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忘れえぬ人々(1)・金沢篤

2011-02-25 | 談話・その他
忘れえぬ人々(1)―失われた書物を求めて―

金 沢  篤


 「多摩川の二子の渡をわたつて少しばかり行くと溝口といふ宿場がある。其中程に亀屋といふ旅人宿がある。」(232頁)これは國木田獨歩の有名な『武蔵野』の「忘れえぬ人々」の書き出し。授業のために二子玉川、つまり「二子の渡」までは毎週のように通っているわたしだが、多摩川を渡ることはまずしない。電車に乗らなくとも、多摩川鉄橋に並行してかかる二子橋の歩道を歩いてもほんの数分しかかからない筈、なのにしない。なぜか。渡らない理由ではなく渡る理由がないからだ。せいぜいが多摩川の上にせり出した東急田園都市線二子玉川駅のホームの上から広々と開けた多摩川の風景を眺望したり、対岸の堤防近くに奇妙な樹木のように立つ大きな白いオブジェを見霽かすばかりだ。天才芸術家の岡本太郎がその地ゆかりの亡き母岡本かの子のために作ったものだとか。「ああ、川の向こうは神奈川県川崎市二子新地」。
 平成二十三年正月も末、ふと思い立って、溝口駅の一つ手前、二子新地駅との間の高津駅へ。むろん東急田園都市線の電車で。二子玉川駅から数分のところ。本ブログ本コーナーにアップを予定している松本史朗[1973]のためだ(*)。若き松本史朗氏が自らの祖父松本悟朗氏の思い出を綴った文章が掲載された雑誌が、高津図書館友の会誌『たちばな』第38号である。その文のコピーを松本史朗氏より頂戴してから既に四半世紀以上が経つ。にもかかわらず、これまでその雑誌を手にしたこともなければ、その「高津図書館」とはどこかとか、なぜ松本史朗氏がそのような雑誌に書くことになったのかとか気にかけたことはなかった。その文章についても松本氏にあれこれ尋ねたりしたことがなかったように思う。好奇心の旺盛なわたしとしては不思議と言えば不思議だし、うかつと言えばうかつだが、個人的な内面の思いが率直に吐露されたような文学的なエッセイで、如何に歴史上の有名人にまつわることとはいえ、松本悟朗氏が「自分の生い立ちについて他人に語ることを好まなかった」(30頁)との件を目にするまでもなく、一介の他人に過ぎないわたしのうちに、日頃身近に感じている松本ファミリーの私事を詮索することの躊躇いが起こったとしても無理からぬことだ。当時松本史朗氏とは、松本悟朗・岩野泡鳴論争や、その論争が展開された雑誌『第三帝国』のことをわずかに話題にしたばかりであった。それでもわたしはこれまで公にした文章の中で一度だけ松本悟朗氏について言及したことがある。松本史朗氏の最初の学術的な著作『縁起と空―如来蔵思想批判―』に対する手紙文を装った書評、金沢篤[1990]の中で、次のように書いたのである。それも二十年前のこと。
 「バートランド・ラッセルのわが国における初期の紹介者であったあなたのおじい様、一代の文学者岩野泡鳴に対して果敢に思想論争を挑まれた故松本悟朗氏よりの影響を密かに強く自覚しているあなたは、本書においてわが国の代表的な幾多の学者の貴重な業績をしっかりと受け止め、およそ考えられる限りの公正さをもって、御自分の研究成果を示されました。」(434頁)
 なんと、高津図書館はこんなにも身近にあったのだ。そしてそのことを知るや、すぐに出かけて行く気になったのは、わたしの方にもそうした問題に取り組む下地が出来ていたということであろう。近代日本に於けるインド学仏教学の成立と展開、ないし近代日本に於ける外国文化の受容などをめぐる書誌学的研究への情熱が今のわたしを突き動かしているのだと思う。初めて高津駅に降り立ってから、数分後には川崎市立高津図書館の前にわたしは立っていた。そして一時間ほどをその高津図書館の閲覧室で過ごすうちに、松本史朗[1973]をめぐって、いつしかわたしが秘かに抱え込むことになった疑問のすべてが解けたように思われた。再び多摩川を渡って世田谷に戻り、大学の研究室に着くころには、取り敢えずはブログ上に「忘れえぬ人々」の表題の下になにかエッセイのようなものを連載する心づもりが出来ていたということである。
 そう、何を隠そう、松本史朗[1973]の掲載された高津図書館友の会誌『たちばな』第38号の発行人が勢多左武郎氏であった。そして「昭和五十六年十一月に長逝された」この勢多左武郎氏とは、松本悟朗氏が論陣を張った『第三帝国』やその後継雑誌『洪水以後』を主宰した茅原華山氏の令孫茅原健氏による茅原健[1985]で、「『第三帝国』や『洪水以後』の同人であって今なお健在でおられるのは、元同盟通信海外局参事勢多左武郎氏お一人である。明治二十一年三月十八日のお生れというから卒寿。お元気である。現在は川崎市高津で自適の生活。」(90頁)と紹介される人物である。勢多氏は『たちばな』の第35号以来の同誌の発行人を務め、同誌には第34号から一応の終号となった第38号まで継続的にエッセイを掲載している。なかでも今の場合重要なのは、第37号の勢多[1972]と第38号の勢多[1973]の二篇である。松本悟朗氏も勢多左武郎氏も、その回想文の表題「「第三帝国」から「洪水以後」へ―あのころの若人たち―」の「若人たち」の一人であったとすれば、松本悟朗氏の令孫である松本史朗氏が、その『たちばな』第38号に祖父松本悟朗氏の回想文を寄せていることの意味ももはや明瞭となったとわたしは考えたのである。
 そして勢多左武郎氏にとっての忘れえぬ人である松本悟朗氏、また松本史朗氏にとって忘れえぬ人である松本悟朗氏、そしてわたしにとってもやはり忘れえぬ人となった松本悟朗氏を求めての小調査旅行の目的地ではしなくも先ず目にしたのが、川崎市立高津図書館前の國木田獨歩の「忘れえぬ人々」ゆかりの石碑であったことが、むしろ重要であったかも知れない。しかもその石碑に刻み込まれた文字が、やはりわたしにとっては忘れえぬ人である明治の文豪島崎藤村によるものだとしたら、こうしたわたしの思いが、「忘れえぬ人々」の連載となって形を取り始めたことの意味もおのずと了解されると思うのである。『忘れ得ぬ人々』と言えば仏文学者の辰野隆氏、『思ひ出す人々』と言えば不知庵内田魯庵氏、『明治文壇の人々』と言えば「文学界」の馬場孤蝶氏、いずれも近代日本にあって異文化と格闘して生き、倒れた有名無名の人々について語った懐かしい書物とその著者、語り手である。(続く)

【参考文献】
金沢篤
[1990]:「書評『縁起と空―如来蔵思想批判―』(松本史朗著)」『駒大仏教学部論集』第21号
茅原健
[1985]:著『茅原華山と同時代人』不二出版:東京
國木田獨歩/國木田哲夫
[1901]:著『武蔵野』民友社:東京
勢多左武郎<1888-1981>
[1972]:「『第三帝国』から『洪水以後』へ―あのころの若人たち―」『たちばな』第37号
[1973]:「続『第三帝国』から『洪水以後』へ―あのころの若人たち―」『たちばな』第38号
[1974]:「『洪水以後』が登竜門」『広津和郎全集』第8巻・月報4 中央公論社:東京
松本史朗
[1973]:「祖父悟朗を思う」『たちばな』第38号


 (*)松本史朗氏による誤記誤植訂正済みの「修訂版」が、1月末日の日付で、本ブログ本コーナーにアップされている。

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