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遣隋使 厩戸皇子・蘇我馬子・小野妹子・裴世清は? 

2017-07-24 06:55:27 | 評論
古代史探訪 遣隋使の真実
古代日本の「国家」を生み出した遣隋使
~遣隋使の真実 厩戸皇子・蘇我馬子・小野妹子・裴世清は?~


 遣隋使、日本が古代国家の枠組みを築き上げるにあたって。極めて重要なインパクトを与えた「外交戦略」である。
 600年の第一回遣隋使派遣では、隋の高祖文帝は倭国を、「此れ大いに義理なし」と叱責した。倭国王権は大きな衝撃を受け、驚異的なスピードで国政改革に乗り出し、「冠位十二階」、「十七条憲法」、「朝令改定の詔」を制定し、新しい王宮、「小墾田宮」を造営し、「仏教興隆」に取り組んだ。
607年、第二回遣隋使に任じられた小野妹子が渡航した。再び、隋皇帝煬帝に、小野妹子が「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」と上奏したのに対し、隋皇帝煬帝は立腹し、「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じた。
 しかし、小野妹子が帰朝する際に、返使、裴世清を同行させ、初めて中国の使者が倭国に渡来した。倭国は大国、隋の「国交樹立」に成功したのである。
 裴世清の帰国に際して、小野妹子は再び、遣隋使として渡航した。
 この時、遣隋使に伴われて、僧旻、高向玄理、南淵請安など8人の留学生・学問僧が同行した。
僧旻、高向玄理、南淵請安は帰国後、「乙巳の変」の理論的指導者となったり、孝徳朝の改新政府で、政策立案に携わったりした。
改新政府の政策は律令制国家の樹立の基礎になった。
 遣隋使派遣は、明治維新政府の「開国政策」と並ぶ、日本の歴史を考える上で、エポックメーキングな事項であることに間違いない。

第一回遣隋使派遣
 600年(推古8年) 第一回遣隋使が派遣された。
 遣隋使は、推古朝の時代、倭国(俀國)が国家の仕組みや技術、仏教を学ぶために隋に派遣した朝貢使である。
 600年(推古8年)から618年(推古26年)の18年間に5回以上派遣された。
 遣隋使は、大阪の住吉大社近くの住吉津から出発し、住吉の細江(細江川)から大阪湾に出て、難波津を経て瀬戸内海を筑紫那大津へ向かい、玄界灘に出て、百済沿いに隋の都、大興城(長安)に向った。

 日本書紀には、第一回遣隋使派遣の記述がない。
 しかし、『隋書』「東夷傳俀國傳」には、倭国の遣使が隋の高祖文帝に接見した時、隋史が上奏した内容や隋の高祖文帝の問いが詳細に記されている。

 「開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司 訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」

 開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号(な)づく。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。 使者言う、俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴。跏趺(かふ、仏教における最も尊い坐り方であり、両足を組み合わせ、両腿の上に乗せる)して坐し、日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて云う、我が弟に委(ゆだ)ぬと。高祖曰く、此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。」

 この時派遣された使者に対し、高祖文帝は所司を通じて俀國の風俗を尋ねさせた。
 俀王(通説では俀は倭の誤りとする)姓の阿毎はアメ、多利思北孤(通説では北は比の誤りで、多利思比孤とする)はタラシヒコ、つまりアメタラシヒコで、天より垂下した「彦」(天に出自をもつ尊い男)の意とされる。阿輩雞弥はオホキミで、「大王」とされる。
その上で、使者は政のありかたを説明した。
 「倭王は天を兄とし、日を弟としている。日が出るまでは、倭王は跏趺(かふ 仏教における最も尊い坐り方で、両足を組み合わせ、両腿の上に乗せる)して坐し政務を行い、日が出れば、政務を止めて、弟に委ねる」とした。
日が出るまでは政務を行うが、日が出てからは、政務を止めても、自ずから国の安寧は保たれると、倭国は「徳」の高い国であることを自信を持って述べたつもりだっただろう。
 ところが、高祖文帝は、俀國のその政治のあり方が納得できず、道理に反したものに思った。そこで「此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ」と、改めるよう訓令したとしている。
高祖文帝は、倭国の政治の在り方を、まったく「荒唐無稽」と一蹴し、倭国の使者を叱責したのである。
倭国は、遣隋使の派遣で、倭国の存在を認めさせ、隋と「対等関係」で国交を築こうとしたと考えられる。この目論見は、もろくも崩れ、第一回遣隋使派遣は「失敗」に終わったと考えられる。
 この隋の倭国に対する見方は、当時の王権に大きな衝撃を与えた。
 推古天皇、厩戸皇子、蘇我馬子は、急ピッチで、国家制度の体制整備に乗り出す。

 日本書紀に600年の遣隋使の記録がないのは、(1)隋の皇帝から叱責され、遣隋使派遣が「失敗」に終わったのを隠すため、(2)蘇我馬子が遣隋使派遣を主導し、厩戸皇子は関わっていなかったため、がその理由として考えられる。
 筆者は、日本書紀の編者は、遣隋使の派遣を厩戸皇子の「功績」にするため、厩戸皇子が関わっていない600年の遣隋使派遣を抹殺したと考える。
 日本書紀は、蘇我氏は「悪者」、厩戸皇子は「聖者」という論理を貫いていた。

「大王」に擬せられた厩戸皇子
 「隋書倭国伝」を読む限り、どう考えても、倭国の「大王」は、「男帝」である。当時の「大王」は女帝、推古天皇、古代史の大きな謎で、未だに論争が続いている。
 筆者は、唐使、裴世清と「礼を争い」、困り果てた朝廷の「苦肉の策」と考えられる。
 当時の倭国の朝貢使を迎える儀式の慣例は、「大王」は直接、朝貢使には接見せず、朝貢使が携えた「国書」は、群臣が受け取り、その後「大王」に奏上することになっている。これに対して、隋の慣例は、「大王」が直接、朝貢使に接見をする。
 裴世清は、隋の慣例に乗っ取り、直接、「大王」に接見して、「国書」を上奏することを要求したと思われる。そうしないと隋の皇帝から遣わされた使者の役目を果たすことができないからである。裴世清にとっても「死活問題」だ。
 厩戸皇子や蘇我馬子が考え出した策は、「大王に擬する王」を裴世清に接見させ、あたかも裴世清に「大王」に接見したように思わせることだ。事前の両者の交渉で合意されていたかもしれない。(「飛鳥を訪れた裴世清」の章を参照)
 「大王に擬する王」は、明らかに厩戸皇子であろう。
 裴世清は、隋に帰朝して、高祖文帝に、まよわず「倭国の大王は男帝」と上奏したのである。
 日本書紀に記述がないのも、「記録に残したくない」事情があったからであろう。

新羅征討にこだわった倭国
 同じ年の600年(推古8年)、新羅、任那に侵攻する。倭国は任那救援の新羅征討軍を派遣した。
朝廷は、境部摩理勢を新羅討伐軍の征夷大将軍に任じた(実際には遠征していない)副将軍は穂積臣。
 新羅に1万余の軍を送り、新羅の5つの城を攻め、攻略した。
 新羅王は、降伏し、多々羅(タタラ)・素奈羅(スナラ)・弗知鬼(ホチクイ)・委陀(ワダ)・南加羅(アリヒシノカラ)・阿羅々(アララ)の6つの城6つの城を割譲し、朝貢することを約束した。(日本書紀)
 倭国は「新羅は罪を知って服従した。無理やりに撃つのは良くない」 
として、難波吉師神を新羅に、難波吉士蓮子を任那に派遣して、検校(事情を調べること事)した。
 新羅は「任那の調」を朝貢したが、再び任那を侵略する。

来目皇子、当麻皇子を将軍に新羅征討軍を起こす
 602年(推古10年)、朝廷は、厩戸皇子の同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、筑紫に向ったが、途上、妻・舎人姫王の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。
 この新羅征伐計画は、結果として挫折したが、厩戸皇子の真意はもともと 積極的でなかったという説が、多くの論者に支持されている。新羅征伐計画は、王権の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという。
坂本太郎氏は「私はもともと仏教信仰の聖徳太子が、かような軍事行動には加勢しなかったからではないかと思う」とし、「事故が起こって、これを中止することは、むしろ聖徳太子の望む所であったのではあるまいか」(「聖徳太子」 坂本太郎 吉川弘文館 1979年)としている。
 確かに、仏教興隆を熱心に取り組んでいたとされる聖徳太子の人物像は、新羅征討という軍事的強硬策とは相いれない。
 しかし、来目皇子や当麻皇子を厩戸皇子一族から派遣しているので、厩戸皇子が新羅討伐の主導者であったことは間違いないだろう。
厩戸皇子は「仏教を厚く信仰する『平和論者』」という「先入観」に囚われるのは、史実を読み誤る懸念が大きい。
 「聖徳太子(厩戸皇子)」は「信仰としての聖徳太子」と「史実としての厩戸皇子」を峻別する姿勢が必須だろう。
 
 「厩戸皇子」の検証は、古代史の解明する上で、最大の課題である。

■ 603年(推古11年)12月5日、「冠位十二階」を制定
 氏姓制によらず才能によって人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったとされている。
 「日本書紀」では、制定者の記述がなく、「上宮聖徳法王帝説」では、厩戸皇子と蘇我馬子としている。

■ 604年(推古12年)4月3日、「憲法十七条」制定
「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)とし、「憲法十七條(十七条憲法)」を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している
 津田左右吉などはこれを「後世における偽作である」としている。
 同じ年、「改朝禮。因以詔之曰「凡出入宮門、以兩手押地、兩脚跪之。越梱則立行」(日本書紀)とし、「朝礼」を改め、宮門を出入りする時は、「両手と地面につけ、両脚を跪く」という作法を詔によって定めた。

厩戸皇子 斑鳩宮へ遷る
 厩戸皇子が斑鳩宮に移った理由は、当時権勢をふるった蘇我馬子との対立が原因とする説明が多くなされていた。大王を中心とする中央集権国家を目指した厩戸皇子は、豪族諸臣の利益を代表する蘇我馬子との権力争いに負けて、傷心のうちに斑鳩宮に移り、政治の表舞台から身を引いて仏法に没頭したとされている。
 厩戸皇子と蘇我馬子の対立は、両者の政治的立場の決定的な相違によるものだろうか、蘇我馬子は厩戸皇子の一貫した敵対勢力だったのだろうか、疑念がある。

 斑鳩宮のような宮殿は、同母兄弟の最年長の皇子だけが、基本的に造営することが認められた。用明天皇の長子である厩戸皇子はその資格を満たしていた。
 戦前の法隆寺大修理の際に発掘調査が行われ、東院地下から掘立柱建物、石敷、井戸などが発見され、焼けた瓦や壁土も出土したことで、643年に蘇我入鹿の襲撃を受けて焼失した斑鳩宮跡とされた。
 近年、さらに「大溝」も発見され、北側にも掘立柱建物が確認された。
 斑鳩宮は最小でも1町四方の大規模な宮殿であることが明らかになった。
 斑鳩にこれほど大規模な宮殿を造立することができたのは、厩戸皇子が大王家の中で、地位・身分が上昇し、権勢が高まった結果で、厩戸皇子にはさらに大きな使命と役割が与えられたと考えられる。
初の女帝である推古天皇の王位継承者として大王を補佐し、国政に参加するのが厩戸皇子の役割であった。蘇我馬子は、推古天皇、厩戸皇子、そして蘇我氏の三者のトロイカ方式で、王権を統治するシステムを築いたのである。
厩戸皇子には、この地位にふさわしい大規模な王宮、斑鳩宮が用意された。
この「破格の待遇」を与えたのは蘇我馬子でしかありえない。
また推古天皇は小墾田宮を造営し、蘇我氏は飛鳥寺を建立した。
三者のトロイカ方式の証が、斑鳩宮、小墾田宮、飛鳥寺であった。

 厩戸皇子、王権の中で、「外務大臣」の役割で、国政に携わったと思われる。
斑鳩は、中国・朝鮮半島の外交ルートの要所、厩戸皇子が拠点を構える格好の場所であった。

 筆者は、厩戸皇子は、「仏教興隆」という課題も担っていたと考える。
厩戸皇子は、高句麗の渡来僧、慧慈を「師」として迎えた。慧慈を高句麗から招聘し、厩戸皇子に配したのは、蘇我馬子の「策」であろう。厩戸皇子に最先端の高句麗の仏教を習得させ、王権内の「仏教大臣」として、「仏教興隆」を推進させる。倭国が「近代国家」に脱皮するためには、「仏教興隆」も必須の「国策」だった。
 蘇我馬子が、斑鳩寺の建立は支援したのもこうした理由からだ。
 厩戸皇子は、政治の世界から身を引いて、「仏教」に没頭したわけでなない。倭国の国策としの「仏教興隆」を担った「仏教大臣」だったのではないか。
 さらに、厩戸皇子は、仏教だけでなく、百済の五経博士、覚哿から儒教の経典の教えも受けている。厩戸皇子は「宗教大臣」かもしれない。

 厩戸皇子の「斑鳩宮移住」は、あくまで当時の権力者、蘇我馬子との合意と支援のもとに実行されたと考えざるを得ない。

 厩戸皇子は斑鳩宮の造営で、大和川沿いに難波と大和の間の重要な交通路「滝田道」を押えた。新羅、隋への外交ルートを確保したと考えられる。
 斑鳩宮と小墾田宮の間には、「太子道」と呼ばれる西に22度傾いている斜めの道、「筋違道」で結ばれている。「筋違道」は奈良盆地を南北に走る「下つ道」・「中つ道」・「上つ道」を横切っている。
 「下つ道」・「中つ道」・「上つ道」は、条里制下に建設された東西南北の碁盤目状の主要道である。
 小墾田宮まで約20キロ、厩戸皇子は、「摂政」としての政務に当たるため毎日、愛馬の黒駒に乗って、従者の調子麿を従えて「筋違道」通ったと伝えられている。
 しかし現実には、厩戸皇子の側近や群臣が往復していたものと考えるのが自然だろう。
今も「太子道」伝説が残っている。時折、従者を連れて小墾田に向かう聖徳太子の行列が民衆の間に長く伝え告がれたのだろう。

 斑鳩宮、斑鳩寺の造営は、大王の権力の象徴となる空間を厩戸皇子の拠点に設けたということであり、推古天皇の皇位継承者として、厩戸皇子の王権への「野心」は失われていない見るべきだろう。そこには蘇我馬子との権力抗争に敗れ、斑鳩に隠遁し、仏法にいそしんだという姿は見当たらない。

■ 606年(推古14年) 鞍作止利が銅像と繍像の丈六仏を造立、飛鳥寺の金堂に安置する。
 飛鳥寺の金堂はこの頃までに完成し、飛鳥寺の伽藍全体が完成したと思われる。飛鳥寺は、倭国の「仏教興隆」の象徴だった。
 これに先立って、605年、推古天皇が鞍作止利に丈六像の造立を命じると、高句麗の大興王は、仏像の鍍金用の黄金300両を倭国に贈った。(日本書記) 高句麗僧、慧慈からの情報だろう。

遣隋使小野妹子 隋に渡航
 607年(推古15年)、小野妹子は大唐国に倭国大王の「国書」を持って渡航した。遣隋使の派遣は、600年に引き続き第二回目である。
 600年の遣隋使の記録は、「隋書倭国伝」のみに記載され、なぜか日本書紀には記されていない。
第一回遣隋使派遣の際に、隋の高祖帝は所司を通じて俀國の風俗を尋ねさせた。倭国の使者は俀王を「姓阿毎 字多利思北孤」号を「阿輩雞彌」と云うと述べ、政のありかたを説明した。ところが、高祖帝は、俀國の政治のあり方が納得できず、道理に反しているとして、「此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ」と訓令した。
 この隋の倭国に対する見方は、当時の王権に大きな衝撃を与えた。
遣隋使の派遣で「東の独立国」、倭国の存在を、隋に認めさせて、朝鮮半島外交に優位に立とうという目論見は崩れた。第一回遣隋使派遣は、「失敗」と、当時の支配者層は認識したと思われる。
 日本書紀に記述がないのは、こうした理由かもしれない。
 隋の反応を受けて、推古天皇、厩戸皇子、蘇我馬子は、王権の改革を急ぎ、中央集権国家としての形を整えた。「冠位十二階」、「十七条憲法」、「小墾田宮の造営」、「仏教興隆」、まさにに驚異的なスピードで、倭国の政治構造を作り上げた。
608年の第二回遣隋使派遣は、こうした「改革」を終えた上で行われた。
 再度の挑戦である。

 小野妹子が携えた「国書」は隋皇帝煬帝に宛てたもので、『隋書』「東夷傳俀國傳」にその内容が記されている。

「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)

 これを見た隋皇帝煬帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたという。
 なお、煬帝が立腹したのは倭王が「天子」を名乗ったことに対してであり、「日出處」「日沒處」との記述に対してではないとされている。
 「日出處」「日沒處」は、単に東西の方角を表す仏教用語である。
 ただし、あえて仏教用語を用いたことで、隋の「冊封体制」には入らないことを明かにしたという説もある。

返使、裴世清渡来
 翌608年(推古16年)、小野妹子は、その後、返書を持たされて、煬帝の家臣である裴世清に伴われて、帰国の途に向った。
 鴻臚寺掌客の裴世清を正史とし、12人の使節団が同行していた。
 煬帝は、「非礼な国書」を上奏した倭国に激怒したが、倭国を説諭するとして、裴世清を派遣した。しかし、その真意は、対高句麗戦略にあった。当時、隋は高句麗と抗争を繰り広げていて、高句麗の背後に位置する倭国との関係強化は必要と考たということだろう。高句麗と関係を結んでいた倭国の情勢も探りにきたと考えられる。

飛鳥を訪れた裴世清
 608年、煬帝は隋使、裴世清を派遣し、倭国に渡来した。
 裴世清は百済を経て、朝鮮半島南岸沿いに、対馬、一支(壱岐)国を経由して、「竹斯国」(ちくし)に至る。「竹斯国」は「筑紫国」と思われるが、現在の福岡市、古代の「奴国」のあたりと思われる。
 倭王は、難波吉士雄成を筑紫に遣わし、一行を出迎えさせた
 その後、瀬戸内海を航海して、十余国を通過したあと難波津に着いた。

 難波の江口では飾船三十隻が一行を歓迎した。
倭王は中臣宮地連烏磨呂、大河内直糠手、船史王平を掌客(賓客の接待にあたる官人)に任じ、難波津に遣わし、数百人を従え、儀仗を設けて、太鼓や角笛を鳴らして迎えた。大礼額田部連比羅夫が歓迎の辞を述べた。
 裴世清一行は、唐使のために新しく造られた賓館、難波館に入り、旅の疲れを癒した。
十日後に、裴世清一行は、難波津から川船で大和川を遡り、終着地、海柘榴市(桜井市金屋付近)で下船し、大和に入った。 海柘榴市では、大礼、額田部連比羅夫(ぬかたべのむらじ・ひらぶ)が、飾り馬、七十五匹二百余騎を従えて迎えた。
 海柘榴市から小墾田宮には、陸路を通って向かったと思われる。
 海柘榴市は、山の辺の道や上ツ道、山田道、初瀬街道が交差する陸上交通の要衝、物資が集まり、我が国最古の交易市場が成立していた。

 8月12日、裴世清は導者、阿部鳥臣、物部依網連抱に従って、小墾田宮の「南門」から入り、隋から持参した国信(くにつかい)の物を「朝庭」に置いた。信物は国王間で交わされる献納品で、黄金や絹などである。 裴世清は国書をもって2度再拝し、立礼で参列者に遣使の旨を奏上した。
 隋使の奏上を受けて、阿部鳥臣が進み出て、裴世清から国書を受け取り、大伴囓連が「大門」の前の机に奉じて退く。皇子、諸王、諸臣がことごとく金の髻花を頭に飾り、錦、紫、繍、織の衣服に冠位を表す五色の綾羅を付けていた。(冠位に応じた色の服とされている)

 推古天皇は「大門」の奥に位置する「大殿」に出御している。しかし、「大殿」と「朝庭」とは「大門」で隔てられているので、推古天皇がこの儀式に参列することはない。
 「朝庭」の儀式終了後、「大臣」、蘇我馬子と奏上役の群臣などが、「大殿」に参内して、大王、推古天皇や皇子に隋使の「国書」を奏上したと考えられる。
 従って、裴世清が大王、推古天皇と直接会うことはない。
 この日の儀式には、皇子、諸王、諸臣が参加していたという記録があるが、大王への接見の式次第は記録にない。

 8月16日の「朝廷の宴」が催された。「朝廷の宴」には、皇子、諸臣が参加する。大王、推古天皇も参加した可能性はある。
 2年後の新羅史の場合も「朝廷の儀式」と「宴」が催されている。
「隋書」における倭国王との接見の場は、「朝廷の宴」の可能性もある。
 この「宴」で推古天皇に、裴世清が会っていたら、倭国王は「女帝」だということを知りえただろう。しかし、この事実を裴世清が隠す理由ない。 裴世清は倭国王は「男帝」と記しているのである。
 女王、卑弥呼は、「王となりよし依頼、見ゆることあるもの少なし」といわれていた。即位依頼、その姿を見せることはほとんどなかった。
 やはり、推古天皇も裴世清の前に姿を見せることはなかったと考えられる。
 この時代の王権の「慣例」とされていたのだろう。
 一方、唐の賓礼については、「大唐開元礼」で詳しい規定があり、「蕃国」の使者は中国皇帝に国書を奏上し、献物を献上する際に、皇帝は出御する。また皇帝が開く宴には皇帝が参加する。
 皇帝本人が使者に直接、倭国の使者に問を発したかどうかは別にして、隋の皇帝に直接謁見していることは間違えないだろう。
 魏志倭人伝でも、邪馬台国の使者、難升米と牛利に、魏の明帝が引見し、労をねぎらったという記述が残されている。
 それでは、律令制度が導入される前の倭国の外交儀礼はどのようなものだったのか。
 倭国の大王は、人前に姿を現さず、7世紀では外交使節の前にも姿を現さない「見えない王」だったのだろう。
 一方、中国では、皇帝は蕃国使に謁見するのが外交儀礼だ。
 裴世清は、国書を携えて倭国を訪れた公式の使者だから、任務を果たすためには、倭国王に接見しなければならない。
 しかし、倭国には使者に謁見するという外交儀礼がない。
 632年に、遣唐使の返礼で、唐使、高表仁が訪れたが、倭国の王子と「礼を争い」、国書を奏上する機会を持たず帰国した。舒明天皇の王子と衝突したのである。
 裴世清の際は、倭国王権は、「妥協」して外交儀式を行ったのであろう。
 厩戸皇子や蘇我馬子が苦肉の策として考え出したのが、厩戸皇子があたかも「大王」のごとく、振る舞って、裴世清と謁見することだ。裴世清が帰国後、隋煬帝に上奏した「男帝」という内容と祖語はない。
 厩戸皇子や蘇我馬子が、裴世清を欺く意図はなく、裴世清が、勝手に、厩戸皇子を「大王」として誤解をした可能性もある。
 筆者は、裴世清が謁見したのは、当時の王権での外交統括、厩戸皇子で、それを企んだのは蘇我馬子だと考える。
 
 その後難波に戻り、9月5日に外交施設である難波津の大郡で宴が再び催されている。唐使への慰労と別れの宴と思われる。
 そして、9月11日、裴世清一行は帰国の途についた。その一行に、小野妹子が、僧旻(仏教と易を学ぶ そうみん)、高向玄理(学者)(たかむこのくろまろ)・南淵請安(学問僧)など8人の留学生・学問僧を同行させ隋へ渡航する。
 倭国と隋との関係はこうして一気に動き始めた。

小野妹子の「返書」紛失事件
 百済を経由して、難波に到着した小野妹子は、朝廷から遣わされた掌客で蘇我馬子の側近とされる中臣宮地連烏磨呂に、突然「返書を百済に盗まれて無くした」と伝えた。
 これを聞いた群臣は、 激怒し小野妹子を流刑に処することしたが、推古天皇は、「今は隋の使者が来ている。使者に聞こえたら朝廷の対面が損なわれる」として不問にしたという。
 百済は南朝への朝貢国であったため、倭国が隋と国交を結ぶ事を妨害する動機は存在したと思われる。
「国書紛失」の理由として、(1)百済犯行説、(2)煬帝から叱責された文書の内容が明らかになれば、大王や諸臣見せて怒りを買う事を恐れた妹子が、返書を破棄してしまったという説、(3)聖徳太子と相談して失書を演出したとする説、(4)国書は二種類あり、正式な国書は裴世清が持参してきたが、それとは別に煬帝の叱責を記した返書は妹子に託されたとする説、などがある。
 しかし、小野妹子は、裴世清一行の帰国に際し、再び送迎使節の大使に任じられ、裴世清たちを隋都大興城まで送っている。二回にわたる遣隋大使の大役を果たした妹子は、帰国後、「冠位十二階」では第5位の「大礼」から第1位の「大徳」に昇進した。「大徳」とは、「冠位十二階」の最高位である。失書事件を犯した人物が、「大徳」に任じられるはあり得ない。
 厩戸皇子、蘇我馬子の同意の上での「盗難」事件としたというのが妥当だろう。
その真偽は明らかでない。

「倭王」「天皇」問題
 日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問 ふ」)とある。これに対する倭国の返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す」と記されている。
これを「天皇」の呼称が史料に最初に現れたとして、これをもって「天皇」の呼称の使い始めとする説がある。しかし、他の史料では、「天皇」の呼称は見られないことから、日本書紀の編者が、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」と改竄したとも考えられている。

 「皇帝問倭皇 使人大禮 蘇因高等至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇 思弘德化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇 知皇介居海表 撫寧民庶 境內安樂 風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢 丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也 故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別」(日本書紀)

 「皇帝、倭皇に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」

 唐側の史料では「倭皇」となっており、「倭王」として「属国の臣下」扱いにはしていないことが明らかである。『日本書紀』によるこれに対する返書の書き出しは「東の天皇が敬いて(つつしみ)西の皇帝に白す」(「東天皇敬白西皇帝」)『日本書紀』とある。

 裴世清に随行して、遣隋使、小野妹子や吉士雄成などが再び渡航した。(第三回遣隋使)
 この時、留学生として倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)・奈羅訳語恵明(ならのおさえみょう)高向漢人玄理(たかむくのあやひとくろまろ)・新漢人大圀(いまきのあやひとだいこく)、学問僧として新漢人日文(にちもん、後の僧旻)・南淵請安など、8人の留学生・学問僧が同行した。

新羅、「任那」朝貢再開
 610年、新羅は「任那」(金官伽耶)の使者を伴って朝貢をした。当時、新羅は「任那」(金官伽耶)を占拠し、「任那」(金官伽耶)は新羅の支配 下にあった。
 新羅は、「任那」(金官伽耶)が、「独立国」として存在するように装ったのである。
 この背景として、倭国の遣隋使の派遣を受けた隋が新羅を諭したとされている。
 いずれにしても新羅は占拠していた「任那」(金官伽耶)に対する倭国の権益を認め、両国は揃って「任那の調」を再開した。
 遣隋使の派遣で、倭国のプレゼンスを朝鮮半島諸国に見せて優位に立つという戦略は、「任那の調」復活では成功したようである。

■ 610年(推古18年) 第4回遣隋使を派遣する。(『隋書』煬帝紀)
 日本書紀には記述がない。
■ 614年(推古22年) 第5回遣隋使、犬上御田鍬・矢田部造らを隋に遣わす。
■ 615年(推古23年) 犬上御田鍬が帰国する。その際に百済使、犬上御田鍬に従って渡来する。(『日本書紀』)

 『隋書』煬帝紀に記述がない。隋が混乱していて、遣隋使は、大興城(長安)までたどり着かなかった可能性がある。
■ 618年(推古26年) 隋滅滅亡。
 隋の二代皇帝煬帝は南北に通る大運河を開き大規模な外征を行なったが、3度に渡る高句麗遠征に失敗し、土木工事や外征の強行に対する不満から民衆の反乱が各地で起きて、618年に滅亡し、唐王朝に代わった。
 
 最後の遣隋使の派遣から16年後、630年、最後の遣隋使、犬上御田鍬は第1回遣唐使に任じられ渡航する。遣隋使は遣唐使に受け継がれていった。
 622年、厩戸皇子は死去し、645年、蘇我蝦夷と蘇我入鹿も、「乙巳の変」で王権の舞台から消え去り、新たな時代が始まる。
 そして、ついに、663年、倭国と唐は、「白村江の戦い」で激突する。



(参考文献)
「蘇我氏の古代」 吉村武彦  岩波新書 2015年
「蘇我氏四代 臣、罪を知らず」 遠山美都男 ミネルヴァ書房 2018年
「謎の豪族 蘇我氏」 水谷千秋 文春新書 2006年
「ヤマト王権 シリーズ日本古代史②」 吉村武彦 岩波新書 2010年
「蘇我氏 ~古代豪族の興亡~」 倉本一宏  中公新書 2015年
「蘇我氏四代 臣、罪を知らず」 遠山美都男 ミネルヴァ書房 2006年
「消えた古代豪族 『蘇我氏』の謎」 歴史読本編集部 KADOKAWA 2016年
「天皇と日本の起源」 遠山美都男 講談社現代新書 2003年
「飛鳥 古代を考える」 井上光定 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「飛鳥史の諸段階」 門脇禎二 吉川弘文館 1987年
「飛鳥 その古代史と風土」 門脇禎二 吉川弘文館 1987年





2017年7月21日
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廣谷  徹
Toru Hiroya
国際メディアサービスシステム研究所
代表
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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2018-03-27 00:26:46
中国史書は歴史の敗者の記録を勝者が書いたものであり、日本書紀は歴史の勝者の記録を勝者自身が書いている。これは単純な比較対象ではないと思う。何故日本書紀側には遣隋使ではなく遣唐使の記録が時系列上、隋朝の時代に入っているのか。突っ込んだ議論がされずにこの事績が大和王権のものとされていることには違和感を感じる。本当に隋朝は日本の欺きに引っ掛かった言えるのだろうか?
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