チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「空と森の王者 イヌワシとクマタカ」

2014-08-19 16:03:06 | 独学

 62. 空と森の王者 イヌワシとクマタカ (山崎享著 2008年10月)

 『 これほど存在感のある大きな鳥が滋賀県に生息しているとは夢にも思わなかった。「風の精・イヌワシ」と「森の精・クマタカ」である。滋賀県で初めてイヌワシやクマタカの姿を見つけてから34年。

 さまざまな季節で、さまざまな場所で、さまざまな情景の中で、さまざまな人たちとともに、イヌワシとクマタカを観察してきた。しかし、いまだにイヌワシやクマタカが空を翔る姿を見ると胸の高ぶりをおさえることができない。

 それほどイヌワシやクマタカの飛翔する姿は勇壮で、美しく、人の心を捉える魅力を秘めている。イヌワシもクマタカも一年中、同じ場所に生息している。四季折々に表情を変える自然環境の中で、その時々の表現力をもって存在する姿が人々の心をひきつけてやまないのだと思う。

 イヌワシやクマタカはともに、日本の山岳地帯に生息する大型の猛禽類であるが、その形態や生態は大きく異なる。しかし、いずれも日本の山岳地帯の生態系に見事なまでに適応し、日本の山岳風景のひとつになっていったのだ。

 イヌワシは翼を広げると2m近くにもなる、大きくて力強い山鷲である。全身は黒っぽい茶褐色だが、頭の後ろの羽が年齢を重ねるごとに黄金色になることから、英語ではゴールデンイーグルと呼ばれている。

 イヌワシは北半球の山岳地帯に広く分布しており、世界の多くの人々がその美しさと強さに憧れを抱いてきた。そのため、王家の紋章やさまざまな装飾品のモデルともなっている。

 イヌワシの魅力はその勇姿もさることながら、何と言ってもその飛翔能力にある。イヌワシは風の申し子のように風を巧みに操り、ほとんど羽ばたくことなく、広い行動圏を翔け回って生活している。

 空中の一点にピタッと停飛していたかと思うと、突然、翼を折りたたんでくさび形になり、弾丸のようにまっさかさまに地上に向かって急降下する。さまざまな風を捉え、翼をさまざまな形に変えることによって、自由自在に空を謳歌しているのがイヌワシである。

 クマタカは翼を広げた長さは150~160cmほどで、イヌワシに比べると少し小型であるが、翼の幅が広く、重厚感のある大型の猛禽類である。全身は茶褐色だが、翼の裏面は白っぽく、見事な横縞模様がある。

 イヌワシが主に日本よりも北に広く分布している「北の猛禽類」であるのに対し、クマタカは東南アジアに生息する熱帯雨林が故郷の「南の猛禽類」である。クマタカは森林におおわれた日本各地の山岳地帯に広く生息し、大きくて強い鷹として知られてきた。

 東北地方の山岳地帯で主として狩猟により生計を立てていたマタギはクマタカを、鷹狩りに用いていた。クマタカはイヌワシほど飛翔のダイナミックさは感じられないが、何とも言えない、とらえようのないファジーな魅力を持った猛禽類である。

 クマタカは森の申し子のように、さまざまな森に見え隠れしながら、したたかに森に棲む生きものを糧として生活している。森の上空を舞っていたかと思うと、すぐさま森に溶け込んでしまう。幅広い翼を巧みに操って、木洩れ陽のちらつく森の空間を自由自在に移動していく。

また、時には、そこにクマタカがいるとは誰も気づかないほど、木の一部と化して何時間もじっと枝に止まってることもある。色彩が森や樹木に溶け込むだけでなく、存在そのものも森の一部になることができる、それがクマタカである。

 「びわ湖の森」は、この空と森の王者である「イヌワシ」と「クマタカ」が棲むことができる、自然環境の多様性と豊かさを持ち合わせた森である。この大型の2種類の猛禽がいなかったら琵琶湖の源流部の風景は何とつまらないものになってしまうだろうか。いや、この2種類の大型の猛禽が生存することを可能にするすばらしい「びわ湖の森」があったからこそ、琵琶湖は存在したのかも知れない。 』

 

 『 中学校では、友人たちと朝早く学校が始まるまでに、裏山を駆け回り、あるいは自転車でさまざまな所に行って、野鳥の名前を覚えていった。野鳥は姿だけでなく、鳴き声でも識別できる。鳴き声の持ち主の姿を覚えていくと、鳴き声だけでどこにどんな鳥がいるか、すばやくわかるようになる。こうして、周囲に棲んでいる野鳥はほとんどすべてわかるようになった。

 高校に入ると、「滋賀県野鳥の会」に入会した。野鳥の会の「探鳥会」に県内のいろいろな所へ行った。中でも春の比叡山で無数の小鳥たちのさえずりを聞いた時の森のシンフォニーの響き、琵琶湖にじゅうたんが舞い降りたかのように無数に浮かぶカモの群れを見た時の情景は、今でも鮮明に脳裏に刻まれている。

 観察を積み重ねるうちに、滋賀県内の野鳥はほとんどわかるようになり、このため、県外に行っても図鑑さえあれば、識別はそれほど難しいことではなくなった。ところが、図鑑の中で、どうしてもたどり着けない、あきらめのページがあった。

 68ページの「イヌワシ」の挿絵がのっているページである。このページのイヌワシの説明にはこのように書いてあった。「本州の山岳地帯で繁殖し周年生息するが数は少ない。高空を帆翔し獲物を見付けると翼をすぼめて猛烈な勢いで降下して、これを捕える」

 イヌワシは長野県の高山帯のごく限られたところに生息する孤高の鷲であり、まず見ることはできない、本当にそう思っていた。一生に一度見ることができればよい、イヌワシはそんな現実離れした、幻の存在だった。 』

 

 『 1973年3月に放映された「日本の自然 イヌワシ」を見た時のことだった。真冬の日本海から横殴りの風雪が吹き付ける鳥取県と兵庫県の境界部にある氷ノ山(標高1510m)の北壁に巣づくりの小枝を運ぶイヌワシの姿が映し出された。

 日本アルプスにしか生息してないと思っていたイヌワシが中国山地に生息し、しかも繁殖している! 繁殖生態はほとんどわかってないイヌワシが調査可能な山岳地帯にいる。

 その事実をテレビの映像で知りえた時、全身が武者震いするのを感じた。本当に夢のようなことだった。自分の目で、幻の鳥の生態を観察する可能性があるということは。

 この時、私は獣医学科のある大学に行くことを決め、いくつかの大学を受験していたが、この番組で迷いはなくなった。氷ノ山に最も近い鳥取大学に進学することを決めた。 

 大学に入るとすぐに氷ノ山のイヌワシを観察する計画を立てた。1973年5月、氷ノ山のある八頭郡若桜町に行き、氷ノ山スキー場の裏山の林道から稜線を観察した。天候は”大快晴”。

 何の前触れもなく、青空をバックに黒い塊がスーッと赤倉岩から出現し、尾根上を流れ、須加ノ山に消えていった。今までに見たこともない、空気の抵抗を感じさせない、存在感のある飛翔。これがイヌワシとの初めての出会いだった。

 NHKで紹介さてた氷ノ山のイヌワシを観察していたのは、神戸に住む故重田芳夫氏であった。早速、東中国山地のイヌワシのことを学ぶため、重田さんに手紙を書いた。ぜひともイヌワシを観察したいという思いを必死に伝えた。そして、人生で最も影響を受けた一人の重田さんと出会うことなった。

 待ち合わせ場所は扇ノ山山頂の避難小屋。1973年6月のことだ。霧が流れ込むコンクリートブロックで造られた暗い山小屋の中で重田さんの話に聞き入った。重田さんの野鳥の分布、生態に関する博識、本には書いてない新鮮な情報の一つひとつに胸をときめかされた。

 重田さんは当時57歳、私より38年の先輩の方であったが、野鳥、とりわけイヌワシの研究についての情熱はものすごいものがあった。神戸の海運会社の社長でありながら、兵庫県の山岳地帯の野鳥を調べ尽くしたと言っても過言でないくらい、野鳥の研究に人生のすべてを費やした人だった。

 重田さんが中国山地で最初にイヌワシを目撃したのは1963年47歳の時であった。今まで見たこともない、圧倒するような勇壮に魅せられて調査を始めたものの、最初は「きっとアルプスから飛来したものに違いない」と本当にそう思っていたそうだ。

 しかし、調査を続ける度に地図に記した飛行跡は増えていき、中国山地にイヌワシが生息していることを確信した。そして、ついに1969年、初めて中国山地でイヌワシの巣を発見し、すべてをイヌワシの生態研究にかけるようになってしまった。

 私が重田さんと出会ったのは、まさに重田さんがイヌワシに取りつかれ、東中国山地におけるイヌワシの生息地や新たな生態的な知見を次々に発見している時であった。私のイヌワシにかける想いが重田さんに伝わったことは言うまでもない。年齢差を超えてイヌワシのことを語り合い、いつも時間が飛ぶように過ぎていった。

 機会を見つけては、重田さんに同行し、イヌワシを観察するとともに、重田さんの知識や観察の方法を吸収した。しかし、何よりも刺激を受けたことは、自然界の謎を解明しようとするすさまじい情熱と並外れた実行力であった。

 もう一人、鳥取市内でイヌワシに取り付かれた人がいた。高校の先生をしていた塩村功氏である。塩村先生は鳥取県内で長らく野鳥の観察を続けておられたが、氷ノ山にイヌワシがいるをことを知って、重田さんに連絡を取り、イヌワシの虜になった人である。

 山間部のイヌワシを観察に行くため、定年後に自動車の運転免許を取るほどの熱の入れようだった。私も時々、塩村先生の小さな自動車に乗せてもらい、繁殖しているイヌワシの巣を観察に行った。

 1ヵ所、毎年繁殖するイヌワシのペアがあり、繁殖行動をつぶさに観察することができた。シャクナゲの咲く岸壁の巣で生育する雛はとても美しく、魅力的だった。  

  しかし、とくに印象的だったのは、初めて見る巣立ち後の幼鳥だった。幼鳥は親ワシよりずっと黒っぽい色をしているが、両翼の真ん中と尾羽の付け根に純白の大きな班(はん)がある。

 イヌワシの巣立つのは6月上旬。濃い緑の斜面を黒地に三つの白斑を持つ流体がすべるように流れていくさまは、たとえようのない美しさであった。ある日、徐々に飛行技術を獲得してきた幼鳥は実に興味深い行動をとった。

 枯れ枝を足でつかみ、真っ青な空を背景にどんどん上昇していった。すると、突然、持っていた枯れ枝を落としたのだ。その途端、幼鳥は瞬時に身を翻し、まっさかさまに地上に向けて急降下した。

 そして、その枯れ枝が地上に落下する直前に、突き出した両足でしっかりと捕らえた。これを何回も何回も繰り返すのだ。獲物を捕捉するハンティング技術を磨こうとしているというより、枯れ枝を使って遊んでいるようにしか見えなかった。幼鳥とは言え、イヌワシの卓越した飛翔能力のなせる技に言いようのない感動を覚えた。 』

 

 『 滋賀県にイヌワシが生息していることは誰も知らなかった。当然、私も滋賀県に「幻の鳥」イヌワシが生息しているとは夢にも思っていなかった。中国山地で重田さんとイヌワシを観察しているうちに、私は重田さんにこのように尋ねた。

 「中国地方にイヌワシが生息しているのなら、滋賀県でもイヌワシが生息している可能性はありますよね?」。重田さんは私の問いかけにこう答えた。「地形から、滋賀県では鈴鹿山脈にイヌワシが生息している可能性がある」

 この重田さんの言葉に、本気で滋賀県にもイヌワシが生息しているに違いないと思い始めた。東中国山地で何カ所もイヌワシの生息地を見て回っているうちに、イヌワシの生息環境がどういうものかがわかりつつあった。

 それを地形図を眺めているだけで、イメージが湧くようなものになっていった。やはり、滋賀県にもイヌワシが生息しているに違いない。いつしか、そんな確信を抱くようになった。

 1976年3月、大学3年の春休みに帰省し、国土地理院の5万分の1の地図で鈴鹿山脈を眺めた。ここならイヌワシは必ずいるはずと思う谷が。永源寺町から多賀町にかけてのところにあった。3月24日、父親の軽自動車を借りて、友人の片岡君とともに永源寺町の谷奥に向かった。

 最終集落の君ヶ畑を過ぎ、残雪の残る林道を行けるところまで車で進めた。そこから山歩き。積雪は80~100cm。深い所は腰まで埋まるほどの雪が残っていた。しかし、最も可能性のあると思われる谷や尾根が見渡せる標高1000m付近まで行かねばならない。

 大汗をかきながら、やっとの思いで見晴らしのきくピークに到着。天気は晴れ。対岸の尾根線はくっきりと見え、視界も良好だった。観測地点到着9:20.9:50にトビ2羽とクマタカ1羽が出現。イヌワシは現れない。

 やはりいないのか?そう思い始めていた13:00、谷下の尾根部に出現した1羽の黒い存在感のある鳥が東方向のピークに向かって冷気を切り裂くように、一直線にすごいスピードで流れてきた。飛行形は戦闘機のようだ。

 向かって行ったピークで2~3回旋回した後、ピーク上の大きなアカマツの頂上に止まった。ただちに望遠鏡で確認。まぎれもなくイヌワシだ!あまりにも劇的な滋賀県のイヌワシとの出会いに、胸が一杯になった。 

 滋賀県にイヌワシが生息していることが証明できた以上、次はどうしても繁殖していることを確かめたい。そして、繁殖生態を研究したい、そんな熱い思いがどんどんと高まっていった。

 3月28日、次は地形的に営巣している可能性の最も高い谷を絞り込み、父と二人で早朝からその急峻な谷に入って行った。8:09、早速一羽のイヌワシが谷の西斜面上に出現。谷を横切って東方向の上空に消失。

 イヌワシの出現した西斜面を見渡せる東斜面へ登ることにした。あまりにも急峻な上に、岩がもろく、見晴らしの利く尾根にたどりつくのは命がけだった。そこにはカモシカの糞が多数あり、カモシカにとっては安心して休める場所だった。

 そこで観察を始めてすぐ、9:13にイヌワシ一羽が南方向から戻って来て対岸の岩崖のある斜面を低く、山肌に沿って飛んだ。2~3回旋回した後、岩棚に入り、すぐに出て、また同じように岩崖斜面を低く飛び、再び岩棚に入った。

 すると、また岩棚から出て辺りを旋回した後、今度はぐんぐんと高度を上げ、東方向に消失。このイヌワシは初列風切羽(羽の先端)に欠損があり、背面にはかなり白っぽい羽毛が多かった。 

 9:27、はやる気持ちを押さえながら、そのイヌワシが出入りした岩棚を望遠鏡で注意深く観察してみる。私と岩棚との距離は約1Km。遠いが、巣材が見える。そして巣の中にイヌワシの頭が見えた!

 巣は北向きでイヌワシの頭は東を向いている。巣の端に羽毛が2枚ほど引っかかっている。夢ではない、本当に滋賀県でイヌワシが繁殖している。  

 10:21、巣に伏せていたイヌワシが立ち上がり、腹の下に頭を入れ、ごそごそしている。卵を満遍なく温めるための転卵という行動のようだ。

 その後、3月31日から4月2日まで観察を続けたが、同じような行動が続き、雛を確認することはできなかった。しかし、4月2日の夜には鳥取大学に戻らなければならず、調査を中断せざるを得なかった。

 5月3日、連休を利用して帰省。すぐさま観察に行ったが、巣には期待した雛の姿は見えなかった。また、親ワシも巣には入らなかった。残念ながら、この巣では卵は孵化せず、繁殖に失敗したものと思われた。

 滋賀県で初めてイヌワシの生息と繁殖の確認をした状況はすぐさま重田さんに手紙で報告した。私の報告に対する重田さんからの手紙は以下の内容であり、その手紙は今も大切にしている。

 「 イヌワシの調査は非常に困難である。そのため外国の有名な人々も繁殖期に重点を置き、非繁殖期の研究は不足している。

 若しイヌワシを本当に保護して残してやるなら、イヌワシを知りつくさなければならない。それも国内という特定条件の環境下で生息繁殖 している個体だけでどうこう言っては誤りである。

 環境の全く異なった地帯で生き続けているイヌワシの共通した生息繁殖しうる絶対条件で物をいわねばだめだ。しかし、国内の各地でのワシの共通点に気が付けば外国までゆかなくても(行けばもっとよいが)その生息地区(外国北緯60度前後)での様子はほぼ正確に認定できる。 草々

 昭和51年4月  重田芳夫   山崎享様 」

 この手紙がわたしの人生を決定づけたといっても過言ではない。滋賀県のイヌワシを観察するだけではなく、日本中のイヌワシの生息地を訪ね、本来、草原や低灌木の広がる環境に生息しているイヌワシがどうして日本に生息しているのかという謎を突き止めたい、そう思った。 』

 

 『 最初に抱卵を確認したペアでは、翌年も雛の孵化は確認できなかった。イヌワシはよほどのことがない限り、ペアを維持するので、何年も繁殖に成功しないことが起こりうる。

 何とか雛が生育している巣を確認するため、1978年には新たなペアを探すことにした。鈴鹿山脈に1ペアが生息して繁殖していることが明らかになった以上、隣接するペアが生息しているに違いない。再び地図を精査し、いくつかの候補地を絞っていった。

 その中でイヌワシの繁殖場所として最も確率が高いと判定した谷、その谷が滋賀県で初めてイヌワシの育雛を確認することになる谷であった。必ずこの谷内にイヌワシの巣があることを信じ、中学校の時からいっしょに野鳥観察を行ってきた山崎匠君とともに、谷に入って行った。

 谷の中は予想以上に急峻で、岩が自然にガラガラと落ちてくる、きわめて危険な場所だった。急峻な斜面に引っかき傷をつけたかのような細い道。足を踏み外せば、まず命はない。現にこの谷で何名もの人が遭難しているということを地元の人から聞いていた。

 谷の奥に進んでいくと、斜面に刻んだ山道は谷底を通るようになった。そこは井戸の底のような場所で、空は一部しか見えない。垂直の近い急峻な崖が左岸にそそり立っているのがわかった。

 巣があるとすればこの崖の上に違いない。しかし、その巣を見るには対岸の右岸に上がる以外に方法はない。はやる気持ちを押さえて、崩れ落ちる石に足を取られながら、両手を使って草木をつかみ、一歩ずつ上へはい上がって行った。

 肩で息を切りながら、恐る恐る、対岸を振り返って見た。そこには人を寄せつけないような険しい崖がそそり立っていた。崖の中ほどに三角形をした穴があいている。息を殺して祈るような気持ちで双眼鏡をのぞいた。

岩穴に敷き詰められた巣材の上に白と黒のまだらをした鳥が一羽いる。数匹のハエがその周りを飛び交っている。間違いなくイヌワシの雛だ!1978年5月7日、滋賀県で初めてイヌワシの雛を確認した瞬間だった。 』

 

 『 しかし、どうしてイヌワシのような大きくて、人目をひく鳥の存在が知られていなかったのだろう。イヌワシの巣があった谷に近い集落で、古老の人たちに話を聞いてみた。

 すると、やはり、イヌワシがこの谷に棲んでいることを知っている老人がいた。しかし、それは「イヌワシ」ではなく、とても印象深い別の名前、「三つ星鷹」と呼ばれていた。

 この老人は、「三つ星鷹」は「黒い鷹 」とは違って、初夏になると、この谷にやってくる鷹だと言っていた。イヌワシの幼鳥は全体が黒っぽい色をしているが、両翼の中央部と尾羽の付け根の三ヵ所に純白の良く目立つ斑紋がある。

 しかも滋賀県ではイヌワシの幼鳥は6月初めに巣立ち、いわゆる初夏の頃には巣のある谷の周辺をよく飛行する。村の人たちは、一年を通して見かけるイヌワシの成鳥を「黒い鷹」と呼び、イヌワシの幼鳥は、夏にやってくる別種の「三つ星鷹」だと思っていたのだ。 』

 

 『 日本人に最もなじみの深い昼行性の猛禽類はオオタカとトビに違いない。オオタカはよく時代劇に登場する、将軍や皇室が「鷹狩り」に用いた鷹である。この仲間にはハイタカとツミがいる。

 海岸部に生息する代表的な昼行性の猛禽類はミサゴとハヤブサである。ミサゴは魚食の猛禽であり、海や河川の上を停飛しながら、魚をさがし、魚を見つけると真っ逆さまにダイビングして魚を捕捉する。

  滑りやすい魚をしっかりとつかむため、ミサゴの足指は前2本、後ろ2本となっていて(普通は前3本、後ろ1本)2本の足を同時に使い、タオルを絞るように魚をバランスよく握り締めることができるようになっている。

 ミサゴは浮いてきた魚の背が見えるやいなやダイビングして捕捉するため、目論見よりも大きな魚を捕えてしまうこともあるらしい。魚には爪が食い込むため、ミサゴが持ち上げられないような魚を捕捉してもそれを放すことができず、水中に引きずり込まれて死亡することもあるらしい。網にかかった大きな魚の背中に、「鷹」の爪や足の骨がついているのを見たことがあるという漁師さんの話をあちこちで聞いたことがある。

 ハヤブサは海岸部に広く分布し、繁殖しているが、ミサゴのように魚を捕食しているのではない。ハヤブサはそのすばらしい飛翔能力を武器に、主に小型~中型の鳥類を捕獲している。ハヤブサが海岸部に多く生息している理由は、海岸部には渡り鳥や海鳥が多く飛来し、容易に獲物を捕食できることと、巣をつくるのに適した岩壁が多いことである。

 海や河川に面したヨシ原にの猛禽類は、チョウヒの仲間である。ヨシ原帯のすぐ上をすれすれにふわふわと飛行しながら、ヨシ原に生息するネズミの仲間や小型の鳥などを探索し、捕食している。日本で繁殖するチョウヒもいるが、多くは冬に飛来する。

 その他、留鳥として日本で繁殖する猛禽類で比較的よく見ることができるのは、チョウゲンボウ、ノスリ、である。チョウゲンボウは小型のハヤブサの仲間で、主に地上の昆虫やネズミなどを、ノスリは主に林縁部などでネズミの仲間を捕食しているが、ともに冬になると、農耕地や河川敷などに移動してくるため、人家周辺でも見かけることが多くなる。

  渡り鳥の猛禽類として、最も有名なのはハチクマとサシバである。両種とも東南アジアで冬を越し、夏に日本にやって来て繁殖する。ハチクマはその名前のとおり、主にハチの幼虫や蛹を捕食する変わった猛禽類である。

サシバは主に水辺に多い両生類・爬虫類・昆虫などを捕食する。ハチクマの獲物も、サシバの獲物も、日本では、冬に姿を消してしまうため、日本で冬を越すことはできないのである。

 日本で繁殖したハチクマは9月下旬頃に次々と本州を南下し、10月初旬に長崎県の福江島付近から、中国大陸に渡った後、インドシナ半島を経由して、インドネシアのジャワ島にまで渡っていく。

 ジャワ島で越冬したハチクマは2月頃になると、今度は同じルートを北上し始め、5月中旬頃に日本に戻ってくる。距離にして1万km、60~90日間にもおよぶ壮大な自力の旅である。この東南アジアをまたにかけた壮大な旅を年に2回行っているというのは本当に驚きである。(人口衛星を用いた2003年~2005年の追跡調査で判明)

 サシバは、10月初旬に九州最南端の佐多岬から、南西諸島を経由して沖縄本島、石垣島、台湾、フィリピンと渡り、翌年4月下旬頃には再び日本に戻ってくる。

 渡りを行う猛禽類にとっては、生活の舞台は、日本だけではない。ハチクマにとっては、越冬地のインドネシア、渡り途中の多くの東南アジアの国々、そして繁殖地の日本のすべての国が一年の生活を支える場所であり、サシバにとっては、越冬地や渡りの中継地であるフィリピンや台湾、琉球列島の森林、国内の主な繁殖地である里山のすべてが生存の基盤であり、そのどれ一つが欠けても生存していけないのだ。 』

 

 『 イヌワシはヨーロッパからロシア、ネパール、モンゴル、北アメリカなど北半球の高緯度地域に広く分布する大型の猛禽類であり、その精悍で勇壮な姿と類いまれな飛翔能力は世界各地の人々を魅了し、神の鳥として崇められたり、力の象徴として紋章に用いられたりしてきた。

 イヌワシには6亜種が知られており、日本に生息するのはその中で最も小型のニホンイヌワシである。ニホンイヌワシは朝鮮半島と日本にしか分布しない、きわめて個体数の少ない亜種とされている。

 世界のイヌワシの繁殖地域は北緯70~20度であり、日本と朝鮮半島に分布するニッホンイヌワシは旧北亜区の大きな分布域から南方に分離した小さな個体群である。(チベット、ミヤンマー、ラオスの山岳地帯を含むため北緯20度にも分布)

 日本の主な繁殖地は北緯34~42度の範囲にあり、ニホンイヌワシの分布域はイヌワシの分布域としてはかなり南方に位置している。イヌワシが高緯度地域に生息している理由は、イヌワシの生息にとって不可欠な環境要素の分布と関係している。

 高緯度地域には、草地や低灌木地などの開けた自然環境が広がり、その中に営巣場所となる崖が散在する丘陵地や山地が多いからである。つまり、本来は、森林におおわれた山岳地帯にはイヌワシは生息してないということであり、日本のように森林におおわれた山岳地帯にイヌワシが生息するということはきわめて珍しいことなのである。

 このことはイヌワシの形態に大きく関係している。イヌワシの翼は幅広いだけでなく、グライダーのように長い。この大きくて長い翼で上昇気流や斜面を吹き上げる風を巧みにとらえ、羽ばたくことなく広い行動圏を飛行することができる。ところがこのグライダーのような羽では森林の中に入っていくことはできない。

 つまり、森林におおわれた山岳地帯では、たとえ獲物となる動物が多く生息していても、その獲物を捕食することができないため、イヌワシは生息してないのだ。 』

 

 『 クマタカはクマタカ属という大型の森林性猛禽類の仲間である。多くは熱帯や亜熱帯の森林地帯に生息している。中南米にはアカエリクマタカ、クロクマタカの2種、アフリカにはアフリカクマタカの一種、そして東南アジアにはクマタカ、ジャワクマタカ、スラウェシクマタカ、フィリピンクマタカ、カオグロクマタカ、ウォーレスクマタカ、カワリクマタカの7種が生息している。

 どうして東南アジアにはこれほど多くのクマタカ属の猛禽類が生息しているのだろうか?世界地図を見るとわかるとおり、東南アジアには多くの島がある。

 ジャワクマタカはインドネシアのジャワ島だけに、スラウェシクマタカ はインドネシアのスラウェシ島だけに、そしてフィリピンクマタカはフィリピンだけに生息しており、日本に生息するクマタカは、これらのクマタカが生息してない地域に分布している。

 ジャワクマタカ、スラウェシクマタカ、フィリピンクマタカはともに長い冠羽を持っているが、全体によく似た形態をしている。さらに、日本に生息するクマタカも全体の形態はよく似ている。

 つまり、元は同じ種であったが、古い時代に島が分離したため、独立した種に進化していったのではないかと、私は思っている。東南アジアの島々は壮大なガラパゴスのようなものだ。

 東南アジアには複数のクマタカ猛禽類が生息している地域がある。この中でカワリクマタカの分布域が最も広く、広い範囲でクマタカ、ジャワクマタカの生息域と重なっている。

 クマタカ、ジャワクマタカは山地帯の森林に生息するさまざまな小型~中型の哺乳類、鳥類、爬虫類などを捕食しているのに対し、カワリクマタカは平地に近い山地帯や平地の沼の周辺にも生息し、主に爬虫類や両生類などを捕食している。

 つまり、東南アジアの自然は異なる2種類のクマタカ属の猛禽類の生息を可能にするだけの多種多様な生物を豊富に生産する豊かな森林に恵まれているということである。

 しかし、クマタカ属の猛禽類は東南アジアに広く分布している大型の猛禽類であるにもかかわらず、その生態はほとんどわかってない。なぜなら、クマタカ属の猛禽類は森林内に滞在していることか多く、目撃率がきわめて低いことや東南アジアでは近年まで猛禽類を調査する研究者がほとんどいなかったからである。

 日本に生息するクマタカは、スリランカ、インド南部の一部、インドシナ半島からネパール、中国東南部、ロシア極東の一部にかけて広い範囲に分布するクマタカのうち、日本にのみ分布する最も大型の亜種であり、日本はクマタカの分布域のほぼ北限に位置している。

 クマタカはイヌワシに匹敵するほど大型の猛禽類であるが、翼の幅が広く、小回りのきく飛行が可能であり、森林内にも入っていくことができることから、全国の山岳森林帯に広く分布している。 』

 

 『 イヌワシは草地や低灌木地に崖が散在する丘陵地や山地に生息する北方系大型の猛禽類であり、クマタカは森林性で南方系大型の猛禽類である。日本はイヌワシにとっては南限で、クマタカにとっては北限である。

 イヌワシやクマタカの保護は、生物の多様性と生産性に富む森林の再生なくしてはあり得ない。猛禽類の保護は彼らの生息を可能していた、持続的利用の可能な日本の豊な森林生態系の再生であり、日本人が山岳生態系の中で長期間に渡って育んできた森林文化の再評価に基ずく、新たな森林文化を創造する生産活動の仕組みづくりである。

 「びわ湖の森」でクマタカの巣を探すために、急斜面を這い上がり、いくつもの細い沢を超え、どこに来ているかわからなくなるような山奥ですら、あちこちに炭焼き窯の跡を見かけた。

 「びわ湖の森」は琵琶湖を育むマザーフォーレストであるとともに、イヌワシやクマタカが舞う世界的にも類まれな多様性に富む豊かな森であり、私たち人間にとっても生活の基盤であった。「びわ湖の森」の空と森の王者が健全であること、それは「琵琶湖」が健全であることの証でもある。 』(第61回)  


ブックハンター「命を救った道具たち」

2014-08-07 12:41:45 | 独学

 61. 命を救った道具たち (高橋大輔著 2013年5月)(Tool that can save a life)


 『 気がつけばわたしは、砂漠のど真ん中で六匹の野犬に囲まれていた。一九八九年三月。徒歩とヒッチハイクでサハラ砂漠を横断する旅の途中だ。犬たちは地平線の向こうから走ってきて、たちまちのうちにわたしを取り囲んだ。目が合うと、歯をむき出しにしてうなり声を上げた。

 空腹なのだろうか。わき腹には肋骨が浮き出て、口元から唾液がしたたり落ちている。普通の犬とは目つきが違う。三角形につり上がった目には、犬が本来持っているはずの人間への愛着や忠誠など微塵もない。まさに野獣そのものだ。

 犬はわたしを獲物と見ているのだ。とんでもない!餌食になんかなってたまるもんか。慌てて周囲を見回した。砂漠に武器になりそうなものはない。棒切れはおろか、投げつける石ころひとつ落ちていない。仕方なくわたしは大声を上げた。手を叩き鳴らして、追い払おうとした。

 最初のうちはよかったが、効果がなくなってくると今度は腕を大車輪のように回してみた。ところがそれは逆効果だったようだ。犬を恐れさせるどころか、かえって興奮させてしまった。

 次第にわたしは疲れてきた。それを見透かすように犬はわたしの周りを猛スピードで走り回り、距離を縮めて迫ってきた。やばい、食い殺される――。
そう思った瞬間、わたしの闘争心は一気に縮み上がり、恐怖に変わった。あろうことか、自分の身体が犬に噛み切られていく様子が脳裏に浮かんだ。

 我に返り、何気なくポケットをまさぐるとミニマグライト2AAがあった。そのボディは航空機に使用されるアルミ合金で作られている。特殊コーティングにより対腐食性が強化され、ボディの内部にも施されているという徹底ぶりだ。

 どんな劣悪な環境でも確実に光がつくように作り出された究極の道具の一つだ。わたしが数あるライトの中からそれを選んだのは強靭さばかりではなく、より強い光度にあった。自分の目に照らしてみて、あまりの眩しさに驚いたからだ。

 光がどれだけ眩しいかを表す単位にカンデラがある。一般に100ワットの電球が120カンデラ程度だと言われているのに対し、ミニマグライト2AAは2305カンデラもある。圧巻だ。ライトを選ぶなら、光度が強いものにすべきだ。

 遠くのものを照らし出せるばかりか、緊急時に信号をより確実に送ることができる。ひょっとすると、これなら何とかなるかもしれない。わたしは一縷の望みを託した。

 やがて、リーダーらしき犬が鋭い牙を剥きだしにして突進してきた。わたしはとっさにライトを点灯させ、光を犬の目に突っ込んだ。すると奇跡が起こった。光のあまりの眩しさに犬は恐れをなしたのだ。一匹、二匹……。次々と背を向けて去っていった。

 マグライトの光は向かうところ敵なしだった。もし持っていなければ、わたしは砂漠の露と消えてしまっていたに違いない。ミニマグライト2AAの2305カンデラが命を救ったのだ。 』


 『 厚さ0.068ミリメートル。肉や魚などを冷蔵あるいは冷凍保存するために使われるビニール袋のジップロック フリーザーバックはかなり頑丈にできている。厚口のゴミ袋の厚さが0.04ミリメートルなのと比べて明らかだ。

 チャックが二重になっているばかりか、青と赤で色分けされているのでしっかりと閉じ、中身を密閉することができる。1970年代にアメリカで誕生したというが、そのヘビーデュティー(頑丈な)ぶりはいかにもアメリカ人が作り出しそうな製品だ。

 わたしがその防水性に感心したのは、飛行機に乗って預けたバックの中でシャンプーが吹きこぼれてしまった時だ。中身は惨憺たる状態だったが、ジップロックに入れてあった探検用の資料だけは辛うじて被害を免れることができた。資料が破損すれば、わたしは旅を続けられないところだった。

 旅は大まか二種類に分けられる。事前に現地の事を徹底的に調べ、資料を携えて出かける旅と、あえて何も調べずにふらりと出かける旅だ。旅に出るなら、余計な先入観など持たずに身軽に出かけたい。しかし、探検は例外なく前者に該当する。

 探検は人が知らないことを探し出そうという営みであるから、何が既知であるかを把握しなけらば、何が未知かもわからない。それが曖昧なままでは探検にならないのだ。ましてや現場で参照する資料をなくしたら致命的だ。

 出発前、わたしは多くの本を読み、必要な箇所はコピーを取ってバックに入れる。資料は訪れる地域やテーマに合わせて整理する。そのときもジップロックは便利だ。透明なので中が一目瞭然である。表面にメモを書くスペースもある。

 書類入れとして使い始めたジップロックだが、その防水性と耐久性に惚れ込み、水に濡れては困るカメラや予備の電池などもしまうようになった。しかし、わたしにとってジップロックは、単なる防水の整理袋以上の存在なのだ。

 冬のヨーロッパを旅していた時のことだ。風邪をこじらせてホテルの部屋で動けなくなった。割れるように頭が痛み、体は鉄の鎧を着たようにだるい。熱は上がっていく一方で目玉までが熱を帯びていた。

 まずいことになった。翌日には飛行機でスコットランドへ移動し、その足で、シェトランド諸島の原野へと出かけることになっている。朦朧とした意識のまま部屋の中を見渡した。テーブルの上にジップロックに入った資料の束が置いてあった。

 わたしはあることを思いつき、ジップロックから資料を抜き取ると、ふらつく足で洗面台に向かった。そして水道栓をひねり、ジップロックに冷水を入れた。ベットに戻って、それを頭に載せてみる。水漏れすることもなく、額の上にちょうどよくおさまった。

 沈殿していた泥の中から浮き上がるような爽快感を覚えた。夜が明ける頃には、熱は引けていたのだ。まさかジップロックが水枕になるとは思わなかった。世界を駆けるわたしの探検はジップロックフリーザーバックの厚さわずか0.068ミリメートルに支えられている。 』


 『 もしも、無人域で遭難してしまったら――。イリジュウム衛星携帯電話は救出される道を自分で作り出すことができる数少ない道具のひとつだ。高度780キロメートルの上空に打ち上げられた66個の衛星を経由して、地球上のあらゆる地点での通信を可能にする。

 かつてヒマラヤで遭難しかかった登山家はパンツの中に電池を入れて温め、消耗を防ぎながらイリジュウムで通話して、どうにか生還できたという。端末はレンガのようにおおきく、普通の携帯電話四つ分の重さがある。

 通話料をプリペイド式にする場合、高額な通話料を事前に払い込まねば使えない。わたしは探検の最後の砦、保険のようなものと思い手に入れた。ただし、衛星携帯電話の持ち込みが制限されている国もある。ロシアもそのひとつだ。最悪の場合は没収はおろか、刑罰を科せられることもあるという。

 2006年9月。極東シベリアのアムール川探検を計画していたわたしは思い悩んでいた。イリジュウムを持って行けば余計なトラブルに巻き込まれるかもしれない。監獄に入れられるのはごめんだ。しかし本流と支流がたこ足配線のようにこんがらがった大河を行く以上、遭難の危険度は高い。

 背に腹はかえられない。わたしは没収覚悟で持ち込んだ。幸か不幸か、それが役立つ状況にでくわすことになった。旅の終盤、私は不測の事態に陥った。乗っていたディーゼル船が迷路のような湿地帯にはまり込み、エンジンが壊れてしまったのだ。

 「どうするんですか?」私は船長に詰め寄った。彼はしばし沈黙の後で答えた。「下流にある集落まで流れに身を任せるしかないな」「そんな無茶な。もし失敗したら!」

 一か八かの賭けに出て、船が座礁したら事態はさらに悪くなるだけだ。積んでいた飲料水や食料は底を尽きかけていたし、外気は肌を刺すように冷たい。河はいつ凍結してもおかしくないという。

 わたしはバックからイリジウムを取り出し、救出を要請しようと提案した。電源を入れると大きなアンテナが作動し、すぐに大気圏外を回っている4つの衛星をキャッチした。電話はいとも簡単に通じた。まるで日本のどこかにいるみたいだった。

 ところが事態は思いがけない方向へと流ていく。「助けてくれ! 船が動かなくなった。」 電話に向かって叫ぶ船長に対して、受話器の向こうの人はただ絶句するばかりだ。われわれがいるのは警察や消防でさえ容易に来られる場所ではない。

 電話は通じても結局、漂流者は漂流者らしく自力で脱出しなければならない。わたしは文明の利器の限界を悟った。同時に、難局を乗り切るのは機械でなく人間なのだと覚悟を決めた。

 決死の脱出行へ。幸いにもその後、電話が通じた船長の友人に救出され、事なきを得た。 』 


 『 無人島に持っていく道具を何かひとつだけ選べと言われれば、わたしは刃物と答える。刃物一本あれば、木を切り倒して小屋を作ることができる。火を焚きつけるための薪から、魚を釣るための竿や釣り針なども作ることができる。創意工夫次第で新たな道具を生み出し、生活を切り開ける道具だからだ。

 では、数ある刃物に中で、何を選んだらいいのだろう。これまで様々なタイプの刃物を手にしてきた。丸太をいとも簡単に叩き割ってしまうハンドアックス(手斧)の威力に圧倒されたこともあれば、折り畳み式ナイフの携帯性と使い勝手の良さに惚れ込んだりもした。刃物の選択は、何を切るかによって決まる。

 料理人が刺身用の柳刃包丁と野菜を切るための菜切り包丁を使い分けているのと同じことだ。探検にも数種類の刃物を持っていければ理想的だ。しかし、様々な道具をバックパックに詰め込んで山野を歩かなければならない状況では一本に絞る必要がある。

 ハンドアックスのように強靭でナイフのような究極の刃物はあるだろうか――。思い悩んだ時、又鬼山刀(マタギナガサ)のことを知った。それは東北地方でクマなどを狩るマタギが使う刃物だという。

 わたしは秋田県北部、森吉山の北西にある鍛冶場を訪ねた。第四代目西根正剛氏が又鬼山刀の製造を継承しているらしい。彼はようやく入れるほどの狭い作業場に立ち、赤い鉄を打っていた。一撃ごとに形を変えていく鉄が生き物のように見えた。

 彼は仕事が一段落つくと、わたしに又鬼山刀を見せてくれた。山刀と書くように先端が尖った剣鉈で、刃渡りは大きいもので八寸(24センチメートル)もある。片刃の刃の先端は裏打ちされ、わずかに反り上がっている。(裏打ちとは、片刃の背中に微妙な反りをつけること)   

 傾けてみると光を反射させ、刀剣のような迫力を滲ませている。又鬼山刀は別名フクロナガサとも呼ばれる。柄が中空なので棒を差し込めば槍に早変わりする。手負いのクマに逆襲されたマタギにとって最期の武器になるらしい。彼らが命の次に大切にしている道具なのだという。

 わたしは又鬼山刀が単なる刃物ではないことを知った。それは果敢に熊と向き合い、生きてきた男たちの精神の賜物なのだ。「枝を落としたり山菜を切ったりと、これ一本あれば何でもできますよ」西根氏も又鬼山刀を腰に下げ、春夏秋冬を通じて山に入るという。

 フィールドを知り尽くした人が作る刃物に間違いはない。わたしは納得して又鬼山刀を購入した。それを初めて使ったのは、鴨猟だった。撃ち落とした鴨が茨の茂みの中に紛れてしまった。固いトゲの蔓は難攻不落の壁を作り上げている。

 わたしは又鬼山刀を一振りした。バサバサと音を立てて枝が地面に落ちた。三振りもすると道が開けた。それまで味わったことのない鋭い切れ味を発揮した。わたしはいつの間にか他の刃物には戻れなくなっていた。

 道具としての秀逸さばかりではない。どんな最悪の状況でもこれで乗り切れるという勇気がみなぎってくるからだ。 』


 『 サハリン島へ出かけたのは1997年の年末だった。あえて厳しい時期を旅の季節に選んだのには訳があった。足跡を追跡していた江戸時代の探検家、間宮林蔵は1808年から翌9年にかけてサハリン島を探検した。

 わたしは厳寒のサハリンを体験しないうちは、彼のことをよく理解できないだろうと考えたのだ。旅の前に防寒具はことさら慎重に選んだ。サハリンは亜寒帯に属し、冬期はシベリア大陸から季節風とオホーツク海の寒流のために冷え込みが厳しく、積雪量も多いという。

 迷った末、わたしはフィルソンのウールパッカーコートを選んだ。フィルソンは1897年アメリカ北西部のワシントン州シアトルで誕生したブランドだ。天然素材のマッキノウールを開発したことで知られる。それは優れた”湿潤熱”を備え、湿気を吸うと熱を発して温度と湿度のバランスを取るのだという。

 総重量の30パーセントのも水分を含んだとしても不快感を感じないらしい。パッカーコートは24オンスのマッキーノウールを腕から肩、胸に二重に重ね、襟元にはぶ厚いムートンがついている、防寒具としてこれ以上ない重装備だ。

 北緯50度に近いポロナイスクにたどり着くと、わたしは突き刺すような寒気に威圧感を覚えた。気温は氷点下30度にまで下がり、降り積もった雪は金平糖のような結晶となって路面に落ちていた。

 思いがけない事態となったのはその翌日だった。日帰りで250キロ離れたアレクサンドロフスク・サハリンスキーへ行き、戻ってきた時はすでに夜になっていた。宿泊していた宿舎に戻ると、部屋の扉に鍵がかかっている。

 暖房設備があるのは部屋の中だけで、宿舎の廊下は眉毛が凍りつくほど寒い。わたしは管理人を探しに外に出てみたが、徒労に終わった。仕方なく宿舎に戻る。その日は朝からろくに食べていないことに気づいた。腹ぺこだが、食料も鍵がかかった部屋の中だ。

 わたしは扉に体当たりして部屋に押し入ろうとした。扉は思いのほか頑丈にできている。床に落ちていた針金を見つけては、鍵穴に差し込んだ。しかし映画のようにはうまくいかない。

 着ていたコートの襟を立て、床に横たわった。このまま寝てしまえば、凍死するかもしれない。不安がよぎる。しかし押しつぶされそうな寒さのために寝ることさえできない。幸運にも、ポケットの中から食べかけのチョコレートが出てきた。

 現地で買ったもので、まずいので持っていることさえ忘れてしまっていたのだ。わたしはそれをあっという間に食べてしまった。じっと床に横たわっていることができなくなると、立ち上がって廊下を行ったり来たりした。

 そうして10時間が経った。ようやく窓の外が白み始めてきた。わたしは光に希望を感じ、無事に朝を迎えられたことに感謝した。氷点下30度の夜、身体を包み込んでくれた一着のパッカーコート。

 もし命の恩人がいるとすれば、そのコートを生み出した100年前のアメリカ人だろう。 』


 『 「考える足」 探検とは何かと問われれば、わたしは真っ先にそう答える。現地に行くこと。見聞をもとに考えること。それが発見の第一歩だ。人が探検家になれるかどうかの境目は単純だ。いかなる土地でも、普段と同じように歩けるかどうかにかかっている。

 たとえ底なし沼のような湿地帯であっても、長靴を履いた子供が水たまりで遊び歩くように進んでいけるかどうか――。探検靴はそれを可能にするものでなければならない。靴に求めるもの。それは一にも二にも防水性だ。

 都市からフィールドへ。オールマイティな探検靴としてわたしはダナーライトを選ぶ。手に入れて間もない頃、南アルプスの山中で深いぬかるみに何度も足を取られたことがあった。

 テントに入り、靴を脱いでみて、驚いた。足は全く濡れていなかった。わたしはそれに足を向けて寝る気になれず、枕元において寝た。アメリカのオレゴン州で誕生したダナーライトは世界で初めてゴアテックスの素地が使われたブーツだ。それにより防水性と通気性が向上し、軽量化も実現した。

 また靴底にはビムラムソールが採用され、滑りやすい地面でもしっかりと足下をサポートしてくれる。信頼できる一足だ。チベットやペルーの高地から南米のロビンソン・クルーソー島まで、辺境に一歩を踏み込む靴は常にダナーとなった。

 ところが2006年、シベリアのアムール川で思いがけないことが起こった。暗闇の、滑りやすい船の甲板で足を取られてしまった。わたしは足の甲を地面に押し付けるようにして、転倒した。くるぶしよりも上までを覆うハイカットのダナーライトは、足の柔軟な動きを妨げた。

 靴が頑丈すぎたため、わたしは足をねん挫してしまったようなものだった。もし靴が脱げていたら、怪我をしていなかったかもしれない。怪我をした靴は、もう履きたくない――。わたしはダナーとは距離を置いた。いつしか遠ざかり、小屋の奥にしまいこんだ。

 その二年後、太平洋の島々をめぐる遠征に出かけようと準備をしていた時、わたしは履いていく靴に迷った。小屋にあるダナーのことを思い出し、足を入れてみた。これだ! 忘れかけていた冒険心が目覚めるような感覚があった。

 ダナーの靴底は少々固めにできている。それが怪我の原因となってしまたのだが、荒れた大地を何千マイルにも渡って旅してきたのもその固めのソールだった。おそらく怪我をして遠ざからなければ、ダナーの神髄に触れることはできなかっただろう。

 快適なだけではなく、苦しさを味わって離れたからこそ気づくこともある。わたしは改めて、とことんつきあえる靴と出会った気がした。いや、靴という物ではなく、それは地球の果てまで旅する、真の相棒なのだ。 』


 『 サバイバルの教科書を開くと、用意しておくべき必要最小限の持ち物が書いてある。マッチやナイフ、針や糸など。遭難した場合、確かにそれらがあるとないとでは大きな違いが出る。しかし道具さえあればいいかというと、それはまた別問題だ。

 生死の境をさまよう局面では、道具があるかどうかというよりも、身の回りのものをいかに利用できるかが重要な鍵となる。実際のサバイバルには用意周到さより、創意工夫の方が求められる。そのように考えるきっかけを与えてくれたのは、わたしが追跡をしてきた実際の漂流者の体験だった。

 江戸時代、伊豆の島々には数多くの船乗りが漂流した。中でもアメリカの捕鯨船により救い出されたジョン万次郎や吉村昭の小説「漂流」のモデルとなった野村長平などが知られている。

 特に長平は1785年に鳥島に漂着した後、いっしょに上陸した船乗りが相次いで命を落としひとりきりとなった。彼だけが何とか生き延び、新たにやって来た漂流者たちと力を合わせて、船を造り、12年後に悲願の生還を果たすことができた。

 そのような状況の中、どのようにして生き延びることができたのだろう。彼は島に来るアホウドリを捕まえて、肉を生のまま食べた。鳥を捌くのに使ったのは難破船の残骸から引き抜いた船釘だったという。彼の漂流生活を支えたのは一本の釘だったのだ。

 一方、「ロビンソン漂流記」のモデルとなったアレクサンダー・セルカークが南米チリの孤島(現在のロビンソン・クルーソー島)にひとり取り残されたのは1704年のことだった。 

 漂流生活が長引くにつれ、着ていた服はすり切れて穴が空き、使い物にならなくなった。彼は食料としていたヤギの毛皮を縫い合わせて服を作って寒さをしのいだという。記録を見ると、彼は針と糸を持っていたわけではない。
   
 ボロになった衣類から糸を抜き取り、釘を針代わりにしてヤギの毛皮を縫い合わせたのだ。セルカークの漂流生活を支えたのも釘だった。確かに、釘はいろいろの局面で役に立つ。

 錐にもなるし、二枚貝の殻剥き、木に登る時の足がかりにもなる。火打石で叩いて、火花を散らして火種をつくることもできる。わたしは二人の漂流体験から、いつも非常用の袋の中に釘を入れておくことにしている。長さ10センチほどの何の変哲もない釘だ。
 
 彼らの教訓から学べることは、釘が役に立つということだけでない。いやそれよりも、身の回りにあるものをいかに最大限に活用できるかということだ。釘はサバイバルの道具というだけでなく、サバイバルとは何かということを教えてくれる。

 それは生きるための知恵だ。何の変哲もない一本の釘を生き延びる道具に変える発想力なのだ。 』


 本書は、道具を主役にする探検記として、著者の探検道具の中から45点について、探検のエピソードととも道具を紹介している。道具は、命を救うものであるばかりか、心を支えるものであり、自分の手や足の延長であり、自分の分身であり、苦楽を友にしてきた相棒であり、自分の能力をステップアップするものでもある。

 探検に於いては道具が増えれば、自分で担いでいかなけばいけないし、足りなければ、危機を回避できないかもしれない、そのために、どの道具と探検に行くかは、命にもかかわっている。(第60回)