの株を分析し、取引しましたが、ソロスはハンガリー語と同じレベルで、ドイツ語、フランス語、英語を操れたおかげで、経営幹部から直接話を聞くことができた。

 そのため、ほかのアナリスト(分析者)とは比べ物にならない、卓越した知識を手に入れることができた。これから、本格的に投資の世界を歩んでいき、ついにはイングランド銀行を打ち負かした男と呼ばれるまでになりますが、ソロスの話はここまでです。


 ピーター・リンチが投資家としての成功に必要な個人的資質を提示している。

 『 「資質のリストに含まれるのは、我慢強さ、自信、常識、痛みに対する耐性、精神の開放性、超然性、粘り強さ、謙虚さ、柔軟性、独立した調査を遂行する気構え、失敗を認める気構え、世間のパニックを無視する能力だ。

 最高といわれる投資家たちのIQは、最下層の10パーセントより上、最上層の5パーセントより下に分布しているだろう。私の意見では、真の天才は理論的思考に没頭するあまり、株の現実的行動に裏切られつづける。

 完全な情報なしに意思決定を行う能力も重要だ。ウォール街では物事が明確になることはほとんどなく、明確になったあとではもう利益を得ることはできない。

 すべてのデータを知ろうとする科学的精神構造は、投資における成功とは相容れない。最後に人間の ”性”(さが) と ”勘” に逆らうことも重要だ。

 自分は株価や金価格や金利を予想するコツを会得した、という確信を密に持っている投資家は珍しくない。その予言が何度も何度も外れているにもかかわらず」 』 

 リンチはこのような気の滅入るような包括的リストを提示している。


 最後に、アンソニー・ボルトンが良い投資家の条件をあげている。

 『 投資家にとって重要なのは、理論的かつ客観的に思考する能力だ。また、どんなときも当初の原理原則を忘れてはならない。対象企業の真髄が心の最上層に刻み込まれるよう、複雑な物語を短く凝縮する能力が必要となってくる。

 小事のとらわれて大事を見失ってはいけないのだ。”話がうますぎて信じられない” ときは、常識的な判断が助けになってくれる。”うまい” とされる話しの構造が、あなたに理解できないほど複雑な場合は、いっさい近づくべきではない。

 投資家は、自分自身の能力を正確に測る必要がある。自信過剰になるのは禁物。具体的にいうと、投資のパフォーマンスが良い時期が続いても、自分の才能に対する評価を大きく膨らませるべきではない。

 逆に、短期的なパーフォーマンスの悪さを強調して、自分の能力を過少評価すべきでもない。

 ボルトンの信条によれば、すべての保有銘柄は、”投資命題” を持っている必要がある。投資命題とは、当該銘柄を保有した理由———もしくは当該銘柄を保有したいと望む理由———を数行の文章にまとめたもので、あなたの10代の息子や娘にも理解できる内容でなければならない。

 そして、投資命題は一定期間ごとに再試験を受ける必要がある。 』 (第140回)

 

 


ブックハンター「ワーク・シフト」

2017-06-25 07:38:21 | 独学

 140. ワーク・シフト  (リンダ・グラットン著 池村千秋訳 2012年8月) (The  Shift  by  Linda Gratton    Copyright©2011)

 本書を私が知ったのは、このブログの115.パラレルキャリアの中で、「漫然と迎える未来には孤独で貧困な人生が待ち受け、主体的に築く未来には創造的な人生がある」(ワーク・シフト リンダ・グラットン著)と紹介されていたからです。

 私は七十歳になって、様々な老後をみてきて、「漫然と迎える未来には孤独で貧困な老後が待ち受け、主体的に築く未来には創造的な老後がある」と置き換えてみました。

 東洋に於いては、自力本願と他力本願があり、自力だけではうまくことが運びませんので、時には、バランスをとりながら他力本願の力を借りたいものです。では、いっしょに読んでいきましょう。


 『 産業革命の前と後で世界は大きく様変わりしたが、私の息子たちの世帯が経験する変化もそれに匹敵するくらい劇的なものになる。

 産業革命の原動力が石炭と蒸気機関という新しいエネルギーだったのに対し、これから起きようとしている変化を突き動かすのは、五つの要因の複雑な相乗効果だ。

 五つの要因とは、テクノロジーの進化、グローバル化の進展、人口構成の変化と長寿化、社会の変化、そしてエネルギー・環境問題の深刻化である。

 未来にいたる道はいく通りもある。たとえば、五つの要因の悲観的な側面をことさらに強調したシナリオを描くこともできる。それは、人々が孤独にさいなまれ、慌ただしく仕事に追われ、疎外感を味わい、自己中心主義に毒される未来だ。

 私たちの行動が後手に回り、五つの要因の負の力が猛威を振るう場合に実現するシナリオである。このような未来を「漫然と迎える未来」と呼ぶことにする。

 「漫然と迎える未来」は、人々が人生のある側面で大きな成功を収めても、別の重要な側面で好ましい行動を取らなかったり、安易な行動しか取らなかったりする場合に訪れる。

 対照的に、五つの要因の好ましい側面を味方につけて、主体的に未来を切り開くこともできる。このような未来では、コラボレーションが重要な役割を担い、人々は知恵を働かせて未来を選択し、バランスの取れた働き方を実践する。

 これは、「主体的に築く未来」である。人々がさまざまな働き方を試し、お互いから学習して、すぐれたアイデアを素早く取り入れていく。五つの要因が明るい未来の可能性を開く——ことによると、明るい未来を約束する——のだ。

 これは、人々が主体的に決断をくだし、賢い選択をおこない、その決断と選択の結果を受け止める覚悟がある場合に実現する未来だ。 』


 『 では、未来に押しつぶされない職業生活を築くために、どのような固定概念を問い直すべきなのか。私たちは三つの面で従来の常識を〈シフト〉させなくてはならないと、私は考えている。

 第一に、ゼネラリスト的な技能を尊ぶ常識を問い直すべきだ。世界の五十億人がインターネットにアクセスし、つながり合う世界が出現すれば、ゼネラリストの時代が幕を下ろすことは明らかだと、私には思える。

 それに代わって訪れる新しい時代には、本書で提唱する「専門技能の連続的習得」を通じて、自分の価値を高めていかなくてはならない。

 未来にどういう技能と能力が評価されるかを知り、その分野で高度な技能を磨くと同時に、状況に応じて柔軟に専門分野を変えることが求められるのだ。

 また、個人の差別化がますます難しくなるなかで、セルフマーケティングをおこなって自分を売り込み、自分の技量を証明する材料を確立する必要性も高まる。

 第二に、職業生活とキャリアを成功させる土台が個人主義と競争原理であるという常識を問い直すべきだ。私たちがいつも時間に追われ、孤独を感じる傾向がさらに強まれば、人間同士の結びつき、コラボレーション、人的ネットワークの重要性はきわめて大きくなる。

 難しい仕事に取り組むときに力になってくれる人たちも重要だし、斬新なアイデアの源になりうる多様性のあるコミュニティも重要だ。活力を補給し、精神のバランスを保つためには、親密で、温かく、愛情のある人間関係も欠かせない。

 バーチャル化がますます進む世界では、そういう人間関係が当たり前に存在するわけではない。そのような人間関係は、意識的に形づくっていかなくてはならなくなる。

 第三に、どういう職業人生が幸せかという常識を問い直すべきだ。これまでの常識通り、貪欲に大量のモノを消費し続けることが幸せなのか。

 それとも、そうしたライフスタイルが代償をともなうことを明確に認識したうえで、質の高い経験と人生のバランスを重んじる姿勢に転換するほうが幸せなのか。

 未来を完全に予測することは不可能だが、だからと言って、すべてを運任せにしていいわけではない。

 未来を形づくる五つの要因をよく理解し、未来のストーリーを描いて自分の選択の手がかりにし、職業生活に関するいくつかの常識を根本から〈シフト〉させれば、好ましい未来を迎える確率が高められる。

 仕事を通じて、胸躍る日々を送り、喜びを味わい、自分とほかの人たちのために価値を生み出せる可能性が広がるのである。 』


 ここで著者は、五つの要因から派生する現象を述べていますが、ここでは省略し項目のみを記述します。

 『 要因1 「テクノロジーの進化」から派生する10の現象。

 ① テクノロジーが飛躍的に発展する  ② 世界の五十億人がインターネットで結ばれている  ③ 地球上のいたるところで「クラウド」を利用できるようになる

 ④ 生産性が向上し続ける  ⑤ 「ソーシャルな」参加が活発になる(オープンイノベーション)  ⑥ 知識のデジタル化が進む  ⑦ メガ企業とミニ起業家が台頭する 

 ⑧ バーチャル空間で働き、「アバター」(ネット上での分身)を利用することが当たり前になる  ⑨ 「人口知能アシスト」が普及する  ⑩ テクノロジーが人間の労働者に取って代わる


 要因2 「グローバル化の進展」から派生する八つの現象。

 ① 24時間週七日休まないグローバルな世界が出現した  ② 新興国が台頭した  ③ 中国とインドの経済が目覚ましく成長した  ④ 倹約型イノベーションの道が開けた 

 ⑤ 新たな人材輩出国が登場しつつある  ⑥ 世界中で都市化が進行する  ⑦ バブルの形成と崩壊が繰り返される  ⑧ 世界のさまざまな地域に貧困層が出現する

 要因3 「人口構成の変化と長寿化」から派生する四つの現象。

 ① Y世帯(1980~1995年生まれ)の影響力が拡大する  ② 寿命が長くなる  ③ ベビーブーム世代の一部が貧しい老後を迎える  ④ 国境を越えた移住が活発になる


 要因4 「社会の変化」から派生する七つの現象。

 ① 家族のあり方が変わる  ② 自分を見つめ直す人が増える  ③ 女性の力が強くなる  ④ バランス重視の生き方を選ぶ男性が増える

 ⑤ 大企業や政府に対する不信感が強まる  ⑥ 幸福感が弱まる  ⑦ 余暇時間が増える

 要因5 「エネルギーい・環境問題の深刻化」から派生する三つの現象

 ① エネルギー価格が上昇する  ② 環境上の惨事で住民を追われる人が現れる  ③ 持続可能性を重んじる文化が形成されはじめる 』


 『 以上で、今後数十年の働き方の未来を形づくる三二の要素を簡単に見た。次にあなたがするべきことは、これらの要素をもとに、あなた自身の未来のストーリーを描き出すことだ。それが、あなたの前にある選択肢について理解を深める出発点になる。

 たくさんの布からパッチワークキルトをつくる私の母のように、まず素材を選り分けなくてはならない。どの現象を自分のストーリーに用いるかを決める必要があるのだ。

 私が挙げた三二の現象のなかには、はじめから自分には関係ないと感じたものもあるだろう。あるいは、衝撃を受け、もっと詳しく知りたいと思ったものや、共感し、自分のストーリーの一部にしたいと思ったものもあるかもしれない。

 素材の選別が終わったら、それをどのように組み合わせれば一つの図柄が出来上がるかを考え、自分の状況や価値観にあったストーリーをつくり上げる。具体的には、以下のプロセスで自分のストーリーを描けばいい。

 ① 不要な要素を捨てる  ② 重要な要素に肉づけをする  ③ 足りない要素を探す  ④ 集めた要素を分類し直す  ⑤ 一つの図柄を見いだす 

 以上のプロセスは、私が「働き方の未来コンソーシアム」の参加者に課した作業でもある。 』


 時間に追われない未来をつくるために、著者はグローバル経済の中では、成果をあげなくてはならないが、魔法の杖はない。そのためには、自分の前にある選択肢がもたらす結果を深く考えることだとして、以下のように述べています。


 『 時間に追われる未来をむかえないためには、三つの〈シフト〉を成し遂げることが効果的だと、私は考えている。

 〈第一のシフト〉で目指すのは、専門技能の習熟に土台を置くキャリアを築くこと。一つのものごとに集中して本腰を入れることが出発点になる。高度な専門技能は一万時間を費やしてはじめて見につくという説もある。

 専門的な技能に磨きをかけたいと思えば、慌ただしい時間の流れに身を任せようという誘惑を断ち切り、一万時間とは言わないまでも、ある程度まとまった時間を観察と学習と訓練のために確保する意志をもたなくてはならない。

 〈第二のシフト〉は、せわしなく時間に追われる生活を脱却しても必ずしも孤独を味わうわけではないと理解することから始まる。目指すべきは、自分を中心に据えつつも、ほかの人たちとの強い関わりを保った働き方を見いだすこと。

 私たちがあまりに多忙な日々を送らざるをえないのは多くの場合、あらゆることを自分でやろうとしすぎるのが原因だ。強力な人的ネットワークを築けば、自分の肩にのしかかる負担をいくらか軽くできるだろう。

 それに、ほかの人たちとの関りには、時間に追われることの弊害を和らげる効果もある。いわば強力な「自己再生のコミュニティ」をはぐくめば、慌ただしく仕事に追われずに過ごす時間を確保する後押しが得られるからだ。

 〈第三のシフト〉は、消費をひたすら追求する人生を脱却し、情熱的になにかを生み出す人生に転換することである。

 ここで問われるのは、どういう職業生活を選ぶのか、そして、思い切った選択をおこない、選択の結果を受け入れ、自由な意思に基づいて行動する覚悟ができているのかという点だ。

 二〇二五年の世界では、七〇歳代になっても働く人が多くなり、短距離走ではなく、延々と続くマラソンのように長い職業人生を送るようになると予想できるからだ。

 これらのことを抜きにして、テクノロジーの発展とグローバル化にともない高まり続けるプレシャーから自分を守ることはできない。 』


 『 仕事の世界で必要な三種類の資本の第一の資本は、知的資本、要するに知識と知的思考力のことである。多くの国の社会では、キャリアの面でこの資本が最も重んじられており、学校教育はおおむね、この種の知識と思考力を養うことを目的としている。

 その人がどういう分野で能力を発揮するかは、どのような知的資本をどの程度備えているかによって決まる。未来の世界では、キャリアで成功を収めるうえで知的資本の役割はますます大きくなるだろう。

 本書で提案する〈第一のシフト〉は、知的資本を強化することを目的とするものだ。昔は、幅広い分野の知識と技能をもつ人材が評価されてが、そういう状況は変わると、私は考えている。

 グローバル化が進展し、テクノロジーが進化して世界が一体化する時代には、あなたと同種の知識や技能をもっていて、しかもあなたより早く、安く、そしてひょっとするとあなたより上手に同種の仕事をおこなえる人が世界中に何千人、ことによると何百万人も現れる。

 そこで未来の世界では、その他大勢から自分を差別化することがますます重要になる。そのために、時間と労力を費やして専門分野の知識と技能を高めなくてはならない。いわば、熟練の技を磨き上げる必要があるのだ。

 ただし、特定の一つの分野だけで専門知識と技能をはぐくむことには危険がともなう。もし、その分野が時代遅れになったり、あまり価値がなくなったりしたら? もし、あなたがその分野の仕事を嫌いになったら?

 昔は職業人生が短かったので、一つの分野だけでキャリアを終えるのが普通だった。しかし、職業人生が長くなれば、まず、ある分野の知識と技能を深めていき、やがて関連分野へ移動したり脱皮を遂げたり、まったく別の分野に飛び移ったりする必要が出てくる。

 つまり、未来の世界では、広く浅い知識を持つのではなく、いくつかの専門技能を連続的に習得していかなくてはならない。これが〈第一のシフト〉である。 』


 『 第二の資本は、人間関係資本、要するに人的ネットワークの強さと幅広さのことである。そこには、生活の喜びを与えてくれる深い人間関係も含まれるし、さまざまなタイプの情報や発想と触れることを可能にする広く浅い人間関係も含まれる。

 未来の世界では、そういう人間関係を意識的に築く必要があること、私は考える。孤独が深まる未来の世界では、活力を与えてくれる人間関係が不可欠だ。

 しかし、イノベーションと創造性の価値がことのほか高まることを考えると、多様性のある人的ネットワークを築くことの重要性は増す。幸せを得るためには、さまざまなタイプの人間関係のバランスを取る必要があるのだ。

 私たちは、専門知識と技能を磨いてほかの人たちとの差別化を図る一方で、高度な専門知識と技能をもつ人たちと一緒に価値を生み出していかなくてはならない。

 それができなければ、自分の力だけで大勢のライバルと競い合わなくてはならなくなる。ひとことで言えば、私たちは、孤独に競争するのではなく、ほかの人たちとつながり合ってイノベーションを成し遂げることを目指す姿勢に転換する必要がある。これが〈第二のシフト〉である。 』


 『 第三の資本は、情緒的資本、要するに自分自身について理解し、自分のおこなう選択について深く考える能力、そしてそれに加えて、勇気ある行動をとるために欠かせない強靭な精神をはぐくむ能力である。

 自分の価値観に沿った幸せな生き方をするために、この種の資本が必要となる。情緒的資本を強化することは、三つの〈シフト〉のなかでいちばん難しいかもしれません。

 一人ひとりが自分を見つめ直し、どのような職業生活を送りたいかを真剣に考え、ときには厳しい選択をしなくてはならない。未来の世界を形づくる要因の数々を考慮に入れると、私たちはおそらく、高い生活水準を手にするだけでは満足しなくなるだろう。

 大量に消費することより、上質な経験をすることが望まれるようになり、「豊かさ」や「贅沢」という言葉より、「幸せ」や「再生」という言葉が職業生活の質を評価する基準として用いられるようになると、私は予想している。

 そういう時代には、際限ない消費に終始する生活を脱却し、情熱をもってなにかを生み出す生活に転換する必要がある。これが〈第三のシフト〉である。

 SF作家ウィリアム・ギブスンの言葉をもじって言えば、「未来はすでに訪れている。ただし、あらゆる場に等しく訪れているわけではない」のである。

 あなたとあなたの友達とあなたの子どもたちにとって、漫然と未来を迎えるという選択肢はもはやありえない。未来の暗い側面を知れば、なんの対策もなしにそんな世界にさまよい込みたいとは、だれも思わないだろう。

 問題は、どう行動すべきかである。やみくもに突き進むだけでは、「主体的に築く未来」の重要な要素であるコ・クリエーション(協創)、社会への積極的な関わり、創造性を発揮する生活を実現できる保証がない。

 私たちは、三つの〈シフト〉を意識的に実践しなくてはならない。具体的には、第一に、さまざまな専門技能を次々と身につけることを意識して行動する。

 第二に、いろいろなタイプの興味深い人たちとつながり合うために、善良に、そして精力的に振る舞う。

 第三に、所得と消費に重きを置くのではなく、情熱をいだける有意義な経験をしたいという思いに沿った働き方をする必要がある。 』


 『 リチャード・フロリダのように、どういう土地で質の高い生活を送りやすいかを調べている研究者もいる。フロリダの研究で明らかになったのは、ほかの土地に比べて、住む人が幸福になれて活力を得やすい土地があるということだ。

 第一は、知的興奮を味わえ、創造性が刺激されること。公園や公共のスペース、文化行事などは、創造的なエネルギーを生み出し、人々に幸福感と活力を与える。美しいものが果たす役割も大きい。

 経済学の世界には「ビューティー・プレミアム(美しさがもたらす恩恵)」という言葉もあるくらいだ。とくに、土地の物理的な美しさがもたらす好影響は見逃せない。美しい土地には、創造的能力が高く、新しい経験をすることに前向きな人たちが集まってくる。

 第二は、自分らしく生き、自分を自由に表現し、自分の個性をはぐくめること。自分の出身地を遠く離れ、故郷のコミュニティの社会規範や習慣の外で生きる人が増えるにつれて、「自分らしさ」を感じることがますます重要になる。

 そうした自己表現は、人と人との違いに寛容で、自由な雰囲気の土地ほど表現しやすい。

 第三は、ほかの人と知り合い、友達になりやすいこと。たとえば、自動車で移動するより徒歩で移動することが多い土地や、オープンエアのカフェがたくさんある土地では、人と人の出会いが後押しされる。

 第四は、地元に誇りをいだきやすいこと。たとえば、地元にスポーツチームが活躍していたり、偉大なことを成し遂げた住民がいたり、景色が美しかったりすれば、私たちは自分の住んでいる土地を誇らしく思える。 』 (第139回)


ブックハンター「「下り坂」繁盛記」

2017-06-05 14:29:27 | 独学

 139.  「下り坂」繁盛記   (嵐山光三郎著 2009年9月)

 私が以前に書きました「チャンスと選択肢と投資について」の中で、人生を15年間ずつ区分し、七つの期に分類しました。

 近年は、平均年齢で八十歳を超えてますので、私のように七十歳であれば、八十歳を超えて、生きることを考えなくてはなりません。(平均の中には若くして亡くなられた人を含めた平均なので、すでに七十歳以上の人の平均は、それを越えることになります)

 幼年・少年期 0~14歳、青年期 15~29歳、成年期 30~44歳、壮年期 45~59歳、熟年期 60~74歳、老年期 75~89歳、終末期 90~104歳 としてみました。

 人によって異なるとおもいますが、熟年期の後半から、「下り坂」に差し掛かりますが、登ったり、下ったりと決して平たんではないと思われます。

 本書にあるように「下り坂」を繁盛させ、充実したものにして、楽しい人生を送るためのヒントがあるのではと考えて紹介致します。


 『 僭越ながら白状しますと、私は下り龍である。下り龍とは、天から地へ下ろうとする龍であって、登り龍ではない。絶頂期はとうの昔にすぎた。やりたいと思ったことはやりつくした。

 だからいつ死んでもいい、というわけではなく、ほうっておいても死ぬときは死ぬのである。下り龍というのは厄介な化物で、と自分でいうのもおこがましいが、下りながら好きほうだいに暴れるのである。

 金はない。少しはあるけど、あんまりない。体力も落ちて、そこいらじゅうにガタがきている。中古品を通りこして骨董品である。それも値のつく古道具ではなく二束三文のガラクタである。

 ろくなもんではない。けれど生きている。平気で生きている。下り坂を降りることはなんと気持ちのいいことなのか、と思いつつ生きている。

 「下らない」とは、つまらない、とるに足らないという意味である。ということは「下る」ことじたいに価値がある。生きていく喜びや楽しみは下り坂にあるのだ。

 若い人は上昇志向がある。「上を見ろ!」と自分をはげまして生きてきた。「いまのままで十分」と考えるのは停滞だ、と自戒してきた。

 満足してしまったらそこで終わりだから、右脳の命じるまま、直感によって生きている。しゃにむに働き、いくら苦しくても我慢をして坂を登ってきた。つまり上り龍であった。

 けれど、登りに登っても、そのさきの上はどこにあるのだろうか。山の頂上の上には雲がある。青雲の志とは高位、高官をめざすこころざしである。

 では青雲の上にはなにがあるか。月があり、星がある。星の上にはなにがあるのか。宇宙がある。宇宙の上にはなにがあるか。上は無限で、どこまでいっても辿りつく定点がない。それと気がついたとき、天才は行き場を失い、自殺する。こういった天才は百万人にひとりぐらいだから、特別である 』


 『 私の世代は、天国と地獄を体験しえただけでも運がよかった。過ぎてしまえば、敗戦直後の悲惨な日々もなつかしい思い出となり、焼け跡にマンマルの太陽が沈んでいく恍惚はいまも胸の内に燻っている。

 二十二歳で出版社に就職すると、予想していた以上の激務が待っていた。三十歳のころは、一日の睡眠が四時間という日々であったが、さほど苦にはならなかったのは、それなりに登り龍であったからだ。

 三十八歳で勤めていた出版社を退職した。会社の経営がいきづまり、希望退職者を募集したので、それに応じたのだった。会社が希望退職者の条件としたのは「四十五歳以上の社員」だった。

 それにより、四十五歳からは下り坂なのだな、とわかった。私が退職した一九八〇年は経営不振のため希望退職を募る会社が続出し、どこの会社も、申しあわせたように、「四十五歳以上」という条件をつけた。

 四十五歳定年は、体力の落ちた企業が自力更生するための手段だった。経営者の立場に立てば、仕事ができないのに高給を取る社員は不用である。人件費を減らして効率のいい経営をしたい。それを経営者は次のように説明した。

 六十歳定年で会社をやめた人は、そのあとの仕事をみつけにくい。四十五歳で退職すれば、第二の人生が開ける。実力のある人材を、社は飼い殺しにしたくない。そのため四十五歳でやめる人には退職金を割増しして支払う。

 会社はあと十五年もつ保証はどこにもないが、人生は長い。四十五歳で割増し退職金を得て、新天地へむかう人を社は歓迎し、支援する。

 私は社をやめるとき、雑誌編集長であったから、それなりに登り坂ににいる、と自認していた。体力にも自信があったし、まだまだやれるという気力があったが、四十五歳までにはあと七年しかない。さてどうしようか、と迷った。

 迷ったあげく、自分で自分をリストトラしたのだった。頭の中に「下り坂を生きる」という直感が走った。それで、三十八歳で、希望退職の仲間入りをした。 』


 『 しばらくは失業保険の給付を受けて生活しようとしたが、そのころの職安は、なにかと難癖をつけて、金を支払わない。職安の担当者が指示した会社へ行って面接を受け、その結果を持ち帰ってこいといわれた。

 職安が提示した会社は、老人用ベットの、セールス会社だった。職安の担当者が、私の「高給」に腹をたて、「今どき、そんなに高い給料を払う会社はありませんよ」と嫌味をいった。

 ここに至って、それまで勤めていた会社が、どれほど高遇してくれていたかに恩義を感じたが、引き返すわけにはいかない。この世の現実を思い知らされた。

 しばらくぶらぶらしているうち、たちまち貯金が底をついた。私は、中学校のころから西行や芭蕉にあこがれ、放浪生活願望があった。専攻したのは中世隠者文学で、卒論は鴨長明であった。

 長明は神官としての栄達をねがったが、果たせずに隠遁した。挫折によって遁世の生涯をおくった。学生のころは、隠者の過酷さは頭だけでわかったつもりでいた。それが現実の課題として自分の身にふりかかった。

 鴨長明は、山中に隠れてからも都の栄華が忘れられず、たびたび都に出かけ再就職を試みた。長明の隠遁は怨恨によるもので、出家してからは、怨恨の思いを浄化することにつとめ、その格闘が「方丈記」となった。下り坂で繁盛した人である。

 「北面の武士」として鳥羽院に仕えた西行は、出家するときに、とりすがる四歳の娘を縁の下に蹴とばした。かわいい娘を蹴とばすとはとんでもない父親だが、失業して野に下るときはそれぐらいの覚悟が必要だ。

 失業した私は、友人と小さな出版社をたちあげた。木造スーパーの八百屋の二階倉庫を改造したボロ社屋で、そこは貧しいながらも、鴨長明の庵を連想させる風雅な隠れ家であった。

 やけっぱちで野に下ったのに、それがかえって評判をよび、なんだかんだと繁盛してしまった。たちまち「下り坂は商売になると気がついた。日本人は、下り坂が好きなのである。 』


 『 友人に五十歳会社をやめ、田舎でペンション経営をした人がいるが、あまりの過労のため二年後に頓死してしまった。体力屈強な山男であった。この世に第二の人生なんてものは存在しない。

 人生は山あり谷ありのなだらかな一本線で、ずっと連がっている。頓死した友人は、風雅を求めても、貧乏な生活は断ちきれなかった。ペンション経営などせず、山小屋で貧乏暮らしをすればよかったのである。

 歳をとったら町に住め。隠居するのは町が一番である。近くに居酒屋、コンビニ、銭湯、病院があり、人間がいっぱいいるほうが目立たない。友がいるし書店や図書館や映画館があって新聞も宅配される。

 だれもが自分が死につつあるということを自覚したいるわけではない。死は意識の彼方に蜃気楼のようにぼんやりとあるもので、生きているときは、死なんて忘れている。

 大切なことは死に至る過程で、これが下り坂を生きる極意といっていいだろう。私はワープロを使わない。パソコンも持ってないし、インターネットにも興味がない。原稿はすべて手書きである。

 忘れた漢字は、辞書をひいて調べ、一字一字原稿用紙に書きつけていく。思考するときは文字を書く。パソコンを使うと思考が蒸発してしまい、蓄積されない。文字を書いて思考する。

 「時流から取り残される」とは、なんと素晴らしいことだろうか。取り残されてこそ自分があって、生きてきた甲斐があった。いまの時代は時流がいっぱいあって、中高年世代には取り残される条件がそろっている。

 それなのに、インターネットにはまりこんで時流にとりこまれるのは、とんでもないことである。

 私が「下り坂の極意」を体感したのは、五十五歳のときの自転車旅行からだ。自転車で、芭蕉の「奥の細道」を走破した。いっぱいある仕事をうっちゃって、ダラダラと自転車旅行をして、芭蕉の呼吸を追体験した。

 登り坂がきつかった。五十歳をすぎると、若いころの体力はなく、たいした坂でもないのに、自転車から降りて引いていく仕末だ。国道はトラックやバスの大型車輌が多く、追いこされるときは風圧でふっとばされ、命がけの旅であった。

 ぜいぜいと息を切れして登るときは、周囲の風景が目に入らない。ひろい国道をさけて町のなかの細い道に入ると、そこは抜け道になっていて、地元の自家用車が猛スピードで走り、はね飛ばされそうになった。

 登り坂は苦しいだけで。周囲が見えず、余裕が生まれない。どうにか坂を登りきると、つぎは下り坂になる。風が顔にあたり、樹々や草や土の香りがふんわりと飛んできて気持ちがいい。

 ペダルをこがないから気分爽快だ。そのとき、「楽しみは下り坂にあり」と気づいた。 』


 『 どうして、こんなに離婚が多いんだろうか。知人の半分以上が離婚経験者で、離婚してない夫婦の方が珍しい。優秀な企業戦士に限って妻とうまくいってない。

 某社の部長は「妻とは五年間口をきいてない」というし、某学校の教授は、離婚した妻が家を出ていかない。その理由は「妻が住む家がないから」で、小さな一軒家で別れた妻と同居している。

 妻にいわせれば「あんたこそ家を出てきなさいよ」ということになるが、夫にしたところで、ほかに住む家がなく、愛人がいるわけでもないし、自分が買った家に住んでいる。

 世間からは良妻と見られている妻が、家庭内ではとんでもない悪妻であるケースも多い。悪妻が夫を成功させる、といわれるけれど、とんでもない俗説であって、「悪妻でありながらも、夫はそのハンディをのりこえて、自分の力でのしあがった」のである。

 離婚裁判で最高裁までいった知人がいる。凄絶な罵り合いとなり、お互いに相手の人格を否定し、その精神的な傷ははかりしれない。ズタズタになって人間不信におちいり、裁判判決後に没してしまった。

 離婚に要する体力は結婚の数倍かかる。また、離婚は当人どうしだけでなく、その夫婦をとりまく人間関係をこわしてしまう。

 熟年離婚は文明社会特有の現象で、テレビドラマにもなって、「時代に遅れちゃいけない」と目覚めた人妻が駆け込み離婚する。協議離婚が成立すれば、財産分与があり、夫の年金分割も入るため、妻が路頭に迷うことはない。

 企業戦士は、家庭ではたえず浮いた不安定なところにいる。会社では汗水垂らして働き、七人を敵にまわし、揺れ動く自分を制御しなければならない。畳の下には地雷が埋まっている。

 家庭には職場のシステムを持ち込むことができない。とくに専業主婦は要注意である。家庭という閉ざされた圏内で行動するため、価値観が固定され、唯我独尊となる。

 困ったことに、妻には人事異動ができない。妻には「会社の理論」は通用せず、会社人間ほど妻に手をやくことになる。さあ、どうしたらいいんでしょうか。仕事をとるか妻をとるか。

 という問題にたちむかって「妻との修復」を書いた。ひとつわかったのは、いちいち妻のいうことをきいている男のほうが、離婚をいい渡されることが多い。人妻の増長は無制限で、夫がつくせばつくすほど図に乗り、子どもと同じで手加減がない。

 いまの御時世では、良妻賢母という発想はなく、金のかかった女、見ばえのする女が人気で、連れ歩くときにうらやましがられれば、男の力が誇示できる。

 けれど、六本木ヒルズに住むモデルやタレントたちがいい妻といえるだろうか。ヒルズ族のセレブ夫婦の開く鍋パーティは寒い。と書いたら、六本木ヒルズに住むT君から電話があって「それは、きみのひがみだよ」といわれた。

 T君は自動車修理工場を経営している。十一年間つれそった妻(高校の同級生)と離婚したのが九年前で、その後新宿区役所通りにあったスナックのママと再婚して、昨年離婚した。

 四月四日に、三度目の結婚をするから、結婚式に出席してスピーチをしてくれと頼まれたが、あいにこスケジュールがあわない。大安だというから、”三度目もまた大安のよき日かな” と祝電を打っておいた。 』


 『 趣味はハイセンである。というと、配線ですかと訊かれる。電線をつなげて時限爆弾かなにかこしらえてんの。爆弾テロだろ。それとも敗戦ですかい。戦争に負けたことを反省分析して、時代を見つめなおすんですな。

 あ、わかった廃船でしょう。浜に打ちあげられた廃船でキャンプしたりして。違うの。廃線です。廃止された鉄道の跡を、列車がわりにゴットンタラタラと歩いておるのだ。

 わが旅も行きつくところまで行きつき、廃線跡を犬のように嗅ぎまわる日々になった。もともとローカル線が好きで、「日本一周ローカル線温泉旅」 「日本全国ローカル線おいしい旅」 を書いたが、そういったローカル線が、片っ端から廃線に追い込まれていく。

 敗戦になるのは、ひなびて味のあるローカル線ばかりである。地面がずり落ちたような海沿いのローカル線は、いとおしい日本の風景である。特急に乗れば一時間で行けるところを三時間かけて旅していた。地元の人々に密着していた生活路線である。

 どれほど風雅な地でも、あわただしく過ぎればただの絵葉書にすぎない。古びた駅で降り、貧相な山の湯の宿に泊まり、古障子の破れ穴より差し込む光を見てきた。これぞ下り坂趣味の快感である。

 旅に出る前は虫封じのまじないをし、名所旧跡を避け、おんぼろローカル線のシートに身をしずめ、ゴットンゴットンと下ってきた。

 ところがどうだ。そういった哀愁の路線に限って廃線となる。高速道路ができて、山奥や岬のすみずみまでクルマで行ける。するとローカル線は赤字になり、廃線に追い込まれる。

 廃線ときまると、どっと客が集まる。電車は「さよならナントカ号」の花輪をつけて、全国からやってきた鉄道ファンに見送られて走り、新聞やテレビに報道されるが、そのあとは、ひたすら朽ちていく。

 鉄道は、焼いて、墓場に埋めるわけにはいかない。ホームも線路も標識も踏切も、風雪いさらされる。ホームのコンクリートはひび割れ、駅のベンチには蔦がからまり、雑草が繁り、レールは錆びてゆく。

 壁板がはがれ、駅の屋根は崩れ、雨樋が折れ、プラットホーム一面に枯れすすき。木造電柱からつながる蜘蛛の巣をぼーっと見て、時間をすごす。風と雑草が駅舎を食い荒らし、「雨月物語」に出てくる化物屋敷みたい。

 こういった廃駅はいずれ壊されサラ地になってしまうんだろうが、朽ちていくいま、を見定める。いまのうちに見ておかなきゃもったいない、と「小説宝石」のイソ坊とダンゴロウーと一緒に、廃線紀行をはじめた。

 風化する時間の実物を体感するのは、西行、芭蕉よりつづく日本人の伝統である。これぞ、廃線文化のはじまりである。という構想を抱いて各地の廃線をめぐっているうち、廃線の成熟度がわかってきた。

 ① 見ごろは廃線になって三年後である。 ② 無残なる廃駅の面影は五年後ぐらい。 ③ コテコテの無常は七年め。 これは廃線度七五三現象という。

 昔から廃墟願望があった。無人となった西洋館豪邸跡、倒産した温泉ホテル、廃業した工場、閉鎖された木造小学校、朝顔が咲く川沿いの番小屋、住人のいない市営住宅……、かって人間の営みがあった地が、すたれて、荒れていくのがいいんですね。 』


 『 向島百花園にタイモン・スクリーチ氏(ロンドン大学教授)とエイドリアン・J・ピニグトン氏(早稲田大学教授)をお迎えして、英日親善句会を行った。おふたりとも日本語ペラペラの文人である。

 対する日本の文人系は、南伸坊、長曾我部友親(トノ)、テレコムスタッフ岡部憲治(車窓)、同ディレクター氏家力(日借)、K談社より四名の編集者(曲亭・朱蘭・一本・玲留)、S英社編集長(蛙・遅れて参加)、浅生ハルミン(春眠)、石田千(金町)、嵐山オフイスのモチ子姐さん(トンボ)、嵐山(世話人)、坂崎重盛(露骨=宗匠)である。

 兼題は月、唐辛子。あとは当日の投句で、夕暮れの百景園を歩いての吟行となる。百景園は久保田万太郎はじめ、多くの俳人が句会興行をした名園だが、十一月の末だから、ほとんど花は枯れ、枯れ葉がハラハラと散っていた。

 たちまち、「シャンソンを歌って落ち葉かな」の句を得て、ミチ子姐さんに「一句五百円で売るよ」というと「いりません」と断られた。

 ミチ子姐さんの句は、 「名月や 峠のわが家 囲炉裏酒」 (トンボ) で一票入った。月見をしながら峠の家で燗酒を飲むシーンが浮かんでくる。

 「残菊の 花粉で一度 くしゃみする」 (一本) 藤田一本は、剣道の達人だからイッポンの号があるが、はたしてこれが俳句といえるかどうか。ただし剣術遣いがハックションとくしゃみをして一票はめでたい。

 二票句は、 「猫を追う 母子を見ている 老柘榴」 (トノ) トノは慈悲ぶかい目で百景園の野良猫を見ておられたのだ。とすると。老柘榴は長曾我部家十七当主である自分のことらしい。

 「枯枝に 頬つつかれて 萩の道」 (露骨) 百景園は萩のトンネルが名物で、その萩が枯れて頬をつつく。露骨は二票が不満で「宗匠に一点もなき句会かな」だな、と文句をいう。「頬つつかれて」がなかなかの手並みだが、やっぱり、つつかれると痛いから点が入らない。

 三票の問題作はタイモン教授で、 「旅立ちの わが足かたし 唐辛子」 歩いて旅すると、自分の足が唐辛子のように赤くなる、という詠嘆である。 「わが足は 唐辛子なり 旅へ立つ」 と添削しようとしたが、ロンドン大学教授だからね、遠慮した。

 タイモン教授は翌日日光まで徒歩で旅するのだという。健脚の一句。大学の授業で遅れてきたエイドリアン教授は、選句にまにあわなかったが、 「秋の日の 暑さ集めて 唐辛子」 と自句を披露した。「暑さ集めて」に観察力がある。

 校了のため同じく遅れてきたS英社の蛙親分は、 「唐辛子 蹴散らして行く 通学路」 乱暴ですな。長身白髪の蛙親分は武闘派で銀座のママさんに圧倒的人気がある。両氏とも投句時間にまにあえば高得点であったかもしれない。 』


 『 「美事なり 赤と緑の 唐辛子」 (伸坊) あのね、伸坊。どのように美事(みごと)なのかを詠むのが俳句なんですよ。と注意すると「だって美事なんだからしょうがないだろう」と口をとがらせた。こういう句に三票も入ることが、句会のレベルの低さを示している。

 「甘酒や 茶碗ひとつの 老夫婦」 (曲亭) 百花園の茶店で、一杯の甘酒を分けあっている老夫婦がいた。曲亭翁はそのシーンをつかまえた。だけど、甘酒ぐらい一人一杯飲みゃいいじゃないのと激論になり、伸坊が「マアマア」と仲裁した。

 「隅田川 遠くに聞こゆ 小春かな」 (車窓) 車窓は長寿番組「世界の車窓から」のプロデューサー。近くに隅田川が流れていて、この地は荷風「濹東奇談」の背景になった。隅田川沿いのマンションを隠れ家としている車窓ならではの吟。

 「源氏より 千年照らす 今日の月」 (車窓) も三票で、車窓はこの日は好調である。

 「犯人は いずこホームズ 月を見る」 (嵐山) シャーロック・ホームズを出したから、タイモン教授の句と思って票を入れた人がいる。タイモン教授は「月並みな句だ」とブツブツいっている。

 「寒々と 天を切り割き 月に雁」 (朱蘭) 朱蘭は「酒乱の編集長」としておそれられたことがあるからこの号がある。「月に雁」という細長い記念切手があり、切手少年の思い出。

 「唐辛子 阿修羅の指に 染まりおり」 (日借) 日借はテレビディレクターで、先日、奈良の古寺で阿修羅像の撮影をしたときの印象。阿修羅の指が唐辛子みたいに赤くなっていたんだって。

 「癇癪を おこしてちぎる 唐辛子」 (春眠) ハルミンさんは美貌のイラストレーター兼エッセイストで、猫と一緒に暮らしている。新刊の著書「私は猫ストーカー」が映画化された。天才脳科学者を陰で操る魔法猫の正体を追う話らしい。五票句もハルミンさん。

 「ふたりいて 歩きたりない 月夜かな」 (春眠) 月夜に恋人と歩きまわるところに、猫の習性がのりうつっている。

 六票句は、「亡きひとの 湯呑茶碗の 小菊かな」 (金町) 亡き人とは、没したおばあちゃんのことだろうか。この日の茶店で甘酒を飲んだときに、金町嬢はおばあちゃんを思い出した。

 「満月や 夜空に穴の あいたよう」 (露骨) 満月を夜空の穴と見たてての着想で、てっきり女性の句だと考えて、私は一票を入れてしまった。露骨の句と知っていればやめといたのに、と悔やんだがあとのまつり

 「キッチンの 一隅灯す 唐辛子」 (露骨) キッチンの上にぶらさがっている唐辛子が、そこだけ赤く照らしている、という絵画的な句。「キッチン」とあるからタイモン教授の句と思ってこれにも一票いれてしまった。露骨は二句に六票が入った。

 最高点(天)の七票句は、「走る月 臥して眺むる 夜の汽車」 (玲留) 玲留ことK談社の京子さんは鉄道大好き麗人だからレールの号。五泊六日でイタリアの夜行列車に乗りにいってきた。寝台列車に寝転がって、空に走る月を見る、という情景。

 天はもう一句、「池底の 冬見とどける 芒かな」 (嵐山) 百花園に古池があって、水辺に枯れ芒があった。もうすぐ冬がやってくるのだなあ、と芒が池の底をのぞきこんでいる。

 この句に七票入るとは句会のレベルは高いな。フフフフと含み笑いをすると、宗匠の露骨が「天の句に名句のあったためしなし」と、ぶつくさいっているのでした。 』


 嵐山光三郎流の遊びの話でしたが、遊ぶのもそう簡単ではなく、工夫を凝らし多くの仲間を巻き込んで、楽しんでいます。私も主体的に工夫を凝らして、全力で七十の坂を転ばないように気をつけて、下っていこうと思います。(第138回)


ブックハンター「米中神経戦切り札はトランプにあり」

2017-05-26 14:30:51 | 独学

 138. 米中神経戦切り札はトランプにあり  (ティム・マーシャル著 文芸春秋2017年6月号)

 本記事は、”特集” ”朝鮮半島クライシス” での ”米中神経戦切り札はトランプにあり” のインタビュー記事です。

 平和の反対側に戦争・紛争があります。憲法九条だけで、平和を考えていければ、ハッピーですが、平和の反対側の戦争や紛争や様々な武器や核や、神経ガスなどを含めて、本当の平和が考えられます。

 著者の地政学によって、米国、中国、ロシア、インド、EUなどの力関係を頭に入れて、世界情勢のニュースを聞くのと、知ることなく世界の平和を考えるのでは、その方向性に大きく違いが生じるのではないでしょうか。

 ここで述べている地政学は、私でも抵抗なく、理解できます。では、いっしょに読んでいきましょう。


 『 イギリスで出版され、ベストセラーになった「恐怖の地政学——地図・地形でわかる戦争・紛争の構図」が、ドイツ語、スペイン語、中国語などに翻訳されて世界中で話題を呼んでいる。

 昨年十一月に刊行された日本語版も既に七刷りまで版を重ねた。著者はティム・マーシャル氏(57)。コソボ紛争、アフガニスタン侵攻、アラブの春の騒乱、米大統領選など三十ヵ国以上の紛争地域や国際ニュースの現場に身を置いてきたジャーナリストだ。

 

 トランプ大統領誕生後の世界をどのように解釈し、理解すべきか、多くの人が悩んでいます。トランプについてまず言えることは、彼が次に何をするか、誰にもわからないということでしょう。

 彼はおそらく、意識的に予見できない状況を作り出している。結果として、彼が支配する「トランプ・ワールド」では、過剰なまでの予測合戦が起こっていて、「こうなるかも」 「ああなるかも」と、四六時中、人々は彼の次の一手を予測することに明け暮れています。

 世界の情勢を見通すことが困難な時代だからこそ、私の本が各国で注目されているのだと思います。地政学とは、国際情勢を理解するために地理的要因に注目する学問です。

 山脈がここに存在するから、大河がそこを流れているから、砂嵐が止まらないから——このような地形や気候の条件が、意思決定者の選択肢を規定しているからです。

 まだ二十代の駆け出しのジャーナリストとしてバルカン諸国を取材していた頃、私は地理や地形が、主要な政治や軍事の戦略を規定していることを、身をもって学びました。

 ベオグラードでセルビア人の友人から「セルビア軍は山岳地帯をどう防御するのか」 「NATO(北大西洋条約機構)はどこまで進軍するのか」 について、地図を広げながら解説してもらうと、ブリュッセルの広報機関が公表している以上にNATOの選択肢が限定的であることがわかりました。

 このことを、以後、あらゆる紛争地帯を取材する際に肝に命じています。 』


 『 四月六日、アメリカは地中海に展開していた海軍駆逐艦からシリアの軍事施設を空爆しました。米国がシリアを直接攻撃したのは、初めてのことです。

 今回のシリア空爆を、どう分析すべきでしょうか。そのためには、まずアメリカという国を地政学的に正しく理解しておく必要があります。

 「アメリカ衰退論」とでも呼ぶべき言説は、三十年以上前からありました。世界情勢を語る際に 「二十世紀はアメリカの世紀だったが、もはや……」 という枕詞でアメリカの将来を悲観的に語る言説です。

 でも実際は、二十一世紀の現在も「アメリカの世紀」であることに何ら変化はありません。実はこれは地政学的には当然の話です。アメリカは、地形によって運命づけられた「史上最強の国」だからです。

 確かにオバマ政権の八年間は、アメリカの国力が減退した印象を与えたかもしれません。今後、トランプ政権でどうなるかも分かりません。しかし、大統領が誰であろうと、アメリカの位置は変わりません。

 宝くじが当たり、どこの国でも買えるほどの富を手にしたとしましょう。私が不動産業者なら、真っ先に勧めるのはアメリカです。アメリカは東海岸から西海岸まで約五千キロも離れていますが、そこに存在する五十の州は、EUとは違い、一つの国としてまとまっています。

 敵が攻めてくるのであれば北か南からでしょうが、北にはカナダがある。カナダとアメリカは非常に密接な経済パートナーであり、二国の間は世界最長の非武装国境です。

 カナダ南西部の砂漠地帯も、敵の侵入を拒むはずです。一方、南のメキシコも、トランプが建設を狙う「国境の壁」がどうなるかはさておき、関係は深く、広大な国土を持っています。

 敵国がメキシコを通過してアメリカを攻めようとすれば、気が遠くなるほど長い兵站線が必要になるでしょう。東西南北を広大な海岸と、比較的友好関係にある隣国に接していることが、アメリカの「戦略的深み」となっています。

 地政学的に見たアメリカは、外部からの侵攻が不可能に近い、難攻不落の地なのです。さらに言えば、アメリカのことを知るためには、アメリカ大陸の地図だけを引っぱり出してきてもダメです。

 世界地図を眺めなければ意味がありません。アメリカは、日本の沖縄やペルシャ湾、地中海など、世界各地に何百という軍事基地を持っています。こうしたすべてを把握して、初めて「本当の国力」が浮かび上がってきます。 』


 『 今回のシリア空爆が長期的戦略に欠けた、反射的で浅はかな行動だったという批判はよく聞かれます。私は、この空爆は後世の歴史書に残るような「ゲーム・チェンジャー」(局面の大転換)ではないと考えています。

 アメリカにとって、シリアは、存亡を左右する存在ではないからです。だからこそ、オバマ大統領は在任中、アサド政権の化学兵器使用を目の当たりにしても、シリア情勢を成り行きに任せてきました。

 今回の空爆も、中東全体を見据えた長期的戦略ではなく、あくまで短期的戦術として捉えるべきでしょう。ただ、そこには三つの、決して小さくない成果がありました。

 第一に、ここ攻撃によってトランプは、大統領就任から百日以内に全世界に米軍の展開能力を誇示することに成功しました。同時に、化学兵器を使用したアサド政権に対して、「何らかの措置がとられるべきだ」という世論の期待に応えました。

 第二に、大統領選の最中から「トランプはロシアと結託しているに違いない」と騒ぎ立てている人々に対して「私はプーチンの操り人形ではないぞ」というメッセージを明確に打ち出してみせました。

 そして、最重要である三番目の成果が、中国に対して「北朝鮮問題に手を貸せ」というメッセージを、もっとも強烈な形で送ったことです。習近平国家主席の訪米に合わせてシリア空爆が行われたことが、その狙いを物語っています。

 習はフロリダ州パーム・ビーチにあるトランプの別荘マール・ア・ラーゴで、夫人同伴で夕食を共にしました。

 そして、デザートを頬張っているところでトランプはおもむろに、「たった今、シリアに五十九発のミサイルを撃った」と伝えたことを、米経済専門チャンネルのインタビューで明かしています。

 習はしばらく沈黙し、通訳を通じて「もう一度、説明してほしい」と聞き返したそうですから、その衝撃の大きさがうかがえます。その上で、「北朝鮮の状況について、手を貸してくれませんか」とトランプは習に求めたわけです。

 この行間に「さもなければ、シリア同様、北朝鮮も我々の手でどうにかしますよ」という、中国がもっとも避けたいシナリオが込められていたのは明らかでしょう。 』


 『 中国を地図で見れば、もっとも敵国に付け込まれやすい急所は、中朝国境です。ここに、アメリカの手が及ぶ事態は、何としても避けたいのが中国の本音です。

 もう一点指摘すれば、中朝国境付近を黄海に向かって流れる鴨緑江と日本海に向かって流れる豆満江。この二つの川で隔てられた隣国の政情が不安定になることは、中国にネガティブな影響をもたらします。

 ひとたび動乱が起きれば、二千五百万人の北朝鮮人民が、中国に大量の難民となって押し寄せる可能性があるのです。歴史を紐解けば、中国は昔から、外敵から緩衝地帯を確保することを基本戦略にしてきました。

 そして、今のところその戦略は功を奏しています。わかりやすい例が、インドとの国境です。

 中国とインド。互いに莫大な人口を抱え、政治的にも文化的にも相容れない二つの大国は、長い国境を接しているにもかかわらず、これまでに戦ったのは一九六二年に一回、それも一ヵ月間だけです。

 これは二国間に世界一高い山岳地帯、ヒマラヤ山脈が横たわっていることが大きな理由だと考えられます。

 加えて、西や北に目をやれば、チベットやウイグル、内モンゴルといった辺境の地が国境を形成して、その砂漠や山岳地帯が自然の要塞の役割を果たしています。

 これらの自治区では独立を求める運動が相次いでいますが、戦略的な重要性から、中国政府がこれを認めることはありえません。

 さらに中国とロシアの国境を眺めてみた場合、ロシアが進軍するのに最適な場所は極東のウラジオストクです。しかし、理由は後述しますが、ロシアの目は常に東欧に向けられており、極東からの進軍はありえません。

 このように見ていくと、中国が内陸から侵攻される危険性は低いことがよく分かるでしょう。つまり、中国にとって朝鮮半島だけが例外です。 』


 『 ここにアメリカと軍事同盟を組む韓国が主導する統一国家ができることは、中国にとって悪夢です。朝鮮半島を除けば、アメリカと中国が唯一衝突する可能性があるのが、海上です。

 中国ももちろんそのことを重視しており、もっぱら海の軍備を増強させてきました。これが中国のもう一つの基本戦略です。地政学的に見て、新しく地図を塗り替える動きと言えるのが、中国の「島」建設です。

 岩礁を埋め立てて既成事実を作り上げる——この作業を、中国は南シナ海で、驚くべきスピードで進めています。中国は地理を自分たちに有利に「作って」いるのです。

 将来的には中国はこの既成事実をどんどん拡大し、力ずくで押し通すようになるでしょう。今後は、中国が一方的に領有権を主張している南沙諸島の周辺の、フィリピン、ベトナム、マレーシアといった国々との関係をどうやって築いていくのかが焦点となります。

 現に、中国はフィリピンとの関係を修復させつつあります。このように見てくると、世界一、二の大国、つまりアメリカと中国と比べて場合、地政学的に「難攻不落の国」であるアメリカの方が、随分と恵まれています。

 トランプは習に、四月の首脳会談で、「北朝鮮が食糧を手に入れられず、石炭を売ることができなければよい」と伝えたようです。事実、首脳会談後の中国は、北朝鮮の外貨獲得の主力品である石炭の輸入禁止や、中国人観光客の北朝鮮渡航規制などを実施してます。

 一方でトランプは、原子力空母カール・ビンソンを北朝鮮近海に向かわせており、北朝鮮問題を中国が片づけないなら、自分たちでどうにかするぞ、という圧力をかけ続けています。

 軍事力についても、中国のそれは米軍の足下にも及びません。十年、二十年後ならまだしも、今の中国に本気でアメリカと渡り合うほどの準備はありません。

 となると、トランプに北朝鮮問題でいくら圧力をかけられても、中国は受けざるを得ない。つまり現時点では、軍事においても、貿易など他のあらゆる面においても、トランプ(切り札)を持っているのはトランプです。

 この二十年間で、中国が今ほどナーバスになっているのを私は見たことがありません。このように改めて整理してみると、アメリカにとっては大した経済的負担もなく実行されたシリアへの一度の空爆で、トランプ政権は極めて大きな果実を手にしたことが分かります。

 私はトランプ支持者ではありません。つい先日も、ホワイトハウス報道官が「ヒトラーはアサドとは違い化学兵器を使わなかった」と、とんでもない発言をした物議を醸しました。

 ところが、歴史観や常識を欠いても、必ずしも政権として愚かであるとは限らない。トランプが嫌いでも、この点に気づくことが情勢分析には重要です。 』


 『 アメリカ、中国に次ぐもう一つの大国、ロシアについても考えてみましょう。モスクワの繁栄を守るため、ロシアは歴史的に常に二つのことを企図してきました。

 一つはヨーロッパ平原から攻められた際の緩衝地帯を、東欧に維持すること。だからこそ、ウクライナに反ロシア政権が誕生することは何としても阻止せねばならなかったのです。

 たとえ世界中から「侵略行為」と非難されてもです。もう一つは、不凍港を求めて南下すること。だから、黒海艦隊の重要拠点であるクリミア半島の軍港セヴァストポリは、死守すべき生命線なのです。

 最後に、日本は一体どうすべきなのかを検討してみましょう。今、世界の発火点とでも言うべき場所は、二ヵ所あります。一つが先ほど説明したロシアと東欧、もう一つが北朝鮮——まさに日本の「ご近所」です。

 朝鮮半島と日本の対馬(長崎県)とは、わずか四十九キロしか離れていません。半島情勢がこれだけ緊迫する中、日本は今こそ、地政学に学ぶ必要があるでしょう。

 周辺の動きを常に注意深く観察している日本はすでに、中国に呼応するように軍事費を年々上昇せせています。防衛予算は五兆円を超え、過去最高となっています。

 昨年度は第二次世界大戦以降で最多となる航空自衛隊による緊急発進が行われています。その数、実に千百六十八回。中でも、中国機に対する発進は最も多く、八百五十一回だそうです。

 さらに日本政府は、事実上の空母と呼ぶべき「ヘリ搭載護衛艦」も配備しています。日本はアジアにおける軍事国家としてのプレゼンスを今後ますます高めていく、というのが地政学的観点から見た自然な流れです。

 いずれにせよ、国土の周囲をすべて海にかこまれた、資源に乏しい海洋国家である日本がとるべき地政学的戦略は限られています。それは一言でいえば、「シーレーン(海上交通路)を確保し続けること」に尽きます。

 今後どれだけ技術が発達しても、経済が発展しても、地形が変わらぬ以上、不変です。先述したように、中国が海で「地理を作る」行為を止めようとしない現状では、選択の余地はなく、アメリカをパートナーとするしかありません。

 そこに米韓同盟を組んでいる韓国も加えて考えてよいでしょう。日本と韓国は、地政学的に見ればもっと自然に良い関係を結び、軍事的にも協力関係を築ける間柄です。

 韓国の向こうに、北朝鮮、そして中国が控えているのですから、日本が韓国を味方につけておく地政学的メリットは極めて大きい。ただ、戦後七十年という期間が曲者です。増悪を持続させるには長すぎますが、すべての記憶を洗い流すには短すぎる。

 韓国の首都・ソウルは、朝鮮半島の南北に分断する三十八度線からわずか八十キロしか離れていません。全人口の約半数、二千万人が住む産業と金融の中心地は、北朝鮮の射程圏内に位置してます。

 金正恩というトランプ以上に予測不可能な指導者がいるために、憶測ばかりが飛び交う状況が生まれています。政治がギャンブルと見分けがつかない現状こそ危険なのです。

 三万人の在韓米軍が駐留しているとはいえ、強がる弱虫のごとく常軌を逸した言動を続けている金正恩は現実的脅威です。もし何かのきっかけでひとたび戦端が開かれれば、中国は国境を越えて北朝鮮を守り、緩衝地帯を死守しようと決断するかもしれません。

 したがって、日韓両国の間に感情的な行き違いがあるにしても、中国と北朝鮮に関する共通の利害がそれを上回ることは、双方認めざるをえないでしょう。

 やはり日本には、韓国、アメリカとの三ヵ国の連携をより密接にする以外の選択肢は見つかりそうにありません。 』


 『 現在、私たちは「不確実性の時代」に生きています。

 それはつまり、第二次世界大戦後の世界秩序を規定してきたブレトンウッズ体制(第二次世界大戦後の国際経済体制)——すなわち国連、EU(欧州連合)、NATO、WTO(世界貿易機関)、世界銀行などに象徴される組織や枠組み——が機能しなくなり始めたことを意味しています。

 二〇〇八年の金融危機に始まり、移民問題、南欧の高失業率、世界的な所得格差といった問題を、これまでの体制は解決できなかった。

 フィリピンにドゥテルテ、アメリカにトランプのような指導者が浮上し、フランスでもルペンが大統領になるかどうかが取りざたされる背景には、すべて「現体制の、機能不全」が存在します。

 不確実性に直面した時、人は内向きになりやすく、自己愛に傾倒しがちです。ナショナリズムの台頭はこれからも続くでしょう。現在、世界に存在する国境の「壁」のうち、七五%が二〇〇〇年以降に建設されているそうです。

 私は先週イスラエル・パレスチナの取材から帰ってきたばかりですが、ヨルダン川西岸地区の分離の壁もこの目で見てきました。今まさに「壁」が私の最大の関心事なのです。

 本来、世界中が瞬時にインターネットでつながるグローバル時代では、国境は開かれ、壁ではなく橋がどんどん建設されてしかるべきです。

 それなのに、現実の世界では逆のことが起こっている。バングラデシュを包囲するインドのフェンス、ブルガリアとトルコの国境の壁……そして次はアメリカとメキシコの間に壁が築かれるかもしれません。

 不確実性が高まっているからこそ、地理は究極のファンダメンタルズ(基礎的条件)として、ますます重要になります。ヒマラヤ山脈はいつもそこにあり続けます。地政学は、今まで以上に重要なツールなのです。(第137回)



ブックハンター「希望への扉 リロダ」

2017-05-18 10:10:59 | 独学

 137. 希望への扉 リロダ  (渡辺有里子作 小渕もも絵 2012年11月)

 本書は児童書ですが、著者は2000年から3年間、シャンティ国際ボランティア会(SVA)という日本の教育NGOのスタッフとして、タイにあるミヤンマー難民キャンプの図書館支援に携わった経験を基にして書かれたものです。

 私が本書を取り上げた理由は、以下のように考えたからです。

 ① 世界の各地に現在でも多くの難民キャンプが存在し、難民キャンプがどのように運営されているかが少しわかる。

 ② 世界には学びたくても、教育を受けられない多くの子供たちがいることを知る。

 ③ 日本は難民とどのように向き合うべきかを考えるヒントを与えれくれる。

 ④ 世界の民族紛争の芽は、植民地支配の時代に形成されていたのかと考えさせられた。

 ⑤ 日本で生活している私たちは、日本語だけで最新の科学技術から世界経済や政治の情報を得ることができますが、本書のカレン族であれば、それらの知識を得るためには、カレン語、ビルマ語、英語をマスターしなくてはならない。

 ⑥ 世界の人々は、2つに分類されます。一つは、図書館をほとんど利用しない人、もう一つは、図書館をよく利用する人です。

 ⑦ 本書の中に、一冊のノートが、一冊の本が、一つのちっぽけな図書館が希望への扉を開くことを知りました。

 ⑧ 日本人のボランティアが頑張っていることに、私は希望と誇りを感じました。


 私がこの本を知りましたのは、5月16日の朝日新聞の北海道版に音更町図書館司書・加藤正之さんの記事を読んだからです。最初にその「おすすめの本箱」から紹介いたします。

 『 タイトルにある「リロダ」とは、ミヤンマーのカレン族の言葉で「図書館」のことをいいます。リロダで働く図書館員は「リロダサラムー」です。ミヤンマーは135の民族が暮らす多民族国家です。

 人口の7割はビルマ族で、あとはカレン族、カチン族、シャン族などの少数民族です。ビルマ族率いる政府軍は、政治の権力を握ると、少数民族の権利を認めなくなりました。

 少数民族はビルマ族を同等の権利を求めましたが、その答えは村を攻撃するという形で返ってきました。カレン族の少女・マナポは、村にいつ危険が迫るかわからない状況の中、家族で隣国・タイの難民キャンプに入ることができました。

 マナポは難民キャンプでの高校生活が残り少なくなったある日、難民キャンプの中にリロダができることを知り、リロダサラムーに応募します。

 母親はマナポに先生になることを望んでいましたが、難民キャンプの中で学校に行けない子どもたちがいることを知っていたマナポは、そんな子どもたちのためにリロダで働きたいと考えたのです。

 マナポは研修を受け、リロダサラムーになりました。リロダは子どもたちで大にぎわいです。リロダに通ううちに字が読めるようになる子もでてきました。

 難民キャンプの人たちは、「リロダは宝物を見つけられる場所だ。私たちに未来に光をともしてくれる」と話します。ここには図書館を原点があります。 』


 これから、この物語の最初の部分を紹介していきます。

 『 マナポたちは、ミヤンマー南東部カレン州の、小さな村にくらしていた。五十人ほどの村人は、昼は畑をたがやし、床下の広い空間では、鶏や豚を育てていた。

 マナポの家族は、祖父母、両親、妹の六人家族。おじいちゃんは、長年の畑仕事で腰を痛めてからは、日中でも家ですごすことが多かった。しかし、村では長老として信頼が厚く、マナポの家にはたえず村人たちがおとずれた。

 顔じゅうに深いしわがきざまれ、眼光するどいおじいちゃんは、幼いマナポたちには、どこか近よりがたい存在だった。

 一方おばあちゃんは、いつもおだやかなほほえみをたたえて、だれからもしたわれ、両親が畑仕事をしている間、家事いっさいをまかされていた。

 「マナポ、今日はタルポを作ろうかね」 おばあちゃんといっしょに、夕飯を作るのは、マナポの日課だった。 「じゃあ、私はお米を粉にするわ!」 マナポの頭の中には、すでに香ばしく煮えたタルポがうかんでいた。

 手ぎわよく材料をそろえると、マナポは茶色く炒られてお米を石臼でつきながら、「おばあちゃん、私、学校へいきたいな」 とつぶやいた。 「どうしたんだい、急に」 

 「お母さんが少しずつ、カレンの文字を教えてくれたけど、もっといろんなことを知りたいの」 「マナポ、その気持ちは大切だよ。一つずつ、いろんなことを知っていくことで、どんどん大人になっていくんだからね」

 「だけど、お父さんもお母さんもいそがしくて、なかなか私たちの勉強を見てくれないわ。もし学校へいくことができたら、毎日いろんなことを勉強できるんでしょう?」

 マナポの澄んだ大きな瞳に見つめられたおばあちゃんは、人一倍好奇心が強いマナポの思いに、どう答えてよいかとまどい、複雑な気持ちになった。

 ”もし私が文字を読んだり、書いたりできたら、この子にもっといろいろなことを教えてやれたのに……” マナポたちの村には学校がなかった。いくとすれば、となりの村の小学校まで、山を一つ越えなければならない。

 おじいちゃんは村人たちから、「なんとかこの村に、小学校をつくれないものでしょうか」 と相談をうけていた。となりの村まで通うには、子どもの足では遠すぎる。しかし親たちが心配していたのは、もっとべつのことだった。

 「学校へいく途中、もし子どもたちが政府軍の攻撃にあったらどうしますか?」 「べつの村では、男の子たちが山の中でさらわれて、今じゃ軍で働かされていると聞きました」

 村人にとって、何よりもこうした不安が、いつでも大きな壁となって立ちふさがっていた。 』


 『 マナポが生まれたミヤンマーは、百三十五もの民族がくらす多民族国家だ。人口の約七割がビルマ族、あとはマナポたちカレン族をはじめ、カチン族、シャン族、モン族、カレニ―族など、さまざまな少数民族が共にくらしている。

 しかし、ビルマ族が率いるミヤンマーの政府軍は、政治権力をにぎったとたん、国内の少数民族には、ビルマ族と同じ権利を認めてくれなかった。

 「私たちにも平等な権利をください!」 「自分たちの文化や言葉を認めてほしい!」 いくつかの少数民族は、そう、政府にうったえた。しかし、その答えは、人々や村を攻撃するというかたちで返ってきた。

 いつ、自分たちの村にも、危険が迫るかわからない。そんな恐怖にさらされたくらしが、ずっと続いていた。

 ”この村で、子どもたちに教育を受けさせたいのはやまやまだ。しかし、学校をつくっても、いったい先生はどうする? この村で小学校を出ている大人は、ほとんどいない。それにもし、政府から禁じられた民族の言葉、カレン語で子どもたちが勉強していると知られたら、この村は……”

 と、マナポのおじいちゃんは、子どもたちの未来を思う気持ちと、命を守る責任とのはざまで、途方にくれていた。

 「いいにおいだな、今日はタルポを作ったんだね」 聞きなれた、低くひびく声にマナポがふり向くと、畑からお父さんとお母さんがもどってきたところだった。 

 お父さんの背丈はそれほど高くなかったが、長年の畑仕事で、両腕の筋肉はたくましくもりあがり、褐色に日焼けした肌は、健康な輝きをたたえていた。

 お父さんは大きな手で妹のレポの頬をなでると、「今日はお土産があるぞ」 といって、お母さんにニヤリと目くばせをした。 「お父さんが畑のそばで大きなカエルをつかまえたのよ。新鮮なうちに料理するわね」

 お母さんは、カエルの肉を細かく切ってやき、炒めた玉ねぎに唐辛子とまぜあわせた。「そうそう、畑でインゲンがたくさん取れたから、タヘポも作るわ」 

 お母さんはマナポに取りたてのインゲンを洗ってこさせと、ナッツ、オクラ、キュウリといっしょにゆで、ニャウティ(魚醤)をたらりとかけた。

 するとたちまち香ばしいにおいがあたりにたちこめ、マナポは、「今日はごちそうね! 早く食べたいわ」 と思わずお腹を手でおさえた。

 家族みんながそろう夕飯時は、一日をしめくくるたいせつなひとときだ。できたての料理を前に、みんなは円くなってすわり、目をつぶって祈りをささげた。

 食事中には、お父さんとお母さんが、その日の畑のようすを聞かせてくれた。もうじきサトウキビが収穫できそうだという。なごやかな食卓に、マナポはお腹も心も満ち足りた。

 食事が終わると、おばあちゃんがマナポとレポに、「さあ、二人ともお皿を洗う手伝いをしておくれ。それが終わったら、お話をしてやろう」 と声をかけた。二人は顔を見合わせ、われ先にとお皿を片づけはじめた。

 「今日はおばあちゃん、どんな話をしてくれるのかしら」 と、マナポがタライの水の中でお皿を洗いながらいうと、 「この前のおばけの話はこわかった。今日は楽しい話がいいな」 と、レポも期待に胸をふくらませた。

 二人にとって、何よりの楽しみは、寝る前におばあちゃんが語ってくれるお話を聞くことだった。マナポは、「おばあちゃんの頭のなかには、いったいどれくらいのお話が入っているの?」 とたずねたことがある。

 するとおばあちゃんは、大きな口を開けてわらいながら、どこか茶目っ気のある瞳で、「私が子どもだったころ、いろんな人たちがたくさんのお話を聞かせてくれたからね。頭の中にどんどんお話が入ってきたんだよ。楽しいお話、悲しいお話、こわいお話も、みんなね」

 そういって、たくさんのお話が飛び出さないよう、頭をおさえるしぐさをした。マナポはおばあちゃんのそのすがたがおかしくて、口をおさえてわらった。 』


 『 その晩、いつものようにおばあちゃんは、ならんですわる二人の前に、ろうそくを置くと、まずお話をはじめる前に、小さな声で歌を歌ってくれた。

 ♪ お母さん 暗くなってきたよ わたしのそばでねんねんして ぐっすり眠れるように抱きしめて 

 お母さん 暗くなってきたよ 楽しいお話 聞かせて 幸せな気持ちになれるように お話してくれなくちゃ

 おこって泣いちゃうよ フンフンフン ♪

 マナポとレポは、最後のところで思わずクスクスとわらった。なんだか体をくすぐられるような感じがしたからだ。さあ、いよいよお話がはじまる。二人は期待のこもった眼差しで、おばあちゃんの顔を見つめた。

 おばあちゃんが口を開きかけたそのときだった。お父さんが、マナポたちの前をサッと手でさえぎると、けわしい顔で口の前に指を立てた。

 ”合図だわ!” お父さんがこういうしぐさをしたときには、ぜったいに声を出してはいけない。そのことをマナポもレポも、幼いころからの経験ですでによくわかっていた。

 暗闇の中、ろうそくの炎だけが静かにゆらゆらとゆれている。マナポたちは息を殺し、どんな音も聞きもらすまいと、身動きもせず意識を外に集中させた。

 トッケー、トッケー、のんびりとしたヤモリの鳴き声に混じって、遠くから、ポコポコポコ、ポコポコポコ、という何かをたたく音が聞こえてきた。

 その音はマナポたちを急き立てるように、どんどん、どんどん早くなっていく。お父さんはすっくと立ち上がると、「軍がくる! 急がなくては!」 とするどくいい放った。

 その言葉を聞いたお母さんは、口元をきゅっと一文字にし、夕食のときとは別人のようなかたい表情で、部屋のすみにならべてあった籠を次々とお父さんとおじいちゃんに手渡した。

 その中には、いつでも持ち出せるように、お米や豆といった数日分の食べものや食器、衣類が入っている。「ぜったいに声を出しちゃだめだ」 お父さんは小声でみんなにいうと、部屋のまん中に灯るろうそくの炎を、素早く吹き消した。

 マナポたちは月明りだけをたよりに、暗い山の奥へと急ぎ足ですすんだ。夜中にこの道を歩くのは、もう何度目だろう。マナポたちが目ざした山の中の洞窟は、入り口は、大人が腰をかがめて、ようやく入ることができるほどの大きさしかなかった。

 しかし奥にすすむにつれて天井が高くなり、少し広い空間になっている。お母さんは妹のレポの手をしっかりとにぎり、穴の一番奥へとつれていった。その後をマナポとおばあちゃんが続いた。

 おばあちゃんは家から急ぎ足で歩いたせいで、まだ息が荒かった。マナポは、そんなおばあちゃんの片手をぎゅっとにぎっていた。お父さんとおじいちゃんは洞窟の入口にかがみこんで息をころし、外の気配を全身で感じとろうとしている。

 しばらくすると、マナポたちの村のある方角から、ダダダダッ、ダダダダッと、はげしい銃声が聞こえてきた。お母さんとおばあちゃんは、マナポとレポの手をにぎり、祈るように固く目を閉じてうむいている。

マナポの顔と背中には、汗がいく筋も流れた。どれくらいそうしていたのだろう。ようやく銃声が聞こえなくなると、お父さんが洞窟からそろそろと顔を出し、外のようすをうかがった。

 そしてもどってくると、「村の方角から火の手があがっている……」 と、ぼう然としたようすでつぶやいた。その言葉におじいちゃんは、「なんということだ!」 と、こぶしで地面をたたいた。

 おばあちゃんとお母さんはただだまり、うつろな表情で宙を見つめている。マナポの耳には、さきほどの銃声がまだ残っていた。 ”でも、いつものようにきっと、家に帰れるはずだわ”

 しかしマナポの淡い期待は、すぐにお父さんの言葉で打ち消された。 「もう村には帰れない。しばらくこの洞窟でくらすことになるだろう」 ”しばらくって、どのくらい?”

 マナポはそう、声に出してたずねたかった。しかし、お父さんのいかりと悲しみに満ちた表情をみると、その言葉を口にすることはできなかった。 ”このまま村にはもどれないのなら、あの人形を持ってくればよかった……”

 その人形は、十字に組んだ木に、お母さんが小さな服を作って着せてくれた、大切な宝物だった。しかし、マナポが失うことになるのは、宝物にしていた人形だけではなかった。

 家も畑も、生まれ育った村も。そして何より、この日をきっかけに、大好きな家族といっしょにすごす日々も失うことになろうとは、マナポは想像すらしていなかった。 』


 これから、おじいちゃんとおばあちゃんを残して、お父さんとお母さんとマナポとレポの4人が、ミヤンマーとタイとの国境を越える逃避行のすえに、タイの難民キャンプに到着します。そこで、マナポは小さな図書館と出会います。

 私が紹介できるのはここまでです。(第136回)

 


ブックハンター「才能の見つけ方天才の育て方」

2017-05-10 10:23:56 | 独学

 136. 才能の見つけ方天才の育て方  (石角友愛(いしかどともえ)著 2016年6月)

 本著は副題として、「アメリカ ギフテッド教育最先端に学ぶ」とあります。著者自身が現在アメリカで子育てしながら、経営活動をしながら、幼児のサイエンス教育、クリエイティビティ教育について研究を続けています。

 私がこの本を紹介しますのは、ギフテッドチルドレンの才能の見つけ方そしてその才能の伸ばし方は、すべての人間(0歳~百才まで、凡人から天才まで)に当てはまると考えて選びました。

 才能はできれば、見つける人とそれを育てる人がいれば一番良いのですが、私(70歳)でも、やって見なければ、自分のどこに小さな才能が眠っているかは、わからないものです。

 とにかく多様な教育方法をトライして、よりクリエイティブな人材を育てていく必要があると思います。日本の老若男女がわずかでもよりクリエイティブな生活目指して、多様な挑戦が必要と考えてこの本を選びました。


 『 アメリカやカナダでは、10代の子どもが大人顔負けの研究や発見をすることはめずらしくありません。彼らは「gifted=ギフテッド」(神に与えられた才能を持つ人=天賦の才のある人という意味)と呼ばれ、特別な教育=ギフテッド教育を受けていることも少なくありません。

 特にアメリカでは、ギフテッド・チルドレンの発掘と育成は、家庭の枠を超え国家レベルでの責務とされ、数々のギフテッド教育のための団体や学校が存在します。

 ギフテッド・チルドレンは、社会経済的な背景に関係なく、どんな階層・地域にも存在すると言われ、アメリカでは約6~10%の子どもがギフテッドという統計があります。

 私は現在、アメリカ・カリフォルニア州のパロアルト市に住み、幼稚園生の娘と乳児の息子を育てていますが、娘の今後の教育方針を研究する中で、「ギフテッド教育」の存在を知りました。

 そして、私自身がもとから発達心理学などを専攻していたことから興味を持ち始め、ギフテッド教育に特化した専門家たちで構成される、アメリカで一番歴史が古く、大きな団体である全米天才児協会に入会し、多岐にわたるアメリカのギフテッド教育の最先端の情報を学ぶ機会を得ました。 』


 『 では、どのような才能を持つ人をギフテッドと定義するのでしょうか?実をいうと、世界的に統一された定義は存在せず、アメリカだけをみても、連邦政府、各州政府、また各学校の多くが、独自の定義と評価方法をもっています。

 米国連邦政府の定義は、「ギフテッドとは、知性、創造性、芸術性、リーダーシップ性、または特定の学問での偉業を成し遂げる能力のある個人を指す。また、その能力を開花させるために特別のサポートを必要とする個人を指す」とされています。

 また、前出の全米天才児協会による定義では、「ギフテッドとは、例外的な論理能力と学習能力の才能を持つ個人を指す。分野は大きく分けて二つあり、一つは言語化・記号化された分野(数学、音楽、言語等)と、二つめは感覚運動能力の分野(絵、ダンス、スポーツ等)がある」となっています。

 ギフテッド教育心理学の研究者として有名な、モントリオール大学のフランソワ・ガニエ教授は、次のように定義してます。

 「ギフテッドとは、未訓練かつ自発的に表に出る自然な能力のことを指し、最低でも一つの分野で同じ年齢の子どもたちと比べ上位10%に入る能力を持つ場合、ギフテッドと定義される」

 このように様々な定義がある中で、私は、ガニエ教授の定義にある、”未訓練(untrained)” かつ ”自発的(spontaneous)” という言葉に注目しました。

 暗記式テストで100点満点がとれる子どもは、努力型の秀才児であって、だれにそうしろと言われなくても、内から自然に、生まれつき湧き出し能力をギフテッドといいます。 』


 『 ある公立小学校の4年生の教室に、ジャイロという少年がある日転入してきました。ジャイロの母国語はスペイン語で、英語はまったくしゃべれません。ジャイロは今まで学校に通ったことがなく、また彼の家族には家がありませんでした。

寝泊りをしているのは、両親が持つ自家用車の中です。そんな彼が転入してきて2日目。ほとんど口をきかない彼が、小さな声で、”I griega”とつぶやきました。

 これはスペイン語で「Y]のことです。先生はその後、ジャイロが黒板に書かれていたアナロジーの答えを言っているのだと気がつきました。 13:25=M:▢

 Mがアルファベットで13番目なので、25番目はY だ、という論理的推理のことをアナロジーと呼ぶのです。全く英語がしゃべれず、アナロジーの手法や教室での授業形態もあまり知らないジャイロが、正解を述べてことに、先生は驚きを隠せませんでした。

 彼がアナロジーを解くということは、黒板に注意を払う観察力や、点と点を結び関係性を発見する能力があるということだからです。

 それから数週間後、ジャイロはNNAT(ナグリエーリ非言語テスト:Naglieri Nonverbal Abilities Test)を受けることになるのですがその結果、彼は全問正解していることが判明しました。

 ジャイロは正真正銘のギフテッドだったのです。ジャイロのような生徒は、普通のIQテストでは真の能力は発揮されません。英語が読めず、喋れないからです。 』


 『 ギフテッドというと、皆さんも「周りより秀でていて」 「周りのロールモデルになっていて」、「モチベーションを高く持ち、成績優秀で」、「家族に評価される能力をもっていて」、「精神的に大人びていて」、「助けがなくても成功できるような才能の持ち主」というような、ドラえもんの出来杉君のような子どものイメージを持っていませんか?

 それとも、ギフテッドと聞くと、ちょっと周りと違う変人タイプを思い浮かべますか? クロス博士によると、前にあげたような形容は、全部よくありがちなギフテッド・チルドレンに関する誤解なのだそうです。

 実際、ギフテッドは本当に多種多様なタイプの子どもがいるため、パターン化するのは難しいのですが、多くの場合、整理整頓能力がなかったり、モチベーションを高く持っていなかったり、恥ずかしがりやで引っ込み思案で目立たない子どもだったりするのです。

 ギフテッド・チルドレンの多くに見られる特徴として、非同期的な成長が挙げられます。

 たとえば、普通の12歳の子どもの場合、知覚面、精神面、学力面、社会面、体力面等における成長過程がどれも平均値の中に入ることが多いのですが、ギフテッドの場合、そのうちどれか一つだけが抜きん出ているけれど、他のものは平均以下、ということが多いのです。

 「ギフテッド・チルドレンは、周りの友達、親、先生にどう思われているかによって大きく影響を受けるという研究成果があります。

 もし周りから精神的におかしい、性格に問題がある、または、クリエイティブ過ぎてエキセントリックだ、というように思われた場合、多くの子は周りに同調することでそのような烙印を回避します。

 多くのギフテッド・チルドレンにとって、成績が悪くても人気があることの方が、成績優秀で社会から孤立するよりも、大事なのです」 』


 『 アメリカで最近話題になったジャック・アンドレイカ君は、15歳の時に、一番発見が難しいと言われている膵臓がんを90%の精度で検査できる新検査法を開発しました。

 彼は、親しくしていた叔父を膵臓がんで亡くしたことをきっかけに、技術革新が進んでいない腫瘍マーカーによる血液学的検査法に疑問を持ち、自分でよりよい検知方法を開発することを決意します。

 その後、カーボンナノチューブと紙片を使い、90%の精度で膵臓がん、卵巣がん、肺がんなどを検知できる方法に成功します。しかも、彼の方法は従来の検査方法より170倍早く、2万6千分の1の費用で済みます。

 ジャック・アンドレイカ君には兄がおり、彼もギフテッドなのです。その二人を育てたお母さんのジェーン・アンドレイカ氏がどのように子育てをしたきたを紹介します。


 ① 結果は褒めるな

 褒めるのは過程のみ。努力したというそのプロセスを褒めるのが大事であり、誰でも結果がだせるようなもので金賞をとったとしても、それは褒めてはいけないと、ジェーン氏は話しています。

 「頭がいいね」などという褒め方をすると、新しいこと、さらに難しいことにチャレンジしたときにそうではなくなったり、間違いをするのを怖がる子どもになってしまいますが、努力した過程を褒めると、努力すること、チャレンジすることが素晴らしいのだというスキームが子どもの中で出来上がり、新しい学習チャンスを逃さないようになるということです。


 ② 答えは絶対に教えない

 例えば、「どうして葉っぱの色は秋になると赤くなるのか?」というように簡単に親が説明できる質問だとしても、自分で答えにたどり着くプロセスを教えることが大事だというのです。


 ③ アイデアブックを活用せよ

 ルークとジャック兄弟は、常にアイデアブックというものを持ち歩いていて、どんなアイデアでのよいのでノートに書き留めるようにしていたそうです。

 例えば、今度やってみたいサイエンスの実験のアイデアや、自分が考えた物語のプロット等。そしてそのノートをしょっちゅう眺める癖をつけるのが大事だということです。

 日本でも、「情報は1冊のノートにまとめなさい」(奥野宣之著)が、1冊のノートにアイデアをまとめることを推奨しています。

 私がこのアイデアブックに関して面白いと思ったのは、右脳の中で張り巡らされている想像力を、ノートに文字という形にすることで左脳も使われて、whole-brain child (右脳も左脳も同じだけ発達している子供のこと)になることです。

 ダニエル・シーゲル医師が書いた「The Whole-Brain Child」という本はアメリカの子育てのベストセラーとなっていますが、この中で、自分の中の感情や想像力を、言葉や文字におとすことが、いかに大事かが書かれています。

 右脳と左脳両方が刺激を受けて発達することにつながり、感情的に浮き沈みのないEQ(感情のコントロールや共感度などを含む、心の知能指数のこと)の高い子に育つということです。


 ④ 簡単な成功などない

 常日頃からジェーン氏はルークとジャックに小さなステップの積み重ねが大きな成功につながると教えていたそうです。ルークがある日、川でカヤックをしていたとき、水がオレンジ色になっているところを見つけ、「なぜ水が明るいオレンジ色をしているの?」と聞いてきたとき、

 ジェーン氏は、「なんでだろうね。どうやったらその理由が解明できると思う?」と促し、それが結果的に、2012年のインテル国際学生科学フェアで優勝するプロジェクトにつながったそうです。(ルークは9万6千ドルを賞金として受賞)

 そのプロジェクトの中で、数々の小さなステップを繰り返し、最終的にはそのオレンジ色が酸性鉱山廃水によるものだということを発見し、化学的、政治的、環境問題的観点から物事を解明していったそうです。


 ⑤ 世の中の問題は、実は最高のチャンスである。

 ジェーン氏は、常に息子たちに、身の回りに起こることや社会の問題に目を向けるように育てたようです。それも、ただ問題意識を養うためではなく、「問題に見えるところに実はチャンスがある」ということを教えるためだったと言います。

 これは、高校1年生にして果敢にも膵臓がんの新しい検知法を発明したいと思い立ち、行動に移したジャックの起業家精神あふれる行動からも垣間見られると思います。

 また、ジャックはこの新しい検知法を発明したときに、研究を続行するための多角的な支援を受けるため、実験プロトコル(取り決め)と論文、予算タイムラインなどを記載した事業計画書なるものをジョンズ・ホプキンス大学と国立衛生研究所に在籍する200人の教授と研究者に送付したのです。

 うち199名から断りの返事が来て、たった一人だけ返事をくれたのが、ジョンズ・ホプキンス大学医学部化学生物工学教授のマイトラ博士だったのです。この何回断られても目的を達成するまで諦めない姿勢は、まさしく起業家的能力ではないでしょうか。


 ⑥ 親の辞書に「面倒くさい」はない

 子どもたちは学業で忙しいもの。色々なコンテストやコンクール、イベント、サマーキャンプ、学校等の調査をし、申し込みをし、関係者や教授たちと親しくなり事前準備を進めるのは全て親の役目であり、「面倒くさい」と親が思ってしまったら、何も始まらない、ということです。

 ジェーン氏の場合も、二人の息子の本当の才能がどこにあるのか発見するまで、多くのトライ&エラーを繰り返したそうです。ピアノ、バイオリン、水泳、演劇、野球、造形など与えられた選択肢は全て試されて、全部だめだったといいます。

 最終的に、息子たちの才能はサイエンスの世界で花開くと気づいたのですから、これはもう、やらせてみるしか方法はないのだと思います。

 ジェーン氏は、「自分の子どもが18歳になってはじめて、「あなたはどんなことに興味があるの?」なんて聞く親はだめだ」と言い放ちます。

 学校というのは、基本的な読み書きや色々な教科を幅広く教えるところではあるけれど、子どもの才能を伸ばす場所を学校にもとめるべきではないのです。

 「子どもの才能を見つけてのばす」という20年近いスパンにわたる壮大なプロジェクトのプロジェクト・リーダーは、他のだれでもない、子どもの親しかいない、ということを忘れてはならないのです。 』

 

 『 アメリカで一番古い教育法は、親が子どもを家で学ばせるように義務づけるものだったと言われているように、アメリカでは1870年代までホームスクーリングは盛んに行われていました。

 その後公教育などの整備がなされホームスクーラーは減りますが、1950年代にその魅力が再認識されるようになりました。1980年代以降急速に増え始めたと言われています。

 ホームスクールで育ったひとの中には、社会で大きな影響を及ぼした人が多くいるのも面白い点です。発明王のトーマス・エジソンも、実はホームスクーラーでした。

 エジソンは学校になじめず、先生から劣等生の扱いを受けていました。そして、わずか3ヶ月で小学校を退学してからは、ずっとホームスクールで育ったということです。

 彼の数々の逸話の中でいかにもギフテッドらしいなと思うのが、算数の授業で、1+1=2というのを素直に受け入れられず、「一つの粘土ともう一つの粘土を合わせたら大きな一つの粘土になるのになぜ1+1は2なのか?」と先生を質問攻めにしたというものです。

 そのような強い好奇心から、先生たちを敵に回してしまったのでしょう。退学後は家で独学で化学などを学び、多くの実験や研究に時間を費やしていきます。

 また、エジソンに似たタイプの、学校になじめなかった天才として、本田宗一郎も挙げられます。彼は学校に全く興味を見出せず、保護者が成績表に押さなければいけない印鑑を偽造し親の代りに自身で印鑑を押していたというエピソードがあるくらい、型にはまらないタイプでした。

 天才発明家タイプ以外でも、ホームスクーリング経験者は多くいます。私が興味を惹かれたのが、アメリカの歴代大統領44人のうち、実に32%にあたる14人がホームスクーラーだったのです。

 1863年に奴隷解放宣言を出し、「人民の、人民による、人民のための政治」とスピーチをしたエイブラハム・リンカーンは、独学で法律を学び弁護士になったことは有名ですが、彼もホームスクーリング経験者の一人です。 』 (第135回)