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チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「マッケンナに学ぶ未来を知るすべ」

2018-01-14 16:36:49 | 独学

 154. マッケンナに学ぶ未来を知るすべ (校條 浩著 週刊ダイヤモンド2018年1月)

 校條浩(めんじょう ひろし)は、シリコンバレーに本拠本拠を置くネットサービス・ベンチャーズ・グループ代表。日本企業への事業イノベーションのアドバイスとシリコンバレー・日本でのベンチャー投資を行なう。

 彼は、シリコンバレーの本質を知る稀な日本人です。(本稿は、シリコンバレーの流儀の第12回です)


 『 シリコンバレーの成長を支え「シリコンバレーを作った25人」の一人といわれる、レジス・マッケンナとの出会いは1990年代中ごろだった。

 彼の誘いで、彼のコンサルティング会社に入ったことがきっかけで、私は日本企業にへ新事業創造にかかわるコンサルティングを始めることとなった。

 何度も一緒に日本に出張し、その時間を独り占めできたのはとても幸運なことだと思う。レジスは70年代、シリコンバレーの黎明期に、米インテルや米アップルコンピュータ―にマーケティングを指南したことで知られる。

アップル初の本格パソコン「Apple Ⅱ」が開発された当時、共同創業者のスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックはそれぞれ、21歳、25歳の血気盛んな若者だった。

 開発したウォズが技術的なスペックばかりを説明するので、レジスは「ユーザーにとってどのような価値があるかを説明してくれ」と言うと、ウォズは怒って部屋を出ていってしまった。

 だが、そのときにジョブスは「待てよ、こういうユーザーとのコミュニケーションは大事かもしれない」と考え直し、マーケティング戦略をレジスと進めることになった

 コンピューターがまだ”オタク”の趣味でしかなかった時代に、利用者への提供価値という観点でマーケティングの重要性を説き、ジョブスのマーケティング能力を開花させたのがレジスであったのだ。

 レジスは、アップルの立ち上げに必要な資金の調達も支援した。当時はまだ「ベンチャーキャピタル(VC)」が確立していない時代である。

 最初の資金調達のために、彼の知り合いのドン・バレンタイン(後の米セコイア・キャピタル創業者)に頼み、投資家を紹介してもらった。「エンジェル投資」の元祖といえよう。

 また、メディアはシリコンバレーのスタートアップなどごこも相手にしていなかった。だが、レジスは、メディア対応はPRの要だとしてメディアとの交流に努力を惜しまなっかった。

 パソコンを販売するチャンネルもなかったので、流通も開拓した。77年の時点で、レジスのプランの中に「アップルストア」が入っていたのは驚くべきことだ。

 日本では、マーケティングを「広告宣伝」「販売」「営業」ぐらいに捉えている人が多い。

 だが、レジスは、「製品のユーザー価値」「製品戦略」「マーケットイン」「資金調達」「メディアの啓蒙」「チャンネル戦略」など製品以外の「全て」を包含するものだと説いた。

 ジョブズ亡き後にアップルの経営を引き継いだティム・クックは流通経験が長い。「地味なクックではアップルを引っ張れない」とやゆする人も多かったが、レジスはこう語っていた。

 「必要なときに顧客の前に製品があること。流通も重要なマーケティングなのだ。私はクックはいい仕事をしてくれると思う」と。

 時価総額が100兆円を超えたアップルを見れば、この見立てに間違いはなかったことが分かるだろう。

 それだけではない。レジスは、90年代から、ソーシャルネットワークとスマートフォンが市場を完全に変えてしまうことを見抜いていた。

 インターネットの商用化により、企業と顧客との関係が劇的に変わった。レジスはそれを「リアルタイム」と「双方向」というキーワードで説明し、ネット社会でのソーシャルマーケティングの重要性を説いた。

 革新的な製品は、市場の「インフルエンサー」(影響力のある人)から口コミで広がることを示し、それを系統的に進める戦略である「マーケットインフラストラクチャー」の考えを提唱したのもまた、レジスである。

 「アーリーアダプター」と呼ばれる先進的な利用者と「マジョリティー」と呼ばれる市場の中心的な利用者の間には、「死の谷」が存在する。

 そう説いたベストセラー、「キャズム」の著者ジェフリー・ムーアは、実はレジスの門下生であった。なぜレジスには「未来」が見えていたのだろうか。 』


 『 もちろん、生まれつきの感性や揺るぎない価値観によるところが大きいとは思うがレジスと接してきた私には他にも感じる点がいくつかある。

 まず、レジスが高学歴ではないよそ者であったことだ。フィラデルフィアで地元の大学を卒業し、シリコンバレーに流れ着いた彼に失うものはなかった。

 学歴を利用して有名企業に入社する発想がなかったから、目の前にある面白い企業に就職し、シリコンバレーが産声を上げる時期の企業と関わった。

 その企業がたまたまインテルやアップルだったというわけだ。レジスと周りの友人たちは「建前」「会社の事情」「大人の賢さ」からは遠い価値観の人たちだった。従って、物事を真っさらな気持ちで見ることができたのだろう。

 また、物事を実行するときに必要な「大人の態度」を備えていた。例えば、批判的なジャーナリストにも丁寧に対応していた。

 多くの先進的なスタートアップにコンサルティングや投資をすることで、独り善がりの理論に流されることなく、実践的なアイデアを磨いていた。そのため、数多くの「世界初」を演出してきた。

 常にスタートアップの内側に入り、フロンティアに立つことによって、いち早く未来を「知る」ことができたのだと思う。彼にはならずとも、その足跡から未来を知るすべは学べるはずだ。

 レジスでも唯一読めなかったのが「アップル株をもらわずに後悔する自分の姿」だった。ジョブスに紹介した投資家が資産1000億円超の「ビリオネア」になったのは言うまでもない。 』 (第153回)


ブックハンター「通貨ユーロがヨーロッパを滅ぼす」

2018-01-08 09:14:21 | 独学

 153.  通貨ユーロがヨーロッパを滅ぼす (エマニュエル・ドット著 文芸春秋2018年1月号)

 まず著者エマニュエル・ドットは、フランスの家族人類学者です。この家族人類学という言葉を知っている人は、かなりの学識のある方だと思います。

 ドットは、世界の家族の形態を八つの型に分類し、それらと共産主義、イスラム教などとの親和性についても、言及しています。では、ドットの説を見ていきましょう。


 『 スペインからの分離独立を目指すカタルーニャの問題は、ヨーロッパの単なる一地方の問題ではありません。

 興味深いのは、ヨーロッパ主義者(EU統合推進派)と反ヨーロッパ主義者(EU統合懐疑派)の対立の構図が変化していることが、この問題を通じて見えてくることです。

 まずヨーロッパ主義の地域主義に対する態度が変化しています。従来、EU統合に賛成する人ほど、地域主義に好意的でした。逆に、EU統合に反対あるいは慎重な人ほど、地域主義に批判的でした。

 EU統合は上から国民国家を脅かし、地域主義は下から国民国家をつき崩すものだからです。

 ところが今回、EU統合派ほど、カタルーニャの分離独立の動きに批判的で、EU統合懐疑派の方が寛容的、好意的態度を採っています。

 私自身について言えば、EU統合派ではなく国家重視派ですから、本来、カタルーニャの分離独立の動きには批判的であるはずなのに、自分自身の中にカタルーニャの分離独立運動の高まりに対するシンパシーが次第に高まっているのを感じます。

 逆にEU統合派は、本来、スペインよりもカタルーニャにシンパシーを感じるはずですが、徐々にそうではなくなってきています。 』


 『 なぜこうした変化が生じているのか。私の考えでは、それは、EUがもはや緩やかな国家連合ではなく、国家から主権を奪い、それ自体が中央集権化したからです。

 そこで、「反国家」のニュアンスを帯びるはずの地域主義が、「反EU」の意味を持ち始めたのです。

 単一通貨ユーロや画一的な政策、緊縮財政を各国に中央集権的に課すEUは、それ自体が非常に強力なヒラルキー構造を持つ政治空間、いわば「牢獄」のような存在になってしまいました。

 そうしたなかで、カタルーニャのような動きは、EU統合派から見れば、一種の「不服従」という意味あいを持ちます。逆にEU統合反対派から見れば、「理のある抵抗」となります。

 たから私のシンパシーを誘うのでしょう。カタルーニャは、スペインの中でもとくに豊かな地域で、強い産業力を有しています。

 こうした地域が貧しい地域を置き去りにして独立しようという動きは、これまでなら、豊かなイタリア北部のケースのように、「金持ちの地域のエゴイズム」と批判されてきました。

 ところが今日、スペインの首都マドリードは、EUの中枢であるブリュッセルの指令に忠実なだけの経済政策ーー通貨ユーロの価値維持と緊縮政策ーーを行なっていて、国家としてのスペインに必要な経済政策を放棄しています。

 スペインは、もはやEUの一地方でしかなく、主権国家として存在していないのです。そうであれば、カタルーニャの人々が、スペインに自己同一化する必要も魅力も感じないのは当然です。

 しかもカタルーニャは、スペインのなかでも独自の歴史をもつ地域です。私の専門である家族システムの面から言うと、カタルーニャは、日本と同じ直系家族(長子相続)の地域です。

 かつてカタルーニャの民族学者と交わした会話を思い出します。「マドリードの言葉であれ、バルセロナの言葉であれ、フランス語であれ、大体根っこは同じようなものですね」と私は言いました。

 カタルーニャ語は、フランス語とも近いので、シンパシーを感じてそう言ったのですが、「そんなことはない!自分たちは独特なんだ!」と物凄い剣幕で反論されました。

 日本も同様ですが、直系家族の地域は、「自分たちの文化は特殊で他と違う」というタイプの自民族中心主義の傾向が強いです。

 政治的には、カタルーニャは、中世末期以来、代表制ーー当初は寡頭的で、後により民主的なーーの政治システムを伝統的に保持してきました。

 それに対して、スペインは、ヨーロッパの絶対王政のまさに揺籃の地です。この権力集中の政治システムが、十六世紀、十七世紀の大航海時代を生みだしました。

 その意味でカタルーニャの方が、歴史的により自由な政治体制を培ってきたのです。スペイン内戦でも、カタルーニャは、独裁的なフランコ将軍と戦った人民戦線の拠点となりました。

 私のように長いスパンで歴史を見る者の目からすれば、今日のようなカタルーニャの動きは、まったく自然なものです。

 カタルーニャは、ヨーロッパのなかでも指折りの文化の中心地で、バルセロナは、夢を見させてくれるような街です。

 都市として活気があり、建築も街並みも面白い。料理もマドリードのスペイン料理よりはるかに美味しい。小さな地域ながらも、ヨーロッパ文化の中核の一つを成しています。

 それだけに、カタルーニャで起きていることは、ヨーロッパにとって重大なのです。さらに言えば、カタルーニャの人々は、繊細、緻密で、単純素朴ではありません。

 今回、カタルーニャ州の首相をはじめ、分離独立のリーダーたちは、ブリュッセルに、いわば「亡命」しました。

 これについてヨーロッパ主義者は、「卑怯だ」「意味がない」などと批判しましたが、カタルーニャの指導者たちの方が一枚上手です。

 巧妙にも、ブリュッセルというEUの中心に混乱を持ち込んだのですから。現在のヨーロッパは、痙攣を起こしている状態にあります。

 英国がEUから逃げ出し、カタルーニャもユーロ圏の一地方でしかなくなったスペインから逃げ出そうとしている。

 だからこそ、EU統合派も、かってなら味方をしただろうカタルーニャの分離独立運動に恐れをなし、高圧的に批判するのです。 』


 『 諸悪の根源は、通貨ユーロです。現在のヨーロッパの問題は、すべてユーロに起因していると言っても過言ではない。ヨーロッパは、今、ユーロとともに死滅しつつあるのです。

 ユーロは、一九九九年に決算用仮想通貨として、〇二年に現金通貨として導入されましたが、もともと九一年のマーストリヒト条約での「単一通貨を遅くとも九九年までに導入する」という合意に基づくものでした。

 この条件は、九二年にフランスでも国民投票で僅差(賛成51%)で批准されましたが、私は反対票を投じました。

 私自身の人類学的・歴史学的知見から、単一通貨構想は、あまりに経済至上主義的で、あまりに現実無視の企てに見えたからです。

 ユーロは、ヨーロッパの歴史や現実の生活を知らない傲慢な無知の産物、机上の空想です。政治的選択という以前に、ヨーロッパの歴史と現実の厚みを知る学者として、反対せざるを得ませんでした。

 一九九六年に拙著「新ヨーロッパ大全」がフランスで文庫化された際、私は序文に「もし今度、通貨ユーロが万が一にも実現してしまうようなことがあれば、この本は、

 二十年後に、集団意識が存在しないなかで強引に進められた国家統合が、なにゆえに「社会」ではなく「無法地帯」しか生み出さなかったかを人々に理解させるだろう」と記しました。

 ユーロは必ず失敗すると、歴史学者として、導入以前から断言していたのです。遠い日本から見れば、ヨーロッパは、一枚岩に見えるかもしれません。

 家族形態、言語、宗教、文化などは地域ごとに相当異なります。これほど多様な社会に単一通貨を導入しても、絶対に機能しません。

 EUのエリートたちは、単一通貨によってEU諸国の統合を加速しようとしたのです。

 これは、千年にもわたるヨーロッパ史の中で培われてきたそれぞれの共同体を単一通貨によって数年のうちに融合してしまおう、という急進的なユートピア的夢想です。

 貨幣そのものに世界を変える力まで与えるという無謀な試みなのです。ところが、八十年半ば以降、EUのエリートに拡がった「アンチ国家」の安易な風潮が「単一通貨ユートピア」を生み出してしまいました。

 しかし、それぞれの国民経済は、通貨管理に関して独自の必要性を抱えています。

 各国は独自の金融政策、通貨政策をもち、インフレ率をコントロールして失業率を改善するなど自国経済を善導しなければなりません。また独自の通貨政策に独自の財政政策が伴わねばならない。

 ユーロの根本的な欠陥は、各国が、経済上、人口動態上、多様化しているまさにその時に、通貨による強引な統合を強制したことにあります。

 ユーロ圏には、産業力の強い国もあれば、弱い国もあります。ユーロ導入以前には、弱い国は、自国通貨の価値を下げることで競争力を得て、生き延びることができました。

 しかし、ユーロ導入によって、それが不可能になってしまいました。ユーロ圏で産業力の強いのは、ドイツです。ユーロ導入によって、そのドイツが、フランス、イタリア、スペインの産業を破壊しました。

 その結果起きたのは、ドイツ以外の各国の産業破壊と失業率上昇です。ヨーロッパの各国政府が、どんな犠牲を払ってでも、ユーロの安定を維持しようとした結果、ヨーロッパ経済はマヒ状態に陥りました。

 自国の「産業」や「雇用」を犠牲にしてまで「単一通貨」を優先するという愚かな政策を取り続けているからです。

 ユーロ考案者は、単一通貨によってヨーロッパに平和で平等な世界が生まれると夢想しましたが、むしろ弱肉強食の世界が生まれたのです。

 ユーロ推進派がとくに愚かだったのは、ユーロ導入によって、ヨーロッパの域内・隣国同士の間でこそ熾烈な経済競争が生じることを予測できなかったことです。

 ドイツが競争力において優位に立ったのは、中国に対してではなく、ユーロ圏内の他国に対してでした。その結果、ユーロ圏は、ドイツの輸出だけが一方的に増大する空間になりました。

 ドイツが最大の貿易黒字を引き出しているのは、ユーロ圏外ではなく、ユーロ圏内からです。ヨーロッパ経済の第一の問題は、よく言われるような「財政赤字」ではなく、ユーロ圏内部の「貿易の不均衡」なのです。

 しかし、主流派の経済学者は、こうした問題を語ろうともしません。 』


 『 今春のフランス大統領選では、社会党や共和党という既成政党と距離を取り、若さを売りにして政治に新しい風を吹き込むと期待されたマクロン(39歳)が勝利しましたが、メディアでの盛り上がりに反して、マクロンは見かけ倒しの人物です。 

 マクロンの政策は、サルコジ、オランドとあまり変わりません。緊縮財政は従来の政策の継続です。労働市場の流動化をさらに進めようとし、より過激になっているだけで、さほどのオリジナリティはない。

 マクロンの特徴をあえて挙げるとすれば、彼が若いことでしょう。興味深いのはフランスでも高齢者ほど、若い政治家に魅惑されています。ですから、若さを売りにしているマクロンも、実は、高齢者の有権者の意向を反映しているのです。

 マクロンは、独仏連携によるEUの再建を訴えていますが、これは通貨ユーロがある限り、フランスがドイツに服従するだけの話です。

 たとえば、フランスの産業のトップの一つであるアルムストというフランス新幹線を製造する鉄道会社がドイツのシーメンスに買収されました。マクロンはこの買収を認めました。

 ユーロは、主にフランスの政治家たちが中心となって考案したものですが、ユーロ創設は、「フランスの政治家が犯した史上最悪の失敗」と言えます。 』 (第152回)




ブックハンター「たいていのことは20時間で習得できる」

2017-12-12 13:53:50 | 独学

152. たいていのことは20時間で習得できる  (ジョシュ・カウフマン著 土方奈美訳 2014年9月)

      The First 20 Hours  By Josh Kaufman   Copyright©2013

 『 ベストセラー作家、マルコム・グラッドウェルの2008年の著書「天才! 成功する人々の法則」は、一部の人がなぜ突出した成功を収めるか、理由を解き明かそうとする。

 この本でたびたび登場するのが「1万時間の法則」だ。フロリダ州立大学のアンダース・エクソン博士の調査によると、何かにおいてプロのレベルに到達するには、平均して1万時間、本気で練習する必要があるという。

 要するにエリクソン博士の研究は、新しいスキルをマスターしたければ、とても長い時間苦しみつづけなければならないと言っているのだ。

 望みを捨てる前に、ちょっと考えてみてほしい。エリクソン博士の研究には、見落としがちな要素がある。対象が ”プロレベル”の人々であるという事実だ。

 次のタイガー・ウッズを目指そうとするなら、少なくとも一万時間以上、ゴルフのすべてを意識的かつ系統的に学ぶ必要があるだろう。

 プロゴルファーのほとんどが幼い頃からゴルフを始め、少なくとも7年以上休まずに練習している。だが、恥をかかずにまともなスコアーでラウンドし、ときには地元のゴルフコンペで優勝争いする程度なら?

 そうなると、話はまったく違う。「自分の目標にあったそこそこのレベル」に到達するのに必要な努力は、はるかに少ない。

 超速スキル獲得法で重要なのは「必要十分」という考え方だ。本書のテーマは、必要十分な能力をどうやって身につけるかであり、世界一流の技を習得する方法ではない。

 ぼくらはまず20時間、意識を集中し、知的に、明確な目的をもって努力することから始めよう。自分にとって価値ある結果を、わずかな努力で手に入れるのだ。

 最終的にプロレベルの技術を目指そうと決意するかもしれない。その場合でも20時間の超速スキル獲得法から始めるほうが成功の確率は高いだろう。

 自分が始めようとしているものの本質を理解し、基礎的な要素を学び、賢く練習し、練習のパターンを確立すれば、着実かつ急速に上達し、記録的な短時間でプロレベルに到達できるだろう。

 超速スキル獲得法とは、習得したいスキルをできるだけ小さなパーツに分解し、そのうち特に重要なものを見極め、まずそれを意識的に練習するというプロセスである。そう、たったそれだけである。

 超速スキル獲得法は、大きく四つのステップに分かれる。

 ◎[分解]スキルをできるだけ小さな「サブスキル」に分解する

 ◎[学習]賢く練習できるように、また練習中に自己修正ができるように、個々のサブスキルについて十分な知識を得る

 ◎[除去]練習の邪魔になる、物理的、精神的、感情的障害を取り除く

 ◎[練習]特に重要なサブスキルを少なくとも20時間練習する

 これだけだ。何を練習するかを決め、最適な練習方法を考え、練習時間を確保し、目標とするレベルに達するまで練習するだけでいい。

 魔法でも何でもない。興味あることに賢明かつ戦略的に取り組むだけだ。少し準備するだけで、新しいスキルをそれほど苦労することなく、すばやく身につけることができる。

 だからといって、即座に結果が出るわけではない。すぐに満足感を得たいという欲求こそ、新しいスキルをあまり早く習得できない大きな原因の一つなのだ。

 新しい運動技能を身につけようとすると、最初は比較的ぎこちなく、ゆっくりとしか動けない。自分が何をしているか、いちいち考えなければならず、イライラするようなミスも繰り返す。

 だが練習を続けるうちに、筋肉が自然と協調運動をするようになり、意識のプロセスとシンクロしてくる。うまくいく方法に集中し、うまくいかないやり方は捨ててしまう。

 このプロセスは専門家の間では「スキル獲得の3段階モデル」と呼ばれ、身体的スキル、知的スキルのいずれにも当てはまる。三つの段階とは、

 1 認知(初期)段階 自分がしようとしているスキルを理解し、調査し、そのプロセスについて考え、対処できる程度のパーツに分解する。

 2 連合(中期)段階 スキルを練習し、環境からのフィードバックを受け取り、それにもとづき方法を修正する。

 3 自律(後期)段階 アタマで考えず、また必要以上に注意を払わずに、スキルを効果的かつ効率的に実践する。

 ドゥエック博士は、「脳は筋肉に似ている。使えば使うほど成長する」と。練習するほど、スキルは効率的、効果的、無意識的になる。 』


 『 スキル獲得が何を意味するかがはっきりしたところで、今度はどうすればそれを「速く」できるか見ていこう。次に、新しいスキルを身につけようと決めたときに役立つ「チェックリスト」についてお話しする。

 超速スキル獲得法の10のルールとは、

 1 魅力的なプロジェクトを選ぶ   2 一時に一つのスキルにエネルギーを集中する 

 3 目標とするパフォーマンスレベルを明確にする   4 スキルをサブスキルに分解する 

 5 重要なツールを手に入れる   6 練習の障害を取り除く 

 7 練習時間を確保する   8 すぐにフィードバックが返ってくる仕組みをつくる 

 9 時計のそばで一気に練習する   10 量と速さを重視する

 ルールのほとんどが当たり前のことに思えるかもしれない。だが、覚えていてほしい。このルールを知っているだけではダメなのだ。成果を手に入れるには、これを真剣に活用しなければならない。 』


 『 カール・ホッパーにはさまざまな名言があるが、ぼくが一番のお気に入りは「人間に起こり得る最高の経験は、問題を見つけ、それに夢中になり、さらに魅力的な問題が現れるまではその解決にすべてをささげることだ」というものだ。

 超速スキル獲得法では、まず魅力的な問題あるいはプロジェクトを選ばなければならない。めあてとするスキルに夢中になるほど、習得のスピードは速まる。

 習得するスキルは一つだけに絞り、できる限りの集中力とエネルギーをそれに注ぎ、ほかはすべて一時保留する。

 「目標とするパフォーマンスレベル」というのは、「これで十分」と想えるレベルを簡潔に表現した文章と思ってほしい。

 達成しようとしているもの、そこに到達すると何ができるようになるかを、一文で説明するのだ。目標とするレベルは具体的であるほどいい。

 これを明確にすることで、どのようなパフォーマンスを目指すかイメージしやすくなる。スキルによっては安全性を織り込まなければならないものもある。(ケガをしたり命を落としたりしたら本末転倒だ) 』


 『 たいていのスキルは、小さなサブスキルが束になったものだ。集中して取り組むスキルを決めたら、次のステップはそれをできるだけ小さなパーツに分解することだ。

 たとえばゴルフをプレイするというのも、様々な部品の集まったスキルだ。正しいクラブを選び、ティからボールを打ち、バンカーから出し、パッティングを決める、などなど。

 スキルを十分小さく分解すれば、最も重要と思われるサブスキルを特定するのもずっと楽になる。まずカギとなるサブスキルに集中することで、少ない努力でたくさん上達できる。

 たいていのスキルには、練習やパフォーマンスのために準備すべきものがある。ラケットがなければテニスはできないし、使えるヘリコプターがなければ操縦法を学ぶのは無理だ。

 効率よく練習するために準備すべきツール、要素、環境は何だろう。予算内で入手できる最高のツールは何か。時間をとって重要なツールを確認しておくことは、時間の節約につながる。

 練習の妨げとなり、スキルの習得を必要以上に難しくしてしまう要素はいろいろある。たとえば、[練習するまでにひどく手間がかかる]、[リソースをたまにしか使えない]、[感情的な障害、恐れ、恥ずかし]。

 新しいスキルを習得するための時間は、時間がある時にやればいいや、と自分に言い聞かせながら、テレビを見たり、ゲームをしたりと。

 だが、はっきり言っておこう。「時間があるとき」というのはまやかしだ。コートのポケットにたまたま20ドル札があった!という具合に、たまたま時間が見つかる、ということは絶対にない。

 時間があるときにやろうと思っているかぎり、それをすることは絶対にないだろう。時間を確保したいと思えばつくるしかない。 』


 『 「すぐにフィードバックが返ってくる」というのは、あなたがどれほどうまくできているかと情報が、なるべく速やかに返ってくるようにすることだ。

 正確なフィードバックが返ってくるのに時間がかかるほど、スキルの獲得に時間がかかってしまう。練習プロセスにすぐにフィードバックを返してくれる相手をできるだけ多く組み込むことで、スキル獲得は早くなる。

 新しいスキルを練習する初期段階では、それまでに練習した時間を過大評価しやすい。うまくいかないと、時間はなかなか経たない気がして、実際よりも練習しているように思えてくる。

 この問題を解決するには、時計のそばで練習するのがいい。カウントダウンのできるタイマーを買って、20分測ってみよう。

 ルールは一つだけ。タイマーをスタートしたら、ベルが鳴るまでわき目もふらず練習するのだ。どんなことがあっても、このルールを曲げてはダメだ。

 新しいスキルを学ぼうとすると、完璧にやりたくなる。だから完璧を目指そうとせず、「これで十分」というフォームを維持しながら、できるだけ速く、できるだけたくさん練習することに集中しよう。

 デイヴィッド・ベイルズとテッド・オーランドは著書「アーティストのためのハンドブック 製作につきまとう不安との付き合い方」で、量の大切さを示すおもしろいエピソードを紹介している。

 ”陶芸の授業の初日に、教師は生徒を二つのグループに分けると宣言した。スタジオの左半分の生徒には、最終日までに制作した作品の「量」だけ評価する。一方、右半分の生徒は制作物の「質」だけを評価する、というのだ。

 そして評価の日。興味深い事実が明らかになった。最も質の高い作品は、いずれも量で評価されるグループのものだった。量重視のグループは、失敗から学んだことによる。” 』


 『 これまで見たとおり、学習とスキル獲得は別物だ。だからといって学習が重要でないというわけではない。練習に飛び込む前に少しリサーチすることで、貴重な時間とエネルギーと忍耐力の節約につながる場合もある。

 学習は練習の効果を高め、最初に一番重要なサブスキルに多くの練習時間を割くことを可能にする。そうした発想で作成したのが、効果的学習のための10の基本ルールだ。

 1 スキルとそれに関連したトピックについて調べる  2 わからなくてもやってみる

 3 心的モデルと心的フックを知る  4 望んでいることの「逆」を想像する

 5 実際にやっている人の話を聞いて予想を立てる  6 環境から気が散る要素を取り除く

 7 覚えるために間隔をあけて反復と強化をする  8 チェックリストとルーティーンを設ける

 9 予測を立て、検証する  10 自分の生物学的欲求を大切にする 』


 『 20分かけてウェブ、書店、地元の図書館でスキルに関連ある本や資料を探そう。この初期段階のリサーチの目的は、最も重要なサブスキル、重要な構成要素、そしてできるだけ早く練習するのに必要なツールを知ることだ。

 スキルについて前もって知っておくほど、賢い準備ができる。目的はスキルについて広範な知識をてっとり早くあつめ、スキル獲得のプロセスがどのようなものになるか、全体像を正確につかむことだ。

 完璧なクロワッサンを焼きたければ、パンやペストリーの焼き方に関する良書を何冊か読もう。自分で一からやり方を考えるのではなく、完成された既存の技術を学ぶのだ。

 初期のリサーチには、理解できない概念や技術、考え方が含まれているだろう。とても重要そうなのに、さっぱり意味がわからないというものに出くわすことも多い。

 わけがわからないまま飛び込むのが嫌いだ、という気持ちこそ、超速スキル獲得を阻む最大の感情的障壁だ。練習すればわかるようになると自ら言い聞かせることで、混乱から理解へと最速で進むことができる。

 リサーチをしていると「パターン」、すなわち繰り返し登場する概念や技術に自然と気づくだろう。そういった概念は「心的モデル」と呼ばれ、とても重要だ。

 心的モデルは、最も基本的な学習単位だ。世界に存在するモノあるいは関係性を理解し分類する手段である。また、すでに知っていることと同じようなことにも気づくだろう。

 これが「心的フック」で、新しい概念を覚えるのに役立つ類似性や比喩である。最初のリサーチで心的モデルや心的フックをたくさん見つけておけば、練習の間に利用しやすくなる。 』


 『 直観には反するが、新しいスキルを理解する一つの方法は、完璧ならぬ最悪の事態を想像することだ。あらゆることがうまくいかなかったらどうなるだろう。最悪の結果とは何か。

 これは「反転」と呼ばれる問題解決のテクニックで、たいていのことについて本質的要素を理解するのに役立つ。望んでいることの逆を調べることで、一見気づかない重要な要素を特定できるのだ。

 あなたが目標とするスキルをすでに身につけている人に話を聞くと、時間とエネルギーを投資する前に幻想や誤解を解消するのに役立つだろう。

 上達にともなってどのような変化が期待できるか、あらかじめ知っておくことで、練習中に興味を失わず、プロセスの初期段階で戦意喪失するのを防ぎやすくなる。

 超速スキル獲得の最大の敵は、気が散ると、集中して練習できなくなり、集中して練習できなければスキルの習得は遅れる。

 練習を始める前に少し時間をとり、気の散りそうな要素をできるだけたくさん予想し、取り除いておくことで、そうした事態を防ぐことができる。

 たいていのスキルには、少なくともある程度の記憶力が求められる。何か新しいことを学んでも、一定期間内に復習しなければおそらく忘れてしまうだろう。

 復習することでその概念の記憶が強化され、脳がそれを長期記憶に組み込む助けとなる。

 このテクニックが有効なのは、たとえば新しい言語を習得するために頻出単語を学習しているなら、間隔をあけた反復と強化はとても大切だ。

 価値ある学習ができているか、検証するには予測を立てるといい。すでに学んだことにもとづいて、何かを変えたり試したりした場合、どんな結果がでるか予測するのだ。

 観察:今、何を観察しているか  既知の事実:トピックについてすでに知っていることは何か  仮説:パフォーマンスの向上には何が必要か  試行:次に何を試すのか

 試行錯誤の結果を記録したり、練習しながら仮説を立てたりするのに、ノートなどのリファレンスツールを使うことをおススメする。自分の予測を記録し、新しい発想を生み出すことで、有益な試行錯誤ができるはずだ。

 あなたの脳や身体は生物学的システムであり、食料、水、運動、睡眠といった生物学的欲求がある。

 ぼくらはどうしても無理しがちだが、それは非生産的だ。適切なインプットをしないと、心も身体も有益なアウトプットを生みだすことはできない。

 最適な学習サイクルは約90分、意識を集中して取り組むことのようだ。それより長くなると、頭も身体も自然と休息を求めるようになる。その機会に運動や休息、あるいは食事や間食、あるいは仮眠を取ったりしよう。

 必要なら休息をはさみ、練習時間をもっと細かい単位に区切ってもいい。20分練習して10分休息、また20分練習して10分休む、といった具合に。 』


 『 理論はもう十分。そろそろ実践に移ろう。これからぼくが身につけるのは、次の六つのスキルだ。

 ヨガ:自宅でのアーサナ練習プログラム

 プログラミング:実際に使えるウェブアプリケーションの製作

 タイピング:マイナーなキーボード配列を使ったタッチタイピングの学び直し

 囲碁:世界最古かつ最も複雑なボードゲーム、囲碁の打ち方

 音楽:ウクレレを弾く  』


 以上の六つですが、以下囲碁について、少しだけ見てみましょう。


 『 囲碁は当初の形をそのままとどめている世界最古のゲームである。囲碁は古代中国で生れ少なくとも三千年、一部の見方によると四千年以上にわたって現在のルールで続いてきた。

 中国では、囲碁は「ウェイチ」と呼ばれる。ウェイ(圍)は「囲む」、チ(棋)は「ボードゲーム」を意味する。つまりウェイチとは「包囲するゲーム」という意味だ。

 これはゲームの勝利の条件を的確に表現している。相手を包囲するのだ。囲碁は日本を通じてヨーロッパとアメリカに伝わったので、英語の「Go」は日本の「囲碁」という言葉に由来する。

 碁盤は縦19本、横19本の線が直角に交わっている。石はマスの中ではなく、交点に置く。つまり碁盤には361ヶ所、石の置場があるわけだ。

 碁盤や碁石がなければ囲碁を打つのは難しいので、ぼくは世界中の囲碁製品を集めてアメリカで販売する、イエロー・マウンテン・インポーツ社からすてきなセットを手に入れた。

 伝統的なカヤ材でできた超高級な碁盤は、数万ドルもする。同じように碁石も本物の粘板岩と蛤を使った最高級品は目が飛び出るほどの値段だ。

 いろいろ調べた結果、ぼくは(シロトウヒ)の床置き盤とユンツィの碁石を買うことにした。ユンツィの碁石の素材は企業秘密とされ、触り心地がよく、硬いので碁盤に置くと良い音がする。

 値段も手ごろだ。碁石には伝統的な木の碁笥(ゴケ:碁石を入れる丸い容器)が付いており、対局中は碁盤の脇に置いておく。

 碁盤と碁石を買ったほか、入門書も何冊か買った。

 Go: A Complete Intoroduction to the Game by Cho Chikun(2010) (趙治勲著 囲碁入門完全ガイド)(未邦訳)

 The Second Book of Go: What You Need to Know After You've Learned the Rules by Richard Bozulih(1998) (リチャード・ボズリッチ著 囲碁の本② ルールを覚えたら知っておくべきこと)(未邦訳)

 How Not to Play Go by Yuan Zhou(2009) (ユアン・チョウ著 ヘボ碁の打ち方)(未邦訳)

 最初に読む本は,「 Go: A Complete Intoroduction to the Game 」は初心者に最もおススメの本とされていたので、悩むこともなかった。

 同じように「The Second Book of Go」も戦略の入門書として高く評価されていた。

 「How Not to Play Go」は、”反転”の作業そのものなので、この本を見つけたときには我が意を得たりの思いだった。よくある間違いを学べば、物事への理解が大いに深まる。 』

 

 『 囲碁の主要なルールは、たった七つしかない。

 1 石は交点に置く  2 黒と白は交互に碁盤に石を置く

 残る五つのルールは試合の進行と勝利の条件に関するものだ。

 3 石は4方向すべてを相手の石に囲まれると「取られる」  

 4 打った瞬間に相手に取られてしまう場所には石は打てない(着手禁止点)

 5 無限に同じ手の打ち合いを繰り返すこと(コウと呼ばれる)はできない

 6 対局者の石がなくなる、一方が投了する、あるいは双方がパスをしたら終局になる

 7 終局の時点でより多くの陣地を囲った対局者が勝者となる 』


 『 「How Not to Play Go」には、初心者の多くが犯しがちな大きなミスがいくつかあるという

 1 やみくもに対戦相手に従う (たとえば攻められると、他の選択肢を吟味せずにそこを守ったり、逃げたり、反撃したりする)

 2 基盤全体に注意を払わない (攻め合いをしている場から一番遠いところに打つのが効果的な場合もある。攻め合うのは楽しいので、未熟なプレーヤーは他のエリアにあるチャンスを見逃しやすい)

 3 最も効果的な手を打たない (囲碁では損得勘定が重要だ。一手あたり最大限の効果をあげるには、ときには一つか二つの石を犠牲にすることも必要だ)  

 4 先手の重要性を理解しない (囲碁では「先手」を打つのが非常に大切だ。できるだけ相手の動きを支配するようにしたい。相手の戦略に気を取られるのではなく、相手が陣地を失う恐れから陣地の確保をおろそかにしてしまうように仕向けたい。先手をとり、それを守ったほうがたいてい勝利する)

 5 陣地を読めない (局地的な戦いや小さな陣地を確保するのに必死になり、相手に碁盤の大部分を占拠するのを許してしまう)

 6 相手の状況を嫉妬する (相手の陣地が大きくなりすぎていることに気を取られ、無駄な手を打ってしまう)

 7 甘い考えに陥りやすい (あと二手で取れそうな相手方のグループを見ると、一回に一手しか打てないことを忘れてしまう。相手はあなたの手に必ず反応する。相手が自分の意図に気づかないのではないか、という甘い考えで打つ手は無駄になりやすい。

「How Not to Play Go」を読んで以降、ぼくの碁は格段に上達した。最初に直さなければならなかったのは、相手の石を取ることが勝利への最短ルートだと直感的に判断する癖だ。

 チェスやチェッカーではそのとおりだが、囲碁では違う。石を取るのは無駄ではないが、勝利の条件ではない。囲碁の目標は「陣地」の確保であり、相手の石を一つを一つも取らなくてもそれは可能だ。 』


 『 碁を勉強をしていると、格言が良く出てくる。中国の唐時代の名棋士、王積薪のものとされる「囲碁十訣」だ。

 一 不得貧勝 (欲を出すと成功を逃す)

 二 入界宣緩 (敵の陣地に慌てて入るな)

 三 攻彼顧我 (攻めるときも自分を顧みよ)

 四 棄子争先 (石を捨てて先手を取れ)

 五 捨小就大 (小を捨て大を取れ)

 六 逢危須棄 (危険になったら犠牲を払え)

 七 慎勿軽速 (厚い形をつくり、拙速な手を打つな)

 八 動須相応 (敵の動きに応じよ)

 九 彼強自保 (敵が強ければ安全策を取れ)

 十 勢孤取和 (孤立あるいは劣勢のときは戦いを避けよ)  』


 ヘボ碁しか打てない私が言うのもなんですが、囲碁というゲームの真骨頂は、格言にもあるように、囲碁というゲームで得られてことを、実生活のさまざまな場面の選択に於いて生かすことです。

 欲を出すと成功を逃す、敵の陣地に慌てて入るな(十分に準備をして、落ち着いて事にあたれ)、攻めるときも自分を顧みよ小を捨て大を取れ、などなどすべて実生活にも生きる格言です。

 さらには、ウインドサーフィンなどは面白いのですが、ウインドサーフィンをする湖と気象条件があわないとできませんが、おもしろそうでした。

 ただどれも入念なリサーチと何冊かのすぐれた入門書、いい道具やコーチに付いて、効率の良い練習を集中して行っていると感じました。

 ここでの目標とする到達点を明確にし、スキルをサブスキルに分解するなどというアプローチ方法は、スポーツや趣味だけではなく、学問の習得、仕事のスキルの習得にも、応用可能だと考えられます。

(第151回)



ブックハンター「コレクション的バリエーション投資法」

2017-11-28 10:03:03 | 独学

 151. コレクション的バリエーション投資法  (五十嵐玲二談 2017年11月)


 少額の資金で、いかに低リスクで、株式投資を行なうための考え方です。一般的株式投資の手順は、上場企業の3600社の中から、3年後に最も上昇割合の大きな企業を予測し、選択するゲームと捉えることも可能です。

 株式市場は、資本主義社会で発展してきました。なぜ、株価があがるのか。それは、当該企業が基盤となる技術や、ノウハウや、ビジネスモデルによって、利益をあげることによって、国に税金を納め株主に配当金を支払い、さらに、企業価値を高めることによります。

 従って、過去三年間と今後三年間に少しづつ利益が増加することが、大切です。そのような企業を財務指標によって、スクリーニング(screening :選別)を行ないます。それらの指数とは、PER,PBR、配当率、ROA,自己資本比率などです。

 PAR :price-earnings ratio (earn :利益) 株価収益率 、PBR :price book-value ratio (book-value :純資産) 株価資産倍率、ROA :return on asset (asset :資産) 総資産利益率。


 スクリーニングによって、20~30社程度抽出し、次に、指数で直接絞り込めないもので、絞り込みます。過去三年間の利益、今年度末の予想利益、投資命題、基盤技術、五年後にその企業がどうなっているか、などです。

 投資命題とは、アンソニー・ボルトンによって提唱されたもので、その銘柄を保有したいと望む理由を数行で表現したものです。基盤技術とは、当該企業が収益を上げるための本質的な技術です。

 その技術が理解できなければ、徹底的に調べて、研究して勉強しなくてはなりません。理解できない企業には、投資すべきではありません。この絞り込みによって、2,3社に絞り込みます。

 次に自分の資金と相談して、少しづつ丁寧に投資します。ウォーレン・バフェットによると「個人投資家は、バッターボックスに立ったまま、絶好球をいつまでも、待っていればよく、バッターアウトを宣告されることはない」と言っています。見送る時は、予備リストに登録し、経過を監視します。


 1. 株式投資に関する書籍に於いて、まったく触れられてない一番重要なことは、資金を投入後、ゆっくりと待つことです。株式投資は、時間の関数であることは、間違いありません。

 その単位は、三ヵ月ごとの四半期と決算の年単位です。企業の業績はこの単位で、発表されるため、三ヵ月~一年の期間を必要とします。従って、ゆっくりと待つことが、一番重要で、待つことが楽しいことがさらに重要です。


 2. ある企業の株式を取得することは、わずかですがその企業の一部分を所有するため、一つのコレクションと捉えることができます。さらに、その企業活動そのものが、わくわくする感じがあることが、ベストです。

 わくわくしながら、静かに待って、その企業の株を持っていることが誇れることが最高です。


 3. 投資をするからには、配当も欲しい、株価も上がってほしい、将来性のある株であって欲しい、株価は大きく下落しない株であってほしい、……となります。一つの株でこれを実現することは、難しいかもしれません。

 なぜなら未来は誰にも見通せないからです。しかし、たとえば18社の株を自分が想定するそれぞれのポジションに配置し、そのポジションを守り切れば、全体として理想に近づく確率が上がると考えます。

 

 4. テーマによってバリエーションをつくる。未来に対して、どのテーマが主流になるかは、誰にもわかりませんが、私は以下のようなテーマを考えています。

 エネルギー資源、銅・ニッケル資源、リチウムイオン電池、真空蒸着法、塗料関連、溶接関連、自動組み立て、自動調節弁、固体潤滑剤、切削技術関連、精密プレス関連、養鶏関連……などです。

 テーマとその企業の基盤技術がしっかりしていて、経営陣と従業員が未来を見つめている企業は、明るい未来が開けるように感じます。


 5. 持ち株企業の技術やビジネスモデルが、自分のコレクションになり、18社のバリエーションが、自分だけの持ち株モデルです。私の会社の18名のメンバーであると考えることもできます。

 自分はまったく起業していなくても、18社の企業群のバランスは、私のオリジナルなものであり、私の個性であり、私の未来を拓くものであると信じてます。


 6. 投資に於けるリスクをできる限り、少なくすることは重要なことです。投資の格言に「同じかごに卵を入れるな」がありますが、未来を見通すことが不可能ですので、投資の分野の多様性(バリエーション)を確保することによって、リスクを少なくすることが可能です。


 7. 個々の株価が下がらない工夫をする。その一つが配当率の良い企業を選択すると、それが下落のストッパーになります。

 純資産が多く(PBRが低い)、負債の少ない企業は、下落のストパーになりなす。その企業が利益をあげて、業績が伸びていれば、いずれ株価は上がります。

 株価が下がらない株を選択すると、株価は上昇するしか道はなくなります。


 8. 決算時期のバリエーションを持つ。基本的には3月決算ですが、5月、6月、11月、12月の決算株を持つと、中間決算や決算時期が分散され、3月決算で悪い結果であった場合、5月以降の決算で好業績が予想される株に乗り換える。また、配当金も分散される。


 9. グループ別に管理を行なう。私の場合は、Aグループ6社、Bグループ6社、Cグループ6社に分、さらに、2社づつペアにして、管理しています。グループ別に、さらに全体として上昇基調であることが好ましいことです。

 これら18社の動きを観察することによって、未来がどのように動くかを察知します。半年に1回程度、「投資命題」にそぐわない、基盤技術に陰りが見えた、利益水準が望ましくない、経営陣との相性が良くないなどの理由があるとき、予備リストまたは、持ち株の好成績のものと入れ替えます。


 10. だれもが、その企業の株を持ちたいと考える企業の株価は上昇しますので、そのような株を少し早めにコレクションすることによって、株式のコレクションは充実し、誇りを持てるようになります。

 現在も、将来も、利益をあげ続ける企業であり、その企業が社会に貢献することによって、株式投資はすばらしいコレクションになります。


 私の失敗例その1。

 10年ほど前に、海運株に投資したのですが、世界の船の需給指数であるバルチック海運指数を知らなかったため、大きく下落して、大きく損をしました。


 私の失敗例その2。

 二十五年ほど前に、ヨーロッパデズニーランド(フランス)を開くというので、その株を買いました。日本ではデズニーランドが大成功で、当然何倍にもなると思いましたが、ヨーロッパでは、まったくの失敗で、五年後に、一〇分の1以下で、手放しました。

 そのとき日本のデズニーランドの株を買っていたら、何倍かになっていたはずです。(よく解らないものに、大切なお金を投資してはいけない。)


 私の失敗例その3。

 十数年前に未来のエネルギーとして、新聞や雑誌で、メタンハイドレートが、日本の近くの深海に豊富にあり、有望であるともてはやされてました。そこで私は、関連の企業の株を買いました。

 三年ほど持って、数分の一で手放しました。現在でも実用化のメドさえ立っていません。インターフェロンの会社の株とか、よく騙されたものだと、感心します。実用化した後で、遅くはないのです。(第150回)



ブックハンター「すばる望遠鏡の宇宙」

2017-11-01 15:32:19 | 独学

150. すばる望遠鏡の宇宙  (海部宣男著 宮下暁彦写真 2007年7月)

 本書は岩波新書のポケット版の大きさの小さな本で、見開きごとに写真がある本です。しかしながら内容は濃く、太陽系から、銀河系さらには、128億光年先の宇宙までをカバーしてます。

 すばる望遠鏡の開発から、日本とハワイとアメリカの学者や技術者の共同作業、マウナケアの山頂とハワイの文化から、紀宮様まで出てきます。主題はもちろんすばる望遠鏡で写した宇宙の写真がメインです。

 目次は、はじめに、第一章 未知への航海(宇宙へ船出したすばる望遠鏡)、第二章 宇宙に咲く花(すばるが観た宇宙の美しさ、不思議さ)、第三章 極限に挑む(技術の限界に迫ったすばる望遠鏡)

 第四章 マウナケアは星の天国である(ハワイ島の自然と人々と宇宙)、第五章 ビッグ・バンに迫る(この世界はどのように始まったか)、第六章 ひろがる太陽系(身近な宇宙にも新発見が満ちている)、第七章 太陽系外の惑星と生命(科学の夢はどこまで)、 以上です。


 『 望遠鏡とは、なにか。遠方からの光をできるだけ多量に、できるだけ無駄なく、できるだけ小さな点に集めるものである。えっ、望遠鏡って、遠くの景色を大きくして見るものじゃないの。

 そのとおり。だが像が大きく拡大するにはまず、光をたくさん集めなければならない。だから、大きな口径が欲しい。一方、像の細部までシャープに見るには、できるだけ広い範囲からの光を、できるだけ小さな点(焦点)に集めなければならない。

 光を集めるレンズや鏡が小さかったり、大きくても精度が悪くて小さな点に集められないと、いくら拡大して見てもボンヤリした像にしかならない。

 だから望遠鏡は、口径が大きいほどよい。「大きいことは、いいこと」である。そして口径が大きいほど、原理的に焦点は小さくなる。そこへ十分に光を集中させるには、レンズや鏡、それを支える構造に、より高い精度が要求される。

 「大きいだけ」ではだめで、大きいほどますます、精度が高くなくてはいけない。これが「大きくて高い精度」を求める、天文学者の戦いなのである。

 ふつうどんなものも、大きくなれば精度は下がる。工作精度が落ちるし、温度や自重による変形も増える。

 一九四七年に完成したパロマ山天文台の五メートル望遠鏡以来、それを超える光学望遠鏡が半世紀間も実現しなかったのは、一つには、「大型になるほど高精度」の技術的な困難が、ガッチリ立ちはだかっていたからなのだ。

 一九八〇年代に、光学望遠鏡の「大型になるほど高精度」の困難を乗り越えるメドがついた。

 たくさんのアクチュエータ(駆動装置)で大口径の反射鏡面を超高精度で制御し、温度変形や重力変形を打ち消して常に最高の形に保つ、能動光学という技術の登場だ。

 この新技術が、新世代の八メートル級望遠鏡の実現に道を開くことになった。能動光学技術に先鞭をつけたのは、ヨーロッパの天文学者たちだった。

 ヨーロッパ南天天文台(ESO)の実験望遠鏡NTTがそれで、口径三・五メートルという大きな鏡の鏡面を、非常に高い精度で制御してみせた。

 やや遅れて国立天文台の光天文学グループと三菱電機は、協力して能動光学機構の開発を進めた。お金がないので口径はわずか六〇センチの実験望遠鏡だったが、すばる望遠鏡実現の技術的な基礎を築いた。

 この技術を使って、これまでにない大きさの、最高の制度の望遠鏡を作ろう。ヨーロッパでもアメリカでも日本でも並行して、新しい大型光学望遠鏡の構想が進められた。

 だれ言うともなく、口径八メートルが一つの目標となった。パロマ山天文台の五メートル望遠鏡の一倍半(七・五メートル)より大きい。一枚もののガラスの鏡の輸送を考えると、これ以上は難しそうだ。

 こうして一九九〇年代、八メートルクラスの新世代望遠鏡の建設が、世界で一斉に始まったのである

 フランス、ドイツなどヨーロッパ10ヵ国で構成するヨーロッパ南天天文台のVLT望遠鏡群が、まず建設を開始した

 一年遅れで日本のすばる、そして構想の統一に手間取ったためさらに半年遅れて、アメリカがイギリスなどと協力したジェミナイ望遠鏡がスタートした。

 小さな鏡を組み合わせて10メートル相当の口径を合成する技術を用いたケック望遠鏡が、いち早くマウナケアに建設され(一九九三年)、活躍を始めた。

 ケック望遠鏡の合わせ鏡は安価で口径も大きくできるが、鏡の精度では一枚鏡が有利である。実際いま、すばる望遠鏡は合わせ鏡方式の望遠鏡に比べ、かなり優れた結像性能を示している。

 私は、もともとは電波天文学が専門だ。長野県の野辺山で、大型電波望遠鏡の建設に数年、観測に10年を過ごした。だが望遠鏡の原理は、電波でも光でも同じである。

 すばるの建設が始まるというのでリーダーの小平柱一さんから誘いを受け、三鷹の光赤外線天文学グループに移った。実はこのとき、「すばる」の名はまだなかった。

 望遠鏡はJNLT(Japan National Large Telescope の頭文字)と呼ばれていたが、これでは舌をかむ。そこで、親しみやすい名前をつけようと公募したら、三五〇〇通も応募があった。

 楠田枝里子さんなどに選定委員をお願いして議論の結果、「すばる望遠鏡」の名が選ばれたのである。清少納言を引き合いに出すまでもなく、「すばる」は日本人が古くからなじんだ、美しい星団だ。

 「すばる」は「すまる」、集まるという意味のやまとことばでもある。ぴったりのネーミングだったと思う。もう一つ、それまで七・五メートルだった口径を、欧米に負けない八・二メートルに変えるべく頑張った。

 わかりやすいパンフレットも作った。ともかく、四〇〇億円近い大計画だ。広く社会に知らせ、理解してもらいながら進めなければならない。科学は社会とのつながりの中で進めるものだというのは、野辺山の時代からの私の強い思いだった。 』(以上、”はじめに”より)


 『 ”とび”という仕事。高い足場で建設作業に携わる職人さんは、世界のどの国にもいるはずだ。彼らはそれぞれ違う文化をもちながら、きっと同じ精神を共有しているんだろうな。そうに違いない。

 四二〇〇メートルのマウナケア山頂の、さらに地上四〇メートルの中空に突き出す鉄骨の上を平然と歩き、溶接したり大きなボルトを力強く締めているワーカーたちを見ていると、そんな気がしてくる。

 彼らの姿は、太平洋を覆う雲海の上、天と地の間に浮かんでいる。さながら、雲の国の大工さんだ。真っ黒に陽に焼けた、人懐っこいワーカーたち。

 ハイと握手すると、私の手では握りきれないほどその手は大きく、鉄のように固い。進み具合はどう(ハウ イズ ジ  エヴリシング)? 順調さ(ヤー、ゴーイング ウェル)。

 ここは、並の世界ではない。空気は、平地の六〇パーセント。山頂で軽い高山病にならない人は珍しい。酸素不足でめまいや頭痛、ひどくなると吐き気に襲われる。

 観測で何十夜か過ごした経験を持つ私でも、山頂で数時間経つと頭痛がはじまるので、動作はゆっくり、息切れしないよう気をつける。

 その山頂で重い鉄材を動かし、巨大なクレーンをあやつり、しんどい錆落としや危険な場所での溶接をこなすワーカーたちのパワーには、いつも脱帽のほかはない。

 彼らの多くは、ここマウナケアでの建設作業に長い経験をもつ、生え抜きの連中である。最高の宇宙観測の場として拡張を続けてきたマウナケアでは、一九七〇年代から望遠鏡の建設や修理の槌音が絶えることがなかった。

 経験がモノをいう高い給料と、世界一の大望遠鏡を造るのだという誇りが、彼らをマウナケアに惹きつける。彼らを指揮する三菱電機や大成建設の技術者も、もちろん現場に立ち会うわれわれ天文台スタッフも、負けてはいられないのだ。

 マウナケア山頂での建設は、一九九二年、基礎工事とドームの建設からスタートした。高さ四四メートルの巨大なドーム構造が全容を現わしたのは一九九五年の秋、建設開始から三年あまりである。

 すばる望遠鏡のドームは、円筒形だ。私たちは「お茶筒ドーム」と称した。上半分は、美しい楕円の切り口だ。円筒形でドームではないが、わかりやすくドームと呼ぶ。「お茶筒」になったのには、もちろんわけがある。

 観測性能をギリギリまで追求した結果だ。光学望遠鏡では、大気が絶えずゆらいでいることによる星像の乱れが影響して、大きな望遠鏡を造っても口径に見合ったシャープなイメージが得られない。

 見た目にはきらきら美しい星のまたたきは、天文学者には大敵である。大気の揺らぎの悪影響をなんとか軽減できないだろうか。

 いろいろな研究でわかってきたのは、望遠鏡やドームが暖まって発生する熱が、外の大気と同じくらいかそれ以上、悪さをしているということだった。望遠鏡自体が、星像を悪化させていたのだった。

 そこで安藤裕康教授が中心となり、航空宇宙技術研究所の実験設備をお借りして、いろいろな形のドーム模型を水流実験で試した。おなじみの半円型のドームは、地面近くの熱を含む悪い気流を巻き上げてしまうことがわかった。

 これに対してお茶筒型は気流の巻き上げも少なく、はなはだよろしい。いっぽうお茶筒型は、コストが高くなる。だが星像の良さこそ、望遠鏡の生命だ。私たちは議論の末、世界初のお茶筒型ドームの採用を決意した。

 計算流体力学研究所に依頼してドーム内気流を立体的に計算してもらい、窓や風除けをどう配置して適切な内部気流を確保するかも、理解できた。

 さらに三菱電機の協力で、巨大なドーム内部の温度研究も進められた。こうして、高性能ドームの設計ができあがったのである。いま、すばる望遠鏡のイメージのシャープさは、海外の観測者からも折り紙がつけられている。

 ドームの建設は、さまざまな困難はあったが順調に進んだ。巨大なお茶筒型ドームが、着々と姿を現してきた。そして、悪夢がやってきた。 』


 『 一九九六年一月一八日、ホノルル空港で買ったハワイの新聞の一面トップ。真黒な煙をあげるすばるドームの写真にショックを受けながらヒロに着いた。

 その前日、三鷹の国立天文台本部で会議に出ていた私に、緊急連絡が入った。建設中のドームで火災。追っかけ第二報が来た。火はすぐ消えたが、死者が出た! すぐ手配して、その夜JAL便に乗った。

 第三報では、亡くなったのは現地のワーカー三人らしいという。空港に迎えにきてくれた、当時ハワイすばるオフィス代表の成相恭二教授に状況を聞く。

 三菱電機からも、プロジェクトマネージャの三神泉さんが飛んできた。わかってきたのは、次のようなことである。

 ハワイ時間一月一六日午後三時。建設中のすばるのドーム内では、八〇人ものワーカーが、複雑な内装に断熱材を吹き付ける仕事などに従事していた。特に天井部分に多くのワーカーがいた。ドームの床では、溶接作業をしていた。

 溶接の火が、建設材から剥がした保護紙に燃え移った。安全規則によって消火器を構えていた一人が急いで消そうとしたが、火は壁の断熱材に燃え移り、瞬時に二五メートルの垂直の壁を這え登って、天井近くの断熱材に拡がった。

 黒煙がドーム上部にたちこめ、ワーカーたちは煙にまかれて逃げまどった。火は数分で自然鎮火したが、天井近くにいた三人が逃げ遅れ、煙を吸って亡くなるという悲劇に到ったのである。

 ドームからの黒煙は遠くからも目撃され、すぐに消防署に連絡が入ったらしい。隣のケック望遠鏡からは勇敢なスタッフたちが酸素マスクを持って駆けつけ、煙が立ちこめるドームに飛びこんでワーカーたちを連れ出した。

 倒れそうなワーカーに自分の酸素マスクを与えて抱え出し、自分が毒性の煙を吸ってしまった人もいた。ドームの屋根の上に逃げ出した人々は、ヘリコプターに救助された。

 私と成相さんはワイメアの町にあるケック天文台本部を訪れて、深い感謝とお見舞いの思いを伝えた。真に英雄的なこうした救助活動がなければ、犠牲者はさらに多くを数えたにちがいない。

 亡くなった方々とその家族には、申し訳なく残念な思いでいっぱいだ。工事は中断した。アメリカでもあるし、こうした場合は厳しい訴訟になる。

 安全委員会の監査も入る。工事の現場責任は主契約者である三菱電機からドーム建設を請け負っていたカナダの会社、コーストスチール社にあったため、交渉は三菱電機などにお任せするしかなかった。

 ヒロの日系社会の方々が、この時も陰に陽に私たちを支えてくださったことは、忘れがたい。事後処理は長引いた。痛んだ内部の修復法の検討を含め、夏が近づいても再開のメドは立たなかった。

 だが三菱電機はこの重大な事態に、誠実に対応した。いくつか続いた訴訟は、結局和解になった。 』


 『 さまざまな調整がついて工事が再開されたのは半年後、七月である。まずは、修復からだ。焼けこげた天井や煤けたドーム内壁の断熱材をはがして、ふき替える作業。熱を受けた鉄骨やケーブル、電気機器の取り換え。

 もちろん、火災の原因は徹底的に調べ、安全対策を検討した。もともとドーム内壁の断熱材は、難燃性のテスト済みだった。試験には私も立ち会ったが、火をつけても燃え上がらなっかったのである。

 ところが火災の時には、まだ新しい断熱材から出た揮発性のガスが燃え、垂直の壁を火は上に走ったのだ。修復工事では、断熱材の上にさらに防火性の被膜を吹き付けることになった。

 一二月、薄く雪化粧した山道を、巨大な鋼鉄のチェンバーを積んだ大型トレーラーが慎重に登ってきた。ドーム下部に納める、八メートル主鏡の真空蒸着装置である。

 いよいよ、ドーム内部で望遠鏡や設備の組み立てが始まるのだ。ドーム火災から、ほぼ一年だった。 』


 『 見ものというに相応しい。はるか高い天井近く、一二〇トンクレーンすれすれに、望遠鏡の筒先がそびえる。大きくはり出したナスミス焦点台は、両側の壁ギリギリまで迫っている。

 大阪・桜島の広大な工場の空間いっぱいに立ち上がっているのは、すばる望遠鏡だ。マウナケアでのドーム建設と並行して進んでいた望遠鏡の機械部分の製作は、一九九五年度からいよいよ、仮組みの段階に入った。

 部品をハワイ現地に運ぶ前に、国内で全体を組み立ててみて、入念に調整する。これが仮組みである。すばる望遠鏡のように巨大で精密な装置、しかも海外の高山での建設だから、とりわけ重要だ。

 光を集めるガラスの主鏡だけはアメリカで製作中なので、かわりに鉄の「ダミー鏡」が、直径九メートル、長さ一五メートルもある鏡筒の底に納まっている。

 すばるを組み立てられる大きな工場は当時ここしかなかったのだが、この日立造船桜島工場は、今はもうない。すばるの仕事を最後に九州に移転した跡地には、テーマ・パークになっている。

 日立造船は、すばるのような面白い計画に工場を使うなら自分たちも製作に参加したいと、八メートル主鏡の取り外しや洗浄などに使う各種の大型機械の製作を担当した。

 三菱電機と呼吸があったよい雰囲気で、すばる望遠鏡の仮組みは試験運転まで進んできたのである。望遠鏡の下に入ってみる。直径八・三メートル、二〇トンのガラスの鏡を支えて制御する「ミラーセル」に圧倒される。

 中に納められた二六一本のアクチュエーター(正確な凹面を制御する駆動装置)が主鏡を支え、常に最高の鏡の形状を保つのだ。すばる望遠鏡で光を集めるのは、鏡筒の底に取りつけられた凹面鏡だ。

 大型の望遠鏡は、筒先にレンズをはめる屈折望遠鏡ではなく、筒底の凹面鏡で光を集める反射望遠鏡である。いうまでもなく、この凹面鏡=主鏡が、すばる望遠鏡の心臓部だ。

 観測する光の波長の二十分の一以下という精度で鏡面の形状を制御するという、微妙極まるアクチュエータは、伊藤昇さんを中心とする三菱電機の技術陣が心血を注いだ開発で、見事にできあがった。

 ミラーセルはそのアクチュエータ二六一本を支え、主鏡を最高精度で働かせる。その製作を担当したのは、川鉄鉄構工業水島工場の技術陣だった。

 これから、鏡の表面を微妙に制御する能動光学機構のテストを進めるのだ。私たちはこれを見て、ハワイに運ぶ前に、すばる望遠鏡の勇姿をお披露目したいと考えた。

 ハワイでは望遠鏡はドームに組み込まれ、その全体を見ることはもはやできなくなる。だからいま、国立天文台や関連会社のスタッフ、家族、全国天文ファンの方々や一般市民にも、この巨大で精密な構造物を見てもらってはどうか。

 さっそく実行した一般公開は大変な人気で、新聞やテレビで大きく報道され、結局、三度も回を重ねた。日立造船や三菱電機の方々には、このために大変なご協力をいただいた。

 一九九六年夏、充分な調整を終えたすばるの望遠鏡構造は解体され、何隻かの船で、順次マウナケアに向かった。火災の修復が一段落したドーム内で、本組み立てが始まる。 』


 『 すばるは、可視光用・赤外線用としては、日本がはじめて作った大望遠鏡である。それまで日本最大の光学望遠鏡は、国立天文台岡山天体物理観測所の一・八八メートル。一九六〇年にイギリスのグラブ・パーソンズ社が作ったものだ。

 光学望遠鏡の経験では、長い伝統をもつヨーロッパやパロマ山の五メートル望遠鏡など大型化で先頭を走ってきたアメリカに、日本ははるかに及ばない。

 それでも私たちは、欧米の経験に学びつつ新しい開発を進め、独自の優れた性能を実現したいと考えた。すばる望遠鏡でおこなった独自開発は、数多い。

 先に述べたお茶筒型ドーム、主焦点の広視野を利用したシュープライム・カム(主焦点に搭載する超広視野のデジタルカメラ、全長三メートル,総重量三トン)や、世界に先駆けての太陽系外惑星の直接観測をめざすチャオ(近赤外線観測と補償光学装置を組み合わせたもの)などである。

 さらに、観測装置自動交換ロボット、汎用性の高いデータ解析ソフトなど。だが何といっても、望遠鏡の命である優れた結像性能(シャープなイメージ)の獲得が、最重要課題だった。

 結像性能にかかわる最新技術・基本的なテーマをあげると、(1)ガラス素材、(2)研磨、(3)能動光学システム、(4)ミラーやドームの温度制御と気流制御、(5)望遠鏡の追尾性能、(6)補償光学システム、と言ったところだ。

 すばる望遠鏡は日本の技術でつくりたかったし実際そうしたが、このうち主鏡の製作に関する(1)と(2)だけは国内に引き受けられる会社はなく、アメリカで製作することになった。

 すばる望遠鏡の主鏡ガラス材は、パロマ山の五メートル鏡以来の伝統をもつアメリカのコーニングガラス会社が、独自のULE=超低熱膨張ガラスで製作した。同社の製品パイレックスは、火にかけても割れないガラスとして台所にも進出した。

 温度が上昇した時の延びがふつうのガラスの三分の一以下だから、割れにくいのだ。その後同社が開発したULEの熱膨張率は、パイレックスの数十分の一である。

 温度変化が大敵の大型反射鏡には、ぴったりなのだ。コーニング社も大はりきりで、最大・最高のガラス材の鋳込みを成功させた。まず、成分を均一にコントロールした直径一・六メートルのULEガラス円盤を、たくさん作る。

 それをすべて正六角形に整形して、平面に磨く。それらを四四枚並べた全体を巨大な特性回転炉に入れ、均一に熱して相互に溶着させて、大きな一枚のガラスにする。

 次に、この大きなガラス円盤の両面を削って平らにしてから、今度は凸面に整形した巨大な耐火煉瓦製の型にそっと載せ、再び回転炉に入れて熱する。

 ふわっと柔らかくなったギリギリで火を止めると、おみごと! ガラスは凸面になじんで、お皿を伏せたようなメニスカス型の鏡材ができあがった。こう書けば簡単なようだが、直径八・三メートルという巨大さだし、ガラスはやっかいな素材だ。

 それを扱うコーニング技術陣のノウハウはさすがに分厚かったが、このガラス製作だけで三年かかったのである。 』


 『 この間、六角形のULEガラス材を一枚一枚測定し、最適な(温度変化はわずかだがゼロではないから、それをさらに最小にする)並べ方を研究するなど、三菱電機の技術陣の努力とリードにも、めざましいものがあった。

 ニューヨーク州の北部、カントンにあるコーニングのガラス工場から、ナイヤガラ瀑布わきの運河を通り、エリー湖からハイウエーを占拠して、ワンパンの研磨工場まで、写真担当の宮下暁彦が付き添って巨大ガラスの大キャラバンが行われたのは、一九九四年八月である。

 船の故障、悪天候と続くトラブルと戦いながらの、三週間の旅のあと、すばるの巨大な鏡材は、無事にコントラベス社の地下倉庫に納まった。いよいよ研磨である。

 ワンパンは、アメリカ・ペンシルバニア州のピッツバーグからほど近い、静かな山村である。一九九八年夏、石灰岩採掘跡に作られた地下研磨工場では、すばる望遠鏡の主鏡製作が最終段階を迎えた。

 四メートル鏡を磨いた実績をもつコントラベス社だが、八メートルの鏡を磨くのは、もちろん初めてだ。この比較的小さな光学会社は、すばるの鏡を磨いた四年の間も、リストラや会社自体の売却などで揺れ続けた。

 しかし技術者魂は、アメリカでも脈々と受け継がれている。コントラベスの首脳は私たちに、「会社がどうなろうと、すばるの研磨は最重要の仕事です」と、断言し続けた。

 折り紙つきの光学エンジニアとして知られる技師長スコット・スミスさんは、多くのヘッドハントを断り、すばるの主鏡のために最後まで奮闘してくれた。

 日夜緊張した作業を続けるのは、スコット・スミス以下コントラベスの研磨のベテランたち。三菱電機から来ている、伊藤さん、斎藤秀朗さんら選り抜きの技術者。

 国立天文台からは、望遠鏡のベテラン田中済教授と、気鋭の若手光学者である大坪政司研究員を送り込んだ。この三者が議論を戦わせながら、八メートル主鏡の最終研磨と最終検査の段階に取り組んだ。

 ガラスの鋳込みから七年、すばる望遠鏡の主鏡製作の大詰めである。目標は一つ。最高の鏡を実現しよう。

 研磨が完成に近づいた一九九八年七月にコントラベスを訪問した際、私は研磨完成時のお祝いにと、フランスから持っていったシャンパンをスコット・スミスに贈呈した

 酒があまり飲めない彼はサンキューとそれを受け取りながら、間近に迫った納入期限について、私の意見を求めた。

 「時間は大切だが、もっと大切なものがある。それは望遠鏡の性能だ」と私が答えると、彼は「わかった。納期が遅れても、それはやがて忘れられる。しかし主鏡の性能が悪かったら、天文学者は私を永久に許してくれないな」と言って、私の手を固く握った。あの彼との握手を、私は決して忘れない。

 最後まで粘って研磨を続けたコントラベスのチームによって、すばるの主鏡は鏡面精度一二ナノメートル(能動光学補正後)という、すばらしい鏡に仕上がった。

 ナノメートルとは、ミリメートルの一〇〇万分の一の単位だから、主鏡をさしわたし八〇キロメートルのハワイ島の大きさとした時、一二ナノメートルは新聞紙一枚の厚さである。

 もちろんミラーセルと能動光学機構を含めた、最終測定結果だ。この結果をマウナケアの各天文台の所長で作るマウナケア国際観測所委員会で報告した時、私はまことに鼻が高かった。

 スコット・スミスは、すばるの鏡を仕上げたあと、静かにコントラベス社を去っていった。一九九八年九月一八日。すばるの主鏡とミラーセルは、厳重に梱包され、祝福とともにワンパンを出発した。

 ミシシッピ河からカリブ海、パナマ運河、太平洋と三隻の船を乗り継いで、二ヵ月の旅である。

 カリブ海のハリケーンなどをかいくぐったすばるの主鏡は、ハワイ島カワイハエの港で特注の大型トレーラーに積み替えられ、11月五日の深夜二時、山頂への旅に出た、そして、昼すぎに無事山頂に到着したのである。

 ワンパンから二ヵ月の旅を終えて山頂到着した八・三メートル主鏡ガラスを待っていたのは、ハワイ観測所スタッフによる丁寧な洗浄、そしてドーム下部に据えられた大型真空チェンバーでのアルミニウム蒸着作業だった。

 九九・九九九九パーセントの高純度のアルミニウムを真空チェンバー内で電気加熱して蒸発させ、全鏡面に均等な原子の膜として吹きつける。これでピカピカの鏡になり、可視光で九二パーセント近い反射率が得られる。

 アルミニウムのかわりに銀を使えばもっと反射率が高いが、大型鏡の銀蒸着の技術的課題や、錆による劣化の問題は、まだ研究中だ。アルミニウムの真空蒸着では、天文台に長い経験がある。

 野口猛助教授の指揮のもと、観測所総出の作業だ。第一回の蒸着で、なんとか成功した。若干瑕疵(かし)はあるが、観測には全く問題ない。今後一~二年ごとの蒸着で、さらにきれいな鏡面になってゆくはずだ。

 組み立ての最後を飾るのは、蒸着で本当の「鏡」となった主鏡の吊り上げ、鏡筒への装着である。これも観測所と三菱電機チームの総出で、一日がかりの大作業だ。

 鏡の到着から、一ヵ月。私も山頂で、この作業を立ち会った。主鏡を納めた鮮やかな青のミラーセルが、ゆっくりと吊り上げられ、すばる望遠鏡の鏡筒に無事、しっかりと固定された。

 これで、望遠鏡としての組み立てはほぼ完成した。あとは調整とファースト・ライト、そして試験観測と望遠鏡としての命が吹き込まれてゆく。 』(以上第三章「極限に挑む」より)


 
本書は、小さな子供(写真だけでも)でも、私のような素人でも、天文学者でも、今回のように部分的に文章だけでも、読む価値のある本です。しかしながらすべてを理解することは、無理でも、何回も読む価値のある本だと感じました。(第149回)


小・中選挙区有権者選択方式の試案

2017-10-16 11:25:40 | 独学

  小・中選挙区有権者選択方式の試案   (日常をデザインする哲学庵 庵主 五十嵐玲二談 2017年9月)

 

 私が最近、気づいたことは、政治は待っていたら、素晴らしい政治を与えてくれるものではなく、自分で何かをしなければ変わらないということです。

 現在の日本の政治は、小選挙区制の有利さによる政治的安定と、赤字国債という打ち出の小槌の二つを使っていますので、うまくいくと思います。

 赤字国債を返すことを考えない、核廃棄物、廃炉を考えない原子力政策と同様に未来に、大きな問題を残すのではないでしょうか。

 私は、最近、民主主義とは、何か。正しい選挙制度とは、何かを考えるなかで、私が考えた選挙制度の試案を提言します。

 試案を作成して、得られたことは、比例ブロック単位に、定数(小選挙区+比例区)と有権者数は、中国、四国、北信越が有利で、東京、南関東が不利であるということです。特に都市部の未組織の若者の身近に政治が歩み寄る必要性を感じました。

 私の試案について、より多くの方々が改良を加えて、有権者の声を公平に反映させ、議会での議論とは、このように英知を発揮して行われるということを、見せてもらいたいものです。

 

  1   選挙制度見直しの目的 

   ①   一票の格差を完全に解消する。 

   ②      選挙を有権者と立候補者個人との契約とする。(議員が政党を変えることは、自由) 

   ③  有権者の選択肢を拡大し、投票率を上げる。(特に比例区の誰を当選させるかは、有権者が決めることです) 

   ④   有権者の一票は公平であり、有権者に於いても投票した議員の行為の責任の一部を自覚する。 

   ⑤  基本は小選挙区制であるが、中選挙区の利点を取り込む。比例の弊害を排除する。 

   ⑥  内容のない連呼やポスター、具体性のない公約は廃止する。これに変わって、課題ごとのレポート、インタビューを重視する。 

  

  2  現在の選挙制度の背景と問題点 

   ①  民主主義の根幹は、公正な選挙制度によって、選出された議員による議会にある。 

   ②  現在の選挙制度に於いては、一票の格差は3倍に近づいても、最高裁で違憲とされても、解消されない。

   ③  現在の比例選出の議員も、有権者も、小選挙区の付録であって、有権者から選ばれた自覚も、選んだつもりもない。 

   ④  A党の比例区で選ばれた議員が、当選後B党に乗り換えることが、発生する。

   ⑤  比例区は、公平を担保としている感じがしますが、実際には公平さは担保されておらず、比例区の38%の議員は、本人も、有権者も納得していない。

 

  3  小・中選挙区有権者選択方式の試案 

   ①  現在の比例ブロックを、比例定数が18人以上のブロックを10人未満に分割する。

   ②  小選挙区は、ほぼ現行通りとする。ただし、一票の格差が三倍以上の時は、二つに分ける。

   ③  10人未満とした比例ブロックを中選挙区ブロックとし、比例は廃止する。

   ④  この中選挙区ブロック内にある、小選挙区数+中選挙区定数=ブロック定数を、直近の調査の有権者数で、比例配分する。ブロック定数は、中選挙区定数で調整する。


   ⑤  この結果、ブロック定数は、公平であり、一票の格差はゼロになる。

   ⑥  ブロック内の小選挙区の立候補者と中選挙区の立候補者は、独立とする。かつ小選挙区の議員も、中選挙区の議員も平等である。

   ⑦  ブロック内の有権者は、小選挙区にふさわしい人がいれば、その人に投票する。小選挙区にふさわしい人がいない場合は、中選挙区から選んで、投票する。 

   ⑧  有権者は、小選挙区か、中選挙区かどちらか一方だけを選択し、投票する。

   ⑨  すなわち、有権者は、小選挙区と中選挙区二つの中から、最もふさわしい人を選ぶ。

   ⑩  投票の結果、小選挙区の次点者と、中選挙区の下位当選者の得票数を比較し、小選挙区の次点者>中選挙区の当選者の得票数であった時、その権利を奪うことができる。

   ⑪  中選挙区の次点者が、小選挙区の一位当選者の得票数を上回り、かつ、その小選挙区の全得票数を上回った時、小選挙区一位の権利を奪うことができる。

 

   ⑫  小選挙区を誰も選択しなければ、中選挙区の定数+そのブロック内の小選挙区数となる。このようなことは、現実には発生しない。

   ⑬  小選挙区の三位者が、中選挙区の下位当選者の得票数を上回る時、その権利を奪うことができる。しかしながら、中選挙区ブロック内には、8から12の小選挙区があるので、小選挙区の三位次点者が、当選することは、ほぼ在りえない。(中選挙区定数は5から9)

   ⑭  小選挙区、中選挙区を含めて、得票数をより多く獲得したものから、順に当選とする。ただし、優先順には、小選挙区にあるので、小選挙区に10名の立候補者が、接戦となったとき、当選者の票数が少なくても、奪われないように、小選挙区の全投票数とする。 

   ⑮  すべての有権者が小選挙区のみを選択した時は、小選挙区の約三分の一の選挙区が定数2となる。 

   ⑯  これによって、開票もしていないのに、当選者が確定することは、減少し、有権者の選択肢は、多くなり、当選者に対する責任の自覚が増すのではないでしょうか。 


   ⑰  主として、中選挙区の選挙方法を大きく変えて、看板、ポスター、連呼、無意味な郵便物の送付は、廃止する。選挙管理委員会は、中選挙区ブロック内の大学の法学部、経済学部、工学部より、各一名を指名し、指名されたものは、設問を設定する。

      各候補者は、A4一枚で設問に答、テレビやラジオで放送枠を確保し、5~6分のインタビューを実施する。 

   ⑱  的確な設問を設定できない、大学は淘汰され、自分の具体なプランを持たない立候補者は、落選する。(候補者の供託金は、増額する) 

   ⑲  中選挙区ブロック別の有権者数の最新データによる中選挙区の区割と有権者数は、把握していないため、前回の選挙時の値です。

   ⑳  次の表は、現在の比例ブロックの大きいものを、A,B,Cに分割したもとかんがえます。(旧定数が、現在の比例区の定数です)

 

  4  中選挙区ブロック内の小選挙区の数と中選挙区の定数 

            小選挙区 中選挙区定数(旧定数)   有権者数     議員1人当り 

   北海道ブロック    12      8       4,547,668     227,383 

   東北ブロック     23     11(13)   7,558,365       222,304 

   北信越ブロック        21      6(11)  6,147,926        227,700 

   北関東ブロック    32     20(19)  11,557,934        222,267

   東京ブロック     25     24(17)    10,850,600        221,440 

   南関東ブロック       33     26(22)  13,152,606        222,925 

   東海ブロック     32     22(21)    12,122,808         224,496 

   近畿ブロック         49     26(28)  16,832,477         224,433 

   中国ブロック     20      7(11)   6,116,465         226,535 

   四国ブロック     11      4 (6)  3,259,284          217,285 

   九州ブロック     35     18(20)    11,816,652          222,955

  

   小選挙区:289、 中選挙区ブロック:176、 合計:465、 有権者合計:103,962,785  有権者数は、H26.12.19発表

   なお、南関東ブロック、近畿ブロックは、3分割し、北関東ブロック、関東ブロック、東海ブロック、九州ブロックは、2分割する。

 


ブックハンター「世界一大きな問題のシンプルな解き方」

2017-10-05 08:16:44 | 独学

 149.  世界一大きな問題のシンプルな解き方  (ポール・ポラック著 東方雅美訳 2011年6月)

     「私が貧困解決の現場で学んだこと」

     OUT OF POVERTY 「 What  Works  When  Traditional  Approaches  Fail 」

 『 一二歳のとき、イチゴを一クオート(0.95L)摘むと五セントもらえると聞いた。一九四五年六月半ば、イチゴの季節がやってくると、私は友人たちとイチゴ摘みを始めてどんどん腕を上げた。

 季節の終わりごろには、一日に二〇〇クオートを摘み、ポケットに一〇ドル札を入れて家に帰るようになった。そこで私は考えた。

 「イチゴ摘みで一日に一〇ドル稼げるのなら、イチゴ畑の主人はいくら稼げるのだろう」私はこのとき、イチゴ事業を始めようと決心したのだ。

 一五歳のとき、地元の農民二人を説得して、パートナーになってもらった。モーリー・デザーデールは街で仕事をしていて、空いた時間に繫駕競争用(けいが:二輪馬車を引かせる競馬)の馬を育てていた。

 ちょうど家の裏側に、なだらかな起伏のある三エーカーのローム質の土地を持っていて、そこをイチゴ事業に提供してくれた。エド・カミンズは一六〇エーカーの農地を父親から相続していた。

 ヴィクトリア調の赤レンガの家も相続しており、その家は私にとってはまるでお城のようだった。エドは農場の後ろにある砂質の肥沃な土地、四エーカーを提供してくれた。

 最初の仕事は、両方の畑に分厚い肥しの層をつくることだ。エドは納屋に一二頭の乳牛を飼っていて、肥やしが入れ物から溢れ出ていた。

 ある春の朝、エドと私は肥料散布機にエドの馬を何頭かつなぎ、干し草用の熊手で肥やしを散布機に投げ入れ始めた。エドは手につばをし、次々と投げ入れていく。

 ゆっくりだが安定したペースだ。彼は六〇歳近くだったが、私はとても体力があった。これは自分の力を見せつけるチャンスだと思った。「こんなの朝飯前だ」と、私は思った。そして、猛烈な速さで肥やしを投げ入れた。

 三〇分ほどのあいだは、エドよりも明らかに速かった。だが、その後三〇分で追いつかれ、二時間たって散布機がいっぱいになるころには、大幅にリードされていた。

 それだけでなく、エドは汗もかいていなかったのに、私は大汗をかき、もう倒れて死んでしまいそうだった。荷台がいっぱいになった散布機を、私たちは畑へと走らせた。

 エドは赤くて長い、錆びたギアをひいた。すると後輪の車軸についている鎖と歯車の装置が動き、回転している釘の列に少しずつ肥やしが入っていった。

 朝の日差しのなか、馬の背中から湯気があがる。牛の肥やしのかたまりが畑に飛び広がっていく。小麦の切り株が残った畑に、数えきれないほど何度も散布した。

 一日が終わるころには、私は疲れ果てていた。次の朝にも、もう一度同じことを最初から繰り返す。それが終わると、エドは小麦の切り株と肥やしを土に埋め込み、まぐわで畑を平らにならした。

 これでようやく、植え付けの準備ができあがった。馬に引かせる二列式の植え付け機を誰かから借りてきた。現在では、あんな機械は博物館でしかお目にかかれないだろう。

 前の方に小さな鋤(すき)がついていて、それが一五センチほどの深さに溝を掘る。後ろ側にはバネがついた丸い金属の椅子が二つあり、鋤が引きずられているあいだ、モーリーと私が腰掛ける。

 椅子は地面ギリギリの高さだ。私は自分の前にある平箱から苗を一つ右手でつかみ、それを逆手で溝に置いていく。私の姿を鏡に映したかのように、モーリーは右側の椅子で同じことをする。

 永遠につづくスローなテニスの試合のように、私たちは一日中、順番に苗を置き続けた。溝に苗を置くとすぐに、頭上のタンクから水が苗に噴きかけられ、さらに後ろにある二つのローラーが、溝を埋めてゆく。

 こうして七・五エーカーの畑に苗を植えるのに、一日半かかった。苗を植えた後の最大の問題は、ブタクサやアカザなど、たくさんの雑草がどこからともなく生えてきて、イチゴの苗と競い合っていたことだ。

 雑草の大量虐殺の共犯者になってくれたのは、ディックという名の年老いた馬だった。ディックはひどいオナラをしながら、六つ歯の耕運機を引いた。私はしだいに、馬の汗と革の馬具の臭いが混じった刺激臭が好きになっていった。

 雑草取りで私が編み出したコツは、イチゴの苗を抜かないように、間を縫って耕運機を動かすことだ。こうすることで、除草の時間を短くすることができた。

 中耕は除草よりずっと簡単だということを知った。イチゴの苗すれすれのところで一掘りする動きで、かなりの地面が耕せた。だが、四エーカーのイチゴ畑を除草するのは何日もかかった。

 やっと最後の列まできたかと思うと、また次の除草が必要になっているのだ。このとき私は、大多数の農民が知っていることを学んだ。日々の農作業は、非常にうんざりするものだということだ。

 最初の年の終わり、イチゴ畑の様子は悪くなかった。だが、イチゴ摘みで現金収入があった前年以前とは違った。私はひどい赤字に陥っていたのだ。イチゴ畑の主人になっても、考えていたほど大儲けはできないかもしれない。

 翌年の六月に収穫期がやってくると、私は父の二トントラックを借りて、毎朝六時十五分前にハミルトン(カナダのオンタリオ州)のダンダーン・キャッスルに行った。

 イチゴ摘みをしてくれる、たくましいウクライナの女性たちを迎えに行ったのだ。彼女たちには、一クオート当たり五セントの賃金を支払った。ようやく事業が立ち上がったのだ。

 だが、まずは作物を売る場所を探さなければならなかった。当時、ハミルトン最大の食糧チェーン店は、ロブローズだった。今日でも、カナダ最大のスーパーマーケット・チェーンであり、食料販売業者である。

 私は街で最大のロブローズの店舗の裏口に行き、青果部門のマネージャーと話させてくれと頼んだ。そしてマネージャーに、七・五エーカー分の新鮮なイチゴがあると言った。

 「いくらだい?」と、彼は聞いた。私たちはその場で話を決めた。一クオート当たり二五セントだ。その日から、私はロブローズにおける最大のイチゴ供給業者となった。ハミルトンの住民、一九万五千人の半分ほどに、イチゴを供給した。

 七月の第二週、いよいよ私のイチゴ事業が利益を出したかどうか、計算するときとなった。すべての費用を支払い、父への借金を返したのち、残ったお金は一四〇〇ドルだった。これを私のパートナー二人と分けるのだ。

 私は二夏分の労働の対価として、七〇〇ドルを稼いだ。今のお金にすれば、約七千ドルだ。大金とは言えないが、当時の私にとって大きな金額だった。

 これは、裕福なイチゴ帝国を築く、最初のステップだろうか?私はオンタリオのイチゴ王となる運命にあって、その後ずっと幸せにくらしたろうか?

 残念ながら、そうではなかった。つまるところ、私はまだ一六歳だった。女の子や社交ダンス、そしてソフトボールがおもしろくなってきたのだ。だから、私はお金をもらって、イチゴ事業からさっさと手を引いた。 』


 『 しかし、五七年が経った今になって思う。イチゴ事業をやっていた二年間の経験があったからこそ、小さな農場を営むとはどういうことか、そこでお金を稼ぐには何をすべきかが、深く理解できるようになったのだと。

 これまで二五年間にわたり、農村部での貧困問題の現実的な解決方法を探し続けてきたのだが、イチゴ畑での経験はその核となっている。イチゴ事業で私が経験した問題やチャンスや重労働は、一エーカーの農民が毎日向き合う問題そのものだ。

 小さく散らばった農地から生活の糧を得ようとするとき、彼らは同様の問題に直面する。そして今だからこそ、私が営んでいたのが今で言う有機農業だったことがわかる。

 私は七・五エーカー分のイチゴに関する作業を、すべて自分でやった。だが、私には馬が引いてくれる鋤や、耕運機や、肥料散布機があった。アフリカの貧しい小規模耕地の農民に比べると、はるかに有利だった。

 彼らの多くは動物の力を利用できず、自分の手で溝を掘り、耕し、除草しなければならない。世界の貧しい小規模耕地の農民の大半は、動物の力を利用するといった程度の、私がカナダの小さな農場で六〇年も前に導入していたような機械化からも、大きく取り残されている。

 ほかにも、いくつか大切なことを学んだ。当時は認めたくはなかったが、人生においては、他の人の助けを求めて、それを手に入れなければ先に進めないということ。

 また、とても小さな農場でもたくさんのお金を稼げることを学んだ。ただし、そのためには価値の高い作物を育てる方法を学び、利益の出る値段でその作物を売れる市場を見つけ、手ごろな値段で苗木や肥料を仕入れなければならない。

 病気や害虫で作物が全滅してもダメだ。そして、毎日新しいことを学ぶのは、人生における他の何にも勝る喜びであり幸せであるということも知った。

 太陽や風、雨、黒色根腐れ病などは、自分ではまったくコントロールできないことも学んだ。コントロールするという幻想を捨てれば、私は世界を変えられるかもしれない、ということも学び始めた。

 どんなイチゴ王が描く夢より大きく、世界を変えられるかもしれないと。再び農業にかかわるようになるまでに、三十年かかった。

 そのあいだ、私は医学部に通い、結婚し、精神科医となり、不動産事業と石油・ガスの事業を営んだ。農業に再び興味を持ったのは、一九八一年のことだった。

 しかし、このときからかかわり始めた農業は、私が支配していた七・五エーカーのイチゴ農場に比べると、まったくもって小さな、手作業による農業だった。

 八億人の非常に貧しい人々が、一日一ドル未満で生き延びてきた一エーカーの農場——それに関して私は、学べることはすべて学ぶようになった。

どうすれば、その小さな農場でももっと稼げるようになるのか。この答えをこのとき求め始めたのだ。 』


『 ホームレスのジョーと過ごした午後ではっきりしたのは、ホームレス問題の現実的な解決方法を編み出すには、ホームレレスの人たちが住んでいる場所へ行き、彼らの生活の様子や、彼らがとる行動の理由を直接聞き、今どんなチャンスがあれば利用するか、将来どんなチャンスを利用したいかを聞く必要がある、ということだった。

 私はジョーとの一日で学んだことを、貧困について知るために活用している。一日一ドル未満で暮らす世界中の人々に話を聞き、一エーカーの農場をともに歩き、土と編み枝でできた草ぶき屋根の家の前で、椅子に腰かけて、家族と一緒にお茶を飲むのだ。

 彼らは、「一エーカーの農場で十分に稼げないから貧しいのです」と話す。収入を増やせるような価値の高い作物を育てるためには、手ごろな価格の灌漑装置が必要だ。

 その作物を利益の出る値段で売れる市場を探すため、手助けが必要な場合もある。そう彼らは話すのである。だから私は一九八一年にIDE(International  Development  Enterprises)を設立し、彼らのニーズに応えることにした。

 私たちは、足踏み式灌漑装置など、安価な灌漑装置を幅広く開発し、地元の民間会社を通じて小規模耕地の農民に販売してきた。

 また、各地域でうまく育てられそうな高付加価値の野菜や果物を四つか五つ選び、民間の流通網を構築して、それらの作物を育てるための種子と肥料を売った。

 さらに、育てた作物を利益が出る価格で売る手伝いをした。こうした活動により、一日一ドルで暮らしていた千七百万人が貧困から脱却した。

 こうした、あきれるほどに単純で当たり前の結論に達するまで、二五年が必要だった。そして、私はようやくわかった。当たり前のことを理解して、当たり前のことを実行するのは、おそらく最も難しいことの一つなのだと。

 そして、当たり前のことを理解して、当たり前のことを実行するようになるうえで——二五年もかかってしまったが——、私が大きく影響を受けたのは、父がホロコーストの生き残りだという事実である。

 生き残るために必要なのは、目を開いて世界をよく見ることなのだ。ネビル・チェンバレンがズデーテン(チェコ)地方をヒットラーに譲ったときには、父のカナダへの脱出計画は完成していた。

 のちに父は、すべてを投げ出して脱出する必要があり、それは当たり前のことだと私に語った。何年ものあいだ、ドイツとの国境を越えて難民が流れ込んでいたので、私たちにも災難が降りかかろうとしているのは、明らかだった、と父は言った。

 父は友人たちや親戚たちに、どうか手遅れになる前に逃げてくれと頼んだ。「でも、家具はどうしたらいい?」と、彼らは答えた。彼らのほとんどがチェコスロバキアに残り、亡くなった。

 あまりに多くの人が悲惨な間違いを犯すのを、私はこれまでの人生で何度も見てきた。まわりで起こっていることに対して、目を閉じてしまうのだ。

 そのたびに、逃げてくれと父が頼んだとき、友人と親戚たちが言ったことを思い出す。「でも、家具はどうしたらいいか?」

 家具に相当するもののために——ヨーロッパやアメリカ、裕福なアジアの地域で多くの人が所属する中流クラスにおいて——、貧困に関して当たり前のことが見えず、実行できなくなっている。

 貧しい人たちから学んだ四つのポイント

 ① 貧しい人たちが貧困状態にある最大の理由は、十分なお金を持っていない、いうことだ。

 ② 世界で極度に貧しい人たちのほとんどは、一エーカーの農場から収入を得ている。

 ③ 高付加価値で労働集約的な作物を育てる方法わかれば、貧しい農民たちはもっとお金を稼げる。たとえば、シーズンオフの果実や野菜を育てるのである。

 ④ そのためには、非常に安価な灌漑装置、良い種子と肥料を手に入れる必要がある。利益の出る価格で作物が売れる市場にもアクセスできなければならない。 』


 以上は、序章からの抜粋です、以下目次のみを紹介していきます。


 序章  答えは単純で当たり前のこと

   〇 イチゴ事業で学んだこと  〇 精神科医時代の先生はホームレス  〇 貧しい人たちから学んだ四つのポイント


 第1章  現実的な解を導く12のステップ

   ① 問題が起きている場所に行く  ② 問題を抱えている人と話し、その話に耳を傾ける  ③ 個々の固有の情況について、可能な限りすべてを知る  ④ 大きく考え、大きく行動する

   ⑤ 子供のように考える  ⑥ 当たり前のことを見て、実行する  ⑦ すでに誰かがやっているかどうか調べる(やっていればする必要はない)  ⑧ 目に見えて良い影響をもたらし、大規模化できる手法を採る

   ⑨ 具体的な費用と価格目標を決める  ⑩ 現実的な三ヵ年計画に基づいて実行する  ⑪ 顧客から学び続ける  ⑫ 他の人の考えに流されず、前向きでいる

   参考のために原文を併記します。

   ① Go to Where The Action is.  ② Talk to The People Who Have The Problem and Listen to What they say.  ③ Learn Everything You can about The Problem's Specific Context.

   ④ Think Big and Act Big.  ⑤ Think Like a Child.  ⑥ See and Do the Obvious.  ⑦ If Somebody has Already Invented it, You don't Need to do so Again.  

   ⑧ Make Sure Your Approach has Positive Measurable Impacts That can be Brought to Scale.  ⑨ Make Sure it can Reach at Least a Million People and Make Their Lives Measurably Better.

   ⑩ Design to Specific Cost and Price Targets.  Follow Practical Three-year Plans.  ⑪ Continue to Learn from  Your Customers.  ⑫ Stay Positive: Don't be Distracted by What Other People Think.


 第2章  3つの誤解(なぜ、貧困をなくすことができないのか?)

   誤解1 寄付によって人々を貧困から救いだせる  誤解2 国家の経済成長が貧困をなくす  誤解3 大企業が貧困をなくす


 第3章  すべては「もっと稼ぐこと」から(ネパール農家は訴える)

   〇 専門家に届かない貧しい人たちの声  〇 「てこ」を見つける  〇 稼いだお金をどう使うか  〇 収入がもたらす生活改善


 第4章  残り九〇%の人たちのためのデザイン(現場のニーズを掘り起こす)

   〇 貧しい人たち向けのデザインは、どのくらい複雑なのか  〇 低価格を徹底的に追求する  〇 馬一頭に匹敵するには、アリが何匹必要か  〇 ヤマアリからアスワン・ハイダムへ

   〇 一〇〇ドルの家を建てる方法  〇 デザインに革命を起こす  〇 デザインにおける原則  〇 低価格の製品をデザインするための現実的なステップ  〇 将来お金がある場所はどこか?


 第5章  新たな収入源を求めて(一つの作物では解決できない貧困)

   〇 緑の革命は貧困を解決したか?  〇 多様な収入源でやりくりする農民たち  〇 草の根事業の歴史  〇 貧しい人たちが持つ強み


 第6章  水問題を解決するイノベーション(あらゆる場面で生産性は向上する)

   〇 水を手に入れる  〇 水をくみ上げる  〇 貯水する  〇 水を与える  〇 灌漑の次に必要なもの 

 

 第7章  一エーカー農家から世界が変わる(冬にキュウリが育てられる!)

   〇 小規模農場の大きな役割  〇 一日一ドルの農場の大きさ  〇 誰のための農業研究?  〇 一日一ドル、一エーカーの農民のための新しい農業  

   〇 モンスーン・トマト——小規模農場の収益革命がおこるか?  〇 「土地のない」労働者が稼ぐ方法  〇 小さな土地に見合った肥料作りや害虫管理


 第8章  主役は貧しい人たち(商品が売れる市場をつくる)

   〇 さまざまな市場の参加者  〇 起業家の役割——ニッチなニーズを見つける  〇 ソニーがつくった新しい市場  

   〇 開発途上国の市場がうまく機能しない理由  〇 新しい市場を作るための戦略  〇 どうすれば付加価値をつけられるか  〇 よく見えるように市場をつくて!


 第9章  スラムの可能性(誰にもチャンスは開かれている)

   〇 草の根事業の宝庫  〇 密集して暮らすスラム住民  〇 スラムには機会があふれている  〇 貧困から脱出する四つのステップ


 第10章  貧困と地球(貧困はあらゆる問題にかかわっている)

    〇 水と衛生環境  〇 健康  〇 教育  〇 輸送  〇 住宅  〇 エネルギー


 第11章  私たちには力がある(貧困をなくすために行動を起こす)

    〇 あなたができること  〇  あなたが今始められれること  〇 貧しい人たち自身ができること  〇 支援者ができること  〇 多国籍企業ができること  

    〇 大学ができること  〇 研究機関ができること  〇 小規模農場繁栄のためのネットワーク  〇 デザイナーができること


 第12章  バハドゥ一家、ついに貧困から抜け出す

    〇 クリシュナ・バハドゥ・タバの死  〇 現在の灌漑方法  〇 育てた野菜を市場に届ける  〇 さまざまな草の根事業  〇 タバ家は増えた収入をどのように使ったか


  以上ですが、基本的な道筋は、足踏みポンプの普及、低価格ドリップ灌漑システムの普及、二重ビニールチューブ式一万リットル貯水システム、乾季での作物栽培、新しい市場づくりがメインの解決方法のように感じました。(第148回)



 


ブックハンター「リストマニアになろう!」

2017-09-24 14:09:40 | 独学

 148. リストマニアになろう!  (ポーラ・リッツォ著 金井真弓訳 2016年6月)

  Listful  Thinking : Using  List  to  Be  More  Productive,  Highly  Successful  and  Less  Stressed   Copyright©2015  by  Paula  Rizzo

 

 今回は、本書の内容に基づいて、私なりの考えを交えて、書いていきます。

 原題は、リストフル スインキング(Listful  Thinking )で、「リスト活用思考法」すなわち、リスト(箇条書き)によって、考えることを手助けし、実現する。

 リストを使って、効率よく生産的に、充実した成功をストレスなく実現する(Using  List  to  Be  More  Productive,  Highly  Successful  and  Less  Stressed  )とあります。

 著者は、ニューヨークでテレビ局の美人プロデューサーで、自分が望んだことは、すべて実現してきため、それがリストを活用したせいかは、不明である。


 最初に、リストを分類します。

 (1) ToDoリスト(やることリスト)

  私たちも、これは無意識に実行しているとおもいます。マドンナ、マーサ・スチュアート、リチャード・ブロンソン、ジョン・レノン、ベン・フランクリン、ドナルド・レーガン、レオナルド・ダ・ヴィンチ、トーマス・エジソン……。

 成功者、多くのCEOや多忙な企業家はリストを使ってさまざまなアイデアや考え、いろいろな課題を記録してます。

 仕事の予定を前日に、ToDoリストにして、それぞれのタスクごとに、予定時間を記入し、当日の朝に、手順をチェックし、実行します。


 (2) チェックリスト

  チェックリストは、ミスを犯す可能性のある複雑な作業での、ミスを防ぐための確認事項をリストの形にしたものです。

 飛行機のパイロットには飛行中に問題が起きた場合に備えた緊急時チェックリスト以外に、飛行前点検のチェックリストもあります。

 「パイロットは自分の行動を心得たプロなのだから、飛行前点検のチェックリストなんて不要だ」と思われるかもしれません。

 でも、プレッシャーを感じているときは、ごく単純な手順さえ簡単に忘れてしまうものです。

 パイロットは、コックピットに収まってから目的地に到着するまで、点検するチェックリスト数は、13あるそうです。

 2008年、ガワンデ医師のチームは、19項目のチェックリストからはじめ半年後、研究対象である8つの病院で、主要な術後合併症が36%低下したという結果がでたそうです。

 チェックリストを、自分のものとするために、常により良いものにしてゆくことも大切です。

 

 (3) アイデア リスト

  あるテーマについて、思いついたアイデアをリストの形にして書き溜め、そこからストーリーを作り出し、形あるものにする。

 自分の頭に思い浮かんだ、さまざまな事柄を、紙の上に書き出すことは、セラピー効果があるそうです。思いついたことを、書き出してみると、自分も知らない自分を発見することも、稀ではありません。

 アイデアリストの項目を分類し、実現すべきアイデアは、ToDoリストに落とし込み、実現させます。


 (4) イベント(会)のリスト

  イベントを行なうためには、Who(誰が)参加者は、What(なにを)何を中心に据えるか、Where(どこで)場所はどこで、When(いつ)何月何日何時から、何時間、Why(なぜ)どのような趣旨で……準備をします。

 参加者への通知、当日のプログラム、料理のメニュー……のプログラムを準備します。さらに予算を立てます。


 (5) 良い点、悪い点リスト

  人生で大きな決断をする時、できるだけ多くの選択肢をリスト化して、それぞれのメリットとデメリットをリスト化し、結論として、選択した理由を記述する。


 (6) 調べものリスト

  まず、知りたいことをリスト化し、調べた結果をリスト化する。これらのリストを蓄積すると、自分が何を知ろうとしているのかを知ることができます。


 (7) カタログリスト

  読む本リスト、レストランリスト、閲覧したいウェブサイトリスト、人からもらいたい贈り物リスト、……。


 (8) 人生リスト

  高齢者であれば、死ぬまでやりたいことリスト、若ければ、一、二十年で、やりたいことリスト。これらはリストにして、常に見直していると、最初はほんのわずかですが、少しづつ書いたことが近づいて来るものです。


 (9) その他のリスト 

  感謝することリスト、買物リスト、話すことリスト、財政状況リスト、引っ越しリスト、荷造りリスト……。

  三分間のスピーチでも、要点と起承転結をメモして、話をすると、少しづつ上手くなるものです。

 財政リストは、収入、支出、ですが、支出の中で、仕方なく払う例えば、税金、電気料、などと、自分が希望して選択した支出を分け、資産リスト、……。先ずは現状を知ることから、始めるべきです。


 次に、リストをつくる「6つのプラス面」

 (1) 不安が減って時間が増える

 (2) 脳のパワーが高まる

  リストをつくるときに使う脳の一部は、ふだんは使わない部分。だから、人生をきちんと整理しながら、脳の力をアップさせて冴えた状態でいられるわけです。

 (3) 目的に集中できる

  忙しい生活を送っていると、物事に集中することがだんだんむずかしくなります。リストがあれば、邪魔が入る前に自分がやっていた作業に戻るのが簡単になります。

 (4) 自信が高まる

  リストから項目を消すことによって、達成感が生まれ、リストをつくることが、物事をコントロールできているという感覚が身につきます。

 (5) 思考を整理できる

  思いついたすべてのことを、リストを書き、目標の達成に役立つあらゆるステップを考えると、これから待ち受けているものに立ち向かう用意ができたように感じます。

 (6) 心の準備ができる

  いつも手元に、メモ帳と筆記用具を置いています。私は、A4クリップボードとA4のコピー用紙に、愛用の万年筆でメモをし、分類し、紙ファイルにファイルします。


 ToDoリスト(やることリスト)のつくり方「5つのステップ」

 (1) ひたすら書き出す

  やるべきことが思い浮かんだらすぐに書き出す。

 (2) リストを整理する

  仕事、家庭、子ども、娯楽というように、種類別に中身を分ける。生活の領域ひとつひとつについて専用のリストを作る。

 (3) 優先順位をつける

  締め切りや重要度に応じて、順位をつける。タスク(作業)には、時間を区切る。

 (4) リストを書き直す

  読みやすくきれいなリストをつくれば、いっそう目を向けたくなり、順番に項目を消していきたくなるでしょう。

 (5) 何度でも繰り返す

  リストを毎日つくり、いつでも、項目をつけ加えます。


 やり遂げるための「6つの方法」

 (1) リストを評価する

  優先順位をつける。現実的になり、どれに取り組むことが道理にかなうかを判断できる能力は貴重です。適切で具体的なリストをつくると、あらゆる無駄を省くのに役立ちます。

 (2) リストを強化する

  より簡単なタスクをいくつかリストに入れておくと、ぐっと気分が良くなるでしょう。時には、簡単なタスクで弾みをつけたいものです。困難な項目を、実行可能な項目(タスク)に落とし込むことが、ここでの技術です。

 (3) リストを他人に任せる

  リストの項目をアウトソーシングし、本当はやりたくないことは、「ノー」と言って、自分の得意なことを行なう。

 (4) 締め切りを設定する

  締め切りの設定は、まだ終わっていないタスクを減らすことに役立ちます。できない項目は、一口サイズの項目にブレイクダウンする必要があります。できないのは、能力のせいではなく、実行可能なタスクに落とし込む技術と経験が不足しているのです。

 「ポモドーロ・テクニック」という時間管理法があります。ポモドーロとはイタリア語でトマトのことで、トマト型のタイマーで、25分経ったら、作業をやめて少し休憩します。

 (5) 自分へのご褒美を設定する

 (6) 自分に思い出させる

  一日に何度もリストを自分に思い出させるようにしています。 (第147回)

 


ブックハンター「俳句のルール」

2017-09-06 10:04:31 | 独学

 147. 俳句のルール  (井上泰至編 2017年3月)

 『 「俳句に季語が必要です」と説明した後、モンゴルから来た留学生に、「秋刀魚」のように、その名だけで季節を感じさせる言葉があるかたずねたら、自信満々に「あります!春の肉、夏の肉、秋の肉……」と返ってきて、教室が笑いに包まれたことがありました。

 同じ島国でも、イギリスで食卓にのぼる魚は、タラ・サケ・ニシンくらいでしょうか。それに比べて、日本の魚は豊富です。また「旬」があるということは、世界が注目するスシの文化を思い起してみればわかるころです。

 季語の働きには大きく分けて三つあります。「季節感」「連想力」「安定感」。日本の四季は多様で豊かでドラマに満ちていますから、そこで磨かれてきた季節の言葉を使うだけで詩情が湧くようになっています。

 いざ行かん 雪見にころぶ 所まで  松尾芭蕉

 雪が降ってときめくのは詩人と子供、それに南国からきた外国人くらいかもしれません。生活にとって、雪は障害でしかないでしょう。花や月なら、障害とはなりません。だから逆に、詩人は雪とそれによって化粧されていく景に狂喜する心を試されます。

 いくたびも 雪の深さを 尋ねけり  正岡子規

 もともと「病中雪」と前書きしての句です。詩人、それも見歩くのが何より好きな詩人である子規は、しかし雪を見ることがかないません。「いくたびも」看病する家族にこれを訊ねるやりとりから、「雪」は悲しく切ないものとして心に響いてきます。

 その悲しさ・切なさは、この句の詩の核心です。「日常」の景色を一変させ、美しくする「雪」。それは誰もが思い浮かべる「季節感」です。

 そこにとどまらず、見たくてもそれがかなわない作者の思いも、「雪」は受け止め、そのことで詩の驚きや飛躍が生まれてきます。

 しかし、逆に考えれば、雪の明るさ・神聖さを誰もが思い浮かべる「安定感」が、この季語にあるからこそ、詩への飛躍という「連想」が働くことが可能になっているとも言えるのでしょう。 』


 『 作者の心情をストレートに説明するのは、俳句ではあまり似つかわしくないようです。事柄を述懐してしまうと、多くは失敗してしまいます。俳句は「もの」で語ることが大事だといわれています。

 つきぬけて 天上の紺 曼殊沙華  山口誓子

 「天井の紺」とは、高く澄み渡った空の青。その空に向かって曼殊沙華(まんじゅしゃげ)が真っ直ぐ突き抜けていくイメージです。深い青空と真っ赤な曼殊沙華とのコントラストが見事な句です。

 しかしながらこの句は、「紺碧の空へ曼殊沙華の赤し」と、「赤」をことさら述べてはいません。曼殊沙華が真っ赤であることは自明の理、言わずもがなのことなのです。

 一輪の 花となりたる 揚げ花火  山口誓子

 打ち上げた花火がはるかかなたの空で開き、大きな「一輪の花」として頭上で華やかに彩(いろど)っているのです。まるでストップモーションの画像を見るかのようです。

 音にやや遅れて次々に開く花火は、どんなにか美しかったことでしょう。しかしここでも綺麗な花火を「美し」と説明はせず、「一輪の花」と象徴的に表現し、煌(きら)びやかな花火の美しさを表しているのです。 』


 『 俳句は五感をはたらかせて作りますが、短い詩型のなかに要素を二つ以上を盛り込むより、視覚なら視覚、聴覚なら聴覚と焦点を絞り、あとは省略したほうが、イメージが鮮明になります。

 万緑の中や吾子の歯 生え初むる  中村草田男

 中村草田男の代表句の一つ。「万緑」は王安石の詩句「万緑叢中紅一点」に由来する言葉で、この句をもって「万緑」は季語として定着しました。

 はじめて生えたわが子に白い歯の輝き。生命(いのち)あふれる樹々を背景にわが子の笑みはこぼれんばかりです。緑と白との対比が鮮やかな躍動感ある一句です。あえて「白」と述べずとも、「白」は読者の心の中で、生き生きと立ち現れています。

 菜の花や 月は東に 日は西に  与謝蕪村

 画家でもあった蕪村らしい絵画的な句。一面の菜の花畑のなかで、太陽は西へ落ちかかり、反対側の東には月が出ています。太陽が真西に沈み、月が真東から上がってくるのは満月のとき。

 太陽と月を同時に詠んでおり、天体的な宇宙感覚をもつ一句です。この句には、月・太陽・菜の花以外のものは一切省略されています。これから上る月、沈む太陽、今ここにいる自分——。過去・現在・未来を表しているようでもあります。

 五月雨や 大河を前に 家二軒  与謝蕪村

 同じく蕪村の句。梅雨によって増水した川岸にある二軒の家。ごうごうと音を立てて流れる大河に、家はもう巻き込まれてしまいそうです。

 危ない! 思わず「危うし」という言葉がよぎります。しかしその言葉は出さず、情景のみを提示しているのです。増水する大河と家二軒だけに焦点を絞り、他の一切を省略しています。その結果、映像が時間を超えて、現在の私たちにまで押し寄せてくるのです。

 閑(しづか)さや 岩にしみ入る 蝉の声  松尾芭蕉

 芭蕉の代表句の一つですが、この句の初案は上五が「山寺や」であったといわれています。

 山寺や 岩にしみつく 蝉の声   いかがでしょうか。「山寺や」とした場合、まず、「山寺」という映像が読み手の心に現れてきます。その結果、つぎのフレーズの「岩」へとなかなか気持ちが移れません。

 この句は「蝉の声」がポイントです。そこで、芭蕉は「山寺」という視覚的要素を外し、聴覚に焦点を絞ったのです。 』


 『 この道や 行く人なしに 秋の暮れ  松尾芭蕉

 この句が詠まれた元禄七年(1694年)の九月二六日。芭蕉は翌十月一二日に亡くなりますから最晩年の句といえます。この句には「所懐」という前書が付されていて、芭蕉の心情が述べられていることがわかります。

 「この道や」とまず一本の道を示し、「行く人なしに」と芭蕉一人が歩いている、孤独な景を描いてます。季語は「秋の暮れ」ですから、たちまち日が落ちると長い夜が待っています。

 「この道」は芭蕉が生涯を賭けた俳諧の道です。作品としては晩秋の風景を描きながら、芭蕉は人生への感懐を込めているのです。寂寥感に満ちた一句といえます。

 このような複雑なことが表現できるのは、切字「や」をもちいているからです。「や」は詠嘆の思いを込めて一句を切断しているのです。

 この句の場合、「や」と切断していますが、以下に続く「行く人なしに秋の暮れ」は明らかに「この道」のことを言ってますから、内容的には切断されていません。「この道や」と提示しつつ切断したことで、果てしなく続く一本の道がイメージされるのです。

 蛸壺や はかなき夢を 夏の月  松尾芭蕉

 海中に沈められた「蛸壺」を、詠嘆の気持ちを込めて強く提示しつつ、句を切断しています。その「蛸壺」の中で、蛸はいずれは人間に食べられる運命にあることも知らず、「夏の月」に照らされつつ「はかなき夢」を見ながら眠っています。

 「夏の月」は夏の夜が短いことをも語っています。切字「や」が絶妙に働いて「蛸壺」を強くイメージさせていることがわかります。

 荒海や 佐渡に横たふ 天の川  松尾芭蕉

 「荒海や」で一句を強く切断しています。「荒海」と「佐渡に横たふ天の川」は別のものです。このように無関係な二つのものを組み合わせる方法を「取り合わせ」と言います。

 この句は「や」と切断することで、天と地が大きく拡がり、真っ暗な夜の海に隔てられた佐渡に横たわっている「天の川」が幻想的です。 』


 『 山々の 森明暗に 俳句満つ  ヘルマン・ファン・ロンバイ (ベルギー)

  On the green mountains    the woods in light and shadow.    Fertile haiku ground.     Herman Van Rompuy 

 この俳句は、初代EU大統領ヘルマン・ファン・ロンバイ氏の作品です。大統領は多言語による個人句集を二冊出版しているほど俳句に熱心で、今日の海外俳人の代表者のひとりと考えられています。


  髪に霜 未来は 記憶からなれば  ディートマー・タフナー (オーストリア)

 frost touched hair    future consists    of memories     Dietmar Tauchner 

 オーストリアはドイツ俳句協会とも交流があり、こうした観念的な俳句も見られます。


  雪片の 一瞬とどまり 地は遥か   ジェレミー・ダズ (イギリス)

 a snowflake's   momentary pause   the ground so far below  Jeremy Das 

 イギリス俳句協会は1990年創設、筆者もロンドン大会に参加したことがあります。


  瀑布にて ときには答 ときに…風  パトリシア・J・マクミラー (アメリカ)

 at the waterfall    sometimes I feel an answer    sometimes . . . the wind        Patricia J.MacMiller

 アメリカ俳句協会創立は1968年、日本以外では最古で、俳人数、作品・評論数で海外の中心です。


 国際俳句とは、我々日本人にとって一体どのような意味を持つのでしょうか。俳句が世界で愛され、読まれていることは喜ばしいことです。

 ときには不思議な外国語俳句に出会うこともあるかもしれませんがそれさえも愉快なことではないでしょうか。ところがわが国に目を向けると、非日本語で書かれた俳句やその和訳を、「俳句」ではなく「ハイク/HAIKU」と表記することがすくなくありません。

 これはなぜでしょうか。前スウェーデン大使のヴァリエ氏は、「現在の日本の俳句は、伝統的な形式や法則に捉われすぎている」と語っていました。

 俳句には伝統性が強く残っているので、日本の俳句関係者の中には、海外の俳句と自分たちが理解している俳句との間に距離感を覚える人がいるかもしれません。

 結局、世界の俳句を読むということは、異なる視点から我々自身の俳句を見つめ直すことであるように思われます。「俳句とは何か」という根源的な問いに対して、伝統性のみならず「普遍的、世界的視点」から考えるということです。

 これまで論じてきたように、俳句はすでに世界詩として成立していると言っても過言ではないでしょう。海外の俳句を読んで気づくことは、「三行自由詩」型がすでに世界を覆い尽くしているということです。

 いずれにせよ二十一世紀には、我々日本人も地球規模で「俳句」を考える必要に迫られていることは確かのようです。 』(第146回)

 

 

 

 


ブックハンター「リチウムイオン電池」

2017-09-03 09:20:00 | 独学

 146. リチウムイオン電池  (立花隆記 文芸春秋2017年8月号 日本再生・七十五)

 リチウムイオン電池(バッテリー)とは、負極に炭素材料、正極にコバルト酸リチウム(LiCoO2)、電解液には、エチレンカーボネットなどのなどの有機溶媒にリチウム塩を溶解した非水溶液とセパレータで構成される。

 セパレータは、正極と負極を分離するものですが、リチウムイオンだけを通す必要があります、リチウムイオン電池のセパレータには、リチウムイオンが通るぐらいの小さな孔がいくつも空いています。

 孔の径は1マイクロメートル(千分の1ミリ)以下。この孔を通ってリチウムイオンは正極材と負極材のあいだを行き来するのです。リチウムイオン電池は、軽量かつ高電圧を特徴とした蓄電池です。

 車やジェット機は、居住性の向上、電子機器化によって、メインの駆動力以外は、すべて蓄電池から供給されます。

 車やジェット機は、コンピュター化が進んでおり、最初に、電子機器が稼働して、それらの制御下で、ガソリンエンジンやジェットエンジンが始動します。

 すなわち、電力が必要な時間帯とメインエンジンの最大トルクのタイミングは、一致していません。従って、メインエンジンによって発電された電力は、一度バッテリーに充電されてから、車やジェット機の各部分へ供給されます。

 車やジェット機は、大きな電力を必要としますが、蓄電池の重量はなるべく軽量であることが必要です。しかしながら、高密度にエネルギーを蓄積することは、発火の危険性が高くなり、耐久性(何千回も蓄電、放電に耐える)と安全性が要求されます。

 大変、前置きが長くなりましたが、これらを踏まえて、立花隆の論文を読んでいきましょう。


 『 神田神保町の旭化成本社におもむいて、顧問の吉野彰氏にお会いしてきた。吉野氏は、しばらく前から次の日本人ノーベル賞最有力候補者として、名前があちこちであげられている。

 何をした人なのかというと、リチウムイオン電池を開発した人である。電池といえば、ちょっと前まで一般の人が知る電池は、昔ながらの乾電池と鉛蓄電池(自動車用)、それに時計用の水銀電池ぐらいだった。

 最近急に多くの人が使いはじめたのが、リチウムイオン電池(携帯電話もスマホもカメラもノートパソコンもその他もろもの携帯電子機器のたぐいがすべてそうだ)。

 二十世紀末から二十一世紀にかけて登場した世界の新しい文明の機器のほとんどが、リチウムイオン電池によって動かされている。

 リチウムイオン電池は現在世界で年間十億個以上が生産・使用されている現代社会の基本的エネルギー源だ。それはすでに自動車、航空機にまで入り込んでいる。その基本特許を持っているのは旭化成である。

 といって、ノーベル賞のほうは、まだ決まったわけではないし、リチウムイオン電池が生まれる過程には多くの人がかかわってきたから、ノーベル賞委員会の見立てによって、具体的な受賞者の名前に多少のちがいが出てくるかもしれない。

 しかし吉野氏の名前がリストから抜けることがあろうとは思えない。グローバル・エネルギー賞(ロシア)、チャールズ・スターク・ドレバー賞(アメリカ)など、ノーベル賞に並ぶ賞を吉野氏はすでに次々受賞している。

 現在使われている形のリチウムイオン電池の原型を開発したのが、吉野彰氏であり、その基本的仕組みも、基本的製造上のノウハウも、すべて特許にしてしまったので、旭化成は、かっては東芝と共同出資の会社を作って製造販売していたが、いまは電池に関してはもっぱらライセンス商売と基幹製品の製造販売で儲けている。 』


 『 先日、日本経済新聞社が、毎年恒例の「主要商品・サービスシェア調査」を発表した。リチウムイオン電池の項を見ると、一位がパナソニック、二位がサムソンSDIと世界的電機メーカーである。

 しかし、基幹部品のリチウムイオン電池向けセパレーターでは旭化成が圧倒的トップシェアを保持している。

 セパレーターというのは、電池の中で電解液という化学反応の中心的担い手の陰極側と陽極側がまじり合うのを防ぐためにさし込まれているプラスチック製境界板のこと。

 このセパレーターには、ナノメートル単位の微細な穴が無数に空いており、その穴を通して特定のイオンが通過したり、通過しなかったりする。それがうまくいかないとリチウムイオンが結晶となって析出し、ついには過熱して発火する。

 デル社のノートパソコン発火事故、サムスンのスマホ発火事故、ボーイング787の発火事故など、リチウムイオン電池関連の発火事故のほとんどはこのセパレーターの不具合に起因している。

 つまりリチウムイオン電池の生命線はこのセパレーターにある。ここが技術的に最も難しく、利益率も高い。旭化成はそこをしっかり今も自分の手で握っている。 』

 

 『 吉野氏の話を歴史をさかのぼって聞いていくと、このリチウムイオン電池の根っ子は、日本の技術の粋、化学研究の伝統がドンとあることがわかってきた。

 吉野氏は、福井謙一(一九八一年ノーベル化学賞受賞者)の孫弟子を自称している。大学は福井が教授として教鞭を執っていた京都大学工学部石油化学科。

 福井研に入って直接教えを受けたわけではないが、福井のフロンティア電子論の強い影響を受けて、あらゆる物質の結合や反応などをすべて分子の電子軌道の変化から考えていく、一種の考え方革命を起こした世代の中心人物。

 吉野氏に大きな影響を与えたもう一人が、二〇〇〇年のノーベル化学賞受賞者の白川英樹氏(ポリアセチレンという導電性高分子の発見者)。

 アセチレンという有機化学の代表的分子に触媒を入れたら(実は研究員が白川に指示をまちがえて千倍高い濃度の触媒を入れてしまった)、それがたちまち光り輝く金属光沢を持つフイルムになり、電気も通すようになったという驚異的現象の発見者である。

 実は吉野氏は、このポリアセチレンに驚きこれを電池の陰極に使おうと考えるところから出発した。しかし、電池にするには陰極だけでは足りない。陽極が必要だ。

 陽極には何がいいだろうと考えているときに、ある日アメリカの論文誌に発表されていた、オックスフォード大学のジョン・グッドイナフと、そこに留学していた水島公一氏の論文(コバルト酸リチウムが陽極になりうる)に出遭った。

 これはいけそうだと直感して、実験をしてみると、なるほどピタリだった。長い話を短くしてしまうと、リチウムイオン電池は、このようにして、フィールドの違う学者たちが偶然に導かれて、出遭うとのろからはじまった。

 実は現実の話はこんなにトントン拍子に進んだわけではなく、あちらこちらから無理難題をふっかけられた。 』

 

 『 現代社会は、あらゆるものが電気で動いているから、社会が円滑に動きつづけるためには、電気が長期に安定して安価に提供される必要がある。

 そのためには自動車に乗せたエネルギー密度の高いリチウムイオン電池を社会全体で共用するクラウド充放電システムを作ればよいなどと、吉野氏の未来アイデアは湧くが如しだった。 』(第145回)