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大川小学校の悲劇 検証・大川小学校事故報告 検証はまだ終わっていない 東日本大震災4年

2016-10-23 20:17:56 | 評論
大川小学校の悲劇 検証・大川小学校事故報告
検証はまだ終わっていない 東日本大震災4年


 それは悪夢のような一瞬の出来事だった。

 宮城県石巻市大川地区。悠々と流れる北上川、田園と周辺の山並み、豊かな自然に育まれたた穏やかな光景が広がる。女川町から、海岸線沿いに南三陸町抜ける国道398号線が通る交通の要所でもある。北上川を架かる新北上大橋はこの河口付近で唯一の橋である。
 日本海の河口までは、約4キロメートルだ。
 この地区の中心になっていたのが、石巻市立大川小学校。円形のモダンなデザインの2階建の校舎で、在校生108人。地域の人々に愛着を持たれ、見守られてきた学校だったという。
 小学校のある場所は、北上川の右岸の堤防のすぐ脇の低くなっている平地で、大川地区釜谷の集落の真ん中にある。学校からは、堤防に遮られて北上川は見えないし、海岸線も見えない。

 あの日、この小学校に、北上川を遡上してきた大津波が襲った。10メートルを超える巨大津波、地震発生の約50分後だった。

 学校の校庭に集合していた子供たちは、近くの「三角地帯」と呼ばれる小高い場所に避難を始めていた。その最中、子供たちの列を巨大津波が襲った。子供たちは瞬時に津波にのまれ、そして74人の児童が犠牲になった。あまりにも悲惨なできごとだった。
 東日本大震災で、これだけの大きな犠牲が学校でおきたのは大川小学校だけである

 大川小学校には、震災から四年を過ぎた今も、犠牲になった子供たちに手を合わせようと訪れる人が後を絶たない。県外から震災の教訓を学びに訪れるグループや視察に来る防災関係者が、大型バスでやってくる。
こうした人たちに対する案内役は、津波で子供を失った親が努めることが度たびあるという。
 遺族たちが伝え続けたているのは「命の大切さ」である。
 「今 生きているこの日々は、震災で亡くなった2万人の人たちが生きていたであろう、生きたくてしかたがなかった、生きたかった日々を私たちは生きている」(NHKスペシャル 『悲劇をくり返さないために ~大川小学校・遺族たちの3年8か月~』)と語っていた。

 「なぜ多くの子供たちが犠牲になったのか。なぜ50分の時間がありながら逃げられなかったのか。なぜ大川小学校だけなのか。」
 その原因の解明が、必ずしもすべて済んでいるとは言えない。まだ多くの点が分かっていない。
 二度と同じ悲劇を繰り返さないために、原因解明をさらに進めて、大川小学校の悲劇を教訓として語り継ぐべきである。それが、犠牲になった子供たちの命に報いることになるのではないか。

■ 校庭に避難した子供たち
2011年3月11日14時46分、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の地震が発生した。大川小学校ででも、激しい揺れに襲われ、教室にいた児童や教職員は大駆け足で校庭へ避難した。余震で建物の倒壊の危険もあった。校庭で教師の点呼を受けて、児童は整列して待機したが、中には、はだしでのままの子供や、頻繁に遅い余震の恐怖で泣いていたり、気分が悪くなって吐いていた子供もいたという。学校に子供たちを迎えにきた保護者に、子供たちを引渡し、27名が学校を離れた。ほかの児童は、校庭に並び、寒さと恐怖に襲われながら、指示を待った。
地震発生後、3分後には、気象庁は「大津波警報 予想津波高6メートル」を出した。その3分後、防災無線で「大津波警報」が流される。この時点で、学校側も「大津波警報」が出されたことを知ったと思われる。大川小学校には、防災行政無線の子局が設置されており、聞こえたという証言もある(大川小学校事故検証報告書 2014年2月)

 一方、学校には、周辺の釜谷の住民も駆けつけていた。中には、学校の体育館に避難をしてきた釜谷の住民もいた。石巻市の「防災ガイド・ハザードマップ」では、大川小を地区の住民の避難所として「利用可」としている。学校側は体育館が地震で被害を受け、避難所としては危険で使用できないと説明し避難者は受け入れなかったという。

15時14分には、「予想津波高10m」に変更された。当初は。テレビだけで放送、その後ラジオでも放送された。但し、防災行政無線では伝えたかどうか分からない。
また、河北消防署の消防車や石巻市役所河北総支所の公用車が「大津波警報」を伝えながら大川地区を通行している。
 こうした「大津波警報」を、学校側がどこまで把握していたか定かではない。


■「裏山」になぜ逃げなかったか
 教師たちは、何度も校舎内へ再び入って、寒さに震える子供の上着や靴などを持ち出し、子供に配ったり、お手洗いに連れて行ったり子供たちの世話に奔走していた。
この日は、大川小学校の校長は休暇で休んでおり、教頭が緊急対応の指揮をとっていた。
学校に駆け付けた住民や、助かった児童など複数の証言で、「校庭では危ないから、裏山に逃げよう」とう声が子供たちからも上がったという。「俺たちいつも裏山に上っている。ここにいたら死ぬ」と訴えていたという。実際、裏山に上ろうとして、教師に連れ戻された子供もいたという。これに対し、教師側は、「裏山に逃げよう」という声や、その一方で「学校にいた方が安全だ」という意見も出ていたという。教頭は、「この山に子供たちを上がらせても大丈夫でしょうか?」「崩れる山ですか?」と、住民に問いかけていたという。住民たちは、「ここまで津波が来るはずがないよ」「大丈夫だから」と答えていた様子だったという。学校側と住民との間で裏山への避難を巡って口論になったという証言もあるという。
 こうした混乱状況の中で、緊急対応の責任者の教頭は、何も答えず、新たな指示を出さなかったと思われる。
裏山には登る道がなく、登るは危ないと考えたかもしれない。しかし、事故後の調査委によれば、「体育館の裏手の山には登ったことがある」とか、「登っている様子を見たことがあるので登れると思っていた」と答える子供たちがかなりいたのである。
また震災の前の年には、3年生の社会科授業で、教師と子供たきが裏山に上っていたり、授業の一環として裏山でシイタケ栽培をしていたこともあったという。子供たちが「山に逃げよう」と言ったのも、極めて信用性が高いと思われる。
 一方で、激しい揺れで、裏山の木が倒れていたという証言もある。
 しかし、事故調査員会が実施した「現地調査において確認された多数の倒木は、震災以前から倒れていると考えられるものも含めて、強風等を原因として発生したものとみなされる」(大川小学校事故検証報告書 2014年2月)としている。地震による地割れ、土砂崩れの形跡も見当たらないため、地震による倒木はなかったと思われる。
 要は、津波襲来の危機感をどれくらい認識していたかだろう。
 裏山に「大勢の子供たちを登らせて、怪我をさせたらどうするのだ」とか「ドロだらけになって服が汚れたらどうするのか」、「津波がこなかったら誰が責任をとるのだ」という思いが教頭や教師の頭をよぎり、判断を迷ったのは容易に想像できる。子供たちの安全を守ることは重要だが、緊急時は違う。日ごろの「事なかれ主義」が「とっさの」判断を躊躇させたと言えるのではないか。「命」に係わる問題なのだ。
 その一方で、スクールバスは、なんと学校に待機していたのである。

■ ただ一人生き残った教師の手紙
 現場でどのような議論が交わされたか、学校側は何をしようとしたのか、住民は何を主張したのか、関係者のほとんどが犠牲になっているため、今となっては、完全に明らかにするのは難しい。
 その時校庭にいて、一部始終を知っているのは、奇跡的に生き残った教師1名と児童4名だけである。
 生き残った教師は、子供たちの保護者と大川小学校校長あてに書いた手紙(2012年6月3日付)が新聞に掲載されている。
この教師は、裏山にとっさに避難して奇跡的に命を取り留めたが、現在は休職中だという。
 手紙の中で、「何を言っても、子供の命を守るという教師として最低のことが出来なかった罪が許されるはずはありませんが、本当に申し訳ございませんでした。今はただただ亡くなられた子供達や先生方のご冥福をお祈りする毎日です。本当に申し訳ございません」と犠牲になった遺族や関係者に謝罪した。
 また、校庭で避難を巡ってどんなやりとりがあったのかその一部が明らかになった。
 「サイレンが鳴って、津波が来ると言う声がどこからか聞こえて来ました。私は校庭に戻って、教頭に『津波が来ますよ。どうしますか。危なくても山へ逃げますか』と聞きました。でも、何も答えが帰って来ませんでした。それで、せめて、一番高い校舎2階に安全に入れるか見て来るということで、私が1人で2階を見て来ました。戻ってくると、すでに子供たちは移動を始めていました。近くにいた方に「どこへ行くんですか」と聞くと「間垣の堤防の上が安全だからそこへ行くことになった」ということでした。どのような経緯でそこへいくことになったかは分かりません」
そして、最後に、「最後に山に行きましょうと強く言っていればと思うと、悔やまれて胸が張り裂けそうです」と綴っている。

■ 津波に襲われた74名の子供たちと11名の学校関係者
 15時32分、ラジオで「大津波警報 予想津波高10m」が伝えられた。多分、学校関係者はこの情報を聞いて、校庭から約200メートルほど離れた新北上大橋のたもとにある「三角地帯」と呼ばれる小高い丘に避難を決断した。小高いとはいっても、大川小学校の屋上程度の高さしかなかった。
北上川では、巨大な濁流がすでに猛烈な勢いで遡上して様子が住民に目撃されている。
 先導の教師を先頭に児童74名が列を組んで、釜谷地区の集落の中を進んでいった。
 出発して間もなく、「ゴーッ」というすさまじい轟音とともに、北上川の堤防を越えて巨大な津波が子供たちを襲い、濁流が渦巻いた。
 濁流は、大川小学校の屋上を超え、「三角地帯」もゆうに越えていた。
 列の後ろにいた児童4人と教師1人は、裏山に駆け上って、奇跡的に助かった。
 児童70名、学校関係者1名が犠牲となる悲劇だった。

 6年生の息子を失った母親は、「ちゃんとそれを知りたいだけなんですね。そうするとたぶん亡くなった息子に対してもちゃんと報告して供養になるじゃないかと思って。誰が悪いとかそういうわけじゃなくてどういう過程でそういうふうになったか、その理由なんですね。だから決して人を責めたりするのは息子も喜ばないと思うんで」とインタビューに答えていた。(NHKスペシャル 『悲劇をくり返さないために ~大川小学校・遺族たちの3年8か月~』)
 多くの遺族が、なぜわが子が犠牲になったのか、納得のいく説明を得られないままでいるのだ。


■ 「まさか、津波に襲われる………」 欠如した津波への危機感
 釜谷地区には、地震発生時、住民や働いていた人、来訪者など232人がいた。このうち197人が死亡した。死亡率78%にも及び、大きな犠牲をだした。
 大津波に襲われるとは、思ってもいなかったのであろう。
 地元にある釜谷交流会館に避難した人や大川小学校に避難しようとした人がいたという。住民が地元に留まっている様子は、大川小学校の教頭や教職員も知っていたと思われる。「地元の人も避難しないのだから、ここにいれば安全」、そんな根拠がまったくない思い込みが学校側の関係者に生まれていたもの無視できないのではないか。
 事故調査員会では、2013年8月から10月にかけて、大川地区・北上地区住民を対象に津波についての意識についてアンケート調査を実施した。
 その結果、「あまり心配していなかった」と「まったく心配していなかった」が70%以上を占めた。
また、震災の前年の2010年2月28日に南米チリで発生した地震に伴う「大津波警報が発令された際に、避難場所へ避難したかどうかについて尋ねた。大川地区では「自宅にいた家族は誰も避難しなかった」が70%前後に及んだ。
 この地区の住民の意識の中に、津波の脅威を認識している人はほとんどいなかったと考えられる。
 また教職員に対する調査でもほとんどが、「あまり心配していなかった」と「まったく心配していなかった」だった。
(以上 大川小学校事故検証報告書 2014年2月)
 こうした意識調査からは、学校側、住民、ともに津波に対する警戒感がほとんどなかったと思いわれる。「ここがまさか、津波に襲われるとは……」、正直な本音であろう。
 大川小学校の事故原因の最大のポイントは、こうした津波に対する危機感の欠如、「まさか……」という意識だったと考える。そして「空白の50分」が作り出され、避難が決定的に遅れて、悲劇が生まれたと思う。

■ 学校にいた全員が助かった門脇小学校
 大川小学校の悲劇と対比されるのは門脇小学校である。
 門脇小学校は、同じ石巻市の旧北上側の河口付近の海岸線沿いにある児童数約300人の学校である。
 この門脇地区は、東日本大震災発生の約15分後津波の第一波が押し寄せ、その約30分後には高さ6.9メートルの大津波に襲われた。
門脇小学校は、地震直後の津波警報発令の一報を知ると、すでに下校していた児童を除き、約240人を誘導し、学校の裏の高台の日和山公園にいち早く避難させた。かねてから訓練していた通りの避難行動である。児童が避難するに際しては、児童を引き取りに来た保護者も同行させた。
海岸線が近いため津波到達時間は早い。一刻の躊躇も許されなかった。高台に全員避難すると、間もなく「ゴーッ」という轟音と共に、濁流が街を覆い、電柱をなぎ倒し、住宅を押し流していたと関係者は証言する。
 地震発生時、校内にいた児童は全員が助かったのである。
地震発生2日後の13日、児童は別の場所に避難していた親や家族と再会し、抱き合って無事を喜んだという。
しかし、避難前に保護者に引き渡した児童9人の安否は確認できなかった。
また、学校に避難して来る住民のために校舎に残った教職員も、住民約40人と校舎裏側から間一髪で脱出した。
  門脇小学校の校舎は、濁流で流されてきた自動車がぶつかる音が鳴り響き、漏れたガソリンに引火したとみられる火災が起き全焼した。
 門脇小学校では、海岸線からわずか800メートルという場所にあるため、日頃から津波への備えを行い、避難訓練もしっかり実施していたのである。

■ 問われる津波への備えの甘さ 行政の責任
 石巻市の地域防災計画では、宮城県の「第三次地震被害想定調査」に示された宮城県沖(連動)を想定地震とし、この想定に基づいた津波浸水予測図を用いてハザードマップが作成され、地区の住民に配布されていた。大川小学校は、津波の予想浸水域からまったく外れており、むしろ津波災害時の避難所に指定されていた。
 このことが、津波災害に関して、逆に「安心情報」となってしまった懸念が生まれる。ハザードマップは一定の想定のもとに作成されたもので、想定した地震の規模を上回る地震が発生した場合にはまったく意味がないことをしっかり理解しなければならない。「まさか……」という思い込みが生まれ、避難行動などに遅れが生じる。「想定を超える自然災害」はいつでも起きる可能性があるのだ。
 また大川小学校の立地・校舎設計に際しては、洪水や津波は想定されていなかった。
 大川小学校では、事故の約1年前のチリ地震による津波警報(大津波)発表時に避難所が開設され、事故2日前の地震の際には児童・教職員が校庭へ避難した。教職員間で地震・津波の際の対応が話題となっていた。

■ 大川小学校の校長と石巻市教育委員会の対応が問題
 大川小学校が津波に襲われた日に休暇で不在だった校長が大川小学校の現地に初めて入ったのは3月17日、震災発生から2か月後だった。余りにも遅い。
 地震当日は、校長は、釜谷地区に入ろうと試みてはいる。しかし、北上川堤防に向かう道路は大渋滞で、通行不能と判断してあきらめる。釜谷地区の対岸にある石巻市河北総合支所総合センター・ビックバンに向かい、教育委員会に連絡をとろうとした。しかし、電話は通じなかった。ビックバンで一夜を明かし、情報収集を行った。その後も、ビックバンや河北総合支所、警察署、遺体安置所を回り、情報収集をしたという。事故調査員会報告書によれば「ビッグバンには、子どもの安否が不明の中で待ち続ける保護者が多数いたが、校長は、生存児童には話しかけるものの、これら保護者にはほとんど声を掛けることもなかったという証言がある」と記されている。教育委員会への電話は、相変わらず通じなかったという。初めて事故について報告があったのは、3月15日、2か月以上経ってからである。生存者の数だけ記された簡単な報告だった。3月16日、初めて校長が石巻市教育委員会を訪れ、翌日、初めて大川小学校を訪れる。
(大川小学校事故検証報告書 2014年2月)

 犠牲者や行方不明者の把握、救助活動の支援に全力を挙げるのは校長として当然の責務である。勿論、石巻市教育員会にいち早く報告するのは必須だろう。余りにもお粗末である。
 教育委員会の報告が適切にされていたなら、教育委員会の認識も違うものになり、事故に対する対応策が違ったものなったかもしれないという期待は残る。

 震災当時、教育委員会の体制も問題があったと思われる。教育長が病気休暇中で、教員出身ではない事務局長が教育長代理を務めていた。「各学校の状況の把握、迅速な意思決定、学校現場への指示などに一定の否定的な影響を及ぼした可能性がある」と事故調査員会の報告書では指摘している。また「震災の約1週間後には大川小学校の被害状況が特に大きいことが明らかになってきたのであるから、石巻市教育委員会はその被害状況に対応した対策本部を立ち上げ、対策を打ち出すべきであったと考えられる。そして石巻市教育委員会がそのような対策をとっていれば、遺族・保護者との関係ももっと変わったものになっていた可能性がある」とも指摘している。


■ 立ち上がった遺族 石巻市教育員会の第一回説明会
 犠牲になった子供たちの遺族は、「なぜ逃げられなかったのか」疑念がどう。しても残る。
「あの日、何があったのか知りたい」、学校側に説明会の開催を求めた。

 2011年4月、石巻市教育員会は、初めて「保護者説明会」を開催し、教育委員会からは事務局長と学校教育課長等が出席した。
 説明会の狙いは、今の時点で把握している情報を説明することと保護者の要望を聞くということだったという。直前になって、急遽、ただ一人生き残った教師も出席することになった。教師は、当日の状況について自ら説明したが、「『裏山』で木が倒れているのを見た」とか「『裏山』に逃げた際に、波を被り、靴もなくなった」、「一緒にいた児童は水を飲んで全身ずぶぬれだった」と証言したが、他の証言という食い違う内容なので、遺族たちから証言の信ぴょう性について疑惑を招いた。また「説明会終了後は、言葉を発することもできないほど憔悴していたという。

■ 助かった児童への聴き取り
 2011年5月、助かった児童に聴き取り調査が行われた。また大川小学校の用務員、山へ避難した支所職員、地区住の中学生へも聞き取り調査が行われた。
 児童の聴き取りに当たっては、子供たちへの心の負担には配慮したとしているが、聴き取り後、体調を崩した児童が複数いる。
聴き取りに際して、聴き取り担当者は手書きでメモをしていたが、報告書作成が終わると、手書きメモは廃棄したという。また、聴き取りの際に録音は行われていなかった。「その結果後に聴き取り記録の正確性や質問項目について疑問が呈されただけでなく、意図的な廃棄やねつ造まで疑われることになった」(事故検証委員会報告書)
 かなり杜撰な聞き取り調査だったことが伺える。大川小学校の悲劇の真相を解明しようとする熱意がまったく感じられない。70人の尊い犠牲を無駄にしない、事故の検証をする最も重要な狙いなのではなかろうか。

■ 立ち上がった遺族 石巻市教育員会の第二回説明会
 2011年6月4日、第2回の保護者説明会が、石巻市長も出席して行われ
た。石巻市教育委員会は、この説明会で多くの児童が犠牲になったことを謝罪した。しかし、最大の疑問である「なぜ校庭に50分間も留まり続けていたのか」についての明確な説明はなかったという。
 またこの説明会では、市長による「自然災害における宿命」、発言が問題になった。遺族からの「失敗と認めろ」、「人災だと言え」との追及に対しての一連の答えの中で発せられた一言である。
 また、終了時、保護者からの「今後説明会はあるんですか。これで説明会は終わりですか。」との問いに対し、主催者側が「説明会は予定しておりません。これで終わりです。」と発言した。
 説明会終了後、石巻市教育員会の責任者は、記者団に囲まれて「説明会は終わりですか。3回名はない?」と聞かれ、きっぱりと「終わりです。ありません。」と答えた。また「参加者はそれで納得しているのか?」という問いには、「その後、なにもなかったので……」と話した。(NHKスペシャル「悲劇をくり返さないために ~大川小学校・遺族たちの3年8か月~」)

■ 聞き取り調査メモ廃棄問題

 8月21日、聴き取り調査のメモを廃棄したことが報道された。第2回説明会で、口頭で、「山への避難を訴えた男子児童がいた」という説明があったにもかかわらず、その根拠となる記録がなくなってしまったという事態が発生した。遺族の間に都合の悪い事実を隠蔽しているのではないかとの不信感が生まれた。

■ 遺族たちの自主調査
 教育委員会の説明に納得できない遺族は、定期的に集まるようになった。
 「50分も時間があったと言っているが、50分間、一体何をやっていてのか」という疑問は解き明かされないままだった。
 「空白の50分間」を自分たちで調べ始めた
 調査していくと、津波を恐れて「裏山に逃げよう」と発言した児童や教員が複数いることが分かった。動けなかった理由がきっとある それが分からないと教訓にならない、遺族たちの思いである。

■ 説明会の再開
 その後、遺族たちの求めに応じて説明会を再開、しかし、核心の「避難がなぜ遅れたのか」「裏山になぜ逃げなかったのか」についての説明はない。
 2012年8月 6回目の説明会での教育員会の対応に、遺族たちは大きな不信感を抱く。
 問題となったのは、助かった児童や保護者から話を聞いてまとめた報告書。
 「裏山に避難したがっていた子」がいたという助かった5年生の証言が記載されていなかった。
 教育員会は、「記憶は変わるものだとは私は思っている」とし、当時、児童からの聞き取ったメモを処分したのでその事実は確認できないとした。
 結局、裏山に避難しなかった理由はうやむやになった。

■ 大川小学校事故検証委員会発足
 2013年8月、平野文部科学大臣(当時)が大川小学校を訪れて慰霊し、捜索現場などを視察すると共に、遺族とも直接対話をした。その後、文部
科学省としても事故検証をサポートしていくことを表明し、児童遺族と文部科学省・宮城県教育委員会・石巻市教育委員会の4者で円卓会議が開催された。
 2014年2月、国が関与して、第三者の専門家による「大川小学校事故検証委員会」が作られた。大川小学校の事故原因究明は新たな段階を迎えた。
 委員長は、室崎益輝氏。ひょうご震災記念21 世紀研究機構の副理事長で神戸大学名誉教授である。
 第三者機関として、原因究明を進め、再発防止への提言をまとめることになった。

■ 大川小学校事故検証報告書
 2015年2月、大川小学校事故検証委員会は最終報告書を発表し、遺族に説明した。
 報告書では、避難開始の意思決定が遅かったことと、津波を免れた裏山ではなく、危険な河川堤防近くを避難先に選んだことを「最大の直接的な要因」と結論づけた。また、学校の防災対策の問題点や、同校が避難所に指定されているのに行政からの災害情報の伝達が不十分だったことも指摘した。
 最終報告書案には、唯一助かった教諭から聞き取った結果も盛り込んだが、遺族らは、避難決定がなぜ遅れたかが明らかになっていないと批判。調査資料の公開などを求めている。
 そのうえで、防災関連の教育を教職課程の必修とすることなど24の提言を示した。
報告書をまとめた室崎委員長は、検証委が震災から2年近くたった昨年2月に発足したことなどを踏まえ、「調査に一定程度の限界があったことは否めない」ともしている。室崎委員長は記者会見で「再発防止のあり方を提示するのが目的。市教委などの対応を見届けたい」と理解を求めた。
(朝日新聞 2014年2月23日)

 しかし、遺族は納得しなかった。
 これでは、「死の恐怖でずっと50分待っていた子供たちが浮かばれない」   
 室崎氏は、原因を明らかにするには限界があったとしている
 検証を進めても十分な証言を得られなかったとし、その背景には率直に証言することには難しい構造があるとした。
 「いくら責任追及につながらないといってもそこで発言することが、たとえば市の教育員会だとか、学校の先生を責めることにつながるのではないか思われた時にその部分については明確に発言すること控えることがあるのではないか。それは日本の社会全体がこういう時に“犯人を捜さないといけない”、誰か悪者にしなないといけない、そういう風潮がある中で自分たちが悪者にされるのではないかという危機感があるとなるべく自分たちを守ろうとする」
と語った。(NHKスペシャル「悲劇をくり返さないために ~大川小学校・遺族たちの3年8か月~」)
 こうした重大な事故検証を行う際に、証言者の責任を問わない「免責」の制度を日本でも導入し、積極的な証言を促すことも必要だと提言している。

■ 学校側の責任を裁判で追及へ
 震災3年目の2014年3月、遺族の内23人は、学校側を裁判で訴えることを選択した。
県と市に総額23億円の賠償を求める訴訟を仙台地裁に提訴。地震から津波の到達まで約50分あったのに適切に避難させなかったと主張し、「明らかな人災」として災害時の学校管理下での犠牲の原因を問いかける
 訴状によると、2011年3月11日の地震発生後、教職員らは児童たちを裏山などの高台に避難させず、防災行政無線で大津波警報が流れる校庭に待機させた。近くの川に異変がないか確認するなどの情報収集もしておらず、注意義務を果たせば児童は助かったと指摘。国家賠償法などに基づき、設置管理者の市と教職員の給与を負担する県に、児童1人当たり1億円の賠償を求めている。
(朝日新聞 3月11日)
 訴訟には、奇跡的に生き残った「あの日何が起きたか」を証言している5年生男子の父親も加わった。
石巻市は、裁判の答弁書で「予見できなかったのもやむを得なかった」としている。
訴訟になったことで、当事者である学校側との遺族との対話は途絶えた。
 「今後、訴訟に影響があるので、コメントは差し控える」、学校側の姿勢は変わった。

 東日本大震災からあっという間に4年。3月11日、遺族は4年の歳月を経て、未だにわが子の最後に迫ることができない。
 震災の検証はまだ終わっていない。







2015年3月10日
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廣谷  徹
Toru Hiroya
国際メディアサービスシステム研究所
代表
International Media Service System Research Institute
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President
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