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チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「魚屋の基本」

2017-04-19 16:05:02 | 独学

 134. 魚屋の基本(角上魚類はなぜ「魚離れ」の時代に成功することができたのか?) (石坂智恵美著 2016年11月)

 本書は、”新潟県・寺泊を拠点に関東信越に22の直営店を展開する鮮魚専門店・角上魚類。消費者の魚離れやスーパーマーケットの台頭をものともせず、「魚のプロ」である経営者はいかにして繫栄店をつくりあげたのか?” と帯に書かれています。では、いっしょに話を聞きましょう。

 『 魚種を増やして対面方式で売上が増えるならば、どの鮮魚店でも同じことをすれば角上魚類並に繁栄することになる。ところが、そうはならない大きな強みが、角上魚類には二つある。

 第一に、地元新潟で仕入れた魚の直送便があること。通常、鮮魚は各地の漁港で水揚げされたものが東京・築地市場に集結し、そこで買い取られる。水揚げされた地域によっては、築地で売り出されるまで二日がかりのこともある。

 その点、角上魚類では毎日築地市場で仕入れを行うと同時に、新潟市中央卸売市場で朝競り落とした魚をそのままトラックで運び、各店に昼までには配送することになっている。

 日本海側のギスやハタハタといった珍しい魚が、最高の鮮度をキープしたまま店頭に並ぶのだ。築地からの魚と合わせて約100種類の鮮魚が揃う様子に、買物客の角上魚類への期待感はおのずと高まる。

 第二に、価格の安さである。角上魚類では鮮度が高く種類豊富な魚を、一般的スーパーより、二~三割安く販売している。

 角上魚類では、新潟と築地の両市場にそれぞれ八~九人のベテランバイヤーがスタンバイし、バイヤー同士が電話でどちらの市場で、どの魚種をどれだけ買うかを決定する。

 さらに角上魚類の価格競争力を支えているのが、驚異的な廃棄率の低さである。スーパーの平均が7.8パーセントであるが、角上魚類の廃棄率は、なんと0.05パーセント!

 角上魚類の店舗面積は平均100坪ほどだが、そこに20人ほどの正社員が配置され、パート・アルバイト社員を加えると、平日は約30人、土日は役70人で店舗を運営する。

 店舗には、「鮮魚対面」 「鮮魚パック」 「寿司」 「刺身」 「マグロ」 「鮭」 「魚卵」 「冷凍」 「塩干」 「珍味」 「惣菜」の11部門あり、各部門は3~5人が担当する。

 通常のスーパーと比べて圧倒的に人手をかけ、各部門の役割を明確にし、商品を売り切ることに全力を注いでいるからである。

 さらに、店長が頻繁に売り場をチェックし、新鮮さを失わないうちに自慢の寿司ネタや刺身盛り、また惣菜などへと商品形態を変え、売り切る策を講じる。タイミングを外したが最後、売れ残りロスとなってしまうため、その判断が重要となる。

 廃棄率について柳下は、常々各店舗の店長たちに「売れ残りや廃棄は、会社に対する背信行為だ」と言っている。店長たちはさぞプレッシャーに感じているだろうと思いきや、存外、その緊張感を楽しんでいるようにも見える。

 ある店長は、自信に満ちた笑顔で言う。「今日の魚をどう売るか。戦略を立てて、自分の裁量で売り切る楽しさがあるんです」 』


 『 柳下浩三は昭和15年、新潟県の中越地方に位置する、日本海に面した小さな漁村、寺泊町(現長岡市)に生まれた。

 網元兼卸商の柳下商店は、寺泊港で水揚げした魚や新潟市の市場から買ってきた魚を長岡や三条の市場へ出すほか、近隣町村の料理屋や魚屋へ行商をして生計を立てる。

 寺泊の家に戻った浩三は、新潟市場へ行っては地魚のほか、九州のアジや北海道のサンマなどいろいろな魚を二トン車一台分買い付けて、それを寺泊の魚屋に卸していた。

 また寺泊や出雲崎で水揚げされた魚は三輪トラックに積み、分水や加茂、三条、長岡など、近在の魚屋や料理屋へ売りに行くのが日課だった。

 寺泊町の周囲には、弥彦や岩室といった温泉場、花街がある。江戸時代から続く情緒ある遊興の場に、二〇歳を過ぎて間もない浩三は、一発ではまってしまったのである。

 たとえば寺泊から三十キロほど離れている巻町(新潟市西浦区)の料亭・三笠屋では、浩三が座敷に上がると店の主がいつも、宴会終わりに寺泊の自宅まで送ってくれた。

 その晩は「飲み代がない」といってツケ、二週間後に前回の飲み代を払いに行ってはまた飲んで、ツケてくる。ところがその後、父から、「この年末を越せないと倒産するかもしれない」と、打ち明けられた。

 父が言うように、冷静になって帳簿をみると、柳下商店の経営は決して楽ではないことがわかり、青くなった、ここで浩三の芸者遊びは、終焉を迎えた。

 そんな折、商売の方向性を大きく左右する出来事が二つ、起こる。浩三はこれにより、経営者としての第一歩を踏み出すのである。 』


 『 道路の整備はまだまだ不十分だが、自動車がやっと増え始めてきた昭和四十年。今のように保冷車などはないので、せっかくとれた魚も鮮魚として流通できるのはたった二日間だった。

 特に六月から八月にかけての暑い時期は、魚の鮮度が保てず苦心をする。そこで浩三は夏場になると、獲れた魚を焼いて「浜焼き」としても販売した。

 当時は縦一メートル、横幅約二メートルの木箱の中に砂を入れ、中央に火を熾し、イカやサバ、アナゴ、カレイなどの串刺しの魚を四〇~五〇本、火の周りに刺して焼く。

 箱の周りにはパートで頼んだおばさんたちが四,五人立ち、片側が焼けるまで一五分ほどじっと待つ。焼けたところを見計らって、汗をぽとぽと流しながら、一本ずつ表裏をひっクリ返し、また焼き上がるまでじーっと……。

 浩三は毎年見るその光景を、「なんという無駄なのか!」 と、じれったく思っていた。焼いている者は焼けるまでが仕事とばかりに箱に張り付きっぱなしだし、炭火の熱も上に逃げていくので、無駄が重なる。

 浩三はいかに合理的に浜焼きを作れるかと、思案に暮れた。昭和四四年になって浩三は、火のトンネルをつくって焼いてみたらどうかと、はたと思いつく。

 幅三〇センチ、奥行き二メートルのトンネルを作り、その両端にはグリラー(魚を焼くところ)をつける。トンネルは二本作って平行に設置し、トンネルをくぐったらUタ-ンして周回するように、ベルトコンベアーを楕円型に配する。

 ベルトコンベアに魚の串を一本ずつ挿せる筒を立てて魚を回転させれば、往復で計四メートルの火の中を自動で通り、魚はすっかりきれいに焼けるのではないか……。

 そのアイデアを簡単な手書きの図面にして、新潟市内の鉄工所に見てもらう。一ヵ月後、精密な設計図と共に、「製作費は百五十万円かかる」と返事が来た。

 浩三は後先を考えずに製作を依頼したのである。昭和四四年の一五〇万円といえば、現在の貨幣に換算すると1千万円ほどになる。

 柳下商店も左前で苦しいところだが、やはり地元では信頼されている古い家柄である。なんとか現金をかき集め、浜焼機の製造を依頼した。

 機械のでき上がりは想像以上のものだった。店に運ばれてきた畳二枚分の、ステンレスで作られたトンネル状の箱はぴかぴか光って、いかにも立派である。

 うまくいくのかと内心ハラハラしていた浩三の前で、見事にこんがりと魚を焼きあげてくれた。浩三による浜焼機の開発で人件費は三分の一に、燃費は五分の一に節約できたが、何といっても大きかったのは、同じ時間でそれまでの三倍の量を焼けることだった。

 当然、浜焼きの売上も三倍になり、経費は今までの三分の一以下となった。この成功により、柳下商店の経営はずいぶん楽になる。その後、この機械はあっという間に同業者に真似をされ、広まっていった。 』


 『 次に浩三が手がけたのは、いまではすっかりおなじみのあの発砲スチロールの魚箱である。実は発砲スチロール箱をふた付きの魚箱に転化した最初の人物が、柳下浩三なのである。

 浩三の頭を悩ませていた問題は、浜焼きの他にもう一つ、あった。イカは東シナ海で生れ、成長しながら日本海を北上してくる。新潟沖には六、七月にやってきて、そのイカを目指して全国からイカ釣り船が集結した。

 寺泊港にも約四〇艘の船が水揚げして、その莫大な量のイカを東京の築地市場へ送っていた。当時の魚箱といえば100%が木製で、内側をビニール二枚で覆い、大きな氷と海水を入れてイカを詰めて送った。

 原始的な方法だったが、その頃はみなそれが当たり前で、他の容器で代用しようなどとは誰も考えもしなかった。しかし、寒い時期に木箱で送るにはまだよいが、夏場の暑い時期の出荷にはどうにも難儀した。

 水揚げされたイカをたっぷりの氷で覆っても、翌朝築地に到着した時点で氷はほとんど溶け、肝心のイカの鮮度が落ちて値段も当然安くなってしまう。

 船から水揚げされたときには黒々と、瑞々しいイカが白くなり、刺身ではとても食べられない状態になってしまうのだ。「なんとかして、この活きのよさを保ってまま築地へ送ることはできないか」浩三は日々、思いを巡らせた。

 ある日、業務用の大型冷蔵庫の修理に立ち会うことになり、その作業を見ていて、ふと気になった。修理をする職人が、発砲スチロールを持っている。

 「このスチロールは、何のために使ってるの?」 訊ねると職人は、「冷蔵庫の断熱材ですよ」と言う。断熱材は文字通り、熱を通さないもの……。 「発砲スチロールだ、これはいける!」 浩三は直感した。

 さっそく専門の製造業者を呼んで、サイズはこんなもの、ふた付きで強度はこういうふうにと相談する。業者は笑顔で快くひきうけてくれたが、「金型代の九十万円は、お客さんが負担してくださいね」

 浜焼機の一件から三年を経た昭和四七年——浩三には浜焼機で成功した気持ちもあり、また九十万円なら手持ちの金で何とか出せると踏んだ。のるかそるかの博打であったが、やらない後悔はしたくなかった。

 まもなくふたに、柳下商店の屋号「角上」のマークが付いた箱が仕上がり、さぁ、一勝負!と浩三は息巻いた。獲れたてのイカを詰めて築地へ送る。その結果をいまかいまかと首を長くして待つ。

 ところが、である。浩三の意に反して、届いた声は「手鉤が使えないから困る」という、落胆させるものだった。市場では荷揚げ屋が木箱に手鉤をひっかけて荷物を下ろすので、発砲スチロール箱では手鉤が使えず荷を下ろすのに手間がかかるというのだった。

 しかし大枚をはたいて箱を量産したのだ。ダメと言われてもそう簡単にあきらめられなかった。浩三は築地からの苦情を無視した、その後も四,五回にわたり、新しい箱でイカを送り続けた。

 すると……、ある日を境に、柳下商店のイカはそれまでの四倍、五倍もの値段で売れはじめたのである。築地から「もっと送れ」の熱烈コールが入る。

 それもそのはず、角上の屋号の入ったふたを開けると、発泡スチロール箱の中にはまだ生きて、半透明で美しいイカが虹色に輝いている。

 それまでどんなに活きのいいイカでも、すでに白く変色していたので、新鮮なイカが市場に並ぶなど、想像すらされていなかったのだ。浩三は飛び上がって喜んだ。「まさに、俺の狙い通りだ!」

 ただ、浜焼機の一件同様、人の成功を黙って指をくわえて見ている同業者はいない。翌年には同じ箱を競って作り、木箱の箱は見る見るうちに、真新しい発砲スチロール箱へと変わっていくことになった。

 しかし、わずか一年でも同業者より早く箱を開発したことで「角上」ブランドのイカはすっかり有名になっていた。二年目、三年目以降も他社より五割ほどの高値で売れ、柳下商店は財政的にもゆとりができた。

 この一件は浩三に、商売をする上での大きな自信を植え付けた。現在、日本の水産物取扱量全国一である築地市場の広大な場内に、気が遠くなる数の魚箱が積まれ、並んでいる。

 この風景の源が、浩三のアイデアなのだ。これはまさに、鮮魚の流通革命と言える発明である。 』


 『 昭和四十年代後半になると、これまでのように多種類の魚が売れなくなり、魚屋が軒並み廃業するという、混沌の時代が到来した。浩三は毎日、寺泊の魚屋に魚を卸しながら、時代の変わり目をひしひしと感じていた。

 昭和三十年代の寺泊の魚屋といえば、柳下商店から魚を仕入れて在郷へ売り歩く棒手振りも入れれば三十人はいただろう。その小売がにっちもさっちもいかなくなり、一人、また一人、一軒、また一軒と商売をやめていった。

 小売店がつぶれれば、卸業も不振にあえぐ。柳下商店も例外ではなかった。「このままいったら、うちもいつかダメになる。どうすればいいのか」

 昭和四八年に、県都である新潟市の万代シティにダイエー新潟店が営業を開始。地元でも以前からスーパーマーケットを開業していた清水フードセンター、原信、ウオロクも多店舗展開を始めて競争が激化していた。

 浩三はまず敵を知ることが肝心と、それらのスーパーの偵察を始めた。魚売場を見て回って驚いたのは、魚がとても高い値段で売られていることだった。どれも原価の二倍、三倍もする。

 「これなら直接、俺が仕入れをして売れば、この半額、いや三分の一以下の値段で売れる。お客さんも鮮度のいいもので安ければ、買いに来てくれるのではないか」浩三はすぐに、小売店経営を思いついた。

 ただし寺泊の人口は六千人しかないので、寺泊だけを相手にしては成り立たない。近在の与板や和島、分水といった、車で一〇~二〇分で来られる地域から集客をしようと考えた。

 決めた。となったら気は急ぐ。その頃、信濃川の大河津分水建設をきっかけに河口の土砂が堆積し、寺泊の砂礫海岸が広がったことで新しい道路が敷かれたことも浩三の気を引いた。

 「この道路に面した一角で、小売店を開こう」浩三は三三歳、所帯を持ち子供も生まれていた。一歩も引けない状況での決断だった。 』


 『 柳下の家で、新道路に面した一画を所有していたこと、それは浩三にとって幸いであり、そのことが小売店を始める後押しにもなった。

 「お前がしっかりやるなら何をしてもいい。だが、うちは借金も重ねてきて、俺には金の工面はしてやれない。全部自分で手配できるというなら、思い切ってやってみろ」

 父親にそういわれ、浩三は腹をくくった——といえば聞こえはいいが、実は浩三は、銀行から金を借りるのは初めての経験。浜焼機にしても発砲スチロールの魚箱にしても、手元の現金をかき集め、あとは父の算段にまかせていたのだ。

 まず浩三は建築屋を訪れ、土地の広さや建物の大きさと間取り、設備の内容をざっと話して、「設計図を書いて、見積もりを出してくれ」と頼んだ。建築屋はまもなく、設計図と見積もりを持ってきた。

 「この規模の店だと、五千万円かかる」そういわれて浩三は、「じゃあ、まず手付に1千万をあんたに払う。工事の中間に三千万、でき上がった時に1千万払うようにするから。明日さっそく、銀行に行ってくる」と気安く請け合った。

 翌日、銀行の窓口に出向いた浩三は勇んで、銀行の支店長と直談判をした。「今度できる新しい道に、小売店を開こうと思う。店舗を建てるのに五千万円かかるから、貸してくれ」

 支店長は眉をひそめて浩三を眺めると、聞き慣れない書類の名前を訊ねた。「柳下さん、あんた、事業計画書はあるのか」 「事業計画書——(ってなんだ?)——いや、持ってない」 「馬鹿をいうな!」

 銀行は金を貸すところ、こっちは金を借りてやるんだから、などと軽い気持ちで行った浩三は、一喝された。「あんたの家はこれから借金をするには担保がない。保証人は誰かいるのか」

 「いや、いない」支店長は呆れた様子で、借り入れに必要な書類や条件をメモに書き記し、浩三に手渡した。「うちに帰って事業計画書を書いて、担保や保証人を揃えてから、また来てください」

 コトバは優しかったが、乾いた響きが浩三に浴びせられた。銀行からさっさと追い返された浩三だったが、ひるむことはなかった。計画書は、計画という「予定」を書けばいいのだから、自分で適当に書ける。それならば大丈夫。

 問題は保証人だ。気楽に考えていたが、浩三に金がないのは誰もが知っている。なり手がいないかもしれないが、当たって砕けろとばかり、あくまで前向きだった。

 浩三はそれから、地元で商売をして勢いのあった親戚や友人などを複数回って頼んだが、すべて断られた。そんなものかと気落ちしたが、ここであきらめてはいられない。

 保証人探しをはじめて一ヵ月が経とうという頃に、今度は高校時代に下宿をさせてくれた新潟の叔父に頼みに行くことにした。事前に「保証人の話で」と匂わせたのも、よかったのかもしれない。

 向かい合って座った座敷で、無口な叔父はだまって浩三の計画を聞いてくれた。叔父は北洋漁業の網元をしていて、漁獲高もかなりあり、実際、景気もよかったようだ。

 浩三が高校生のときは、叔父は一緒に住んでいても顔を合わせることもなく、話すこともなかった。ただ、高校時代に浩三が、野球に夢中になっていたことは知っていて、密かに応援してくれていたと、のちに父から聞いたことがある。

 叔父は床の間を背に、静かに煙草をくゆらせながら、なぜ小売店を出したいのかを懸命に話す浩三を見つめていた。「しょうがない」突然、叔父が発した。「保証人になってやる」

 ありがとうございますと、浩三は勢いよく頭を下げた。叔父にとってみれば実家である柳下商店の一大事ということで、力を貸してくれたのだろう。

 北洋漁業の成功も浩三が思ってた以上で、たとえ浩三が失敗し、保証人として返済しなければならなくなったとしても、叔父には痛くもかゆくもない額だったのかもしれない。 』


 以下、”何もない浜辺に鮮魚専門店を出店”と続きますが、私が紹介するのは、ここまでです。(第133回)


ブックハンター「ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた」

2017-04-10 14:19:29 | 独学

 133. ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた (パット・シップマン著 2015年12月)

  THE  INVADERS (How Human and Their Dogs Drove Neanderthals to Extinction) by Pat Shipman Copyright ©2015

 本著は、題名でその結論を述べてますが、著者の仮説はおそらくかなり近いと考えられますが、これを証明するための確たる証拠となると非常に難しいのです。

 人類が30~40万年前に、旧人類からネアンデルタール人と現生人類に分かれたらしいのですが、種としてはほぼ同一であると考えられます。ネアンデルタール人が先にアフリカを出てヨーロッパに渡って、新人類が後らしいのですが。

 7万年前頃に、アフリカを現生人類は出発して、ユーラシアからベーリング海峡を渡って、北アメリカから南アメリカまで拡散しました。

 地球は、現在までの百万年の間に11回の氷河期と11回の間氷期をノコギリ状に入れ替わっており、気象変動がどの状態にあったかが、一つの要因である。(この部分は、チェンジング・ブルー 大河内直彦著に詳しいです)

 人類がアフリカでどのように進化したのか。(この部分は、この6つのおかげでヒトは進化した チップ・ウォルター著を参照ください)

 ネアンデルタール人の人骨は少なく、三万年前の年代を千年単位の精度で決定することは、同位元素や遺伝子(ミトコンドリア遺伝子を含めて)や地層(火山の噴火)を総合的に駆使しても、簡単ではありません。

 ネアンデルタール人と現生人類のかかわりが、どうであったかは、かなりグレーです、しかし、ネアンデルタール人も、現生人類もマンモスなどの大型草食動物のハンターとして、競合し頂点捕食者であったことは、事実です。(捕食者なき世界 ウィリアム・ソウル・ゼンバーグ著を参照ください)

 もう一つの主役は、犬です。狼から、オオカミイヌにそして犬になったのかの年代測定は、やっかいです。

 しかしながら、私の住んでいる北海道で、アイヌがヒグマを狩猟する時の、犬がいなければ、無理でそれほどアイヌ犬は重要です。

 私が子供の頃、北海道で農業をするには、馬の優劣が農業の優劣を支配してました。

 著者のパット・シップマンは、米国の女性古人類学者で、広い分野の最新の研究成果を総動員して、この壮大な推理小説のような謎(ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた!)に挑んでいます。では、いっしょに読んでいきましょう。


 『 現生人類とネアンデルタール人が生存した時代と場所が重なることが最初に注目されて以来、古人類学者のみならずアマチュア研究者もこれらの事実の解釈に格闘してきた。

 現生人類のテレトリーがユーラシアへ拡大したことがネアンデルタール人を絶滅に追いやったのか? 

 ネアンデルタール人は現生人類が到着するより少なくとも20万年前からユーラシア地域に定着していたのに、どうして絶滅したのか? ネアンデルタール人は地形も動物相も知らない新参者より有利だったはずではないのか?

 現生人類がネアンデルタール人を絶滅に追いやったとすれば、その過程を裏付けるなんらかの証拠が発見できるはずだし、現生人類が有利だったことを確かめることができるはずだ。

 それができないならば、では他にどんな因子が作用して、数十万年の生存してきたネアンデルタール人を絶滅させたのか?

 これら2種のヒト族の間に競争関係があったとすれば、ともに生存していた期間が2万5千年もあったことは、とくに現代の侵入生物学者が研究してきた事象と比較すれば異常に長く思える。

 古生物学的視点からすれば、現生人類がどのくらい急速にユーラシア全域に分散したか、侵入した個体群と在来個体群の規模によっては、この仮説的な両種の共存期間はもっと短時間だった可能性もでてくる。 』


 『 ヨーロッパにおける現生人類の最も古い年代測定値は、およそ4万4千年前となる。この現生人類が出現した事象とネアンデルタール人の最終的な絶滅との間に関係があるとすれば、現生人類の個体群が地理的に分散し、人口が増大する時間を計算に入れなければならない。

 現生人類がこれほど古い年代にユーラシア中に分散していたとは考えにくい。最後のネアンデルタール人が4万年~4万2千年前であることが信頼できるなら、現生人類とネアンデルタール人が共存した期間はかって1万年とされたものが、数千年あるいはそれ以下まで縮むことになる。

 40の重要な遺跡からサンプルを採取する大がかりな再年代測定プロジェクトがオックスフォード大学研究所のハイアムとその同僚らによって実施され、ムスティエ文化の終わり、つまりネアンデルタール人が絶滅した時期の信頼できる編年が確定された。

 その結果はネアンデルタール人の絶滅の謎を解くうえで重要なものだった。きわめて明解かつ圧倒的な正確さで、ハイアムらはヨーロッパ中のムスティエ文化が95パーセント以上の確率で較正年代で4万1030年前~3万9260年前の間に終焉したことを示した。

 さまざまなネアンデルタール人の個体群を絶滅させた唯一の事象や出来事というものはないとされているにもかかわらず、彼らはきわめて短時間のうちに消滅していたのである。

 加えて、もし絶滅が単一の事象に対する反応だとするならば、ムスティエ文化はユーラシア全体で同時に消滅することが予想されるが、実際には同時に消滅したわけではなかった。

 ムスティエ文化の消滅に関するデータと、現生人類がヨーロッパに到着した最も古い年代を比較してみると、このふたつのヒト族の生存が重なる期間は、2600年~5400年ということになる。

 現生人類がヨーロッパに拡散し、アジアに広がっていくのにかかる時間を考慮すれば、ネアンデルタール人の絶滅は現生人類が各地域に到達してからきわめて早い時期に生じていることになり、現生人類の到着がネアンデルタール人の絶滅の重要な要因となっていた可能性を強く示唆している。

 また、現生人類が有能な侵入生物であることは明らかなので、次に侵入生物学に視点を移し、そのアプローチによってこの絶滅について何が解き明かされるのかを見ていこう。 』


 『 さて、ネアンデルタール人が絶滅した一方で現生人類が生存できた原因を知るには、もうひとつの重要な因子にも注目する必要がある。長期にわたる地球規模の気象変動だ。気象変動も種の生死を分ける大きな影響を及ぼしたはずだ。

 初期の現生人類がアフリカから世界へと未曾有の大規模な侵入を始めたのは13万年前頃だ。それ以前の初期現生人類はアフリカでしか発見されていない。

 一方現生人類の近縁種であるネアンデルタール人はそのころレヴァント(地中海東岸)として知られる中東地域を含むユーラシアに生息し、アフリカには存在しなかった。

 13万年前頃から、レヴァントの遺跡は現生人類とネアンデルタール人が交互に占有していた形跡が見られ、その時期がおおよそ気候変動の時期と重なる。

 長期的な気候変動の追跡には多くの代理指標が使われる。古代の花粉サンプルからは、とくに繫茂していた植物やほとんど生息していなかった植物がわかる。

 洞窟に形成される石筍や鍾乳石などの二次的な鉱物堆積層からは、それが形成される間にどれくらい降雨があったかがわかる。

 古代の海底堆積物には有孔虫という海洋微生物が保存されていて、その石灰質の殻部分に取り込まれている酸素同位体の比率は当時の海水温の違いによって異なる。

 さらにハツカネズミやクマネズミ、トガリネズミ、リスなどの微小哺乳類は限られた温度範囲でしか生息できないため、その個体数や割合が気象変動の目安になる。

 こうしたさまざまな分野の情報を総合することで、過去の雨量や気温、さらに長期的な気候の安定性といった研究の土台が得られる。

 古人類学者と古生物学者は「海洋酸素同位体ステージ」(MIS: Marine Isotope Stages)を気候の指標として利用する。

 酸素同位体ステージ(OIS: Oxygen Isotope Stages)と呼ばれることもあり、有孔虫などに保存されている酸素18と酸素16というふたつの同位体の含有比率から、古代の気温が推定できる。

 寒冷期には質量の小さい酸素16を含む水分子(H₂O)は気化しやすくなり、そのぶん海水と海洋性有孔虫に含まれる酸素18の濃度は高くなる。

 気化した酸素16の含む水分子は寒冷期に雪や氷となって陸地に固定され、極地の氷床は増大し海面は下降する。

 MISに振られた数字が偶数のステージは酸素18の比率が大きい期間で、寒冷な氷河期に対応し、奇数ステージは酸素18の比率が小さく、温暖な間氷河期だったことを意味する。

 MIS1は現在の気候ステージで1万1千年前から続いている温暖な期間。MIS2は2万4千年から1万1千年まえにあたる。「最終氷河期の最寒冷期」(LGM: Last Glacial Maximum)と呼ばれる期間で、史上最後の大氷河期だ。

 6万年前から2万4千年前まで続いたMIS3は、現生人類がユーラシアに入った時期だ。

 ユーラシアは長い間ネアンデルタール人の生息地であり、サーベルタイガーやマンモス、ケブカサイ、ホラアナライオンなどの多くの哺乳類とともにネアンデルタール人は数十万年のあいだ繫栄していた。

 このMIS3のステージを知ることが、ネアンデルタール人の絶滅を理解するうえで必須となる。気候がきわめて不安定な期間で目まぐるしく変化し、数百年のうちに温暖期から短期的な寒冷期へ、そしてまた温暖期に戻るといったことが生じていた。 』


 『 MIS3のステージ内におけるこうした突然の変動を「ハインリッヒ・イヴェント」(HE: Heinrich Event)と呼んでいる。最も厳しい寒冷期はHE4でおよそ3万9千3百年前のことだ。

 MIS3ステージのなかで約3万9千3百年前、ナポリ近郊で大規模な火山が噴火し、中央、東ヨーロッパの大半がカンパニアン・イグニングブライト(CI)と呼ばれる特有の火山灰で覆われた。

 巨大な火山灰の雲が広大な地域を覆い、肉眼では見えないが地球化学的に検出できる微細な細粒火山灰が堆積した。この火山灰の雲が生態系と気温に大きな影響を与えてことは間違いない。

 ロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ研究所のジョン・ロウのチームはこの噴火で噴出した火山灰を編年の鍵層として利用し、ネアンデルタール人の絶滅が4万年より前なのか後なのか、現生人類が現れたのはこの巨大噴火の前なのか後なのかを推定した。

 ロウのチームは「CIの噴火は過去の〔20万年で〕地中海域最大なもので……250~300立方キロの火山灰を放出して中央および東ヨーロッパの広大な地域を覆い、膨大な量の灰と揮発性物質(亜硫酸系のガスを含む)が大気中に放出されたことで「火山の冬」が生じていた可能性が高い」と説明している。

 CIの火山灰は広く拡散してだけでなく、地球化学的に独特のものだった。この噴火が環境に与えた影響でネアンデルタール人はヨーロッパから消滅し、現生人類の侵入に好都合となったか、あるいは環境ストレスによりネアンデルタール人と現生人類の交代劇が加速されたのではないか、と推測する研究者もいる。

 しかし、CI火山灰の堆積した地域を北アフリカからヨーロッパの広大な地域、さらにロシアまで注意深く特定した結果、そうではないことがわかった。

 イタリアの6つの地点と北アフリカ、バルカン半島、ロシアの5地点で、現生人類の遺跡がこのCI火山層に下になっている。つまり現生人類のヨーロッパ到着の方がCIより古かったということだ。

 またギリシャとモンテネグロの2地点と北アフリカの1地点では、ネアンデルタール人の遺跡も火山灰層の下にあった。ロウらは次のように結論づけている。

 「われわれの調査結果が示唆しているのは、この〔ネアンデルタール人の〕絶滅はCI噴火のずっと以前に起きていた可能性が高いということである……〔現生人類〕もまた、CI噴火以前にヨーロッパの大部分に拡散していたようだ。したがってネアンデルタール人と〔現生人類〕個体群の交流は〔4万年前(BP)〕までにあったはずだ」

 CI噴火後、現生人類は生存していたがネアンデルタール人は生存していない。オックスフォードでの年代測定プロジェクトでも、多くの遺跡から採取し年代が同定された標本からこの結論が裏付けられている。

 しかし巨大火山噴火は、ネアンデルタール人絶滅の直接的原因にはなり得ない。なぜならこの噴火は1日あるいは2日程度のタイムスケールで起きた出来事だが、ネアンデルタール人の絶滅は数百年から長くて数千年かかっているからだ。

 またCI火山灰の分布地図から、現生人類は当時すでにユーラシアにいたことが裏付けられ、これほどの大災害も乗り越えられる能力を持っていたことがわかる。 』


 これ以降、第5章仮説を検証する、第6章食物をめぐる競争、第7章「侵入」とはなにか、第8章消滅、第9章捕食者、第10章競争、第11章マンモスの骨は語る、第12章イヌを相棒にする、第13章なぜイヌなのか?、第14章オオカミはいつオオカミでなくなったか?、第15章なぜ生き残り、なぜ絶滅したか と続きます。 (第132回)

 

 


ブックハンターの目次Ⅱ

2017-04-07 10:35:32 | 独学

 132. ブックハンターの目次  (2017年4月 五十嵐玲二)

 目次がないと自分でも、どこになにがあるかが、解らなくなります、目次があると何かと便利ではないかと考えました。自分でも自分の興味がどこにあるのか、その時々で移ろいます。

 自分はこれからどのようなテーマを追い求めるべきか、それによってどのような成果が期待できるのだろうか。新しい自分の世界が開ける可能性はどこにあるのだろうか。理想の本の要件とはどんなものなのか。

 私がおもしろいと感じたものに、読者の方々に読んでいただける、勇気と新たな風を感じます。このブログによって一番の収穫は、ほんのわずかですが、自分が成長できた気がすることです。


  (114)  ブックハンター (目次 平成28年8月)

  (115)  パラレルキャリア 〔新しい働き方を考えるヒント100〕  (ナカムラクニオ著 平成28年6月)

  (116)  英語のうまくなる人、ならない人  (田村明子著 平成20年10月)

  (117)  英語で味わう名言集Ⅱ  (ロジャー・パルバース著 平成23年3月)

  (118)  六十歳から家を建てる  (天野彰著 平成19年9月)

  (119)  ヨシダソース創業者ビジネス7つの法則   (吉田潤喜著 平成23年11月)

  (120)  チャンスと選択肢と投資について   (五十嵐玲二談 平成28年12月)

  (121)  投資バカの思考法   (藤野英人著 平成27年9月)

  (122)  HAIKU  Vol.2  Spring (俳句 第2巻)   (R.H.Blyth著 平成2年1月)


  (123  坂の上の坂    (藤原和博著 平成23年11月)

  (124)  アルファ碁VS李世乭   (ホン・ミンピョ/キム・ジノ著 平成28年7月

  (125)  米原万理の「愛の法則」  (米原万理著 平成20年8月)

  (126)  鉄客商売    (唐池恒二著 平成28年6月)

  (127)  ゼロ(0)ベース思考   (スティーヴン・レィット&スティーヴン・ダブナー著 平成27年2月)

  (128)  トランプを聴きながら   (塩野七生著 文芸春秋平成29年3月号)

  (129)  美しい人をつくる「所作」の基本   (枡野俊明著 平成24年6月)

  (130)  C・Wニコルの生きる力   (C・W ニコル著 平成23年12月)

  (131)  世界を相手に商売を   (ビィ・フォアード 山川博功  朝日新聞GLOBE平成29年4月2日)


  私の本棚Ⅱ

 ◎  物は置き場所、人には居場所(1~15) (平成28年9月)

 


ブックハンター「世界を相手に商売を」

2017-04-03 10:07:55 | 独学

 131. 世界を相手に商売を  (ビィ・フォアード 山川博功  朝日新聞GLOBE2017年4月2日記事)

 今回紹介しますのは、副題を「中古車輸出で新興国へ、ネットと輸送網で次を見据える」で、Breakthrough(突破する力185)の欄にあったものです。

 私が紹介しますのは、現代のビジネスモデルとして、いくつかの注目すべき点があると思ったからです。

 その一つは、日本には、古いけどまだ働ける自動車の大きな供給力があり、アフリカの内陸部には、中古自動車でも欲しいという人が多くおり、そこに大きな需給ギャップが存在していた。

 その二つは、インターネット(特にスマホ)によって、日本国内に存在する中古車と、アフリカ内陸部のユーザーを直接結びつけたことです。

 その三には、日本にある中古車をアフリカ内陸部のユーザーに確実に、輸送する輸送網を創り上げたことです。そして自分の車が、日本のどこの港を出港し、商船三井の船に乗って、アフリカのどこの港に着いて、いつユーザーのもとに着くかをスマホで、見れるようにしたことです。

 これを実現するには、言語の問題、各国の貿易上の手続きの問題、多国籍の人々の雇用の問題、……が発生しますが、これも商売の醍醐味なのかもしれません。では私といっしょに読んでいきましょう。


 『 調布駅前のビル最上階にあるビィ・フォアードのオフィスには、耳慣れない言葉が飛び交う。スワヒリ語、チェワ語、ベンガル語……。アフリカをはじめ世界各地から電話で問い合わせがきて、社員が対応しているのだ。

 社員の2割にあたる約40人は外国人。操る言語は30に達する。世界126ヵ国・地域に日本の中古車を売っている。年間十数万台を輸出し、その大半は途上国向けだ。

 特にアフリカ諸国に強く、輸出全体の6割をしめる。フロアには、山川博功(ひろのり)(46)の社長室はない。全員の席が見渡せる場所に机と椅子があるが、その席にいる時間も少なく、ミーティング室とを行ったり来たりする。

 「社長室なんかで仕事ができるほうが不思議。みんなが見えていないと、アイデアが生れてこないじゃないですか」

 2004年の会社設立前から山川を知る東京商工リサーチの世古文哉(49)は、「設立当初は苦労していたが、日本車の質の高さと、厳しい車検制度でよい状態の車が多いことに着目し、今までになかったビジネスモデルを作りあげた」と評価する。

 これまで輸出される中古車は、いったんドバイなどに輸送して外国の業者に売り、そこからアフリカに運ばれていた。しかし、山川は、ネット販売で日本の中古車を世界中の顧客に安く、直接届ける仕組みを作りあげた。

 車を買いたい人は、同社のサイトで欲しい車を選ぶ。日本から各地の港に輸送された後は、提携する現地の業者が車を運ぶ。海外向けの中古車販売サイトは他にもあるが、港から先の陸送網まで整備し、顧客に届けるサービスを徹底させたところは他にない。 』


 『 学生時代から、「世界を相手に商売したい」と思っていた。しかし、希望していた商社には採用されず。車好きだったこともあり東京日産自動車販売へ。

 営業の成績は新人賞を取るほどだったが、学生時代から続けていた自動車レースの参加費用がかさみ、借金が800万円に。「返済が追いつかない」と思い、3年で会社を後にした。

 その後、運送業や宝石販売などを転々とした揚げ句、たどり着いたのが中古車ビジネスだった。中古車売買のカーワイズで働き始めた山川は、新車販売で培った営業力で一気に成績を伸ばす。

 1年後には借金を完済し、その半年後の1999年には「ワイズ山川」として独立した。ところが、02年から中古車の買い取りだけでなく輸出も始めたところ、困難に直面した。

 車を現地に送っても仲介者にだまされたり支払いがなされないなど、トラブル続きだった。出た損失はミヤンマーで2500万円、ニュージーランドで2億5000万円にのぼった。

 カーワイズの創業者で現在はグループ会社会長の山本泰詩(58)は、山川を見込んで独立資金も出資していたが、見かねて「もう輸出はやめた方がいいんじゃないか?」と声をかけた。

 だが、山川は「もう1年やらせてください」と粘った。「次に同じことをやらなきゃいい。失敗したんだから、改めればうまくいくだろって」

 危機を救ったのが、アフリカとの出会いと、インターネットだった。当時、日本からアフリカに向けた中古車輸出は主にパキスタン人が担っていた。

 パキスタン人脈を活用したビジネスのノウハウは知られておらず、日本人の間では「マフィアが絡んでいるんだろう」「車の骨組みに麻薬をしこんで密輸しているんだ」などとうわさされていた。

 山川は、親しくなったパキスタン出身者から、その市場が実はもうかることを聞きつけていたが、アフリカは「何が何だか想像がつかない世界」で、ちゅうちょしていた。

 06年、日本にあった国外向け中古販売のサイトに加盟し、車を載せ始めた。当初はスポーツカーを中心に扱っていたが、付き合いで引き取った、解体に回すような古い車を試しに乗せたところ、耳慣れない国から注文が入るようになった。

 ジンバブエ、ウガンダ……。どこだそれ? 1万円以下で仕入れた車が送料込みで17万~18万円で売れた。日本の中古車は走行距離が少なく、途上国ではまだまだ現役なのだ。

 スクラップが宝の山になる。学生時代に思い描いた「世界に向けた商売ができる」と身震いがした。代金支払いへの不安などから、中古車売買の業界ではアフリカを軽視する風潮もあったが、山川は社員に「電話にはすべて出ろ、メールはすぐに返信しろ」と徹底させた。

 信頼を勝ち得ると、評判が口コミやSNSで広がった。08年のリーマン・ショックは、日本の中古車市場にも及び、売買が冷え込んだ。だが山川は、アフリカには金融危機の影響が少ないことを見抜き、底値まで落ち込んだ中古車を、銀行から借り入れをして買いあさった。

 全国のオークション会場を回って一週間に一度しか家に帰らず、妻の百合子(44)にとがめられたこともあった。だが、「事業を自分でやってる以上は、普通のサラリーマンみたいに家に帰れない」と飛び回り続けた。

 08年に1314台だった輸出台数は、10年には10倍に伸び、危機をチャンスに変えた。東日本大震災のときも、競合するパキスタン人たちが国外に避難している間に、仕入れに全力を挙げた。

 新興のビィ・フォアードにとっては、仕入れた車を輸送する船の確保も課題だった。商船三井の山縣富士夫(55)は09年、知人を通じて山川から「九州から車を積めずに困っている」と相談を受け、福岡県の苅田港に200台納めるように打診した。

 約束した台数や車種を守らない中古車の荷主がいるなか、山川は納期までにきっちぃり納めてきた。「第一印象は怖い方かと思いましたが、前向きで勉強熱心。アフリカにも良く行き、現地の状況をよく知っていた」と山縣。今では商船三井は毎月1500台、ビィ・フォアードの車をアフリカに運ぶ。  』 


 『 山川に商売の厳しさを最初に教えたのは母慶子(68)だった。福岡県内で美容室を開き、今も働き続けている。週一日の休日にも講習にいき腕を磨く母の姿に、「働くとは、お金をもらってお客さんに納得してもらうとはどういうことかを学んだ」と山川。

 慶子も「あの子は他人にも自分にも厳しい。私に似ているかもしれない」と言う。山川はよく、「具体的にやったみることだよ」と口にする。妻百合子が好きな詩人、相田みつをの言葉にちなんだその言葉通り、社員のアイデアもよければ即座に採用し、任せる。

 モンゴル出身のポロルジャブ・ガルエルデネ(32)は入社してすぐに、モンゴル市場の開拓を提案。4年で0台から月間800台を輸出するまでに飛躍させた。事業の進め方や新しいサービスについて「社長に提案して断られたことはない」という。

 「世界中に「仕掛け」をちりばめている」と山川。アフリカ東部の未承認国家ソマリランドの現地紙に広告を出したこともある。

 いま仕掛けているのは、各国に広げた自動車の陸送網の活用だ。「目指すのは「新興国のAmazon」」と将来像を語る。車の部品や重機などから始め、さらに様々な商品を、日本から世界に送ろうともくろんでいる。 』


 この記事の中に直接記述されてませんが、中古車がアフリカの奥地で活躍しなければ、この会社は成り立ちません。この山川社長の中古車を見抜く、並々ならぬ経験と眼力によって、中古車が第二の人生をアフリカの大地で働いているからだと想像されます。 (第130回)


 


ブックハンター「C・Wニコルの生きる力」

2017-03-24 10:28:38 | 独学

 130.  C・Wニコルの生きる力  (C・W ニコル著 2011年12月)

 今回は、黒姫にあるアファンの森と共に生きる、作家のC・Wニコルの「ソリストの思考術」(副題)という本ですが、私が紹介しますのは、「明治生まれの日本人に学ぶ」という部分です。私たちは、日本人ですが、武士道、禅、日本人について、1940年ウェールズ生まれの赤鬼ことW・Cニコルを通して、はじめて理解することができる、ことなのではないかと思いましたので。

 

 『 私が初めて出会った日本人は、柔道家の小泉軍治先生。十四歳のころ、私は北極に行くためにあらゆる努力をしており、その一つに柔道があった。

 柔道クラブに通って、元コマンドの茶帯の大男に週に数回、柔道を習っていたのである。何のきっかけだったかは忘れたが、柔道クラブの生徒たちが皆でお金を出し合って黒帯の柔道家を招待することになった。

 「柔道をする日本人」 「とんでもなく強い黒帯」 というイメージが、皆を夢中にさせたのだろう。黒帯の柔道家に本格的な指導が受けられるということで、われわれの期待は大きく膨らんでいた。

 われわれは本当に熱心だったのである。それぐらい本物の柔道家に教えを受けたかった。当時、小泉先生は、ロンドンで柔道を教えており、われわれからの招待に快く応じて、田舎までやって来てくれた。

 われわれは駅まで迎えに行き、どのような屈強な男が来るのか、ワクワクしながら待っていたが、やって来たのは背筋の伸びた初老の小柄な紳士であった。もしかすると六十歳を超えていたのかもしれない。

 頭には白髪が交じっている。シルクのアスコット・タイをきちんとピンで留めており、髪はやや長めでこざっぱりとしたオールバック。ツイードのジャケットに綾織りのズボンで、足には茶色の靴を履いている。

 口ひげをたくわえており、プライドと優しさをたたえたまなざしをしている。英語は達者で、とても丁寧で紳士的な話しぶりだ。私は、これまで映画で見てきた、がに股でいかつい、野蛮な感じの日本人を頭に描いていたので、その紳士ぶりに驚いた。

 小泉先生は、道場に着いてから並び方や礼儀を教え、準備体操をするように指示した。それから、受け身を指導する。われわれはじりじりしながら待っていた。先生の本当の強いところを見たかったのだ。

 午後になって、待ちに待った組手が始まった。小泉先生は、折り目正しく、われわれの先生である元コマンドに言った。「お相手していただけますか?」

 小泉先生が組み手をしたかと思うと、私がこれまで世界で一番強いと思っていた元コマンドを軽々と投げ飛ばしていた。先生が出足払いをかけたら、大男の足が先生の肩より上に飛んでいった。

 小泉先生の技に畏れを抱いた。力で投げる柔道ではなく、すさまじく切れのよい投げ技である。投げられた元コマンドも、投げられた理由も分からず、不思議そうに周囲を見る始末だった。まるでマジック。

 小泉先生は、投げ飛ばしても相手がきれいに着地するように、手をしなやかに動かす。その物腰は、これまで見たことのない美しいものだった。そうすると相手は手を打ってうまく受け身の姿勢を取ることができ、すぐに立ち上がれる。

 そのようにしてわれらが講師は、十分ぐらいの間に何度も投げ飛ばされた。それでもひるまず、元コマンドの彼はファイトをむき出しにして力を尽くしたが、小柄な日本人に投げ飛ばされたのである。

 小泉先生は、さまざまな投げ技を見せたあと、技のかけ方や体の動かし方を説明した。一段落したところで、小泉先生は講師にこう言った。 「ためしに私を投げてください」

 元コマンドは、持っているすべての技を駆使して小泉先生を投げる。先生は投げられて床に倒されるごとに、手で床を叩いて完璧な受け身をする。笑いながら起き上がり、講師を称えた。

 私も小泉先生に投げられたが、やさしく袖をつかまえて頭を打たないようにしてくれた。小泉先生の身の動き、立ち居振る舞い、言葉遣いなど、その体から発散する本格的なものに私は心を奪われてしまっていた。

 そして、すぐに決心する。 「日本に行って黒帯を取る」 次の瞬間、疑問が湧いた。 「どうして、このような立派な人がいる国が戦争を起こしたのだろう。小泉先生が生まれた日本とは、いったいどのような国なのか?」

 日本への興味がとめどなく湧き、北極と同じように日本の知識を吸収し始めた。図書館には日本関連の本は少なかったが、新渡戸稲造の『武士道』と小泉八雲の本があった。

 とにかく日本に関係あるものなら何でも調べて頭に入れたのだ。黒沢明監督の映画『七人の侍』を見たのも、そのころだったと思う。後年、調べてみたところ、小泉先生は柔道の創始者、加納治五郎師範の直弟子の一人だった。

 講道館は一九一七年、日英同盟を結んでいたころに小泉先生をロンドンに派遣している。私が小泉先生に習ったのは十四歳のときで一九五四年だから、小泉先生はおそらく四十年近く英国で柔道を教えていたことになる。

 英語が流暢であったのも当たり前であり、その紳士ぶりは、日本人の武士道と英国の騎士道が融合したものではないか、と推察する。 』


 『 四谷の古い道場で空手の練習に励んだ二年半の間に、私は空手の目的がただ強くなるだけではないこと、空手というものが優しさへの道なのだということを学んだ。武道家たちは本当の優しさを手に入れるために日夜、修行に励んでいる。

 思い返せば、四谷の空手道場には、創始者の船越義珍(ぎちん)先生の言葉が書いてあった。 「空手道の究極の目的は勝敗にあらずして。修行者の人格の完成なり」

 松濤(しょうとう)館はこのように人格形成に重点を置いた流派である。それは悟りの境地を目指すことと同じ意味だ。実際、普段から悟りの境地についての教えがあった。私が空手の型の実習をしているとき、先生からこのように言われた。

 「ニコル君、君の敵はどこにいるのかね。君は型をやりながら、自分のことしか考えていない。自分の動作の方向を見たまえ! 一生懸命に稽古をすれば、動かぬ水のように静かな心境に達することができる。空手は ”動く禅” なのだ。そして君が目指さなければならないのは、禅の境地なのだ」

 その後、敵を見ることに努力し続けたところ、私にはそれが分かりかけた。ひたすらに完成を求めて努力することによって、心は解放され、素晴らしい静けさに到達し、体もその静かな心持ちの中で動くようになる。

 型を練習することは、禅の静寂の境地を知る最良の道である。そのような体験をもとに、私は日本での空手修行をベースにした本『MOVING  ZEN』を執筆した。

 これは世界中で発刊されてベストセラーになった。その中には私が稽古着を着て、型を稽古している写真が掲載されている。機会があれば、若かりしころの凛々しい姿をぜひ見てもらいたいものだ。

 真面目に修行を積んだおかげで、私は五段まで昇段することができ、現在はありがたいことに名誉七段をいただいている。私は旅行に出かけるときには稽古着を必ず持って行った。

 その土地、その土地で道場を探して、空手を通じてコミュニケーションをとることができるからである。おかげで世界中に友達ができた。

 例えば、ザイール(現コンゴ)に行ったときには、ゴマという町でニイラコンゴという火山を撮影するために小高い丘に登った。そこは少し町から離れたところだったが、三十人くらいの若者が空手の型を練習していた。

 稽古着はなく普段着だ。その型は間違いなく松濤館の平安二段という型。私は撮影が済むと、若者たちのところへ行って平安初段などの型を見せた。彼らはすぐにこう言った。

 「教えてください」 「どこで習ったのですか?」 「先生は誰ですか?」 なかなか稽古熱心な生徒たちだ。まるで私がウェールズにいたころ、柔道家の小泉先生を招聘したような熱気があった。

 ガイドは心配してこう言った。「危ないよ。治安が悪いから行かないでください」 「この三十人の若者に空手を教えるのが危ないのかい?そんなことはないだろう。ここで一時間ぐらい教えていくよ」 と言って、私は一時間ほど基本と意味を教えたりした。

 それから、皆と一緒に町まで歩いて帰ってバーに入って酒を酌み交わした。それは楽しい旅のひとときだった。世界中、どこへ行っても空手道場があって、そのように飛び入りで教えることで友人を創ることができる。なかなか楽しい空手の効用である。 』


 『 私が最初に日本にきたときには、明治生まれの日本人にとてもお世話になった。明治生まれの方は、気骨と教養を併せ持つ一種のサムライだった。英国風に言えば紳士である。

 その中でも私がいまでも忘れられない人は、仲省吾(なかしょうご)氏だ。私が埼玉県の秋津に住んでいたころで、まだ私は二十四歳だった。私が、散歩の途中にオナガという鳥をカメラで撮影していたときである。

 そこに着物姿のおじいさんがやって来て、しばらく私のほうを見ていたので、私は何となく英語で「すいません、英語を話せますか」と話しかけてみた。 ”Excuse  me, Do  you speak  English?” ”Yes, Sir.  What  are  you  photographing?”

 おじいさんは、すぐに 「はい。どんな写真を撮っているのですか」 と返事をしてくれた。それは完璧なビクトリア時代の英語であった。目を閉じれば、そこに英国紳士が立っていると間違えそうな話しぶりである。

 でも、目の前にいるのは小柄な着物姿の日本人だった。路傍での出会いをきっかけにしてわれわれは友人となり、私は仲氏が住む老人ホームの中の一棟をしばしば訪ねるようになった。

 仲氏は英国に長く暮らしたことがあり、英国を第二の故郷とするほどに愛していた。その教養は幅広く話題はつきることがない。見識の深さには舌を巻くほかなかった。

 私は仲氏と一時期、ともに時間を過ごして、このような感想を抱いた。 「なるほど、このような人が日本という国をささえてきたのだな」 仲氏との出会いによって、日本という国への信頼をさらに深めた。

 それは日本に来るきっかけになった柔道家の小泉先生と共通する魅力である。 「サムライ」 「武士道」 という言葉に代表される深い精神性と幅広い教養を身に付けた人が発する魅力だ。

 そのような人びとは、礼儀作法を心得ており、薫り高い立ち居振る舞いをする。仲氏は自身のプライベートについて話さなかったし、私は自分が話すことに夢中だったので、仲氏からのプライベートなことを聞き出そうとしなかった。

 だから、私は仲氏のプライベートをほとんど知らないまま、たくさんの話をしたことになる。何回も仲氏の部屋に伺い、ミルクティーをいただき、楽しい時間を過ごした。それは私にとっては魅惑のひとときだった。

 だが、しばらくすると仲氏の健康状態が悪化したため、仲氏はうわごとを言うようになる。悲しいことに私を見て「デイビット」と呼び、こう言うのだ。 「デイビットよ、バーナードはどうしてここに来てくれないのかい?」

 バーナードとは、英国の有名な陶芸家であるバーナード・リーチのこと。世界的な巨匠であり、英国随一の親日家といってもよい人物である。二十四歳の私も、高名なバーナード・リーチのことは知っていた。

 仲氏が住む一棟の家の近くには、リーチ氏が作った日時計があった。私はそのとき知らなかったが、それはリーチ氏から仲氏に贈られたものである。

 私にはリーチ氏に連絡する術もなく残念に思っていたところ、偶然にも新聞で「バーナード・リーチ氏来日」の記事を発見。手当たり次第に氏の連絡先を探しまくった。一時間後、私はリーチ氏と電話で話した。

 「こちらに仲省吾氏という人がいて、あなたに会いたがっています。仲氏はいま、病気で体調がよくありません。できれば会いに来てくれませんか」 「参りましょう。明日伺います。秋津駅からの道案内をお願いできますか」 「もちろんです。お待ちしております」

 短い来日期間中、リーチ氏は多忙なはずだが、友人の名前を聞いてすぐにほかの予定をキャンセルすることを決意したのだった。翌日、私は秋津駅でリーチ氏を出迎えた。そのとき氏は七十八歳。

 老人ホームまでリーチ氏を案内しながら話をする中で、仲氏がロンドンで画廊を開いていたことが分かった。氏を部屋に案内すると、仲氏は元気を取り戻し、リーチ氏と会えた喜びを体中で表した。

 私が廊下のベンチに座っていると、部屋の中から二人に嬉しそうな会話が聞こえてきた。後日、私が仲氏を訪ねると、もう私を「デイビット」と間違うことはなかった。

 東京オリンピックや秋の鳥のことなどを話し続けたが、そのときが仲氏と会う最後になるとは思わなかった。しばらくして私は、仕事でカナダに向かうことになり、仲氏と二度と会うことがなかった。 』


 『 カナダのトム・ライムヘン教授(以下、トム)が研究した「サーモン・フォレスト」のことを知っているだろうか。クマと森の関係を調べた彼の研究成果には驚くべきものがある。ここで紹介しておこう。

 トムが気になったのは、クマがサケを捕えて森の中へ運んでいく様子だ。産卵期になると、生きたサケが波のように群れながら川をさかのぼってくるが、クマはそれらのサケをその場で食べずに、森に運んで食べているようなのだ。

 不思議に思ってトムは、クマが運ぶサケの数を調査する。その結果、一年で一頭のクマが森の中に運ぶサケは七百匹。全長二,三キロの小さな川に四十頭くらいのクマが集まることもあるので、単純計算すると、その流域の森にばらまかれるサケは二万八千匹。

 それらの一部はクマが食べるが、残った骨などは一年でネズミやシカなどに食べられ、残りは森の中でウジなどの昆虫によって一週間ほどで分解される。分解されたものは草木の栄養となり、森が成長するわけだ。

 サケの死骸の栄養で森が成長していることから、学者たちはそのような森のことを「サーモン・フォレスト」と名付けた。それを聞いて私は、イヌイットなどの猟師たちとの経験から想像してみた。

 クマも猟師や釣り人と同じように、サケを獲る縄張りを持っている。そこにほかのクマが来るとケンカになるが、クマはサケを手に持ち、口にくわえているのでケンカもできない。

 ケンカをする暇がないほど食べるのに忙しいので、落ち着いて食べるためにサケを持って森の中に運ぶ。そのとき、クマは栄養がある頭の後ろとイクラを真っ先に食べる。

 それからまた縄張りの川に戻ってサケを捕まえる。このようなことを繰り返し、大量のサケを森の中へ運ぶのだ。今度は森の上から、クマとサケの動きを想像してみよう。

 一本の川には小さな支流がたくさんあり、その支流にはもっと小さな支流がある。そこをサケが遡上していき、クマがサケを捕って森の中で食べる。それは、サケという栄養が海から扇状に水源地である山の中に広がっていくことでもある。

 サケという海からの栄養が、山に戻っているのだ。トムは、サケの栄養が森にどのような影響を与えたかも調べている。いろいろな調べ方をしたが、一番面白いのは、大木にボーリングして年輪を取ったこと。

 カナダにはサケに関するさまざまな統計データが保存せれている。例えば、サケが川を遡上した数、サケを捕った数、サケ漁が禁止された年などさまざまだ。

 そこで、トムが調べたのは、海水には含まれているが陸にはほとんどない安定同位体の窒素15。それが木の年輪に含まれているかどうかを調べたら、たくさんあることが分かった。

 統計データと照らし合わせると整合性があり、サケの栄養がクマによって森に運ばれ、大木の栄養になっていることが明確になった。

 サケがのぼらない地域とサーモン・フォレストを比較すると、同じ木であっても成長に二倍半の差があることが分かった。つまり、サケの死骸の栄養によって森が大きく育ったのだ。

 私たちは曼荼羅のような大きな命のサイクルの中にいる。山の栄養は、雨や雪に浸食されたりして引力によって海に流れていく。そして海からの栄養を、サケ、アユ、ウナギ、海鳥などの生物たちは今度は逆に森に運んでいる。

 そのことに私は感動した。トムは、イヌイットやアイヌという先住民族が持っていた知恵を、科学で解明したことになる。森や川で暮らしていた人はとっくに知っていたことに、近代科学がやっと追いついたのである。 』 (第129回)


ブックハンター「美しい人をつくる「所作」の基本」

2017-03-08 09:19:26 | 独学

 129. 美しい人をつくる「所作」の基本   (枡野俊明著 2012年6月)

 著者は、禅僧であり、日本庭園デザイナーであり、日本と米国の大学で教えてもいます。

 私がこの本を紹介しますのは、禅について知識を深めるためではなく、禅の考え方を私たちの日常の生活の中に応用するためです。

 禅は、インド仏教を源流とし、中国で発生し日本に伝来し、日本文化の様々な分野に影響を与えました。

 武士道、俳句、茶道、日本庭園、日本画、日本刀、……などです。良寛の書や和歌や人生が私たちに感動を与えるのは、良寛が禅僧であることとは、無関係ではないと思います。

 では、美しい人をつくる「所作」の基本を読んでいきましょう。

 

 『 「立ち居振る舞い」というと、立ったり座たりするときの動作、体の動かし方のことだと思っている人が多いかもしれません。

 たしかに、「あの人の立ち居振る舞いは美しい」という言葉を聞いて連想するのは、軽やかな体の使い方や優雅な身のこなしだと思います。しかし、立ち居振る舞いとは、単に体の動きというだけだはなく、もっと別のものもあらわしているのです。

 ふだんのカジュアルな洋服を着ているときと、とっておきのドレスを着てハイヒールを履き(男性なら一張羅のスーツにネクタイを締め)、パーティなどあらたまった場に出席するとき……そんな対照的なシチュエーションをちょっと思い浮かべてみてください。

 さぁ、二つの場面での立ち居振る舞い、違ったものにならないでしょうか。カジュアルな装いのときは、立ち居振る舞いのどことなくラフなものになりますし、フォーマルに身を固めたときは、気持ちも引き締まり、丁寧な立ち居振る舞いになるはずです。

 このように、着ているものによって立ち居振る舞いが変わるのは、そのときどきで心の有り様、心の状態が変化するからです。つまり、立ち居振る舞いは心を映し出すもの、といっていいのです。

 立ち居振る舞いについて、本書では主に「所作」(しょさ)という言葉を使っていきます。まず最初に、その「所作」と「心」が深くかかわっていることを知ってください。

 所作の美しい人を見て、「素敵だなぁ」 「かっこいいなぁ」と感じるのは、そのとき同時に、その人の心の美しさに触れているからです。やさしい所作は心のやさしさのあらわれですし、穏やかな所作には心の穏やかさがあらわれているのです。

 また、とりたてて目立つわけでも、特別に美形というわけでもないのに、「素敵だなぁ」と心惹かれる人がいますね。なぜ目を奪われるのか、考えてみてください。おそらく、そういう人は、「所作」が美しいのではないでしょうか。

 じつは、所作が美しい人ほど、その所作は「さりげない」ものです。わざとらしくなく、美しい所作をするから 「なぜだかわからないけれど、心惹かれる」のです。

 私はこれまで、何人もの高僧に会ってきましたが、徳の高い方ほど、美しさがあります。「所作なんて、形じゃないか!」という考えを持っているとしたら、いますぐそれを捨ててください。

 所作を整えることは心を整えること、所作を磨くことは心を磨くことです。そして、ぜひとも知っていただきたいのは、「心」に比べると、「所作」は整えたり、磨いたりすることが、比較的やさしいということ。ここはもっとも重要なところです。 』


 『 仏教では、すべての事柄には、”原因”があり、そこに ”縁”という条件が整って、はじめて ”結果”が生まれる、と考えます。たとえば、ここにキュウリの種があったとします。その種を納屋にしまったままだったら、いつまで待っていても芽が出ることはありません。

 土地を耕し、肥料を畑全体に行き渡らせて種を植えつける。その後も毎日水をやり、雑草を取り除いて、成長するように手をかけていく。そうした条件があってはじめてキュウリが育ち、実りを収穫できる、という結果が得られるのです。

 キュウリの種は ”原因”です。そして、発芽や成長のために欠かせない条件のかかわり合いが ”縁”です。その”原因”と”縁”がしっかり整ってこそ、”因縁”が結ばれ、素晴らしい ”結果”が出る。

 あらゆる事柄はそうしてこの世の中に存在している、とするのが仏教の考え方といっていいでしょう。人間も同じ。人生は縁によって成り立っています。

 縁しだいで幸せな人生に向かって歩むこともできるし、逆に不幸を背負い込むことにもなる。どういう縁を結ぶかで人生は変わっていきます。「これは私の運命だからしかたがない」 「背負った宿命は変えようがない」 

 そう考える人がいるかもしれませんが、そんなことはないのです。人生はいつでも、よい縁を結ぶことで幸せな方向に変えられる。私たちの人生は、決して人間の力の及ばないものに支配されているわけではないのです。

 ですから仏教では、縁を結ぶこと、すなわち「縁起」を何より大事にします。それによって人生は左右される、と考えるからです。では、よい縁を結ぶにはどうすればいいのでしょうか。ここはきわめて大切なところです。

 仏教は「三業」を整えよ、と教えます。三業とは 「身業」 「口業」 「意業」 の三つ。つまり、身(体)と口(言葉)、意(心)を整えて生活することで、よい縁を結ぶ条件がそろう、というわけですね。

 一番目の「身を整える」とは、所作を正しくする、ということ。姿勢や一つひとつの動作を正すということばかりでなく、正しい法(教え)にしたがって、できるだけ他人のために自分の体を惜しみなく使う。それが身業を整える、ということです。

 人間はともすると自分中心の行動をとりがちですが、そうではなくて、まず相手の立場に立ってものを考え、行動するようにつとめることが大切です。

 次の 「口を整える」 とは、愛情のある親切な言葉を使うことです。同じことを伝えるのでも、相手の年齢や立場、また、人柄や力量によって、伝え方は異なって当然。いえ、その人にふさわしい伝え方をすべきです。

 「この人にはどんな言葉で伝えたらいいのだろうか?」 それをつねに考えていくのが口業を整えることになります。最後の 「意を整える」とは、偏見や先入観を排し、ひとつのことに囚われることなく、どんなときも柔軟な心を保つことです。

 禅ではこれを「柔軟心」と呼びますが、喩えるなら、空に浮かぶ雲のように形も流れ方もまったく自由自在な心、といってもいいかもしれません。

 このように、身、口、意の三業を整えることが、よい”縁”を呼び寄せ、結んでいくことに直結するのです。先のキュウリの例でいえば、畑の耕作や肥料を撒くこと、水ややりや日頃の丹精が、人間にとっては三業を整えることにあたります。

 いつも三業を整えるという意識を持って生活する。その積み重ねが、私たちの人生を実り多い、さらに人々から祝福されるものに変えてくれる、といっていいでしょう。

 所作は、よりよき人生を築いていくための、そして、美しく生きるための三本柱のひとつです。そのことを肝に銘じてください。 』


 『 所作の美しさの ”原点” はどこにあると思いますか? 美しく見えるためのテクニックを磨くことでしょうか。それとも、一挙手一投足を「美しく、美しく……」と意識しておこなうことでしょうか。

 そうではありません。テクニックは所詮技術ですから、付け焼刃はすぐに剝げますし、意識がまさった動きはどこかぎこちなくなってしまうもの。じつは、美しさは ”簡素” のなかにあるのです。

 禅と深いかかわりを持っているのが枯山水の庭です。私はそのデザインをしていますが、その際、念頭に置いているのは「いかに余計なものをそぎ落としていくか」ということです。

 石と白砂だけで構成される枯山水は、素材そのものがすでに簡素といっていいわけですが、当初にイメージしたとおりに石を配し、白砂を敷けば、それだけで表現したい世界が広がるということはありません。

 そこからそぎ落とし、さらにそぎ落としていく。その作業に全身全霊を注ぎ込まなければ枯山水は完成しません。これ以上もうそぎ落すものはない。その段階までいってはじめて、庭に命が吹き込まれます。

 枯山水が見るものの心を打つのは、そぎ落とすことによって空間が研ぎ澄まされ、一見、閑(しず)かに見える佇(たたず)まいのなかに、無限の広がりと奥行き、そして緊張感が生まれるからです。まさに「簡素の美」といっていいと思います。

 簡素さは美しさの原点であり、そして終着点でもある。簡素になればなるほど美しい。私はそんな実感を持っています。所作にも、枯山水と同じことがいえるのではないでしょうか。

 美しく見せようという作為のある所作は、どれほど巧みにその企みを隠したとしても、必ず、どこかにそれが透けて見えてしまいます。ところが、作為から離れ、動きの無駄を省いていくと、一つひとつの動きが丁寧に、丁寧になっていくのです。 

 丁寧な動きには心がこもります。丁寧に一つひとつをおこなうと、体と心が一体になった美しい所作ができるようになる、といっていいですね。

 実際、禅の老僧のなかには、ただ立っているその立ち姿から、凛とした美しさが伝わってくる方がいます。お茶を飲む、食事をする……といった日常的ななにげない振る舞いが、流れるように美しいです。枯山水に共通する「簡素の美」がそこにあります。 』


 『 禅には「調身(ちょうしん)、調息(ちょうそく)、調心(ちょうしん)」という言葉があります。禅の修行の根本である座禅の三要素とされるもので、順に、姿勢を整える、呼吸を整える、心を整える、ということです。

 この三つがそろうと心やすらかな境地にいたることができるのですが、それほど「姿勢」と「呼吸」と「心」は深くかかわり合っています。つまり、姿勢(=所作によって成り立つ)が整ってくる、呼吸が整うと心が整ってくる。

 これらはそんな関係にあります。文字どおり、三位一体としておたがいに結びついているのです。逆にいえば、所作が整わなければ呼吸も整わないし、呼吸が整わなければ心も整うことはない、ということになります。

 この座禅の三要素は、そのまま美しい人になる必要条件だ、と私は思っています。あなたの身のまわりにいる美しい人を思い浮かべてください。

 そして、所作を、呼吸を、心を、ズームアップしてみましょう。何か気づくことはありませんか? 「そういえば、いつも背筋がピシッとのびているし、お辞儀ひとつとってもすごく感じがいい。物腰がやわらかいってああいうことなんだ」

 そういう人は、おそらく、デスクに片肘をついて顎をのせていたり、椅子から脚を投げ出したりしていることもないはずです。所作が整っているのです。

 「クアライアントを前にしたプレゼンテーションでも、アガっている様子なんかぜんぜんなくて、落ち着いて主張すべきことを堂々と主張していたなぁ」 なぜその人は、困難な状況でそんな姿を維持できているのか? 

 それは、どんな状況にあっても、呼吸がきちんと整っているからです。あるいは、「会話のなかで声を荒げることもないし、トラブルに際してもつねに冷静に対処している」人もいますね。その人の心がいたずらに揺れ動くことなく、穏やかに整ってる証拠です。

 美しい人をちょっと気にして、注意深く観察すると、所作、呼吸、心が、まさしく三位一体だということが、明確になるのではないかと思います。所作は美しいけれど、呼吸が乱れているし、イライラしていて怒りっぽい、ということはないのです。

 座禅が、調身、調息、調心が相まって完成するように、美しさも、所作と呼吸と心が一体となって整うことでつくられます。それがわかると、やるべきことがおのずから見えてきませんか? 』


 『 禅には、「威儀即仏法(いぎそくぶつほう)、作法是宗旨(さほうこれしゆし)」という言葉があります。

 威儀、すなわち、所作を正しく整えることが、そのまま仏の法(教え)にかなうことであり、作法に則(のつと)って生活することが、教えそのものなのだ、という禅語の意味です。

 これは、”外面と内面” ”形と心” の関係をよくあらわしています。「形と心ではどっちが大切?」と問いかけたら、みなさんの多くは、「そりゃあやっぱり心の方が大事なんじゃない」と答えるでしょう。

 誰にでも姿形が美しくありたいという思いがありますが、それよりももっと価値があるのは心の美しさだという感覚があるからですね。

 実際、”見た目はいいけど、心はちょっと”と評価されるより、”見た目はともかく、心は素晴らしい” と評価されるほうが、はるかに自分が認められてる、という気持ちになりませんか?

 しかし、禅語はそうではないと教えてます。威儀と作法は「形」、仏法と宗旨は「心」です。それが同じだということは、形を整えれば自然に心も整う、所作を美しくすれば、心も美しくなる、ということです。

 禅はもちろん心の修業ですが、あらゆる場面で所作を大切にするのは、この教えが貫かれているからです。所作をおろそかにしたのでは心の修業などできるはずもない、というのが禅の考え方なのです。

 もうひとつ、禅では行住坐臥(ぎょうじゅうざが)のすべてを修行としています。行は歩くこと、住はとどまること、坐は座ること、臥は寝ること。仏教ではこれを四威儀といいますが、日常の立ち居振る舞い、何をしているときでもその所作の一切合切が修行だと考えるのです。

 だからこそ、一つひとつの所作を気持ちを込めて丁寧にやることが求めれれます。もちろん、禅僧の修行生活と皆さんの日常生活は違います。しかし、所作が大切なものだという視点で、それぞれの生活を見直してみることは、おおいに意味のあることだ、と思います。

 ——毎日の食事の仕方に注意を向けたことがありますか? テーブルマナーは心得ていて、レストランでの食事はそつなくできても、日常的な食事は、惰性的に何も考えずにしている、という人がほとんどではないでしょうか。

 ——朝起きてから仕事に向かうまでの時間をどんなふうに過ごしていますか? コーヒーやお茶を一杯飲むか飲まないかで家をとびだしている、という人も少なくないでしょう。

 ——夜寝る前も、テレビやDVDを観ながらいつのまにかうとうとしている、といったことはありませんか? いずれも ”所作の大切さ” が忘れられています。

 言葉を換えれば、せっかくの心を美しくする機会をみすみす放棄している、という言い方ができるかもしれません。もったいないと思いませんか?

 所作の大切さを思い、禅が教える正しい所作を知ってください。そして、ひとつずつ、ゆっくりとでいいですから実践しましょう。あなたは美しく変わっていきます。 』


 『 さあ、いよいよ実践です。手はじめに、あなたがふだんどんな姿勢でいるか、チェックしてみましょう。服装や髪型のチェックではなく、「姿勢」という視点で自分の全身を映して見ることは、案外、少ないはず。

 「えっ、こんなだったの!」 ——考えていた以上に ”問題あり” ではありませんか? 姿勢は見た目の印象を大きく左右します。同じ年齢でも、姿勢がいいか悪いかで、大きく差がつくものなのです。

 小さな子どもは大人を見て、「おねいさん」と呼んだり、「おばさん」と呼んだりしますが、どちらの呼び方を選ぶかの判定基準は、顔でも、表情でも、声でもなく、姿勢だといわれています。

 
背筋をピシッと伸ばして歩きましょう。これは今すぐにでもできますね。颯爽と歩いている人は誰の目にもさわやかに美しく見えるものですが、背筋が伸びていなければそんな歩き方はできません。

 姿勢にもっとも注意を払っているのはモデルや芸能人といった人たちかもしれません。例外なく背筋が伸びた綺麗な姿勢をしています。美しく見せるためには姿勢がいかに重要かを、よく心得ているからでしょう。

 背筋を伸ばし、姿勢をよくすることは、見た目の美しさにつながるだけではありません。健康、さらに美容の面でもいい影響を与えるのです。

 曲がっていた背筋を伸ばすと、胸がグッと広がるようになります。胸が圧迫されていると、浅い胸呼吸しかできませんが、広がることで深い腹式呼吸ができるようになるのです。

 なぜ腹式呼吸がいいのかというと、深い呼吸ができるようになれば、空気をたっぷり吸い込むことができ、体の血行がよくなるのです。

 血液にのって酸素と栄養素が体の隅々にまで運ばれ、細胞が活性化されて健康にもなりますし、体自体が若返ります。血行のよい肌は色も美しく、つややはりも増すのはいうまでもありませんね。 』


 『 姿勢を正しく整えるために、意識してほしい体の部分があります。「頭」 と 「尾てい骨」 の位置です。頭のてっぺんから尾てい骨まで一直線になるようなイメージを持ってください。

 頭と尾てい骨が正しくその位置におさまると、背筋が伸びて自然と顎が引け、背骨がS字カーブを描くようになります。これが正しい姿勢。首が頭をきちんと支え、上半身の重みが両脚にバランスよくかかっていて、もっとも体に負担のかからない形です。

 見た目も清々しく、りりしい感じがしますね。また、胸も開きますから、呼吸もしやすくなります。姿勢が整うと、呼吸も整うのです。呼吸の大切さは前項でもいったとおりです。

 一方、姿勢が崩れると、重い頭を首が支えきれなくなり、前に倒れて頭が落ちた状態になります。肩は後ろに下がって前かがみになる。これでは胸が圧迫され、内臓にも負担がかかってしまいます。

 呼吸がしづらくなり、内臓機能にも支障をきたしかねません。現代は、デスクワークで長時間パソコンを使う仕事が増えたためか、姿勢が崩れている人が多く見うけられます。

 それが肩や首のこりにつながったり、ストレスやイライラの原因になったりしています。だからこそ、正しい姿勢を知り、いつでも整えられるようにしておくことが大切なのです。

 前項でも触れましたが、姿勢は健康の源泉です。私の寺で開いている座禅会に、もう二十年くらい通っている女性がいます。座禅を始めた当初はひどい猫背に悩んでました。

 そのため、病気がちでもあったようです。彼女は、猫背を矯正するための器具を使うほどだったのですが、座禅をするようになってから猫背がどんどん改善し、姿勢が見違えるほど変わりました。

 もちろん、矯正器具も使う必要がなくなり、病気もしなくなったといいます。今はもう、七十歳を超える年齢になっていますが、「まわりの人から、”姿勢がよくなったね” といわれるのがうれしくて……」とおしゃっています。

 猫背が直って若々しく見られるという意味あいもあるのでしょう。姿勢が整うと、気持ちにも覇気が生れ、何にでも積極的、前向きに取り組めるようになります。

 首や肩など体にかかる負担も軽くなって、イライラやストレスからも解放されます。それは顔の表情にも表れてきます。「あぁ、肩がこちゃって、また、今夜も湿布しなくちゃ……」

 ということでは、表情がくもりがちになります。それがなくなれば、笑顔も自然と出るようになり、表情も明るくなるのではありませんか?

 もちろん、周囲も「あぁ、この人やるきあるな」と受けとめますから、ビジネスの面でもプラス効果は大きい。何より人生を溌剌として生きるには、美しい姿勢が欠かせない要素です。 』


 『 朝起きたら、キッチンの流しに汚れた食器や調理器具が山済み、テーブルには寝る間際まで読んでいた雑誌が何冊もページが開かれたまま重なり、CDのケースがあちらこちらに散らかり放題……。

 「あ~ぁ、これじゃあ朝食もとれやしない!」。思い当たるフシがある人が少なくないのではありませんか? 汚れたもの、使ったものを片づけるのは、けっこう面倒な作業です。ですから、ついつい後まわしになる。

 たしかに、食べてしまったあとの片づけや、楽しく見たり聞いたりしたあとの雑誌やCDの片づけは、やらなきゃいけない ”楽しみの後始末” ですから、テンションが下がるのも当然かもしれません。

 しかし、後始末を別の観点から捉えてみてください。たとえば、翌日の朝食、前日の汚れ物の後始末ができていたら、すぐに支度に取りかかることができ、とても気分がいい。

 なぜか? 朝食をつくるための準備がきちんと整っているからです。一方、前日にタマネギを刻んだ包丁がそのままだったら、それでパンを切る気にもならないし、炒めものをしたフライパンに焦げつきが残っていたら、そこでベーコンエッグをつくるのもためらわれます。

 おや? とあなたならもう気づいたでしょう。「片づけ」が楽しみの後始末ではなく、次の行動のための準備であることに……。

 汚れたものを洗うのも、使ったものを片づけるのも、すんでしまったことの後始末なんかではなく、次の行動に気持ちよく、スムーズに取り組むための ”準備を整える” ことなのです。

 食事の支度がおいしくいただくための「準備」なら、食器や調理器具を綺麗に洗うことは、翌日、スッキリした気分で食事をつくるための「準備」です。

 どちらが楽しくて、どちらがつまらない、面倒、ということはない。ただ、準備の中身が少し違うというだけです。さ、いい朝を迎えましょう! 』 (第128回)


ブックハンター「トランプを聴きながら」

2017-02-28 10:29:54 | 独学

 128. トランプを聴きながら  (塩野七生著 文芸春秋2017年3月号)

 『 二千年昔に生きたローマ人を書いていた頃よりも、さらに五百年も前に生きたギリシャ人を書いている今のほうが現代の政治の動向への関心が強いのはなぜか、と考える毎日だが、それへの答えならば簡単だ。

 ギリシャの政治危機を見たローマ人は、それを避けるために新しい国家理念を創り出したからで、あの時期に早くもローマ人は、衆愚政治とは民主政の国にしか生まれない政治現象であることに気づいたにちがいない。

 とは言っても今の私が相手にしなければならないのは、危機の真只中にいたギリシャ人のほうなのだ。

 それも、彼らの歴史を物語る全三巻中の第二巻を「民主政の成熟と崩壊」と銘打った以上、民主政体の創始者で最良の実現者でもあったアテネが中心になるのも当たり前。

 というわけで、そのアテネで民主政が機能できたのはなぜで、機能しなくなったのはなぜかを書いていったのが第二巻だが、それを書いている途中で壁に突き当たってしまったのだった。

 われわれ日本人は、「デモクラシー」という言葉を簡単に口にする。「民主主義」と叫びさえすれば何ごとも解決できる、という感じだ。同様の感じで、「衆愚政」という言葉も、誰も疑いを持たずに口にしてきた。

 ところが、民主政という日本語訳の原語は、古代ギリシア語の「デモクラティア」(demokratia)であるのは誰でも知っているが、衆愚政の原語も同じく古代のギリシア産の「デマゴジア」(demagogia)なのである。

 その「デマゴジア」の日本語訳の「衆愚政」を、日本の辞書は、「多くの愚か者によって行われた政治」としか説明していない。となると、私のような何にでもツッコミをいれたがる人間の頭の中では赤信号が点滅しはじめる、ということになる。

 ペリクレス(古代ギリシャ紀元前460年ころの政治家。民主政治を徹底させ、土木・建築・学芸にも功績を挙げた)が卓越した政治家であったことは事実だが、彼が死んだとたんにアテネの有権者たちがバカに一変したというわけでもないでしょう、と。

 しかし、ペリクレスの死を境に民主政アテネが衆愚政に突入していったのも事実なのだ。こうなると、その「なぜ」を解明しないことには書き続けられない。

 その「壁」を、少しにしろ超えることができたのは、イタリアの辞書のおかげだった。———「デマゴジア」とは、「デモクラツィア」の劣化した現象。

 と言ってもこの両者は金貨の表と裏の関係でもあるので、デモクラシーも、引っくり返しただけでデマゴジーに転化する可能性を常に内包しているということ。イタリアの辞書は、「デマゴーグ」に関しても次のように説明している。

 ———実現不可能な政策であろうとそのようなことは気にせず、強い口調でくり返し主張しつづけることで強いリーダーという印象を与えるのに成功し、民衆の不安と怒りを煽ったあげく一大政治勢力の獲得にまで至った人のこと。つまり、扇動家。

 二千五百年昔の衆愚政について書かねばならない私にとって、イタリアの元コメディアンで五ツ星運動の主導者グリッロと、選挙運動中のトランプは、生きた標本になってくれたのであった。

 去年の一年間というもの、この二人の言動を観察しつづけたのである。その結果、二千五百年の歳月が横たわっていようと、いくつかの共通点があることがわかった。

 一、 教養がないだけでなく、品格にも欠けること。ただし扇動者となると、これは弱みにはならずに強味になるという人間社会の不思議さ。

 二、 自分たちだけが大切で、他の国々は関係ないとする考え方。これは、短期的には成功するとしても、長期的にはどうだろうか。

 「アメリカン・ファースト」で終始したトランプの大統領就任演説を聴きながら、古代ギリシャは「デゴマジア」の混迷の後に新しい国家秩序の再建に成功するが、アメリカにその力があるのだろうかと考えてしまった。

 もしも成功しないとすると、トランプの就任演説はアメリカにとって、終わりの始まりを示すことになるのだろうか、と。 』


 『 その一日前かにダヴォスで習近平が行った自由貿易礼讃のスピーチには、わが眼と耳を疑った。それだけは中国人に言ってもらいらくないと思うと笑うしかなかったのだが、何だか地球が引っくり返ったようではないか。

 ちなみに、「デマゴーク」と「ポピュリスト」は、日本では同じ意味で使う人が多いが同じではない。ポピュリストは大衆に迎合するが、「デマゴーグ」となると迎合なんかしない。

 普通の人間ならば多少なりとも誰もが持っている将来への不安に火を点け、それによって起こった怒りを煽り、怒れる大衆と化した人々を操ることが巧みな男たちのことだからである。

 これによって起こる津波を避けたければ、腹をくくるしかない。トランプの言行に注意ははらいながらも、彼と関係しなくてもできる政策を次々と実現していくことである。


 TTPは不発の終るとしても、あれのおかげでヤル気になり始めていた日本の農業改革。そして私の考えでは漁業改革も林業改革も。日本の政治家が好きな言葉ならば、「粛粛」とやりつづけるのである。

 農業・漁業・林業ともの改革が実現すれば、少なくとも日本人に、新鮮な水と食を保証することはできるのだから。

 トランプにもプーチンにも習近平にも関係なくやれること、つまり日本人さえその気になればやれることを、やってやろうとおもいませんか。何もスイスのダヴォスまで行って、自由貿易の旗手ぶることまでしなくても。 』


 私も現在のギリシャの政治、アメリカのトランプ旋風は、「おや」と感じますが、日本の民主主義は、問題がないのだろうかと考えるとき、一票の格差が2倍とか3倍とか。

 半人前という言葉がありますが、都市の中流から下流の勤労者は、選挙に於いて半人前の扱いを受けます。

 2~3倍の権利を行使している地方の有権者は、様々な政治的支援を受け、当選回数の多い議員が政治の中枢にあって、赤字国債という打ち出の小槌の恩恵に浴することができます。

 一方都市部の勤労者は、政治的には半人前で、政治的優遇は、受けられません。私たちは、ギリシャやアメリカやイギリスを笑えるのでしょうか。 (第127回)


ブックハンター「ゼロベース思考」

2017-02-20 13:50:52 | 独学

 127. ゼロ(0)ベース思考  (スティーヴン・レィット&スティーヴン・ダブナー著 2015年2月)

   (Think Like a Freak     ©2014 by Steven D.Levitt & Stephen J.Dubner) 

  『 1981年のこと、バリー・マーシャルというオーストラリアの若い研修医が、おもしろそうな研究プロジェクトを探していた。彼が消化器内科の研修を始めたばかりの王立パース病院では、そのころ年長の病理学者が謎に出くわしていた。

 マーシャルはのちにこう語っている。「20人の患者の胃から細菌が見つかったんだ。強酸性で細菌が生息できるはずがない場所にね」。

 この年長の医師ロビン・ウォレンは、「こうした患者の体内で何が起こっているのかを調べる」手伝いをしてくれる、若手研究者を探していた。

 このくねくねした細菌は、鶏などと接触する人たちに感染症を引き起こす「カンピロバクター」という種類の細菌に似ていた。

 でもヒトの体から採取したこの細菌は、本当にカンピロバクターなのか? どんな病気を引き起こすのか? なぜ胃の悪い患者にこうも集中しているんだろう?

 バリー・マーシャルは、じつはカンビロバクターにくわしかった。彼の父は鶏肉加工工場で冷媒技師をしていたことがあったのだ。母は看護師だった。

 「わが家では、医療の何が真実かということについて、よく議論を戦わせたものだ」と、マーシャルは高名な医療ジャーナリストのノーマン・スワンによるインタビューで語っている。

 「母は民間医療法が正しいと 『知って』 いたが、わたしはいつもこんなことを言っていた。 『そんなの古くさいよ、何の裏づけもないじゃないか』。すると母は 『そうね、でも何百年も昔から行われているのよ。バリー』って」

 マーシャルは自分が引き継いだ謎に夢中になった。ウォレン医師の患者から採取した検体を使って、くねくねした細菌を研究室で培養しようとした。

 何ヵ月も失敗が続いたあと、幸運な偶然のおかげで—— イースターの連休で、試料がいつもより三日長く培養器に放置されていた——とうとう培養に成功した。

 それはカンピロバクターじゃなかった。それまで発見されていなかった細菌で、のちに「ヘリコバクター・ピロリ」と名づけられた。「その後も多くの人たちからとり出した菌を培養した」とマーシャルは言う。

 「おかげでこの細菌を殺す抗生物質を特定できた。もとは、なぜこの細菌が胃の中で生息できるのかをつきとめようとして、試験管のなかでいじったり、いろいろと有用な実験をしたりしていたんだ。

 潰瘍の原因を調べようとしていたわけじゃない。ただこの菌が何なのかを調べたかった。それからちょっとした論文にまとめて発表できればいい、くらいの気持ちだった」 』

 

 『 マーシャルとウォレンは、胃の不調を診てもらおうとやって来た患者がこの細菌をもっていないかをその後も調べ続けた。ふたりはすぐに驚くべきことに気づいた。

 13人の潰瘍患者のうち、なんと13人ともがこのくねくねした細菌をもっていたのだ! ひょっとするとヘリコバクター・ピロリは、ただ患者の胃の中に存在するだけじゃなく、じつは潰瘍を引き起こしているんじゃないのか?

 マーシャルは研究室に戻り、ラットやブタにヘリコバクター・ピロリを注入して、潰瘍ができるかどうか調べてみた。潰瘍はできなかった。「これは人体で実験しなきゃだめだと思った」

 実験台になるのは自分だと、マーシャルは決めていた。また彼は、妻やロビン・ウォレンにも言わずに置こうと決めた。まず自分の胃から採った生検を調べて、すでにヘリコバクター・ピロリがいないことをたしかめた。

 きれいなものだった。そして患者から培養したピロリ菌をぐいと呑み干した。マーシャルは頭のなかで2つの可能性を考えていた。

 1. 自分は潰瘍を発症する。「そしたらバンザイ、証明されたことになる」

 2. 潰瘍を発症しない。「何も起こらなかったら、2年間の研究はおじゃんになる」

 人類史上、自分から潰瘍になろうとしたのは、バリー・マーシャルただ一人だろう。もし発症するとしても何年も先のことだろうと、彼は踏んでいた。

 ところがヘリコバクター・ピロリを呑み込んでから5日後に、マーシャルは突然激しい嘔吐に襲われた。「バンザーイ!」10日後、自分の胃からもう一度生検をとると、「細菌だらけだった」。

 すでに胃炎を起こしていて、明らかに潰瘍になりかけたいた。そこでピロリ菌を駆除するために抗生物質を飲んだ。

 こうしてマーシャルとウォレンの研究によって、ヘリコバクター・ピロリが潰瘍を引き起こす真の原因だということ、またその後の研究によって、胃ガンの原因でもあることが証明された。これは驚異のブレークスルーだった。 』


 『 もちろん、まだたくさんの検証が必要だったし、医学界からは猛反発を喰らった。マーシャルは冷笑され、糾弾され、無視された。 ——どこかの気がふれたオーストラリア人が、自分で発見したとかいう菌を呑み込んで潰瘍の原因をつきとめたと言っているが、本気かい?

 80億ドル規模の業界が存在理由を否定されて、心穏やかでいられるはずがない。まさに潰瘍になりそうな悪夢だ! 

 それまでは潰瘍になれば、生涯にわたる医者通いとザンタックの服用、場合によっては手術、と相場が決まっていたのに、いまや安い抗生物質を飲めば治るというんだから。

 潰瘍発症のしくみが完全に受け入れられるには何年もかかった。一般通念ってやつはなかなかしぶといのだ。いまも潰瘍はストレスや辛いものが原因だと信じている人がたくさんいる。

 だが、さいわい医師たちはいまではちゃんと理解している。誰もが潰瘍の症状の治療に終始しているあいだに、バリー・マーシャルとロビン・ウォレンが根本原因を暴いたことを、医学界はとうとう認めたのだ。2005年に二人はノーベル賞を受賞した。 』


 『 ブライアン・マラニーが30歳ごろ、当時の大手クライアントの一つに、ニューヨーク・パークアベニューの美容外科があった。この外科は裕福なマダムの御用達で、ここはやせたいとかここは豊満にというわがままな要望に応えていた。

 マラニーは、地下鉄に乗ってクライアント先に向かうことが多かった。下校時刻にぶつかると、何百人もの子どもたちと同じ車両に乗り合わせることもあった。

 そのなかに顔に障害のある子どもたちが多いことに、マラニーは目をとめた。あざやほくろやしみがあったり、なかには奇形を持った子もいる。彼らこそ、どうして形成手術を受けていないんだろう?

 大柄で赤ら顔で話し好きのマラニーの頭に、ふと型破りなアイデアが浮かんだ。ニューヨークの公立学校に通う生徒に無料で矯正手術を提供する慈善団体を立ち上げよう。

 彼はこの団体に「オペレーション・スマイル」という名をつけた。だがプロジェクトが順調なスタートを切った矢先に、同名の慈善団体がすでに存在することを知った。

 そっちのオペレーション・スマイルはバージニア州に本拠を置く大手団体で、ボランティアの医療チームを世界の貧困国に派遣して、子供たちに形成手術を行っていた。

 いたく感銘を受けたマラニーは、自分のオペレーション・スマイルを畳んで合流し、役員に就任して、派遣団の一員として中国やパレスチナのガザ地区やベトナムに足を運んだ。

 何でもない簡単な手術に人生を大きく好転させる力があることを、マラニーはすぐに知った。アメリカでは口唇口蓋裂の女の子が生まれても、幼いうちに治してしまうから、ほんの小さな傷が残るだけですむ。

 でも同じ女の子がインドの貧しい家庭に生まれたら、口唇裂は放置され、そのうちに唇と歯肉と歯がひどく寄せ集まってしまう。そのせいで女の子は村八分にされ、良い教育を受けたりよい仕事に就いたり、よい結婚ができる望みはほぼ断たれてしまう。

 簡単に直せるちょっとした奇形は、放置されることで、マラニーの言葉を借りれば「不幸のさざ波」を起こすのだ。これは純粋に人道上の問題に見えて、じつは経済に悪影響をおよぼす問題でもあった。

 実際、マラニーは腰の重い政府にオペレーション・スマイルを売りこむ時には、口唇裂の子どもたちを「不良資産」になぞらえて、簡単な手術を受けるだけで経済の本流に戻してあげられるのだと説明することもある。 』


 『 しかし口唇裂手術への需要は、オペレーション・スマイルの供給能力を大きく上回ることが多かった。医師や手術設備をアメリカからいちいち空輸しているかぎり、現地での滞在時間もキャパもかぎられる。

 「1回の派遣につき、300~400人の子どもたちが手術を求めて殺到した」とマラニーは言う。「だがどう頑張っても100人から150人しか助けられなかった」

 ベトナムの小さな村では、少年が毎日やってきて、オペレーション・スマイルのボランティアとサッカーをしていた。そのうち「サッカーボーイ」の名でスタッフに親しまれるようになった。

 任務が完了し、一行が店じまいをして去るときになって、バスのあとを走って追いかけてきたサッカーボーイが、まだ口唇裂の治療を受けてないことにマラニーは気づいた。

 「愕然としたよ——どうして助けてあげられなかったのか」。人道主義者としては心が痛んだが、ビジネスマンとしては猛烈に腹が立った。「8割方の客を追い返す店がいったいどこにある?」

 マラニーはオペレーション・スマイルの新しいビジネスモデルを考えた。何百万ドルも寄付を集めて医師と手術設備を各地に空輸し、かぎられた期間だけ治療を提供する代わりに、同じ資金を使って現地の医者に設備を提供し、年間を通じて口唇裂手術ができるようにしたらどうだろう?

マラニーの試算では、一手術あたりのコストは最低でも75%は下がるはずだった。しかし、オペレーション・スマイルの運営側はこの計画にあまり乗り気じゃなかった。

 そこでマラニーは辞任して、「スマイル・トレイン」という新しい団体を立ち上げた。広告代理店を数十億の金額で売り払って、彼は一人でも多くのサッカーボーイとサッカーガールを探しあてて、笑顔をとり戻すことに打ち込んでいる。

 それに、「世界で最も機能不全の3000億ドル業界」と彼が呼ぶ。非営利業界そのものの「顔」を変えたいと意気込んでいる。

 世界の慈善家たちは、超大富豪ウォーレン・バフェットの息子のピーター・バフェットの言う「良心ロンダリング」に耽っていると、マラニーは考えるようになった。

 つまり罪悪感を打ち消すために慈善事業を運営しているだけで、人々の苦しみを和らげる方法を本気で考えてはいないのだと。かってヤッピーの典型だったマラニーは、いまやデータ至上主義の社会改良家に生まれ変わったのだ。

 スマイル・トレインは驚異的な成功を収めた。全世界で100人足らずのスタッフによって、15年のうちに約90ヵ国で100万件以上の手術を提供した。

 マラニーが制作に関わったドキュメンタリー映画「スマイル・ピンキ」は、アカデミー賞〔短編ドキュメンタリー賞〕を受賞した。 (第126回)


ブックハンター「鉄客商売」

2017-02-06 09:39:50 | 独学

 126. 鉄客商売  (唐池恒二著 2016年6月)

 著者の唐池恒二は、現在JR九州の会長であるが、JR九州の「ゆふいんの森」、「はやとの風」、「指宿のたまて箱」、「A列車で行こう」、「ななつぼし」……などのコンセプトを手掛けてきた。

 それぞれの物語とタイトルとデザインを創り上げてきた。デザインは、これらのコンセプトをもとにデザイナーの水戸岡鋭治氏である。その物語性をもとに沿線の町は、それらを核として活性化しています。

 題名の「鉄客商売」は、大ファンである池波正太郎の「剣客商売」(剣の達人という意味です)から、鉄道の仕事に通じたものがビジネスについて語るという内容です。


 『 まだ国鉄時代、石井さんが広島鉄道管理局長だったころ、大嶋部長は同管理局の船舶部長を務めていた。当時の広島局は、広島県の呉と愛媛県の松山を結ぶ仁堀(にほり)航路の廃止を経営の重要課題に置き、局長以下の幹部が地元との話し合いに忙殺される日々を送っていた。

 当時の国鉄では、赤字の大きい船の航路や鉄道の線区を廃止することが最大の経営改善施策と位置づけられていた。ただ、いずれの廃止案も地元との協議がまとまらず、難航を極めた。

 大嶋部長の前任者も廃止に向けて汗を流したが、思うように進められなかった。そこに大島部長が宇高連絡船の船長から異動となり、やっかいな仕事の責任者に就いた。

 どこをどうしたものか、あっという間に航路廃止の合意を地元から得てしまった。大嶋部長の辣腕に、まわりはただただ驚嘆するやら感心するやら。「いやいや、正面からぶつかっていっただけですわ」岡山出身だから、語尾に「……ですわ」と付ける。

 このことを石井さんは、忘れるはずがなかった。「……ですわ」のことではない。JR九州に船の専門家はいない。大嶋部長は、国鉄でもトップクラスのプロの船乗りで、船のことや海のことには誰よりも詳しい。

 さらに、仁堀航路廃止のときの物怖じしない行動力と地元との交渉力には、余人をもって代えがたいものがあった。JR九州がこれからやろうとしている航路開設の仕事を任せることができるのは、大嶋部長をおいて他にはいない。

 石井さん自ら四国に再三足を運び、四国の旅客船協会のトップにも請願し、大嶋部長本人にも何度も頭を下げた。下げられてもずっと断ったが、石井さんの、こうと決めたら一歩も引かない熱意と根気に負けて、とうとう九州行を承諾したという。 』


 『 四月一日、大嶋部長と初めて対面がかなった。きれいな白髪に日焼けした顔、背が高くて品がよく、優しそうな紳士が目の前に立っている。つやのある顔からは、五八歳とは思えない。

 事前に聞いていた「世界を股にかけた海の男」 「交渉の達人」 「言いだしたらきかない頑固おやじ」 といったイメージとはだいぶ違って見えた。柔らかい語り口に、正直、拍子抜けしたほどだった。

 「あんたが、唐池さんですか。大嶋ですわ、よろしく頼みますわ」 「はい、よろしくお願いします。唐池ですわ」 早くも感化された。その日からさっそく活動開始。大嶋部長から、矢継ぎ早に指示が飛んできた。

 「船員を集めましょう」 「船体の発注もすぐにやりましょ」 「航路免許の申請はどうなってますかな」 「港の岩壁の確保も急ぎますな」 「船員の訓練方法も考えんといけませんわ」

 やるべきことが山ほどあった。(海なのに) 一年後の就航をめざしているから、ひとつずつ順にとりかかっていくというより、並行してたくさんのことを一気に片づけていかなければ間に合わない。

 一年後に博多~平戸~長崎オランダ村の国内航路を、そのまた一年後に博多~釜山間の国際航路を、それぞれスタートさせるというのが船舶事業部に課せられたミッションだった。

 いくつもの課題にくわえて、二年後の国際航路についても数ヵ月以内にその道筋をつけておかなくてはいけない。このことだけでも大仕事。

 あれやこれやと考えると、パニックになりそうだったが、一方でとてもわくわくしている。そんな自分に驚きもした。やりがいのある仕事を与えてもらった。楽しみながらやっていこう。必ずこの事業を成功させよう。意気に感じるとはこのことか。

 大嶋部長の仕事の進め方は、自ら先頭に立ってみんなを引っ張っていく率先垂範型だ。けっして嫌なことから逃げない。難局に直面したときは、必ず自ら正面からぶつかっていく。

 私が人生で出会った上司のなかで、最も頼もしく感じたリーダーだった。「さあ、唐池さん、漁協にあいさつに行きましょう」 大嶋部長が着任されて二週間ほど経ったころ。

 突然思い立ったのか、事務作業に追われていた私を連れ出し、佐世保市の漁業協同組合に向かった。博多~平戸~長崎オランダ村航路がはじまると、JR九州の高速船が佐世保湾を毎日必ず通過することになる。

 漁協の人たちの職場を荒らすわけではないが、国内航路を新設するときは特別の配慮をするようだ。航路に近接する漁協に仁義を切るのが習わしになっているのだ。

 「海は、誰のものでもない。みんなのものですわ。船を走らせるのに漁協の許可もいりません。でも、一応あいさつだけしておきましょう」 そんなことになっているのか。海の世界もけっこうせせこましいな。

 それならそれで、なにも最初からわざわざ部長が出て行くこともない。まずは、私か運航課長が露払いのつもりで行けばいいのではないか。しかし、大嶋部長は、自ら真っ先にドアをノックするというのだ。

 このあたりが、「逃げない」大嶋部長の真骨頂だ。漁協の事務所に着くと、組合長の隣の応接室に通された。組合長を待つこと10分。ようやく、目つきの鋭い、こわもての男が不機嫌そうに部屋に入ってきた。

 佐世保漁協のドン、片岡一雄組合長の登場だ。 「なんばしに来たんや」 椅子に座るや否やストレートパンチ。大嶋部長がひととおりのあいさつのあと、訪問の趣旨をかいつまんで話した。

 続いて、私のほうから一年後につくる航路の概要やジェットフォイルの特徴などを多少詳しく説明した。 「そがんことはせからしか。好かん」 最初から、玄界灘の荒波がぶつかってきた。

 航路近くの漁業にはまったく影響を与えない、と口を酸っぱくして言っても頑として聞き入れない。結局、一時間ほどのやりとりでその日は幕となった。

 当方はつとめて低姿勢で理解を求め、先方はきわめて高飛車に不快をもらす。まったく何も進展しないまま、険悪な空気だけ残ったような応接室。私たちは事務所を出た。どっと疲れも出た。

 最後に組合長が投げてきた言葉が、耳に残った。 「今度は、長崎県内の漁協の組合長全員ば集めるけん、そこで説明したらよか」 事務所を出た二人は、互いに一言も言葉を発せずに佐世保駅まで五分ほど歩いた。

 精神的にかなり疲労していた。少なくとも私は。大嶋部長は、駅の売店で缶ビールを二つ買ってきてくれた。博多に戻る特急に乗り込み、缶ビールの一つを私に手渡しながら元気な声を出した。

 「今日は、よかったですな。唐池さんの説明のおかげで、うまくいきましたわ」 何がよかったのか。反発したくなったが、「ましたわ」のしみじみとした情感に包み込まれる。すごいな。

 何の進展もなかった、と悔やんでいた私の気持ちをもみほぐすように、精いっぱい明るく語りかける。何事も前向きに考える。大嶋部長という方は、なんという人だ。

 かなわないな。急にこちらも元気になってきた。つぎに会う約束だけはできた。考えようによっては、大きな進展かもしれない。これを喜ばずしてどうする。「部長、ありがとうございましたわ」

 また、感化された。この日の缶ビールの味は、格別だった。大嶋部長に言わせると、「漁協というのは、あんなふうですわ」らしい。 』


 『 一か月後、今度は長崎市内にある県の漁業会館の大会議室に出向くことになった。もちろんこちらは、大嶋部長と二人だけ。県内のすべての漁協の組合長と相対する。

 四、五〇人、いや、もっといたような気がする。彼らと向かい合う恰好で席に着くと、全員のにらみつけるような視線が痛かった。異様な緊張感が会場に溢れる。ただ、不思議と落ち着いている自分を頼もしく思った。

 隣の大嶋部長を横目でみると、いつもと変わらず、博多港の定食屋でアジフライ定食が出てくるのを待っているときと同じように、どことなく楽しそうだ。

 こちらから、航路とジェットフォイルの概要を説明し、安全な運航につとめる決意を披露した。 「そがん高速で走りよる船は、危険たい」 「海はおいどんの職場っちゃ」 「とことん反対するぞ」 「JRは鉄道だけやればよか」 「わいら出ていけ!」

 会場内に怒号が飛び交う。罵詈雑言の嵐。それでも、つとめて冷静な口調で説明を繰り返す。国鉄時代の労働組合との団体交渉を思い出した。一時間ほどで閉会となった。もちろん合意には至ってない。完全な物別れ……。

 会館を出て長崎駅に着くまで、佐世保のときと同じように二人は言葉を交わさない。またしても進展なし。でも、今回は気が滅入らない。案の定、大嶋部長は長崎駅の売店で缶ビールを二つ買う。

 特急列車に乗り込んですぐに、「いや、よかったですな。唐池さんのおかげですわ」 またこれだ。別に私がどうこうしたわけでもなく、ひとえに腹のすわった大嶋部長の存在感のおかげなんだ。心底思った。

 大嶋部長は、祝杯をあげるように促してくる。 「乾杯!」 なんてうまいビールなのだ。その後、二人で何度か佐世保の漁協に足を運び、片岡組合長と膝を突き合わせて話し合った。

 そのうちに、といっても就航ぎりぎりまで時間を要したが、組合長も私たちの事業の理解を示してくれるようになった。筋を通して話していけばわかってくれる。

 映画で観たような酸いも甘いもかみわける渡世人に見えてくる。なんだか、組合長はここまでのシナリオを、最初に会ったときから描いていたような気がしてきた。片岡さんとは、その後もずっと親しくさせていただいている。ご縁というものは不思議なものだ。 』


 『 「えっ、ビートルが飛べない?」 思わず受話器に向かって叫んでしまった。その日、突然の報せを聞くまでは対馬での用事も順調に進み、いい気分のまま一日を終えるはずだった。

 今から四半世紀前になるが、忘れもしない一九九一年七月一五日のこと。梅雨明けを予感させるような青空が広がった暑い日だった。「ビートルが釜山港を出てすぐにエンジントラブルで、飛べなくなりました」 

 ビートルとは、JR九州が運航している高速船(ジェットフォイル)のこと。この年の三月、博多港と韓国・釜山港の間に就航した。ジェットフォイルは、船には違いないが、米国のボーイング社によって開発されたもので基本構造が飛行機(ジェット機)と変わらない。

 水中に広げた翼の揚力と、ガスタービンエンジンで海水を前方から吸い込み後方に噴射する推進力で船体を海面から二メートル浮上させて翼走する、すなわち、飛ぶのである。

 エンジンの出力が十分でないときは、船体を半ば海中に沈ませてゆらゆらと進む、いわゆる艇走となる。このときの性能は、普通の船と変わらない、いやそれ以下かもしれない。

 飛べなくなるというのは、船体を海面から浮上させて高速で翼走することができなくなることを意味する。約二百十キロ離れている博多港と釜山港の間を二時間五十分という短い時間で結べる船舶は、今のところ、このジェットフォイルしかない。

 多少の波でもほとんど揺れがなく、乗り心地も抜群で船酔いしない。しかしそれは、四十五ノット(時速約八十三キロ)で翼走できたときであり、艇走になるとたらいのようにぷかぷかと揺れながら低速で進むことになる。

 博多港のJR九州船舶事業部の事務所から、当日たまたま対馬を訪れていた同部営業課副課長の西依正博さんと私(当時同部営業課長)の二人に最初の連絡が入ったのは、夕方四時ころだった。

 ビートルが飛べない。翼走できない。ジェットファイルの高速で快適という高性能が、まったく発揮できないのだ。やむをえず艇走で博多港に向かうという。せいぜい一五ノットか二〇ノット、時速三〇キロ程度のしか速度が出ない。

 釜山港を出たばかりのところでのトラブル。博多港までは遠い。玄界灘の荒波にもまれるように揺れながらの長時間の船旅は、どれほど苦痛だろうか。

 続報が入った。低速でしか進まないため、博多港にたどり着くまで燃料がもたない。よって、釜山から博多までのちょうど中間にあたる対馬の厳原港(いずはら)に寄るとのこと。

 たまたま対馬にいあわせた西依さんと私の二人で、厳原港に着岸するビートルの約一二〇名のお客様が上陸され対馬で一泊できるよう手配をするように、とのこと。

 予定が大幅に狂った。ビートルのお客さまの予定もさることながら、私たち二人の予定もまったくの白紙となった。対馬での仕事が予定よりもはるかに順調に進み、かなりの成果を挙げることができた。

 さあ、夕方には厳原町の役場の人たちと地元の焼酎「対馬やまねこ」で祝杯をあげようという段取りになっていた。もう、それどころではない。

 たまたま二人が対馬にいたからいいものの、誰も対馬に来ていなかったらどうするつもりだ。文句の一つも言いたかったが、二人はビートルの営業と運航の責任者だから仕方ない。

 というより、一二〇人のお客さまの苦難を思うと二人で最善を尽くすしかないと奮い立った。 』


 『 ところで、私たち二人はなぜ対馬にいたのか。対馬で一日、何をしていたのか。ビートルが就航して四ヵ月、やっと船体も船員も玄界灘になじんできた。

 運航開始直後の小さな初期トラブルも克服して操船技術も次第に向上、まずまず順調に国際航路として走りはじめた。ただ、お客さまのご利用においては、当初の予想に反してかなり低い乗船率で推移していた。

 さすがに楽天家の私でも、営業課長という立場から、もっと多くのお客さまにご利用いただけるよう徹底的に営業活動をしていかなければいけないと、焦りやいらだちにも似たものを抱いていた折だった。

 そんなとき、対馬の厳原町からありがたい話が舞い込んできた。 「対馬の高校の修学旅行の団体で、ビートルに乗って釜山に行きたいのだが……」 渡りに船とは、まさにこのことか。さっそく打ち合わせのため、対馬に出向いた。

 本航路は、博多港と釜山港を間をノンストップで往復している。厳原町からの要請は、博多港から途中、厳原港に寄って修学旅行生を乗せて釜山港へ、帰りは三日後に彼らを釜山港から厳原港まで運び、そのあと博多港へという、通常の定期航路とは違った内容だ。

 イレギュラーな運航となるが、二〇〇人という大きな団体の乗船となるから、私としては喉から手が出るような……。ぜひともまとめたい商談だった。

 実現させるには解決すべきいくつかの問題があったが、なかでも「C・I・Q」の関係が最大の難関に思えた。そのほかの問題は当社内で解決することができそうだったし、実際解決できた。

 「C・I・Q」というのは、国境を越えて出入りするときに必要な手続きのことだ。Cは関税(Customs)、I は入出国管理(Immigration)、Qは検疫(Quarantine)のそれぞれの頭文字からとっている。

 航空機でも船舶でも、国際航路の運航に不可欠の手続きであり、「C・I・Q」が一つでも機能しないと運航できない。国際空港(港)には必ず「C・I・Q」の施設が備わっており、必要な人員も配置されている。

 ビートルを厳原に寄港させるには、「C・I・Q」の適正な配置が必要になる。厳原港にも「C・I・Q」の各機関の出張所があることはあるが、主に貨物を積載した貿易船の輸出入の手続きを行っており、人の、それもかなりの人数の団体の入出国業務に対応できるかどうか。

 そこで、二度目の対馬訪問となった。それがこの七月一五日だった。厳原にある「C・I・Q」の各事務所を訪れ、この秋の対馬の高校の修学旅行生たちの入出国手続きを臨時の手配で行ってもらうようお願いするためだった。

 西依さんと二人で、厄介な交渉になることを覚悟しながら「C・I・Q」の三つの事務所に伺い、それぞれの所長に厳原寄港の意義について誠意と情熱をもって説明していった。

 同行したのが西依さんだったのもよかった。西依さんは、当時脂が乗り切った四三歳(私は三八歳)。国鉄時代は、長崎駅の助役や労使間の対立が激しい職場を歴任し、数々の修羅場を踏んできた苦労人だ。

 「この秋に、ぜひ厳原から釜山に修学旅行を送り込みたい」 三人の所長はいずれも、最初はずっと黙って説明を聞いている。当惑しているふうだった。

 「十代でお隣の国を訪れその国の人たちと交流しその国の文化を学ぶ、このことの意義は大きい」 各所長は、次第に身を乗り出して話に耳をかたむけだした。「そのためには「C・I・Q」の力が必要です。なんとしても……」

 所長たちは三人とも、私たち二人が熱く語るのに気持ちが解きほぐされたのか、三十分もやりとりをしていると最後は微笑んでくれた。「わかりました。やってみましょう」 各所長が、いずれも快諾してくれたのだ。

 よかった、いい一日になった。対馬に来たかいがあった。厳原寄港について最初に提案された厳原町の役場の人にもそのことを報告すると、満面の笑みで喜んでくれた。

 じゃあ、今晩祝杯をあげようということになって役場の応接室でひとときくつろいでいたところに、「飛べなくなった」第一報が飛び込んできたのだった。 』


 『 祝杯どころではない。役場の応接室が、急遽、ビートルのエンジントラブルによる厳原臨時寄港対策室となった。西依さんと二人で今からやるべきことを整理する。すぐにも、たくさんのことにとりかからなければならない。

 追い打ちをかけるような連絡が入る。ぷかぷかと波に揺られながら進むしかないビートルが、厳原港にたどりつくのが夜の八時ころだという。与えられた時間は、せいぜい三時間ほど。

 まずは、お客さまのこと。疲労困憊で上陸されるお客さまの様子が浮かぶ。なんといっても、お客さまに休んでいただく宿泊先の確保だ。あいにく、厳原に一二〇人という大人数がまとまって宿泊できる施設はない。

 七、八ヵ所のホテルや旅館に分宿してもらうことになる。すぐに一軒一軒まわって、お願いするしかない。それぞれの宿まで、どうやってお客さまをお運びするか、タクシーやマイクロバスの手配も急を要する。

 翌朝に博多港までお客さまをお送りする手配も大事だ。九州郵船のフェリーが、朝九時に厳原港から博多港に向かう。その乗船券も確保しなければ。

 博多港からお客さまはそれぞれの自宅か勤め先に向かわれるから、お客さまがばらばらになる前に厳原でビートルの運賃を払い戻しができるようにお金の準備も明朝までに済ましておく必要がある。

そして、「C・I・Q」 のスムーズな手続きができるかどうかが一番の難題だ。疲れ切ったお客さまが厳原港のターミナルに着かれたあと、できるだけスピーディな入国手続きを済まして早く宿で休んでもらわなければいけないが、「C・I・Q」が夜の遅い時間に港で手続きをしてくれるか。

 そのことが大きな心配事だった。こうしたことを、わずか二人だけで、しかもたった三時間という短い時間でやり遂げるのは、きっと無理だろう。

 ありがたいことに、ビートルの災難を聴きつけた町役場の方が何人も私たちといっしょにすぐに行動してくれて、大勢で手分けして宿や車の手配をあっという間に済ましてくれた。

 一番難しそうな「C・I・Q」のほうは、私たち二人でお願いにまわるしかない。幸いなことに、勤務終了前で各所長が事務所におられた。 「入国手続きのお願いに来ました」 ”にじり寄る”の妙技が決まるか。

 「さっき、聞いたばかりじゃないですか。この秋でしょう」 「いいえ、実は急遽、今夜その予行演習をやっていただきたいのですが」 「……」 各所長とも唖然として、一瞬言葉が出てこなかった。私たちは、ビートルの急なトラブルの発生からもうすぐ厳原港に入ってくることまでを簡潔に説明した。

 ”にじり寄り”なんか通用しない。ただひたすら、二人して深く頭を下げるしかない。「非常事態なんです」 理解してくれた。ビートルが厳原港に着岸してすぐ「C・I・Q」の手続きをしてくれることになった。きわめて迅速かつ円滑に。 』


 『 お詫びと説明を終え、皆さまを車のほうに順次案内した。お客さまも、あきらめたように静かに車に乗り込んでいかれた。私たち二人は、お客さまを車に案内したあと、ターミナルのあと片づけを済ましてお客さまが分かれて宿泊されるホテル、旅館を一軒一軒まわった。

 ほとんどのお客さまは多少精気を取り戻されたようで、元気に食事をとられていた。私たちは、グループごとにあらためてお詫びを申し上げながら、男性で元気そうな方にはビールをお酌してまわった。

 二人ともお詫びをするのはそれほど得意ではないが、お酌しながらこちも少し元気になったような気がしてきた。

 「ビートルの課長さん、気にしなさるな。厳原港に着いてからのあなたたちの対応は立派だ。釜山に観光に行ったが、もう一泊対馬で観光が、できたと思えば楽しいよ」 

 元気なビジネスマンがかけてくれた言葉が、私たち二人の疲れを吹き飛ばした。あとで、宿の外に出て二人で強く手を握り合った。よかったなあ。

 翌朝、昨日の大騒ぎが嘘のような青空のもと、さわやかな空気が厳原港を包んだ。宿からつぎつぎにお客さまが港にやってきて、昨日とは打って変わって力強い足取りでフェリーに乗り込まれる。

 幸い、どのお客さまも怒った表情ではない。なかには、「お世話になりました」と私たちに言葉をかけてくれる方もいらっしゃった。予定どおりに、お客さま全員が無事お昼過ぎに博多港に到着された。 』


 このあと、赤字のJR九州の外食事業部を黒字化し、特急「ゆふいんの森」、特急「あそぼーい!」、特急「A列車で行こう」、特急「はやとの風」、特急「指宿のたまて箱」へと続き、「ななつ星」へと続きますが、最後に、唐池恒二 ”「鉄客商売」 二二の学び” を紹介して終わります。

 (一) 何事も前向きに考える

 (二) 意気に感じて取り組む仕事は、けっこううまくいく。

 (三) 難局に直面したとき、逃げずに真正面からぶつかっていくと道は必ず開ける

 (四) 進むべき方向とスケジュールを明確にすると、人は迷わず行動する。

 (五) 二メートル以内で語り合うと、互いに心が通じるようになる。

 (六) 「気」に満ち溢れた店は、繁盛する。

 (七) 夢は、組織や人を元気にする。

 (八) 経営方針は、トップが自らの言葉で語る。

 (九) 月次決算書は、現場の責任者が手づくりで作成することに意味がある。

 (一〇) ネーミングは、徹底的に勉強し、とことん考え抜いてはじめてできるもの。

 (一一) 現場に行くと、いろいろなことを教わる。

 (一二) サービスとコストの両方の最適化が、経営のめざすべきものだ。

 (一三) サービス教育の先生役は、鬼に徹するべし。

 (一四) 店長が最優先すべきことは、司令塔として職務を全うすることだ。

 (一五) 何ごとも、すべてを貫く哲学=コンセプトが大切だ。

 (一六) 手間をかけ誠実に徹した仕事や商品は、お客さまを感動させる。

 (一七) 学んだことは、すぐに実践する。

 (一八) 人を元気にすると、自分も元気になる。

 (一九) デザインと物語は、いい仕事には欠かせない。

 (二〇) 行動訓練は、「気」を集めるための最良の道だ。

 (二一) 日々の誠実で熱心な練習は、本番で大きな成果をあげる。

 (二二) 「気」のエネルギーは、感動というエネルギーに変化する。


 私が本書を読んで、唐池会長の最もすぐれた点は、必ず素晴らしい相棒とタグを組んで、難関を攻略し大きな成果をあげていることだと思います。簡単そうでなかなかできないことです。 (第125回)


ブックハンター「アルファ碁VS李世乭」

2017-01-24 09:01:05 | 独学

 124. アルファ碁VS李世乭 (2016年7月 ホン・ミンピョ/キム・ジノ著)

 本書は、コンピュータプログラムのアルファ碁と韓国の世界的プロ棋士である李世乭(イ・セドル)との対局を本にしたものですが、囲碁の本としても、人工知能の本としても、対戦記としても、一級であると考えますので、紹介いたします。

 私は、人工知能に関する本を30年以上前から、数十冊は読んできましたがなかなか良い本には出あえませんでした。まず人工知能は分野が広く、それぞれが勝手に思い描く、人工知能でした。

 私が興味を持ちましたのは、翻訳、ゲーム、医療診断、教育(学習)の分野です。しかし、本当に実績のある人は、そのノウハウは公開しません。素人に不向きな数式の羅列や、人工知能のキーテクノロジーについて、触れられていなかったり、……でした。

 本書は、人工知能の本としても、ベストです。さらには、人間と人工知能がどのように共存すべきかについても、一石を投じています。単にプロ棋士の問題だけでなく、私のような囲碁初心者であっても、人工知能とどのように向き合えばよいか。

 例えば、ちょっとした計算であるとか、ちょっとした記憶であるとか、電卓や電子辞書にもかないませんが、私たちはそれらを自分の脳の延長として、活用してます。さらには、私たちの知能とは何かについて、問い直すヒントになると思います。


 『 人工知能囲碁プログラムである(アルファ碁)が、世界で初めてプロ棋士のファン・フィ二段を相手に5対0で完勝した。そして、世界最強のイ・セドル九段に挑戦状を出したと聞いて、私は驚愕した。

 Crazy Stone や Zen のような現在最強の人工知能囲碁プログラムも、せいぜいアマ五~六段レベルにすぎない。それがある日突然、囲碁プロ棋士を制して、それどころか最強のプロ棋士に挑戦状を出すほど急成長したことが信じられなかった。

 「(アルファ碁)がファン・フィ二段と対局したあと、さらに強くなっていたとしても、イ・セドルに勝つのは難しいだろう」という世間の評価に対して、アルファ碁を開発した、グーグル・ディープマインドのハサビス代表はこのように述べた。

 「彼らはプログラマではない( They are not programmers! )」 この発言は、自分たちはプログラマであり、プログラマとして、今回の対局で勝利することをすでに検証したから挑戦するという意味だ。

 アルファ碁は、イ・セドル九段と闘うためだけではなく、圧倒的な勝利を全世界に認めてもらうためにソウルにやって来た!彼らのこの信じられないほどの自信は、いったいどこから出てきたのか。

 それを知るために、彼らがアルファ碁についてネイチャー誌に発表した「囲碁征服——(深層神経網とツリー探索で征服)」と傲慢な題名の付いた論文を繰り返し熟読した。また、その論文作成に参加した共著者20人の過去10年ほどの研究も調査した。

 そして、私は結論に到達した。今回の対局はアルファ碁が完勝する。もしイ・セドル九段が一勝でもすれば、それは彼が天才だからだと。しかし、このような予想をした専門家は私だけだった。

 私は、イ・セドル九段がアルファ碁に勝てなかったときに、後悔しないよう、5局全体に関する戦略をがっちり準備すべきだと主張したが、誰も私の話に耳をかさなかった。さて、なぜ私は、アルファ碁が圧勝すると予想したのだろう? 』


 『 囲碁以外の古典的ゲームでは、すでに人工知能が人間に勝ってきた。チェスでは、1997年にIBMの「ディープブルー」が世界チャンピオンのカスパロフに勝った。

 けれども専門家たちは、囲碁については少なくとも10年後には、そのような挑戦が可能となるかもしれないとしか予想していなかった。二つの特徴によって、囲碁は人口知能には難しいと思われていた。

 一局で平均的に碁盤上における点が平均250個、平均150手まで進むとしたときに、250¹⁵⁰ となる。次に、対局中のある状況で、どちらが勝つかを予測するのは、非常に難しい。

 チェスや将棋の場合には、それぞれの駒が変わらない機能を持っている。したがって、両対局者が互いに持っている駒とその位置を知っていれば、誰が勝つか予想することができるのだ。

 しかし、囲碁では、石自体の価値はすべて同じだが、状況によって変化する。要石が捨石作戦によって不要な石になって捨てられることもあれば、重要でない石がシチョウアタリになって重要な価値になることもある。

 したがって、囲碁では盤上の石の数や位置に基づいて、その局面で誰が有利なのかを判断することは非常に難しいものだ。

 コンピュータソフトの研究が活発になり始めた60年代以降に、多くの研究者がコンピュータ囲碁プログラムを開発したが、前述の二つの理由で、そのレベルは、アマチュア五級程度のものだった。

 そうするうちに2008年頃、モンテカルロ・ツリー探索(Monte Carlo tree search )と呼ばれるシュミュレーション方法を適用してから、そのレベルがアマ五段まで飛躍的に上昇した。

 モンテカルロ・ツリー探索(Monte Carlo tree search )を一言で要約しますと、分岐に評価値をつけて、低い評価値の分岐について、は探索を打ち切るという手法です。)

 アマ五段レベルの人工知能囲碁プログラムは、一手の着手にあったって2万回のシュミュレーションを実行して、最も勝率が高い手を選択して打つが、まだプロのレベルに達してはいなかった。 』


 『 それなら、プロ囲碁棋士であるファンフィ二段を相手に、史上初めて勝った人工知能囲碁プログラムは(アルファ碁)はどのような構造になっているのか?

 アルファ碁がプロ棋士に勝つほど、素晴らしい性能を発揮するようになったのは、ディープラーンニング(深層学習)の代表的な手法である深層人工神経網(Convolutional Neural Network )を用いたからである。

 深層人工神経網は、比較的新しい機械学習理論であるが、各種のパターン認識大会で優れた効果を出している。この手法が本格的に活用されるようになったのは、2012年からです。

 まず、アルファ碁は、政策網(指導学習+機械学習)と政策網の深層人工神経網、モンテカルロ・シュミュレーションで構成されている。なお、アルファ碁には素早いシュミュレーション fast rollout のための深層人工神経網が、実際には13層あると言われている。

 まず、政策網は深層人工神経網で構成されていて、指導学習する最初のステップでは、まず、ヨーロッパのアマ高段者らがネット囲碁 KGS Go Server で打った16万の対局譜から2940万の盤面を抽出したあとで、つぎにどこの位置に着手するかを学ぶようにした。

 実際にアマ高段者らが次にどこに着手したのかをしっているから(それで指導学習とよばれる)一貫したパターンを分析して身に付ける。この段階で開発されたモデルは、すでに57%の正解率で次の手を予測できた。

 アマ高段者らの打ち方をまねできたとしても、対局で勝利が保証されるわけではない。だからアルファ碁は次のステップで、次の着手の選定の精度をさらに高めるために「機械学習」をする。

 自分自身との対局——すなわち現在のモデル、および以前のモデルから抽出したモデルと数百万回の対局を繰り返すことで試行錯誤しながら自ら学習することにより、モデルを徐々に改善していったのだ。

 たとえば、自分が勝った試合については、勝利に貢献し着手を考えながら、着手の選択率を上げる。特に、この部分でアルファ碁は知能の重要な要素である経験に基づいて、自ら学習する能力を発揮している。

 機械学習をしたモデルは、最初のステップの指導学習をしただけのモデルとの対局では80%以上の勝率を記録した。アルファ碁の最も重要な要素は、人工知能囲碁プログラムで、機械学習を活用して、次の着手選択の精度を高めたことである。 』


 『 ステップ3では、次の着手を最終的に選択するために、打っている対局の状況で、それぞれの着手の候補位置に打った場合、あとに表示される結果が自分にどれだけ有利なのか(勝利率がいくらなのか)二つある方法で評価する。

 一つは、深層人工神経網を用いた評価網 value network で、もう一つは既存のモンテカルロ・シュミレーション rollout を利用するものである。

 評価網は、自分自身との3千万回の対局から3千万の場面を抽出し、深層人工神経網を使って、まだ最後まで打ち終えていない状況で、どちらが勝つかを学習したモデルである。

 アルファ碁の勝利の3番目の要素であり、最も重要な要素は、人工知能囲碁プログラムで初めて深層人工神経網を利用して、非常に優れた評価関数を開発したことである。

 機械学習を活用した評価網では計算は遅くなる。モンテカルロ・シュミレーションは比較的正確で速いけど、あま高段者のレベルくらいである弱点がある。

 アルファ碁は相互補完的なこの二つの手法の長所をいかすために、二つの手法の結果を50%ずつ反映して、最終的に着手位置を決定する。

 アルファ碁の勝利の4番目の要素であり、また非常に重要な要素は、アルファ碁が最良の手を探すツリー探索の過程で、評価網とモンテカルロ方法を初めて精巧に結合して性能を高めたという点である。 』


 そして、アルファ碁とセドル九段との5番勝負が、セドル九段が勝てば破格の賞金100万ドルであった。勝負の経過が書かれていますが、結果は、3敗で勝負は決まったのですが、さらに4戦目を戦って、セドル9段が気力を振り絞って一勝をもぎ取ります。さらに5戦目を戦い疲れても伴い敗れます。


 ここで、囲碁のルールについて、述べます。

 (1) 19×19(361ヶ所)のマス目の交点に、黒石と白石を交互に打つ。

 (2) 相手の石を囲むと取ることができます。(前後、左右を)

 (3) 自殺手は、打ってはいけない。

 (4) 相手の石が交互に取り合う場合、すぐに取り返せない。(コウのルール)

 (5) 陣地が多いほうが勝ち。(先手が7目半のハンデ)   以上です。


 ここで最初に、学習という言葉の定義をしておきたいと考えます。広辞苑によりますと「まなびならうこと」 「新しい知識、技能を習得すること」 とあります。

 学習とは、習い、そのまま自分でできる、または試験で問いに答えることでしたが、ここでの意味は、少し異なります。

 例えば囲碁や将棋や、チェスや株式投資を自分の考えた、必勝のルールに則って試合を行います。その結果、勝った時は、ここが勝敗の分岐点であったと、必勝のルールに追加します。

 負けた時は、ここが勝敗の分岐点であったと、必勝ルールに追加します。そして次の試合や投資にそれを活用して、勝率の精度を上げていくことが学習です。

 層とは、私の推測では、囲碁は170手から240手で、終局しますが、序盤、中盤、終盤に分けます。麻雀で言えば、一手目、二手目、……、二向聴(リャンシャンテン)、一向聴(イーシャンテン)、聴牌(テンパイ)、和了(アガリ)となります。

 これらのフェーズ(層)ごとに、最善手のパターンを持ち、それらに評価値を持ち、そのフェーズ(層)を評価しながら、最善パターンを更新し、精度を上げていく。

 囲碁の盤面で勝敗の分岐の一手をどのように判別するのかはわかりません。そこから何をどのように学ぶのかわかりません。

 層の分け方、評価方法、勝敗の分岐点の判定方法、学習の方法は不明ですが、私たちも人工知能の学習方法に学び、人間の脳力のすぐれた部分は何か、人工知能をどのように活用するかは、私たちの課題でもあります。

 最後に、第三局を終わってからの部分と第四局を終わってからの部分を引用します。


 『 人工知能と真っ向勝負をするために、リングの上に上がり、三連敗を喫した。人類の敗北により、近い将来人工知能に征服させられるかもしれないという不安感も高まった。

 人工知能がずっと進化をしていくと、人の技術力や知能が必要でなくなる時代がくるかもしれない。シリーズとしては第三局で結果は決まったが、第四局と五局の勝負は、グーグルとセドル九段にとっては重要な対局であった。

 一勝でもすれば、アルファ碁に勝てる可能性を残すことができる。セドル九段は賞金ではなく、囲碁と人間の未来をかけて戦うのだ。そのためか、勝負の重みがより増したように感じた。

 結果は、白盤のセドル九段が180手で、中押し勝ちをおさめた。今回も敗北を予感していた。アルファ碁は強力で、完璧に近い姿をみせていたからである。

 囲碁界の人々は敗北意識にとらわれていた。アルファ碁に対する恐怖感は頂点に達していた。しかし、ただ一人、セドル九段は別のことを考えていた。

 アルファ碁に勝つための苦悩はこれまで以上に深く、その過程で答えを探して勝つことができると自分自身を信じていたのだった。

 アルファ碁の父、デミス・ハサビスと現場解説を引き受けたマイケル・レイモンド九段とソンテゴン九段は、お祝いのメッセージを伝えた。

 そして、現場にいた大勢の記者たちが歓声を上げた。まるで宇宙怪物を倒して帰ってきた英雄を讃える雰囲気であった。この対局によって、アルファ碁に勝つことができる可能性を切り開いた。 』 (第123回)